第三十七話 噂と問題
一時限目開始のチャイムで慧は身体を起こした。そして何気なく視線を左に送り、そこに眠っている伊武を見つけるとすぐに視線を手元に戻した。
(夢なわけ無いか……)
璃音のことで疲労困憊していた慧は伊武が登校してきたことは自分が作り上げた幻だと思い込もうとしていたが、この目でもう一度彼女がいることを視認すると、小さなため息をつきながら教科書を取り出した。
(めっちゃ気まず~。向こうがどう思ってるかとかは分からないけど、あの別れ方を思い出すとめちゃくちゃ気まずいな……。でも学校に来たってことは俺のことを許してくれたのか? いや、もしかしたら、俺に引導を渡しに……)
慧は一人で妄想を繰り広げた挙句、もう一度伊武の方を見た。そして相も変わらず窓の方を向いて寝ている彼女の綺麗な後頭部を目にして何故か安心すると、慧は担当教師の指示を聞きながら、先ほど取り出した教科書とノートを開いた。
どうでも良い事だが、教師陣の方で不備があって先週まで未確定にされていた時間割がこの土日で定められたらしく、本日からはその定められた時間割で授業が行われる。この時間割は余程のことが無い限り、一年間変更はない。そんな今日の予定は英語に始まり、数学、世界史、物理、昼休みを挟んで日本史、情報となっている。月曜日の朝から第二言語を学ぶのかよ。と、慧は少し億劫であったが、生真面目な彼が授業を放棄出来る訳も無く、ぼんやりとする頭に必死で英語を叩きこんだ。
しかしやはり月曜日の一発目は集中力が持たない。慧は板書を写し終えると、シャーペンをノートの端に置いて一息ついた。そしてまた、何も考えずについつい視線を左に移して眠っている伊武を見た。
(こいつ、本当に寝てるのか……?)
大した動きも無く、ずっと窓の方を向いて机に突っ伏している伊武を見て慧は猜疑心を抱いた。
(別にそんな気にすることでは無いんだけど、なんか気になるんだよな。隙を伺われてるような気がすると言うか。見られてる気がすると言うか……。まぁ、流石に気のせいだよな。今日は気が乗ったから登校したってだけで、俺に用があるから。なんて自意識過剰だよな、うん)
膨らみ続ける自意識に自ら釘を刺して何とかそれを萎ませた慧は、ため息のような密かな深呼吸をして再びシャーペンを手に取った。そして新しく追加されている板書をノートに写し、教科担任の話を聞き、教科書を読む。そんな退屈なサイクルが生む強烈な睡魔に耐えながら、慧は一時限目を乗り越えた。
「あぁ~、終わった。慧、トイレ行こうぜ」
授業が終わって早々に話しかけてきたのは友宏であった。
「え、うん。まぁ良いけど」
正直トイレに行きたいかと言われたらそこまで行きたくは無かったが、この場を離れる。という目的で慧はその申し出を受け入れた。それと言うのも、この後の午前の授業が全て教室で行われるということもあり、慧は少しでも伊武から離れる時間と口実が欲しかったのである。
先に歩き出した友宏につられて慧も席を立つと、二人は教室後方のスライドドアから廊下に出た。常ならば振り返って律儀にドアを閉めていた慧だが、今に限っては教室内に、主に伊武の方に視線を向けるのを避けたくて、慧はドアを開けたまま友宏の背中を追った。
「龍宮が休むなんて意外だよな」
「え、うん」
追いつくや否や友宏にそう言われた慧は慌てて答えたが、その言葉を脳内で反芻する度に今朝の璃音との諍いと言うか、すれ違いの情景が脳内に色濃く広がった。
「お前、家、隣なんだろ? 何も聞いてないのか?」
野次馬的で好奇心旺盛な友宏の瞳が向けられると、慧は自分の心がギュッと締め付けられたような気がした。
「いや、何も聞いてないけど……。てか、何で家が隣って知ってるんだよ」
これ以上恵凛についての話題を広げられたくなかった慧は、友宏の発言から話題をずらした。
「あ。いやぁ、その……。実はお前と内海先生の話を聞いちゃってさ。けど大丈夫! 俺は誰にも言ってねぇからさ」
「俺はってどういうこと?」
「え、えーっと、まぁ、その、なんだ。お前と龍宮、結構頻繁に登下校してるからさ、噂にはなってるって感じ?」
その噂を知った慧はすぐさま反論しようとしたのだが、余りにも驚きが強く、慧は何か言おうと口を開いたまま数秒間思考能力を失った。
「別にそんなデカい噂になってるってわけじゃ無いからな! あくまでも、俺の周りでそう言ってる奴がいただけだから。それに、いやいや、アイツは先生に言われて付き添ってるだけだ。って言っといたから、多分大丈夫だ!」
放心した様子の慧を見て、友宏は早口で釈明と激励を浴びせた。するとそれに対し、
「うん、分かった。ありがとう……」
と、慧はもう満腹だと言いたげに返したので、友宏もそれ以上言い訳を唱えることはせず、二人はトイレで用を足して教室に戻った。
自分の席に腰掛けた慧はとてつもない疲弊を感じた。そして、問題と言うのはなぜこうも毎度毎度立て続けに発生するのだろうかと考えながら、残りの休み時間が蠟のように溶けていくのを看過した。
(はぁ、だから嫌だったんだよな。出来るだけ目立たない学校生活を送りたかったのに……。とは言え、別に龍宮のせいってわけでも無いしな……。てか、これで雀野のこととか江波戸のことにも首を突っ込み続けたら、それこそまた変な噂が立つよな。あぁ~、もう何もかも放り出したいな……)
秒針がカチカチと規則的に回る姿を眺めていると、慧の脳裏には恵凛の姿が浮かんだり、璃音の姿が浮かんだり、伊武の姿が浮かんだりした。そしてそれらのことを一通り考え直してみると、全てが面倒になった。関わっていることの全てを白紙に戻したくなった。
するとその折に二時限目開始のチャイムが鳴った。授業を受ければ少しは気が紛れるかも知れないとその一瞬は気が落ち着いたが、次の瞬間にはやはりそんなことではどうにもならない憂いが浮き上がり、慧はげんなりしながら数学の教科書とノートを取り出した。
教科担任の内海が教室に入って来た。そして授業が始まった。しかしそれで慧の気が紛れることも無ければ、意識が授業に向くことも無く、慧は糸の切れた操り人形のように机に突っ伏した。しかしその際、慧は何の考えも無しに顔の右側を下にしてしまい、意図せず伊武の方を向いてしまった。すると当然彼女の姿が目に映り、慧は早々に目を逸らそうと思ったのだが、その先には見つめ続けざるを得ない景色が広がっており、慧はしばらく見入ってしまった。何故なら、伊武がしっかりと身体を起こし、しっかりとノートに向かい、シャーペンを紙面に走らせていたからであった。
(お、起きてる……)
先ほどまで全く浮き上がらなかった心が少しだけ浮上するのを慧は感じた。
(授業を受けてる……のか?)
