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第五十七話 親交の芽生え

 家を飛び出した慧は多少荒々しく自転車を引っ張り出し、それに乗って爆速でコンビニを目指した。先ほど届いたメッセージが救難信号なのかもしれないと頭の中で何度も何度も繰り返しながら。

 焦りを抱きながら大通りまで出てきた慧は、信号が変わるのを待ちつつ道路の向こう側にあるコンビニをじっと見つめた。車はそこまで停まっておらず、人の群れが出来ているわけでもない。こうして見ると大きな事件性は感じられないが、中で何かあったのかもしれない。と、慧は気を引き締め、横断歩道を渡って駐輪場に自転車を停め、コンビニの中に入った。


「らっしゃいませー」


 気だるげな声がレジから聞こえる。これはきっと伊武だ。そう直感した慧は何も商品を持たずにレジに向かった。すると、


「あっ」


 伊武と目が合った。


「はぁはぁ、どうしたんだ?」


 慧は息を整えながら、レジに立つ伊武の全身に隈なく視線を走らせる。


「なにじろじろ見てんの?」

「え? いや、江波戸が来てとしか言わなかったから、何かあったのかと思って心配で……」


 そう答えながら、慧は再度伊武の様子を伺い、店内を見回す。しかし伊武はいつも通りだし、そもそも店内の客数は片手に収まる程しかおらず閑散としている。


「あっそ。まぁ、もう少しで仕事終わるから待ってて」


 伊武は何の説明も無く淡々と答えると、レジの奥に入って行った。


(……ん? 俺は何で呼ばれたんだ?)


 何が起きているのか理解が追いつかず、慧はしばしレジの前に立ち尽くした。


「あのー、すみません。会計終わったなら退いてくれますか?」

「え、あっ! ごめんなさい!」


 背後から掛かった男性の声で我に返った慧は、逃げるようにレジ前を離れ、雑誌コーナーに向かった。


(ったくどうなってんだ……。雑誌コーナーに来たは良いけど読める雑誌も無いし、何して待ってろって言うんだ……。てか、何も無かったんだから待つ必要も無いのか? いや待てよ、流石にここまで来たら呼ばれた理由が気になるな。後々聞いても絶対答えてくれないだろうし、これは今日問い質さないと)


 立ち読みできない雑誌コーナーを右往左往しながら決意を固めると、慧は中身を読めないなりに雑誌の表紙やら裏表紙やらを見てそれらしく時間を潰し始めた。

 それから五分程が経過し、流石に雑誌の表紙を見るだけではしんどいなと思い始めた折。スタスタと慧に近付いてくる足音があった。慧は漫画雑誌を置いて視線を左に向けると、そこには私服姿の伊武が立っていた。


「行こ」


 それだけ言うと、伊武は踵を返して出入り口の方に歩いて行く。


「あ、ちょっと……」


 慧は相手に聞こえない声を漏らしながら慌てて彼女の後を追う。そして出入り口を通過した所で立ち止まっている彼女に追い付いた。


「なぁ、なんで急に呼び出したんだ?」


 背後からそう問い掛けるが、伊武からの返答はない。それならもう少し強めに問いかけてみるかと慧が息を吸った直後、


「おーい、伊武ちゃん。もう上がりかい!」


 と、前方からする男の声が慧の企みを妨げた。次いでバタバタと足音が近づいてきたので、慧は無意識の内に誰だろうと思い視線を向けた。そして近付いてくる男を視界に捉え、慧は顔を顰めた。何故ならその人物は、つい数十分前に駅で割り込んで来た男だったからである。


