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第四十一話 お近づきの趣味

 教科書を読んで、板書を写して、考え事をして、そしてまた板書を写して、考え事をして。そんなループを繰り返している内に一時限目は終わっていた。あんなに疎ましく思っていた化学の授業があっという間に終わったという事実は少しだけ慧を元気にさせたが、それだけで心の雲が完全に晴れるというわけも無く、慧の心には歯痒さが残った。


(もう終わったのか……。五十分間の記憶がほとんど無いな……)


 机上に広げられている教科書は自分が開いたものなのだろうか。ノートに書かれた文字は自分の書いた文字なのだろうか。果たしてこれはなんて書いてあるのだろうかと、最早全ての記憶を一斉に失してしまったように思ったが、それは刹那の問題で、ノートの文字はすぐに読めるようになり、理解できた。安心した慧が顔を上げると、辺りには男子生徒しかいないことを認め、彼らが慌ただしく着替えている姿を目にした。(そうか、次は体育か。また嫌いな教科だ。こんな事ならいっそ、記憶を失ったままの方が幸せかもな)。なんて卑屈な考えが過りながらも、慧は先ほどまでヒエログリフに空目していた教科書とノートを閉じ、重たい腰を上げた。

 体操着に着替え終えた慧は一人で体育館へと向かった。その道中、何度かサボりたい思いに駆られたが、そんな逡巡の内に体育館に到着してしまったので、慧は体育館履きに履き替えて中に入り、一生徒として授業を受けた。

 一学期前半の体育はバスケットボールの授業であった。ボールが地面に弾む音、ボールがリングに当たる音、飛び交う掛け声、それらを舞台に腰掛けて見守る自分。慧はこの景色に、このシチュエーションに見覚えがあった。それは思い出したくも無い記憶であったが、ここまで再現されてしまっては思い出す他ない。しかし一つ違う点があるとしたら、対面の出入り口に恵凛と璃音がいないことであった。

 ――と、慧が空想に耽っているとブザーが館内に鳴り響いた。慧はその音で目が覚めたように身体をびくりと揺らすと、咄嗟に両手を挙げた。しかしボールは飛んで来てはいなかった。幸い誰も見ていなかったので、慧は吐き捨てるような苦笑いを溢すと、舞台から飛び降りた。


(この後は確か、保健室に行って江波戸と会ったんだよな……)


 コートに向かい、ポジションについても尚、慧の頭は物思いに囚われていた。すると今度は試合開始のブザーが鳴り響く。それでようやく完全に思考から解放された慧は渋々最後の試合に臨むのであった。

 体育の授業が終わると、慧は心身ともに疲れていた。まだ二時限目だというのに……。そんなボヤキを心の内に留めながら、慧は男子の群れの少し後に続き、教室に戻った。

 三時限目は生物の授業だった。身体が疲れていると思考も鈍るもので、担当教師の話を聞き、板書をノートに写すロボットと化していたらいつの間にか授業が終わっていた。またしても慧は授業を受けた気がしなかった。


(はぁ、まぁとりあえず、トイレに行って制服に着替えるか……)


 体育館から戻る際、グダグダと歩いていた上に、教室に戻ってからもうだうだとしていて制服に着替えられなかった慧は、丸めて鞄に突っ込んでいた制服を取り出し、その動作のついでにイヤホンとラヴィ本体をジャージのポケットに忍ばせると、一人でトイレへ向かい、個室トイレに入った。


「よお」

【おやご主人! おはようございます】


 先にシャツを脱ぎ、イヤホンを耳に掛けた慧はワイシャツに腕を通しながらラヴィに話しかけた。すると数秒の余地も無くラヴィが返答をし、そのまま話を続ける。


【今日の朝はお忙しかったのですか?】

「ん、まぁ、色々とあった」

【色々と。ですか】

「うん。実はさ、昨日江波戸が描いてた絵にどことなく見覚えがあってさ、で、寝る前に思い出したんだよ。それが前に俺がやってたソシャゲのキャラに似てるってことに。それで昨日の夜に再インストールして寝たんだけど、まぁ、そのデータの確認みたいなことをしてたら龍宮が来ちゃって、そっからはバタバタと家を出たって感じかな」

