第五十三話 暗闇の先
「うーん。少しやり過ぎてしまったかな?」
理科室前の廊下に残っている輝虎は、出入り口を塞ぐようにして立っている人体模型をじろじろと眺めながら呟いた。
「……悪趣味」
そんな輝虎と人体模型を少し離れたところから見ていた伊武がチクリと一言漏らした。
「まぁお世辞にも見た目が良いとは言えないね~。だが、動きは愛くるしいものがあるんだよ!」
輝虎はニヤニヤしながら言うと、白衣の右ポケットに手を突っ込んでそこからリモコンを取り出した。そしてそれに付いているボタンを押すと、人体模型が機敏にロボットダンスを始めた。
「ほら! 可愛いだろう?」
「別に……」
「つれないなぁ」
「それじゃ、そろそろ行きます」
「おっと、そうだったね。はいこれ。助手君の観察、頼んだよ」
輝虎は懐中電灯を伊武に手渡しながら意味深なことを言うのだが、伊武はそれに答えることなく背を向けた。そして無言のまま、慧が逃げて行った跡を追い、渡り廊下の方へ曲がって行った。
その頃慧は教室棟の三階廊下で立ち止まり、呼吸を整えていた。
「はぁはぁ、アレは何だったんだ……?」
周囲三百六十度を見回し、耳を澄ませ、追っ手がいないことを確信した慧は小さく呟きながら廊下の端に設けられている壁付けベンチに向かった。
(驚いて逃げ出しちゃったけど、他のメンバーは大丈夫かな。特に龍宮なんか、こんな状況で一人にさせておくわけにはいかないよな……)
ベンチに腰を下ろした慧はひとまず状況の整理をした。そして皆と合流するためにも早速動き出そうとしたのだが、腰を上げたところで動きを止めた。
(そうか、夢中で忘れてたけど、俺、懐中電灯を持って無かったんだ。まぁ仕方ない、スマホのライトで行くしかないな。ついでに眼鏡とイヤホンも付けてラヴィにアシストして――)
ズボンのポケットに手を突っ込んでスマホやらイヤホンやらを取り出そうとしたその時。ガタン! と、何かが地面に落ちるような音が響いた。
「うわっ、下の階からか?」
ラッキーなことに階段の近くに立っていた慧は、音の所在が階下にあるとすぐに分かった。
(理科室に戻ろうと思ってたけど、これを聞いて行かずにはいられないよな)
慧は唾を飲み込みながら覚悟を決めると、スマホのライトを点灯させ、出来る限り足元に気を付けながら階段を駆け下りた。
まずは三階から二階へ下り、左右にパッと光を走らせる。しかしどうやらこの階ではないようだ。続いて二階から一階へ下り、ランダムに周囲を照らす。すると売店側の下駄箱付近に青い物体が落ちているのに気が付いた。慧はそれに光を当てながらゆっくりと近づき、そしてその正体が懐中電灯であることが分かった。
「懐中電灯だ……。ここで何かあったのか?」
慧は落ちている懐中電灯を拾い上げると、スイッチを入れてみた。しかし光は灯らない。壊れたから捨てたのか。それとも、落ちた反動で壊れたのか。慧はそんな推測を脳内で行いながらスマホを構えると、灯台のようにその場でぐるりと回り、周囲を照らしてみた。
(うーん。特に怪しいものは――)
一周見回してそう断定しようとしたその時、一瞬照らした売店のカウンターに腕のようなものが見え、慧はスマホを落としそうになる。
「ふぅー……」
しかし何とか耐え抜き、慧は驚きの声を上げる代わりに小さく細い息を吐いた。そして勇気を振り絞ってもう一度ライトを当てて見ると、それはやはり前腕から下の手の形をしていたが、慧は恐怖しなかった。何故なら振り切った勇気と取り戻しつつある冷静さが、その正体を教えてくれたからである。正体が分かってしまえば何てことはなく、慧は安堵の息を溢しながら売店のカウンターに歩み寄った。
「やっぱりゴム手袋だったか……」
遠目からもきっとそれだろうと分かって近付いた慧は、カウンターに置かれているゴム手袋を手に取り、馬鹿馬鹿しいと言いたげに呟いた。
(よくよく見ればゴム手袋って分かるけど、パッと見だと切断された腕に見えなくもない……。かもな。きっとこの懐中電灯の主はちらっとこれが見えて、驚いて逃げ出したんだろうな。と考えると、体育館側に逃げたのか?)