「はぁはぁ、早いね。今日は五時までじゃ無かったかな?」


 駐車場を駆け足で横切って来た男は、息を荒げながら伊武にだけ視線を送っている。と言うよりは、伊武しか見えていないように感じられた。


「ちょっと体調が悪くて……」


 伊武は男を避けるように視線を斜め下に落として答えると、ゆっくり慧の横まで後退してきた。


「そっか。そうだったんだね。君の夕飯を買ってきたんだけど、体調が悪いなら他の物にした方が良さそうだ。ちょっと待っててね。今買って来るから」


 男は一方的に話を進めると、そのままコンビニへ入って行こうとする。しかしそれを引き留めるように伊武が声を上げる。


「結構です! 迎えも来てるんで」


 伊武の言葉を聞き、男はあからさまに悲しそうな表情を浮かべた。かと思うと、伊武の隣に立つ慧の存在がようやく目に入ったようで、今度は険しい表情に変わる。


「誰かな、君は?」

「え、えっと、俺は――」

「彼氏です」


 慧がクラスメートだと答えるよりも前に伊武が答えた。そしてそれと同時に慧の腕を取ると、スッと身体を寄せた。


「……ふん。そうか」


 品定めするような視線を慧の全身に送りながら、男は不服の文字を顔で表す。これは一体どういう状況なんだ? と慧が混乱していると、男は再びパッと笑顔に戻り、


「それなら大丈夫そうだね! 彼女を頼んだよ!」


 と言ってコンビニの中に入って行き、少しも振り向くことなくレジ横にある腰丈のスイングドアを抜けてバックルームに消えて行った。


「……行こ。話すから」


 男の姿が完全に見えなくなると、伊武は慧から離れた。


「う、うん。分かった」


 そう答える他に選択肢が無いように思えた慧は素直に伊武の言葉を信じ、ひとまず自転車を回収してから伊武の後を追った。


「それで、さっきの人は?」


 大通りを渡って駅に向かう道中、慧は脳内で男の姿を、一見優しそうに見えた大柄な中年男の姿を思い浮かべながら話を切り出す。


「あのコンビニの店長」

「そうだったんだ……。それにしては距離が近いように感じたけど」


 何気なく付け足したそのセリフに、伊武は少しだけ顔を俯けた。それを自転車を押し歩きながら横目に見た慧は、今の一言が余計だったとすぐに悟った。


「ごめん。余計なこと言って」

「別に。そう思うのが普通でしょ」


 空気が悪くなる前に謝ってしまおうという慧の算段であったが、伊武はいつも通りの物ともしないクールな調子で答えた。そして、


「気になるなら答えてあげる。そう言う約束だし」


 と、付け加えた。


「そ、それじゃあ……。あの店長さんは他の店員にもあんな感じなの?」


 普段質問の機会さえ与えてくれない伊武に質問をしていいと言われたら何か質問をしなくては勿体ないような気がしてしまい、慧はとりあえずジャブ程度の質問を投げかけた。


「いや。私だけ」

「なんで江波戸にだけ? って聞いても平気かな?」

「何それ。別にいいけど」


 伊武はそこまで答えると一呼吸を置き、そして静かに続ける。


「私、あのバイトは母親の伝手で入ったの。それも、中三の三学期くらいに。まぁ普通だったらありえないんだけど、母親とあの店長が友達で、その、ウチの家庭事情を知ってるから特別に入れてくれるみたいな感じで入ったの。それで私はバイトを始めたんだけど……」


 つらつらと語る伊武の姿を見て、こんなに話すのは珍しいな。なんて慧がぼんやり考えていると、そこで伊武の声が途絶えた。彼女はため息交じりに呼吸をする。それを見た慧は嫌なら止めても良いんだと伝えようとするが、それよりも前に伊武が口を開く。


「最初は母親が知り合いだから接し方が違うんだと思ってた。けど、数週間くらい経った時に見たの。私がいない時にウチに来てるアイツを……」


 そう語る伊武の表情はきっと苦々しく歪んでいるのだろうと慧が視線を送ると、そこには少しも表情を変えていない無機質な伊武がいた。まるで全てを悟ったかのような。あるいは諦めてしまったかのような。そんな伊武を見た慧は却って言葉が浮かんで来なかった。