【なるほど、確かにお忙しそうですね。しかしそれは置いといて、良い着眼点と記憶力です!】

「え、あぁ。ありがと」


 不意に全力で褒められた慧はやや訝し気に答えた。


【素晴らしいですよ、ご主人。江波戸氏と向き合おうと努力するその姿勢が!】

「う、うん。まぁ、蟠りが残るくらいなら解決しておいた方が良いかなぁ。程度だけど」

【いえ、そんなことありません! ご主人は何だかんだと言って、しっかりと物事に向き合おうとしています。少しだけ面倒臭がりなだけです】

「んだよ、知ったようなこと言いやがって」


 刺々しい言葉で答えたものの、内心悪い気はしていなかった。これが例えお世辞だとしても、今の慧には軽く背中を押してくれる、自信をくれる言葉が必要だったのである。


【これはこれは失礼しました。ですが、江波戸氏の方はとても順調そうですね】

「うん。まぁ、そうだな」

【ひとまずはそのゲームの話で彼女との接近を試みましょう】

「うん。ていうか、もうこれ以外浮かばないよ」

【それでしたら尚更、そのカードは丁寧に使わないといけませんね】

「あぁ、だな。問題は雀野の方だよな……」


 ラヴィとの会話に一区切りついたと感じた慧はズボンを履き替えながら呟いた。


【雀野氏の方は良い案が浮かんでいないのですか?】


 慧の些細な呟きをも聞き逃さず、ラヴィはすかさずそう聞いた。


「あ、聞こえてたのか。いやまぁ、一応思いついてはいるんだけどさ……」

【まだ纏まり切っていない。という所でしょうか?】


 声の調子から答えあぐねていると察知したラヴィがそう聞き返す。慧はそれに対して素直に相談すべきか、もう少し自分で策を纏めるか考えながらベルトを締め、ネクタイを締め、ブレザーを羽織った。


「うん、まぁそんなところ。切り口としては音楽かなぁって漠然と考えてる感じ」

【なるほど。良いですね! とても良いと思います!】

「そ、そうか? でも一つ問題があってさ、俺最近の歌手全然知らないから、話しが合うか心配なんだよな」

【ふむ、確かに少し心配ですね。しかし私が思うに、雀野氏が本当に音楽を愛しているのならば、知らない音楽を知る。と言うことも楽しいのではないですか?】


 都合の良い解釈かもしれないが、確かに一理あるな。と慧は思った。それに、ラヴィが言うように璃音が本当に音楽を愛しているのならば、自分のプレゼンが上手く行きさえすれば話しなんていくらでも合うはずだよな。とも思った。


「……ありがとな、色々と」

【いえいえ、私は私の役目を果たしたまでですので】


 ラヴィにグッと背中を押されたところで、慧はラヴィとイヤホンをズボンのポケットにしまい、荷物掛けに吊るしていた体操着とジャージを手に取ってクルクルと丸めてトイレを出た。数分前までは不満げな表情だった慧だが、それはいつしか取り去られていた。この十分休みは、確実に有意義な安らぎを慧にもたらしたのであった。

 着替えを終えて教室に戻って来た慧は改めて体操着とジャージを畳み直し、鞄に押し込んだ。そしてそれと一緒にラヴィとイヤホンも中にしまうと、ファイルに入れてある時間割を見て次の授業を確認した。


(次は現代文か)


 そう思いながらファイルも鞄に戻すと、慧は机の収納から現代文の教科書とノートを取り出し、それを机上に並べた。

 授業開始まではまだ数分程残っていた。手持無沙汰な慧は前回の授業で何をやったのか確認でもして残りの時間を過ごそうと考え、ノートを開き、教科書を開いた。すると教科書の数ページ目がはらりと勝手に開き、そこに挟まれていたプリントを発見した。


(これは確か……)


 中身の見当は大体付いてはいたものの、慧は念のため中身を確認しておこうと思い、プリントを開いた。するとそれは思った通り、空門黄李の短編小説が印字されたプリントであった。慧の読みは見事的中していた。にもかかわらず、慧は不可解そうに首を傾げてそれを見た。何故ならこれは、授業が終わったその日に自宅のゴミ箱に捨てたような記憶があったからである。


(あれ、捨てたと思ってたけどな……。他のプリントと勘違いしてたのかな?)


