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第三十六話 小さなサイン

 その決心をしてから小一時間後、運動部も文化部も片づけを始めた頃に璃音は戻って来た。彼女は肩で息をしながら、視聴覚室前の開けた廊下に設置してあるベンチに腰掛けていた慧と恵凛を見て、申し訳なさそうに唇を噛むと、それを隠すように頭を下げた。


「璃音……。無事で良かったです。連絡をしても返事が無かったので」

「……ゴメン。本当にごめんなさい」


 心なしか璃音の声が震えているように慧は感じたが、何も追求することなく項垂れている璃音が頭を上げるのを待った。


「あっ、えっと、その……」


 こういう状況に慣れていないのか、なかなか頭を上げない璃音に困惑し、恵凛まで言葉が詰まり始めた。このままでは話が進展し無さそうだと慧が思っていると、


【ご主人、出番ですよ】


 とラヴィの声が聞こえて来た。正直もう少し様子を伺おうと考えていた慧だが、その言葉に背中を押されて半歩前に出た。


「そんなに気にしなくて大丈夫だよ。今日しか見られないってわけじゃ無いんだしさ。また改めて誘ってくれれば良いからさ」

「そ、そうですよ。用事が入ってしまったのは仕方のないことですから」

「うん……。ありがと」


 璃音は頭を下げたままそう言うと、軽く鼻をすすってから頭を上げた。そして視聴覚室の出入り口横に立て掛けられているギターケースを手に取ると、二人のもとに戻って来ていつも通りの笑顔を浮かべた。


「延期になっちゃったからには、もっとクオリティ上げてから見せないとね!」

「はい。楽しみにしていますね」

「うん! 猛練習してすぐに声掛けるから!」

「言ったら言った分、期待値も上がるぞ?」

「はぁ? 何様よ。そもそもあんたは誘ってないんですけど?」

「あっ、わ、私が誘ったんです! すみません!」

「良いの良いの、恵凛は気を遣ってこいつを誘ってくれたんだもんね。恵凛は悪く無いからね~」

「なんだよそれ。じゃあ来ないよ」

「なによ、ノリ悪いわね。あんたもちゃんと誘ってあげるから心配しないの。さ、今日はもう帰ろ。あたしのせいで遅くなっちゃったんだけどね」


 璃音は始終笑顔を浮かべたまま早口に言うと、先に廊下を歩き出した。それに続いて恵凛も歩き出すと、そのまま彼女は璃音の横に着き、二人は談笑をしたまま遠ざかって行く。慧はその二つの背中を見つめながら歩き出しはしたものの、先ほどの璃音の変に形式ばった笑顔が瞳に残って離れず、結局学校を出るまで二人に話し掛けることが出来なかった。


 その後駅で璃音と別れ、自宅前で恵凛と別れた慧は帰宅して最低限のことを済ませると、自室に戻ってベッドに仰向けで寝転がった。


【どうかしましたか、ご主人】


 充電器に接続されたラヴィは身体をベッドに預けてから全く動かない主人に声を掛けた。するとしばらくの沈黙があった後、慧は寝返りを打ってラヴィの方を向いた。


「いや、別になんてことは無いんだけど。雀野の様子が気になってさ」

【なんてことあるじゃないですか!】

「え、そうか?」

【そうですよ。気付きや直感と言うのは大事にしなくてはなりませんよ!】

「そんなこと言われたって、向こうからしたら余計なお世話かもしれないだろ?」

【それはそうかもしれませんが、余計なお世話だという可能性五割、本当は助けて欲しいという可能性五割と考えましょう!】

「随分と暴論だな。要するに五分五分ってことだろ?」

【はい、そうです。聞いてみなければ分からないという事です】

「そんな簡単に言うけどさ、個人の問題に踏み込むのがどれだけ大変か知らないだろ、お前」

【それは分かりませんけど、ご主人は雀野氏のことが気になるのですよね?】

「まぁ、多少はな」

【でしたら、その心のモヤモヤを晴らすためにも、雀野氏に直接聞く他ありません!】

「強引だな……。まぁそりゃ気にはなるけどさ、でも今は江波戸のことで手も頭もいっぱいなんだよ。だからそっちが片付いてからかな」

【う~ん。ご主人がそう仰るならそうしましょうか……】

「不服そうな返事するなよ。雀野の方も様子は見るようにするつもりだからさ」

【分かりました。それなら良いでしょう!】

「……ったく、お前は俺の何なんだよ」


 慧はボヤキながら体を起こすと、諸々の用事を済ませるために自室を出た。


 それから三日後。何事も無く土日を過ごした慧はいつもと変わりない朝を迎え、学校へと向かうべく家を出た。すると突然、日常は非日常へと移り変わる。


「あっ……」

「え、雀野?」


 丁度風見宅と龍宮宅(仮)の間をうろついていた璃音と目が合ったのであった。


「えーっと……」


 ひとまず自宅に鍵をかけた慧は、まるで未確認生物を発見したかのような視線を璃音に向けながら玄関を離れ、敷石を渡り、道路に出た。すると見られている側の璃音も何故か同じように慧の動向から頑として目を離さず、二人は達人の読み合いの如く見つめ合ったまま道路で対峙した。


