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第五十六話 夢のひと時

 作品数はそこまで多くないため、恵凛による空門黄李の作品解説は二十分も経たずして終わった。


「……それと、始めから沢山購入しても却って読む気を失くしてしまうと思うので、今日は厳選した二、三冊にするのが良いと思います」


 という恵凛の読書アドバイスも受けた上で、慧は読みやすいと言われた中編小説一冊と、短編集一冊とを手に取った。


「じゃあ、この二冊にしようかな」

「ふふっ。良いと思います」


 笑顔で答える恵凛の両手には、空門黄李の新刊が包まれていた。

 その後、それぞれ会計を終えた二人はレジの端で合流し、休憩と昼食を摂るためにフードコートへと向かった。


「ここで良いかな?」

「はい。大丈夫です」


 どの店にもアクセス出来るよう、慧は外周の、それも中央寄りの席を選んだ。恵凛も特にこだわりは無いようなので、二人はそのまま慧が選んだ席に腰掛けた。


「モール内も、前回来た時よりも盛況ですね」


 席に着いてぐるりと辺りを見回した恵凛がそう言った。


「そうだね。やっぱりゴールデンウィークだからかな」


 ほとんど確信を得ていたが、それでも明言は避けて慧が返事をする。


「……賑やかなのはお好きですか?」

「え? うーん、どうなんだろう。見てる分には好きだけど、自分がそこに入るのは得意じゃない。って感じかな?」


 周囲の学生たちやら家族やらを見ていた恵凛はふと視線を慧に戻すと、突飛な質問をしてきた。対してそんなことを全く予期していなかった慧は、とりあえず何か答えなくてはと思うままに答えたのだが、全て答えた後にもう少し気を遣った返事が出来たかもしれないと早速心の中で自らを叱責した。


「分かります。楽しそうにしている人を見ていると、こちらまで楽しくなってきますよね」


 自省が捗るかのように思われたが、意外にも恵凛は慧と同意見だったようで、慧はその言葉で心の暗雲が取り払われたような気がした。


「ですが、そこに私が入ってしまうと、それまで楽しそうだった雰囲気を壊してしまいそうで、結局見ているだけになってしまうんですよね」

「……そっか」


 先ほど払われた暗雲とはまた別種の暗雲が立ち込めて来たような気がして、慧は言葉を探すのに時間を要した。しかしその努力も虚しく、彼女の気持ちに寄り添うような単純な相槌しか浮かんでこなかった。すると恵凛は美しい瞳を見開き、


「あっ、すみません。暗いことを言ってしまって! 本当は、私もその中に入って居られる当事者の楽しさが分かって来た。というお話をしたかったのですが……。本を読んでいるのにダメですね。一向にお話が上手くなりません」


 と、慌てて早口に訂正をし、最後には自嘲と羞恥の交じった笑みを浮かべた。そんな彼女を見ていたら慧の頬も自然と緩んできて、しまいには勝手に口が動き出した。


「俺も。未だに大人数は得意じゃ無いけど、人の輪の中にいる楽しさは分かって来たかもって思うよ」


 自分でもここ最近の目まぐるしい心境の変化に理解が追いついていなかった慧だが、恵凛の言葉を通してそれを自覚したように感じ、慧は心から彼女に同調しながら自分の煩悶していた心へのアンサーも出せたような気がして、頭のてっぺんから足先まで、自分の心身全てが洗われたような爽快感を抱いた。


「風見君もですか?」

「うん。俺さ、人間関係が面倒臭くて、今まで特定のグループに属すことを避けてたんだけどさ、今回部活に入ってみて、案外何かに属すのも悪くないかもって感じたんだ」

「そうだったのですね。と言うことは、お互い新しい一歩を踏み出せたということですね」


 恵凛はそう答えると、安心したような表情の綻びを見せた。


「うん。そのおかげと言うか、最近は毎日ヘトヘトだよ」

「ふふっ。分かります。私もです」


 恵凛の何気ない質問から理解を深め合う結果に至った二人は、数十秒程沈黙した。しかし二人は微塵も気にせず、むしろその沈黙を心地よく思った。会話を続けようとすることが必ずしも相手を喜ばせることにはならない。慧は沈黙の中でそんなことを考え、目の前に座る恵凛を見つめた。するとそのまま自分の本音が溢れ出そうになった。俺が部活動という人の輪に入ろうと思ったキッカケは君なんだ。と。しかしそれはもしかしたらこの居心地の良い空間を壊してしまう言葉かもしれないという危惧が浮かび、慧は気を引き締めて口を塞いだ。