懐中電灯が落ちていた場所から売店のゴム手袋を見て、そこから売店とは逆方向に逃げたと仮定した場合。懐中電灯の主は体育館方面へ逃げたと予想した慧はゴム手袋をカウンターに戻し、早速廊下を歩き出した。
下駄箱から体育館へと続くトタン屋根の渡り廊下までは然程距離は無い。しかし思いの外校舎内は暗く、何かあってからではどうしようもないと思った慧はスマホのライトで足元を照らしつつ、早足に廊下を進み、そして角を曲がった。ここまで来てしまえば後はもう直進するだけだ。そう思った慧がスマホのライトを高めに構えると、トタン屋根の渡り廊下へと続くガラスドアから月光が仄かに差しているのが見えた。しかしそれを幻想的だと思うよりも前に、慧はドアの横、つまりは廊下突き当りの隅に黒い丸い影を認め、それにライトを当てた。そしてそれに光を当て続けながら近付き、やがてその正体が分かってきた。頭からブレザーを被っており、そのせいではみ出した腰元からはスカートが見えた。
(龍宮か雀野だな)
伊武はカーディガン、輝虎は白衣、ブレザーを着ていたのは恵凛と璃音だけだと記憶していた慧は頭の中で独り言ちると、尚もその背中に光を当てながらゆっくりと近付いた。
しかしこのまま静かに近付いて声を掛ける。又は触れようものなら、この人物を驚かせるだけだと考えた慧は、十数メートル離れた辺りで立ち止まり、刺激しないように小さく声を掛けてみることにした。
「おーい……。大丈夫か……?」
慧の声を聞いた背中はびくりと跳ね上がった。しかし聞いているというだけで、振り向きはしない。
「ち、近付くからな……?」
そう問い掛けながら数歩前進すると、ただでさえ縮こまっている背中が更に縮こまった。これはどうやって緊張を解そうかと考えながら慧がもう数歩前進すると、微かにではあるが、歌声らしきものが聞こえて来た。
「お化けなんて、ないさ……。お化けなんて、嘘さ……」
途切れ途切れの声は大分震えていたが、それでも音程は外さず、かつリズミカルに口ずさまれていた。この歌の上手さ。まさかな……。と、慧は半ば訝りながらも、脳内に浮かんでいる名前を呼びかけてみる。
「雀野……だよな? 俺、慧。風見慧」
呼ばれたことに反応したのか、はたまた慧の名乗りに反応したのか。丸まっていた背中はむくりと起き上がった。
(どうやら効果があったみたいだ!)
成功に勢い付いてもう数歩前進しようとした次の瞬間。
――蹲っていた人影が急に身を翻しながら立ち上がり、そしてそのまま猫のように慧に飛びついた。
「うわっ、ちょ、ちょっと!」
当然慧はそんなことが起きると予知していなかったので全く身構えておらず、飛びつかれた勢いのままに尻餅をついた。
「いってぇ……。お、おい。大丈夫か?」
頭まで覆われていたブレザーは今の飛びついた勢いで肩まで落ち、茶髪のポニーテールがはらりと零れ出た。それで璃音だと確信を得た慧は少し砕けた調子で問いかける。
「ぐすん。へーき……」
「そっか、なら良かった」
鼻をすするような音が聞こえたが、慧は何も聞かなかったことにして短く答えた。
(まさか雀野が怖がりだったとはな。それも泣くほどの……。てか、流石に長くないか? 泣き終わるまではこのままでいようと思ってはいたけど、ずっと抱き付かれてると、なんというか……)
始めは驚きの為に鼓動を早めていた慧だが、それは次第に璃音に対する鼓動の高鳴りへと変わっていた。目前に迫る彼女の姿。仄かに漂い鼻腔をくすぐる香り。不安定で荒い呼吸の音。しっかりと背中に回された両腕の微かに震える感触。慧は今、ほとんど全身で璃音を感じ、それを脳で理解すればするほど、鼓動は早まっていった。
「ど、どう? 落ち着いた?」
「……うん」
これ以上耐えられないと感じた慧の発言に対し、璃音は低く安定した声で答えた。そして間もなくゆっくりと腕が解かれ、二人の身体は離れた。
「大丈夫か?」
慧が改めて落ち着いたかの確認を取ろうと問いかけると、璃音はスッと立ち上がり、慧に背中を向けた。
「うん。ごめん……」
「いや、俺は別に……」
「そう……。ありがと」
絶妙な間で保たれていた会話はここで途切れた。このままの空気でいるのは酷だし、それに皆と合流しないといけないし。と考えた慧は自らも立ち上がり、
「それじゃあ、みんなを探しに行くか」
と提案した。すると璃音は、
「うん。それは良いんだけど……」
と、含みのある答え方をした。
「ん? どうかした?」
「いやぁ、その……」
「もう少しここで休む?」
「いや、違くて……。あのさ、どっか掴まってても、いい?」
ようやく振り向いた璃音は一瞬だけ慧と視線を合わせたかと思うと、すぐに視線を逸らし、恥ずかしそうに、ギリギリ聞こえるくらいの声量で言った。その発言で慧の鼓動は再び早まった。しかし皆と合流するためには断るわけにもいかず、慧は小さく深呼吸をして多少鼓動を落ち着かせてから口を開いた。
「うん。いいよ」
今にもひっくり返ってしまいそうな声で慧が答えると、璃音は目を逸らしながら歩み寄ってきた。
(こ、ここからどうすれば良いんだ……?)