「なによ」

「いや、こっちの台詞だよ」

「あ、あたしは、恵凛を迎えに来ただけよ」

「そっか。じゃあ、俺は先に行ってるから」

「ちょちょちょちょ。ちょっと待ってよ」

「なんだよ」


 呼び止められた慧が振り返ると、璃音はインターホンを指さした後、両手を顔の前で合わせて少しだけ頭を下げた。


「……え、俺が呼び出せってこと?」


 まさかと思いながら慧がそう聞くと、璃音はうんうんと力強く二回も頷いた。慧はあぁそうですかと言わんばかりに小さく頷くと、璃音の横を抜けて龍宮宅のインターホン前に進み、臆せずボタンを押した。すると間もなく、中年の執事が姿を現した。


「おはようございます。風見様」

「お、おはようございます」

「お嬢様に御用でしょうか?」

「は、はい。そろそろ登校の時間かな~と思いまして」


 慧は言葉に気を付けながらなるべく自然な愛想笑いを浮かべて言うと、執事の男性は少しだけ眉をひそめ、頭を下げた。


「申し訳ございません。本日お嬢様は不在でして」


 執事が頭を下げた時点で既に呆気に取られていた慧と璃音は、恵凛が不在だという言葉がすんなり脳内に入って来ず、数秒間立ち尽くした。


「あ、えっと、そうだったんですね」

「はい。恐らく今日か明日には戻られると思うのですが……。わざわざお越し下さったのに申し訳ございません」

「い、いえいえ! こちらこそすみません。こんな朝早くから押し掛けちゃって!」


 厳格かつ整然とした執事の言葉と佇まいに、何故だかこっちが悪いことをしたように感じた慧は早口にそう返すと、璃音の方を一瞥して頭を下げるようにアイコンタクトを投げ、二人はペコペコと頭を下げて門前を離れた。その後二人は登校するべく駅に向かって住宅街の直線を歩くのだが、その間ずっと背中に熱い視線を感じた。恐らく龍宮家の執事が気を利かせて自分たちを見送っているのだろうと二人はそれぞれ考え、慧と璃音は示し合わせたわけでも無く、早足で駅に向かった。


「はぁはぁ、あんたも感じた? 視線」

「はぁはぁ、うん。あきらかに見送られてたよな」

「だよね。これが毎日って考えると、確かに少し息苦しいかも」


 璃音は悪戯な笑みを浮かべて言うと、先に改札へ向かった。慧はその自然な笑みを数日前の形式ばった笑みと比べ、やはりあの時の笑みは璃音らしくなかったと改めて思いつつ、彼女の後を追って二人はプラットホームに向かった。


(流れで二人きりになったけど、多分探りを入れるなら今だよな……)


 自分の斜め前に立っている璃音のことをチラリと見て、慧はとても曖昧な心情を抱いた。今行くべきだとは感ずるが、しかしどこか億劫でもあり、慧はしばし黙り込んで璃音の様子を伺った。


「恵凛、どうしたんだろうね」

「え?」


 慧が悩み考えていると、璃音から突然話題が振られた。


「こんな朝早くからどこに行ってるんだろう。とか思わない?」

「ま、まぁ。それは思うけど……」

「反応うすっ。あんまり気にならないか、こういうこと」

「だってそれは個人の事情があって……」


 そこまで口にした慧はふと思った。璃音からこの話題が振られたのだから、先日璃音が急用でどこに行っていたかを探っても罰は当たらないのではないかと。それに最悪冗談っぽく言えば誤魔化せるかもしれないし、可能性は高いと踏んだ慧は軽くジャブを放ってみることにした。


「じゃあさ、雀野はこないだの急用、どこ行ってたんだよ?」

「えっ、それは……」


 璃音の反応が芳しくなかったので、慧は説法じみた冗談の方向に切り替えることにした。


「ほら、答え辛いだろ。だから俺は他人の事情に首を突っ込まないようにしてるんだ」

「……うん」


 強気で反骨精神むき出しの返事が来ると身構えていた慧は、弱気で従順な璃音の声と言葉を聞いて拍子抜けした。そのせいか慧の方も調子が狂ってしまい、気を利かせた言葉が全く出て来なくなってしまった。そしてそのまま気まずい沈黙が二人を捉えるかと思われたそんな折、タイミング良く電車が到着した。二人はそれに乗ることによって、電車内では会話は控える。という公共のルールに助けられ、会話をすることなく天方中央駅まで運ばれると、そこで各々下車した。

