第四十話 二つの小さな希望
アラームをかけ忘れていたのだが、習慣と言うのは恐ろしいもので、慧の心身は自然と朝の六時頃に目覚めた。枕もとに転がっているスマホは自動でスリープ状態になったようで、画面は真っ暗であった。慧はそのスマホを充電器から取り外すと、部屋の電気を点けてスマホを起動した。すると懐かしいゲームのマイページが映し出された。どうやらダウンロードが終わってから自動スリープに入ってくれたらしい。慧はかつてプレイしていたデータの確認に時間を割きたかったが、今始めてしまってはこのまま根が生えてしまうと思い、ひとまず引継ぎが出来ていることだけを確認してゲームを閉じると、スマホを机に置いて登校の準備を始めた。
二十分ほどであらかたの準備を済ませた慧は自室に戻って来た。そして最後に制服へ着替えると、スマホを手に取ってベッドに腰掛けた。
(まだ六時半過ぎか……。少しだけ確認しようかな)
時刻を確認した慧は持っているスマホの電源を入れ、ゲームを起動した。
(おぉー。懐かしいな。中二の時に辞めたから約二年振りか……。うわ、プレゼントボックス凄いことになってる。初心者応援報酬か。これはありがたい。っと、キャラも大分増えてるな。これは後で攻略サイトを見て今の強キャラを調べないとな……)
久し振りの起動は約二年間で何が変わったのかを確認しているだけで三十分程の時が流れた。そしてようやく伊武の描いていたキャラを探そうかという時、インターホンが鳴った。その音を聞き、誰だ? と慧は思ったが、一瞬にして恵凛が迎えに来ると言っていたことを思い出して顔を上げ、七時を過ぎている時計を目にして「やべ」と思わず口に出して立ち上がると、スマホをポケットにしまい、机の上に置いてある鞄を手に取り、そしてその傍らで充電しているラヴィとイヤホンと眼鏡とを鞄に押し込み、慌ただしく部屋を出た。
「はぁはぁ、ごめん。お待たせ」
「あっ、おはようございます」
文字通り玄関ドアから飛び出した慧が間髪入れずに謝罪をすると、門扉の向こう側に立つ恵凛がスローモーションで振り返り、ニコリと微笑みを浮かべて慧を迎えた。
「う、うん。おはよう」
これぞ見返り美人か……。と、先ほどのスローモーションに見えた恵凛の姿を思い浮かべながら玄関ドアを施錠した慧は、敷石を渡り、門扉を抜け、恵凛と合流した。
「ふふっ、では、行きましょうか」
「うん」
彼女の笑みの真相が分からず少し戸惑った慧だが、その笑みが厭味ったらしく見えたわけでも、不快に見えたわけでも無かったので、それ以上気にすることも追及することもせず、慧は恵凛と共に歩き出した。
「その、昨日のことなのですが……」
少しして話を切り出したのは恵凛であった。しかし数秒待ってもその続きが始まらず、不思議に思った慧が隣人を盗み見ると、恵凛はあからさまに難しい顔をして歩いていた。
(アイツならきっと、ご主人の出番ですよ。とか言うよな。まぁでも実際、ここは俺が機転を利かせるべきだよな……)
ラヴィの声が脳内再生されたように感じた慧は、お節介を承知で話し出すことにした。
「そのことなんだけどさ、話し辛い内容なら別に話さなくても良いからね?」
「えっ、あっ、その……」
申し訳なさそうにしている恵凛を見て、うわぁ、逆効果だったかな……。と心の中で顔を歪めた慧だが、ここで自分が止まってしまっては恵凛にもっと罪の意識を植え付けてしまうと考え、とにかく沈黙を避けるために話を続けることにした。
「あ、ごめん。話の腰を折っちゃって」
「いえ、私の方こそごめんなさい。その、もう少し落ち着いてからでも良いですか?」
「それはもちろん良いけど、無理はしなくて良いからね?」