「そろそろお昼にしようか?」


 時が止まったような沈黙を経て、慧が提案した。


「はい。そうしましょうか」


 手元の新刊本を眺めていた恵凛はその声に反応して顔を上げた。そして目が合った二人は立ち上がり、動き続けている群衆の中に入り込み、本日の昼食となる店選びを始めた。

 ……昼食は恵凛が食べてみたいと言ったハンバーガーに決まった。慧は久しぶりのハンバーガーを。恵凛は初めてのハンバーガーを食べ終えると、二人はフードコートで小説について三十分程談笑し、それから少しだけショッピングモール内をブラついた後、駅に向かって歩き出した。


「風見君はこのショッピングモール以外にも、どこか訪れたことはありますか?」


 駅へと繋がるペデストリアンデッキを歩いていると、恵凛がぽつりと話を切り出した。


「えっと……。確か映画館に一回来たことがあるかな」

「映画館ですか。良いですね」

「このデッキの終わりの方にあるから、ちょっと遠いんだけどね」

「そうなのですか。映画もいつか見に行きたいですね」

「え、う、うん」


 これは二人でってことなのか? という疑問が生じた慧は答えに詰まった。


「その他にはどこか行きましたか?」

「後はチラッと見た程度だけど、印象に残ってるのはあそこの駅ビルかな。七階に休憩スペースと図書館があるんだ」

「それはいいですね。そこもいつか行ってみたいです」

「う、うん」


 濁りも含みも無いはずの恵凛の台詞にたじろいでしまう自分は自意識過剰だと慧は思った。恵凛はきっと純粋な気持ちで、ただそこに訪れてみたいという気持ち一つでそう答えたはずだと言うのに、それを深読みして自分に言っているのではないか? と思ってしまう自意識が恥ずかしく、慧は再び曖昧な答え方をした。

 話をしている内に改札のすぐ近くまで来ていたようで、二人はそのまま帰宅ラッシュを迎える前の比較的空いている時間帯を狙ってホームに向かった。

 階段を下りてきた慧と恵凛は、そこから一番近い待機列に並ぶ。予想通り、電車を待っている人数は心持ち少なく見える。電光掲示板の表示には、あと数分で次の電車が来るという予告が流れていた。そして不意に、空白の数分が訪れた。


(家を出たのは十時半頃で、今は三時前だから、約五時間くらいは二人で出掛けてるのか……。二人で……)


 慧は漠然と、二人で。という一部分を切り取って脳内で反芻した。そう、今日は二人で、それも男女二人で出掛けているのだ。そうして尚も二人という言葉を脳内で繰り返す内に、これはデートに他ならないのではないだろうか。と慧は気付いてしまい、急に緊張が全身を走った。


(そうだ、そうだよ。今の俺と龍宮の状態を第三者が見たら、確実にデートだと思うはずだ……)


 その結論に至った慧は突然周囲の目が気になり始めた。今の自分たちはどう映っているのだろう。もしも同学年の奴がこの場に居たらどうしよう。彼女はこの状況をどう思っているのだろう。一度考え出すと切りが無く、慧は最低限の誤魔化しとして、ほんの少しだけ恵凛から離れた。するとその直後、それを察知したかのように恵凛が慧の方に寄って来た。というより、それはよろめいたと言った方が正しかった。その証拠に、彼女は小さく「きゃあ」と短い驚きの声を漏らし、あきらかに体のバランスを崩していた。それを真横で見聞きしていた慧は考えるよりも前に身体が動き出し、気付けば恵凛を両手で受け止めていた。


「大丈夫?」

「は、はい」


 ひとまず恵凛が安全だと知った慧はホッとした。そして何が起きたのかと視線を上げると、先ほどまで恵凛が並んでいた場所に大柄な男が割って入っているのを見た。


(あいつが無理矢理割り込んで来たのか……)


 頭の中で独り言ちた慧は無意識に男を睨みつけていた。


「しょうがないから、俺の後ろに並び直そう。幸い人もいないし」

「そ、そうですね……」


 支えている恵凛の両肩は微かに震えているように感じた。しかし今の慧にはそれ以上の何かができるわけでも無く、彼女は慧の手から放れ、後方に並んだ。


(気の利いた言葉の一つも出て来ないなんて……。しっかりしろ、俺! 変なことは考えるな!)