 少し遅れて下車した慧は、ホームで同窓生と合流している璃音を見てホッとした。もしあのぎこちない空気のまま二人きりで教室に向かっていたら、きっとそれだけで今日一日分の体力と精神力を消耗していただろう……。慧はその世界線を想像してやや冷や汗が滲むのを感じながら、エスカレーターに身を任せた。


【上手くいきませんでしたね】


 改札を抜けて駅を出たタイミングでラヴィがぼそりと囁いた。始めそれに対して答えるのが億劫だった慧はそれを無視しようと考えたが、次第に誰とでも良いので話したい欲が募って来たので、信号から少し離れたところで立ち止まり、信号待ちがてらラヴィの相手をすることにした。


「うん」

【おや、聞いていたのですね。返事が無かったのでイヤホンを外しているのかと――】

「人が多くて話しづらかったんだよ」

【そうでしたか。それで、ご主人はどう思いましたか?】

「うーん。上手くいかなかったというよりかは、予想外だったって感じかな」

【なるほど。それもまた気付きですね!】

「気付き?」

【はい。予想外の行動をされたということは、ご主人が抱いているその人のイメージをその人が越えて来たということ。それはつまり雀野氏の新しい一面を見た。とも取れるのではないでしょうか?】

「……確かに」

【それを踏まえて先ほどのやり取りを思い出してみれば、発見があるかも知れませんね。おっと、信号が変わりましたよ】

「え、あぁ。サンキュ」


 ラヴィのアドバイスを受け、慧は再び歩き出した。


(雀野の新しい一面か……。ってまぁ、そりゃそうだよな。親しみ易い奴だからって俺が勝手に雀野はこういう奴ってイメージを固めちゃってただけで、俺たちはまだ出会って数週間しか経って無いんだから、新しい一面が見えるのなんて当然のことなんだよな)


 学校の正門を抜け、校舎へと続く坂道を上りながら慧はぼんやりと考えた。一瞬、坂を上る疲労感が慧を現実の世界に引き戻したが、それは本当にコンマ数秒のことで、彼の意識はすぐに思考の世界に沈んでいった。


(そうか。そうだよ。俺は勝手に雀野のことを知った気でいたんだ。雀野は明るくて、コミュ強で、いつも真っすぐな奴って勝手に認識してただけで、アイツにだって隠したいことはあるし、悩んでることだってあるはずなんだ……。でも待てよ。もしも雀野自身も自分をそう認識していたとしたら、さっきの素直な返事。アレは隠したいこと、あるいは悩んでることがあるけど、自分はそんなキャラじゃないから言い出せず、結果あの反応になった。とかだとしたら……。って、それは流石に考え過ぎか……)


 何か点と点が一気に線で結ばれたような、名探偵の閃きのようなものを一瞬自らの推察に感じた慧だが、流石にこれは飛躍し過ぎていると、結局謙遜する気持ちが勝ってその思考は捨て置いた。すると突然、身体的にも精神的にも重い疲労感に襲われた。それで完全に現実へ戻された慧が辺りを見回すと、無意識の内に教室がある階まで辿り着いていることを知った。慧は一度深呼吸をして体力と精神を整えると、自分の教室に向かった。

 自分の席に着いたは良いが、どこか落ち着かなかった。誰かに話したい気もするが、誰とも話したくない気もする。そんな曖昧模糊とした気分に翻弄されていると、ホームルーム開始のチャイムが鳴った。ガラガラと音を立ててドアが開かれる。慧がその音に釣られて教卓に目をやると、そこに内海の姿はない。それどころか、前方のドアが開いてすらいない。じゃあ後方のドアから誰かがギリギリで入って来たのかと慧が視線を移そうとしたその時、左隣で物音がした。今度はその音に釣られて何気なく左を見ると、そこには机に突っ伏している伊武がいた。


「ごめんなさいー。ちょっと職員会議が長引いちゃって」


 登校した伊武を見て呆気に取られていると、教室に内海が駆け込んできた。


「あっ、今日は江波戸さん来てるのね。良かった」


 内海は独り言なのか賛同を求めているのか、とても微妙な声量でそう言うと、手元のファイルに目を通しながら号令を掛けるよう指示を出し、ホームルームはいつも通りに開始された。


(一個落ち着いたと思ったら……)


 慧は心の中で愚痴をこぼすと、イヤホンと眼鏡を外してそれらを鞄にしまい、内海の声を遠くに聞きながら机に突っ伏した。

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