そこまで考えた慧は、もう自分が長いこと伊武のことを見つめているかもしれないという危惧を感じ、慌てて瞼を下ろして寝たふりをした。
(今、間違いなくノートを開いてたよな? 教科書もあったか?)
疑念が生まれると、不思議と睡魔も疲れも同時に吹っ飛び、慧はただ真実を確かめたい一心で薄く目を開けて伊武の様子を伺う。
机の右手に置いてある筆箱が視界の邪魔をしているが、どうやら教科書を開いている様子は無い。というか、机上に出してすらいない。つまりノートだけ取っているのだろうかと考えたが、チラチラと盗み見をしている限り、伊武が顔を上げて黒板に視線を向けている様子も無い。つまり板書を写しているわけでも無いのである。となると一体ノートに何を書いているのだろうか? と、考察を深めるほど、慧はその答え合わせがしたくなって来た。そこで彼は伊武にバレていないであろうタイミングを見計らって上体を起こし、あたかも最初から起きていたかのような調子で板書をノートに写しながら伊武の観察を続けた。
(……凄い集中力だな。でも、勉強じゃ無いとしたらなんだ?)
ひとまず黒板に書かれていることを全てノートに書き写し終えた慧は手持無沙汰となり、頬杖をついて伊武の行動について考え直した。そしてもう一度様子を伺うために顔を僅かに左に向けると、同じく頬杖をついてこちらを見ている伊武と目が合った。
「……なに?」
目が合ってから数秒、先に言葉を発したのは伊武であった。
「いや、えっと……」
相手が今気付いたのか、それともずっと前から気付いていたのか。慧はその疑いばかりに気を取られ、全く言葉が出て来なかった。
「気が散る。……そんなに見たいなら後で見せてあげるから」
「え、う、うん」
つっけんどんな伊武の返事に、慧は反射的に尻込みした言葉を返したものの、その後よくよく伊武の言葉を思い返してみると、案外内容は好意的だったのではないかと思えて来て、慧は自らの心が晴れていくのをありありと感じた。
なんてやり取りをしている間に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。慧はその音で結構な時間が流れていたことを確認しつつ、写していない箇所を急いで書き取った。
……それから続いた世界史と物理の授業時間も、伊武は押し黙ってノートに向かっていた。見せてあげるとは言われたが、一体何を見せてくれるのだろうかと、慧は二時間、胸中に期待と不安とを混在させながら昼休みを迎えた。
「あの、江波戸。その、なに書いてたんだ?」
自分から聞くのも変な話だが、好奇心が勝った慧は昼休みになってもノートに向かっている伊武に向かってそう聞いた。すると彼女はシャーペンを机に置き、両手を背中に回してうんと伸びた後、慧の方を見た。
「まだ」
伊武はその一言だけ言うと、机に伏せてしまった。
(焦らした挙句見せない。とかだったら新手の嫌がらせだな。まぁいいや。気にはなるけど、これで江波戸と話してる所を見られて変な噂を立てられても困るし)
慧は心の中で独り言ちると、昼食を買いに購買へ向かった。
一階まで下り、購買で焼きそばパンとたまごサンドを買い、自販機でお茶を買った慧はそれらを持って四階まで戻ると、一旦は教室に足を向けたのだが、伊武が寝ている隣で食事をしている自分の姿を想像して、慧はテラスへ向かうことにした。
先週はガラガラだったテラスに、今日は何組かの生徒が集まっていた。三つあるテーブルセットのうちの二つの席は埋まっており、残りの手すりから一番遠い隅の席が空席となっていた。元より慧はその席で良いと思っていたので、何の不満も無くその席に陣取った。
これでようやくゆっくり出来る。慧がそう思いながら焼きそばパンの封を切ったその時、背筋がゾクッとするほどの強烈な視線を感じ、慧はテラスの出入り口に目を向けた。するとそこには、
「君……。いつになったら僕のもとに来るんだ……!」
と、息を荒げる輝虎が立っていた。
(完全に忘れてた……)
彼女の存在と約束をキレイさっぱり失念していた慧は、心の中で泣きながら、とても歪んだ微笑みを返した。