「はい。無理はしていません。ただ、私が話したいのです。けれど、上手く纏まらなくて……」
「そっか、分かった。じゃあ話せるようになるまで待つよ、俺は」
「すみません。ありがとうございます」
恵凛は謝罪と礼を述べ、軽く頭を下げた。慧はその言動に暗い影を感ぜずにはいられなかったが、追及したい気持ちをグッと抑え込み、彼女が話せる時が来るのを待とうと自らに言い聞かせた。加えてその気持ちを今すぐ取り去るために話題を変えてしまおうと考え、慧は明るい声音で話を切り出した。
「じゃあ代わりに、俺が昨日の話をしようかな」
「はい。お願いします」
そう答える恵凛の顔には既に先ほどの暗い影は差していなかった。かと言って、今朝玄関で見た太陽のような笑みがあるわけでも無く、そこにはただ、儚げな微笑みが浮かんでいるだけであった。
……その後駅に到着するまでの間、慧は昨朝に起きた一連の流れを恵凛に説明した。家を出たら恵凛を迎えに来たと言う璃音と出くわしたこと。しかし家には恵凛がいなかったこと。それで仕方なく二人で駅へ向かったこと。ここまで話した慧は口を噤んだ。洗いざらい話すのならば、璃音とのすれ違いまで話すのが道理であるが、慧はそれを自分と璃音との問題だと認識して隠したのであった。
「そうだったのですね。では、学校に着いたら璃音にも謝っておかないといけませんね」
「ははっ、そうだね。でも――」
雀野もそこまで気にしてないと思うよ。と言おうと思った慧だが、これも勝手な決めつけだよな。と思い改め、続きを口にはしなかった。すると当然、急に話すのを止めた慧を変に思った恵凛がチラリと視線を慧に向ける。慧はそれを目端に捉え、彼女が自分の言葉を待っていると分かっていながらも黙り込んだ。そしてとうとう恵凛が聞き返そうとしたその時、折好く電車が到着した。
「あっ、電車、来ましたね」
恵凛の吸い込んだ息が意図しない言葉になったということを双方理解しながらも、二人はそれを知らん振りして電車に乗り込んだ。
電車が天方中央駅に着く頃には二人とも心のリセットが済んでおり、古屋根駅では何も無かった。という暗黙の了解が交わされていた。二人は今日の時間割について話したり、昨日の授業について話したりと、とにかく当たり障りの無い話をしながら自分たちの教室に辿り着いた。そして各々の席に腰掛けると、二人は心の中でホッと一息つきながら、鞄の中身を取り出し始めた。
「おはよう! 二人とも!」
もう少しで鞄の中身を出し終えてしまう。というタイミングで現れた助け舟は友宏であった。こいつは空気が読めるのやら、読めないのやら。と、慧は呆れ半分、感謝半分に考えながらノート類を全て鞄から取り出すと、自分の右斜め後方に立っている友宏を見上げた。
「朝から元気だな」
「まぁな! 元気が取り柄だからな」
「あっそう」
「んだよ、冷たいな。てかさ、お前部活どこ入るのか決めた?」
「あっ」
友宏の言葉で昨日の輝虎とのやりとりを思い出した慧は、ほとんど反射的に声を漏らした。
「お、その反応はどこか決まってるんだなぁ?」
「龍宮に話しておくことがあったんだ」
「いやそっちかい」
友宏が芸人ばりのリアクションを取っているのは差し置き、慧は鞄を机の横に掛けると、身体ごと恵凛の方に向いた。すると話を聞いていた恵凛も何となくそれに気付き、慧の方に身体を向けた。
「な、何でしょうか?」
「覚えてるかな、理科室であった先輩のこと」
「はい。覚えていますよ。宇留島先輩ですよね?」
「うん。実は昨日、先輩に会ってさ……」
輝虎の存在を覚えているか確かめた後に、慧は昨日あった出来事をなるべく要約して伝えることにした。まずは変な部活に勧誘されたというところから始まり、今週中に入部届けを目の前で書く約束をしてしまったと申し訳なさそうに説明した上で、今日の昼休みか放課後に実習棟のテラスで待っているであろう輝虎を一緒に説得してくれないかとお願いした。すると恵凛は、