 慧はつい先ほどまで浮足立っていた自らを憎み、自らに喝を入れた。そして改めて恵凛に何か言葉を掛けようかと考えたが、無情にも時は進み、電車の到着を告げるアナウンスが鳴り響いた。それで言葉の魔力が働く瞬間は去ってしまったのだと知った慧は、黙って電車の停止を待った。

 到着した電車は予想外に混雑していた。しかし待機している客が少なかったこともあり、慧たちは何とか電車に乗り込むことが出来た。中に入ると、慧は自分が通路側に立ち、恵凛を出入り口の端に立たせてなるべく他の客と接触させないようにした。これが今の慧にできる最大限の気遣いであった。そして間もなく電車が走り出すと、その反動で慧の後方に立っている人の群れが揺れ動き、その揺らぎは慧に伝播し、慧の身体は恵凛の方に押し出された。ここで抵抗しなくては恵凛が潰れてしまうと思い、慧は咄嗟に両手を前に出した。ドアに左手を、角座席の仕切り板に右手を着き、恵凛を覆うように堪えた。


「だ、大丈夫ですか……?」


 シチュエーションとしては多少のときめきが発生してもおかしくは無かったが、恵凛にそう言った通説は無いようで、彼女の声音と表情からはただ真摯に慧のことを心配する思いが伝わって来た。


「うん、俺は大丈夫。狭かったらゴメン」

「いえ、私は全然……」


 そう言って慧を見上げる恵凛の瞳は微かに潤んでおり、至近距離で見つめて来るその瞳はいつもの数倍の威力を持っていた。


(ち、近いな……。俺、汗臭く無いよな? っていやいや。だからそんなこと考えてる場合じゃないんだって。さっきはそのせいでフォロー出来なかったんだから)


 慧は努めて脳内から邪念を取り払い、その後十数分間に及ぶおしくらまんじゅうに耐え、二人はほとんど転がり出るように古屋根駅のホームに降り立った。すると先ほどまで恵凛が潰されぬよう全力で踏ん張っていたせいか、慧はホームを歩き出した瞬間に足元がふらついた。


「大丈夫ですか、風見君?」

「うん。平気平気! 久し振りの満員電車で少し疲れただけだよ」


 電車内で格好をつけてしまった手前、今更弱音を吐くことは出来ない。と、慧は家に帰るまでは気合で乗り切る決断をして再び歩き出した。


「今日はお買い物に付き合って下さり、ありがとうございました」


 改札を抜けたところで恵凛が切り出した。


「ははっ。気にしないでよ。俺も買い物があったわけだし。ていうかむしろ、小説のオススメをしてもらったのは俺の方なんだから、俺が感謝しなきゃだよ。ありがとう」

「ふふっ。そうですか。それなら良かったです」

「うん。だから気にしないで。それに、とっても楽しかったし」

「はい。私も楽しかったです」


 星峰のホームで不安そうにしていた恵凛の顔がこびりついていた慧は、今笑顔で話している恵凛を見てようやくそれが払拭出来たような気がした。

 ぽつぽつと会話をしている内に二人は自宅前に到着した。時刻は四時にもなっていなかったので、辺りはまだ明るかった。しかし互いに互いの時間を気遣い、二人は解散することを選んだ。


「ふぅー、疲れたぁ」


 手洗いうがいを終えて自室に入った慧は思わず声を漏らした。身体は無意識にベッドを求めて歩き出したが、慧はそこでグッと堪え、まずは鞄から本日購入した小説二冊を取り出し、鞄と共に机上に置いた。そして椅子を引き出してそこに掛けると、短編集の方を手に取った。


(小説を読むのなんて何年振りだろう……)


 手に持った小説の表紙を見ながらぼんやりと考え込み、リハビリがてらに冒頭を少しだけ読もうかと姿勢を正していると、ズボンの右ポケットに入れたままになっていたスマホが振動した。慧は恵凛から改めて今日の礼を述べるメッセージでも来たのだろうかとスマホを取り出して電源を入れると、待ち受け画面に表示されていたのは伊武からのメッセージであった。


(え、江波戸?)


 慧は驚きの余りメッセージをタップしてしまい、アプリは間断なく自動で開かれる。そうして開かれたメッセージルームには、『暇?』とだけ来ていた。


(まさか江波戸からメッセージが来るなんて……。ゲームのことかな? まぁとりあえず、ノータイムで既読を付けちゃったわけだし、暇だよって返しとくか)


 確実に疲れは溜まっていたが、最悪内容を聞いてから断ればいい話だ。と考えた慧は脳内で整理した通り、暇だよ。と返した。すると即座に既読が付き、


『コンビニ来て』


 とだけ返って来た。


(もしかして、コンビニで何かあったのか?)


 悪い予感を抱いた慧は、今しがた置いたばかりの鞄を手に持ち、自室を飛び出した。

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