 自分の記憶を思い返しながらプリントを眺めていると、慧の視線は自然と文字に移った。すると必然的にそれを読み始め、そして間もなく文字の世界へと引きずり込まれていった。


「――風見君?」


 極僅かな短編を読み終わるよりも前に右方から声がした。普段なら自分一人の時間を邪魔されて機嫌を悪くするであろうシチュエーションであったが、その声音、呼び方からして、慧は誰が自分の名を呼んだのか察しがついていたので、寧ろ愛想良く素直に顔を上げた。


「どうかした? 龍宮」

「いえ、熱心に何を読まれているのかと思いまして」


 想像していたまんまの純真無垢な瞳で慧を見つめている恵凛は、自分の席に腰掛けながら申し訳なさそうでいて照れ隠しのような笑みを浮かべて答えた。


「あぁ、これ? これは前に配られた空門黄李の短編小説だよ」

「最初の授業で配られたプリントですね。ですが、それは先週に終わって……」

「うん。それで俺も家に持って帰ったと思ってたんだけど、教科書に挟んだままだったんだよね」

「そうでしたか」


 そう言って少し考え込んだかと思うと、恵凛は再び口を開いた。


「……あの、最初の授業の時に、好きかどうか伺ったのを覚えていますか?」

「うん、覚えてるよ」

「それで確か、デビュー作がお好きだと言っていましたよね?」

「うん、俺が読んだ中では一番好きだったかな」

「他の作品はあまり面白くありませんでしたか?」

「うーん、他の作品と言っても、本当に短編を数作しか読んだこと無いし、それも小学生の時だからなぁ」

「そうですよね。すみません、変なことを聞いてしまって……」


 切り出した張本人である彼女は、何か断念してしまったかのように話に区切りを付けようとした。しかしどう見ても、恵凛の表情はまだ続きを話したそうにしていた。本当に表情に出やすいな。慧は微笑ましさを気持ちの中に抑え込み、こちらから話を続けてみることにした。


「龍宮は空門黄李が好きなの?」

「えっ、あ、はい?」

「ぎ、疑問形?」

「あっ、すみません。好きではあるのですが、ファンとも違うと言うか……」

「複雑なんだね」

「はい、何でしょうね。好きだけど嫌い。嫌いだけど好き。みたいな感じなんですよね」


 始め、解けない謎に対峙したような難しい顔をしていた恵凛は、慧の視線に気付くとぎこちない笑みを浮かべた。


「じゃあ好きか嫌いかは別として、結構読んではいるの?」


 このままでは話が終わってしまうと思った慧は話の切り口を変えてみた。すると恵凛は少しだけ顔色を明るくさせ、


「はい。一応発表されている作品は全て」


 と答えた。


「ぜ、全部ってこと?」

「はい、そうです」

「なんか好き嫌いを語ってたのが急に恥ずかしくなってきたな……」

「そ、そんなことありません! 全部読んでいることが正しいというわけではありませんから!」

「そうだよね、ありがとう。でもさ、何で龍宮は空門黄李の話を俺に?」

「えっと、その、風見君なら、もしかしたら読んでくれるかもと思って……」


 恵凛はいじらしく、それでいて悪戯な瞳を慧に向けた。


「お、俺で良ければ読むよ」


 その瞳に逆らえるはずも無く、慧は恵凛の申し出を引き受けてしまった。


「本当ですか?」

「うん。ちょっと読むのは遅いけど……」

「ぜ、全然大丈夫です! 私、待ちますから!」

「そっか。うん、分かった。今度本屋に行って見てみるよ」

「そんな。申し訳ないので私のをお貸ししますよ」

「ううん。大丈夫。こういうのはしっかり自分で買いたいんだ」

「ふふ、分かります。その気持ち。では、売っていなかったら私がお貸ししますね」

「うん。そうさせてもらおうかな」


 その後いつもより能動的な恵凛から空門黄李のオススメ短編集と長編とを一本ずつ聞いたところでチャイムが鳴った。慧は担当教師が入って来るよりも前にスマホのメモ帳アプリにタイトルを書き込むと、スマホをポケットにしまった。


「それじゃあとりあえずこの二本を読んでみるよ」

「はい。ありがとうございます!」


 そう答える恵凛の瞳は平常より一層輝いているように見えた。

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