自分の前で立ち止まった璃音を見て逡巡していると、
「あ、あっち向いてよ!」
と璃音が言ったので、慧は「え、あぁ、ごめん」と、つい謝りながら背を向けた。
「ブレザーの裾、掴むから」
「う、うん」
暗闇の中で背を向け、かつこれからする事を詳細に伝えられると、嫌でも期待する気持ちが膨張していき、最早この心拍を抑える術はなかった。
いつ来るんだ。いつ来るんだ。心の中で同じ言葉を繰り返していると、不意に璃音の手が腰に触れ、慧は飛び上がりそうになった。しかし何とか身体を抑え込み、背筋をピンと伸ばすだけに留まった。
「オッケー、掴んだ……」
「う、うん。じゃあ、行くか」
腰に触れた手はすぐに離れた。次いでブレザーが後方に引かれる感覚が肩や首元で感じられたので、慧はそれを合図に歩き出した。
ブレザーを引かれているせいなのか、後方にいる璃音に緊張しているせいなのか、それとも璃音に歩幅を合わせようとしているからなのか。理由は何にせよ、慧はいつものように上手く歩けていない自分に気付いた。とは言え相手が何も言い出さないので、慧はそのまま璃音のエスコート役をたどたどしく務め、そしてようやく下駄箱へと続く角を曲がったその時。
――パッと明るい光が二人を照らした。
「まぶっ。光を下げてくれ!」
光を受けた直後、より一層ブレザーを強く引かれる感覚を捉えた慧は、動き辛そうに左手で光を遮断し、右手に持つスマホを振ってジェスチャーを送ると共に言葉を放つ。すると向けられていた光は即座に下げられた。それを機に慧は左手をどかしてスマホのライトで先を照らすと、そこには伊武が立っていた。
「え、江波戸?」
「何してんの」
伊武は自分の足元を照らしていた懐中電灯を少しだけ持ち上げ、慧と璃音の胴体辺りを照らした。そして普段から鋭い視線を一層鋭くして二人を見つめた。それで何かを察したのか、璃音はブレザーの裾から手を放し、廊下の壁際まですっ飛んだ。それを見て慧もやましいことを疑われているのだと察知して、反対側の壁に飛び退いた。
「か、懐中電灯が壊れて身動き取れなかっただけだから! そこにこいつが来て、懐中電灯代わりになってもらってただけだから!」
璃音は左手を壁につきながら、一息に捲し立てた。
「そ、そう! 本当にその通り!」
次いで慧も慌てて璃音に同調すると、伊武に視線を戻した。しかし、
「あっそ」
伊武の答えはこれだけであった。
「えっ、えーっと……。それで、江波戸は何でここに?」
思い切り空振りをした気分になった慧は、この羞恥心と気まずさを紛らわすために話題を逸らした。
「頼まれて探しに」
「先輩に? 俺たちを?」
「そう。だからもう理科室に戻る」
短く答えた伊武は早々に踵を返す。
「ちょ、ちょっと待って!」
先に行こうとする伊武を呼び止めたのは璃音であった。そして彼女は壁沿いに前進し、伊武の斜め後ろ辺りで止まり、
「さ、さっきも言ったけど、懐中電灯が壊れちゃったから、その、あんたの後ろに付いて行っても良い?」
と、勝気に問いかけた。それに対して伊武は、
「……勝手にすれば」
と、つっけんどんに返事をした。この答え方は流石に……。見守っていた慧がそう思っていると――
「あ、ありがと。それじゃあ」
負けん気の強い璃音がそう答えた。かと思うと、璃音は足早に伊武の背後に付き、今度は伊武のカーディガンの裾を掴み、二人は何事も無かったかのように歩き出した。そんな一連の中で、慧は一瞬だけ璃音の横顔を見た。先ほどまで強張っていたはずのその横顔は、微笑んでいるように見えた。
(これはもしかして、もしかするのか……?)
仲直りの兆しのようなものを感じ取った慧は、先ほどまで抱いていた興奮とは別の興奮を覚えつつ、二人の後を追うのであった。