「入りたいです! その部活!」
と、答えた。
(はぁ、やっぱりそうだよな……)
初めて恵凛と輝虎が出会った時の反応からして、薄々こうなると予知していた慧は覆らなかった未来を目の当たりにして心の中で溜め息をついた。しかし恵凛が楽しそうなら良いか。と割り切り、慧は笑みを浮かべた。
「うん、分かった。それじゃあ今日の昼休みか放課後にテラスへ行こうか。時間は龍宮の都合が良いほうで大丈夫だから」
「はい、分かりました。では、放課後でも大丈夫でしょうか?」
「オッケー。放課後ね」
と快活に答えながらも、心の中では、それまでに覚悟を決めておかないとな。と、自らを鼓舞した。
「へぇー、面白そうだな」
入部届けの話が一段落ついたと思うと、間断なく二人の話を脇で聞いていた友宏が口を挟んできた。
「なんも面白くないよ」
「俺も行こうかな」
「は?」
気持ちが混濁しているところへ、追い打ちを掛けるように友宏の爆弾発言が投下された。慧はすぐさまそれについて問い質そうとしたのだが、それは予鈴によって遮られた。
「んじゃ、俺も放課後付いて行くから!」
友宏は意気揚々と一方的な宣言を残し、慧が話し出すよりも前に自分の席に向かった。
(面倒なのがまた一つ……。と思ったけど、友宏がいるのは案外ありがたいんじゃないか? 上手くいけば俺の負担が減るよな?)
次々と災難に見舞われているように感じていた慧だが、席に辿り着くまでに色んなクラスメートに話しかけている友宏の姿を見て考えが変わって来た。確かに友宏の相手をし続けるのは面倒だ。けど、それはあくまでも一対一での話であり、大人数であれば友宏はきっと良い回し役兼ムードメーカーになってくれる。友宏の立ち居振る舞いから勝手にそう感じ取った慧は、多少の期待を抱きながら、彼が放課後に付いてくることを心の中で一人容認するのであった。
慌ただしい朝の数時間が終わると、今度はいよいよ授業が始まる。と言うかむしろここからが本番である。その栄えある一発目は化学基礎であった。どちらかと言うと文系である慧は少し暗い面持ちで教科書とノートを机に広げ終えると、頬杖をついて黒板を眺めた。
(とりあえず入部届けの方は片付いたけど……)
担任の教師が来るまでの細やかなざわめきの中、慧は頬杖をついたまま、黒板に向けていた視線を左隣の席に向けた。そして誰もいない隣席に伊武の寝姿を思い起こしてみたりしたが、その幻想はすぐさま陽光に溶けて消えた。
(ふっ、バカらしい。これじゃあまるで江波戸が来るのを楽しみにしてるみたいじゃんか。ゲームの話はいつでもできるし、来たら話せば良いだけの話だ。今日は入部届けの方に集中すれば良い話なんだ。うん)
心の中でそう言い聞かせはしたものの、どこかで江波戸とゲームの話をしたがっている自分がしこりのように残っているような気がして慧は気分が曇った。曇ったとはいえ、それは雨を含んだ黒雲のような重く暗い翳りでは無く、晴れた日の白雲が時折悪戯に太陽を隠すような気まぐれでいじらしい曇りであった。そして慧は直感的に、この雲はきっと江波戸と話すことでしか晴れないだろうと何となく気付いていたのだが、慧はその気持ちから目を逸らして黒板に視線を戻した。するとその直後、化学担当の教師が入って来た。音も前方から聞こえ、視界には教師が映っているにもかかわらず、慧は後方で物音がしていないかと耳を澄ませてしまった。もしかしたら、昨日のように伊武が登校してきたのではないかと思った。しかし隣の席が引かれることは無く、授業は淡々と開始された。