「ま、そう言う事で、アイツから逃げる口実として呼んだってこと」


 慧からの返答が無いことは気にしていないようで、伊武は淡々と結論を述べた。


「そう、だったんだ……。その……。江波戸が何かされたわけじゃなくて良かったよ」


 爆弾を処理するかのような探り探りの慎重な言葉選びで返事をすると、瞬きもせずに伊武の反応を伺う。


「まぁ、ね……」


 曖昧で含みのある伊武の返事は風に消えた。慧は何か励ましの言葉を掛けた方が良いのかと考えたが、次の一手が逆鱗に触れてしまうかもしれないという恐怖も同時に生じ、それが慧の口を結んでしまった。


「そう言えば、家って近いの?」


 沈黙を気にしていた慧では無く、沈黙を全く気にしていなさそうだった伊武が話を再開した。


「え、うん。もう少し先かな」

「へぇー。だからあんなに早かったんだ」

「うん。近くて良かったよ。役目も果たせたみたいだし」


 慧が笑みを浮かべながら伊武の方を向くと、彼女は少しばつが悪そうに視線を逸らす。


「その、まぁ……」

「ん? どうかした?」

「別に、なんでも」

「ふーん。なら良いけど」


 不機嫌そうには見えなかったので、慧は相手には悟られない程度に首を傾げて追及を控える。そして視線を前方に戻すと、我が家が視界に入った。


「あっ、あそこ。アレが俺の家」


 二十メートル程先にある十字路の角地を顎で示しながら慧が言う。すると伊武はその声に顔を上げ、慧の視線を辿って風見宅を目にする。


「マジで近いね。これならいつでも呼べるじゃん」

「また呼ぶつもり? まぁ、用があるなら良いけどさ。パシリとかは勘弁だからな?」

「さぁ? それは私が決めることじゃん」


 伊武は冗談めかした答えの後に、いつもキリッと引き締めている表情を幾分か緩ませ、少女らしい笑顔を浮かべて見せた。


「ったく、あのな……」


 何かノリの良い返しをしようとしたのだが、初めて見た伊武の笑顔に意識を奪われていた慧は中途半端なところで口が止まってしまった。


「なに?」

「あっ、いや。まぁ、話し辛いことを話してくれたわけだし、数回くらいなら大目に見てやってもいいかなって」

「随分上からじゃん」

「こういうのは甘く見られたらドツボにハマるって言うからね」

「ふっ、確かに。言えてるかも」

「だろ。だから、いつでも呼んで良いからな」

「え、うん……」


 慧の返しが想定外だったのか、伊武は少し言葉を詰まらせながら答えた。その会話の最中に、二人は風見宅の前を通り過ぎた。


「……ここまでで良いよ」


 またしばらくの沈黙の後、駅前の横断歩道に辿り着くタイミングで伊武がそう言った。


「えっ、ここで良いの?」

「駅、すぐそこだし」

「そっか、分かった。それじゃあ気を付けて」

「ん。じゃあまた」


 伊武は短く答えると、横断歩道のギリギリまで進み出ながらジャケットのポケットに両手を突っ込む。信号が青に変わる。肘が左右に突っ張った伊武の後ろ姿が歩き始める。慧はせめて伊武が駅に辿り着くまで見送ろうとその背中を見ていると――


「ありがと」


 不意に感謝の言葉が慧の耳に届く。するとそれと同時に伊武は駆け出し、そのまま振り返ることなく彼女は駅の奥に消えて行った。


(ありがと。って、江波戸が言ったんだよな……)


 先ほど聞こえて来た感謝の言葉を思い出し、慧は思わず辺りを見回した。しかし周りに人はいない。つまりあの、ありがと。という言葉は、伊武が発したもので間違いない。そうと気付いた慧は伊武から受けた感謝の言葉を噛みしめながら、何故か自転車を押して自宅を目指した。

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