第三十五話 曖昧な進捗
これじゃあ溝を深くしただけだ……。慧は下りの電車に揺られながら今日の反省を続けていたが、それも全て後の祭りであると思うとまたもや深いため息が漏れた。
【そう凹まないでください。私が聞いていた限り、そこまで大きな失敗では無いと思いますよ】
「出任せの慰めならいらないからな……」
三号車中央の昇降口横に左肩を預けた慧は、外の景色を見ながら素っ気なく答えた。
【出任せなんて滅相も無い! ご主人こそ、何を根拠に凹んでいるのですか】
「え、そりゃ……。何も言わずに走り去ったってことはそう言う事だろ?」
【分かってませんね~。ご主人はあまのじゃくという言葉をご存じないのですか?】
「いや、それくらいは知ってるよ」
【ならばそう言う事ですよ】
「は? 全然返事になってないけど」
【まぁまぁ、続きは電車を降りてからに致しましょう】
「はぁ、分かったよ」
答えを勿体ぶるラヴィに腹を立てながら慧は古屋根駅で下車した。改札を通り、駅前に出た慧は不機嫌に歩き出し、周囲に誰もいないことを確認してから再びラヴィに問いかける。
「で、あまのじゃくが何なんだよ」
【だからですね。江波戸氏があまのじゃくと言う事ですよ】
「江波戸が?」
【そうですよ! あの態度を見てもそれに気付けないのですか!】
「思いはしたよ……。でもさ、決めつけるのは良くないだろ?」
【確かに決めつけるのは良くありませんね。しかしご主人が詰め寄った時、彼女は何かを言おうとしていましたよね? そして彼女はその言葉を呑み込んで、違うことを言ったように見えましたよね?】
「それはまぁ、見えたけど……」
【そうですよね? 私が思うに、あの時まさに、江波戸氏があまのじゃくを発動させたのだと思います。きっと始めは本音を言おうとしていたが、ギリギリのところで彼女の理性やら何やらがストップをかけてしまったのですよ。例えばですけど、ご主人も図星を突かれたりとか、急に褒められたりとかした時、素直に受け答えするよりも、誤魔化すことを考えますよね? 図星の場合は強がってみたり、褒められた場合は自分は凄くないという謙遜をしてみたり】
「うん、確かに。余程仲が良くない限りは、どっちも素直には答えられないかもな」
【ですよね? そしてここで当てハマる江波戸氏のあまのじゃくは、恐らく他人の優しさへの困惑から発生していると私は感じました】
「優しさ?」
【はい。時折何かに怯えている様子。心配してくれる人なんていないと言う保健室での発言。そして実際に心配だとご主人に言われた後のあの反応から推理して、私はこの結論に至りました】
「なるほど。そう言われてみると、確かに江波戸って誰かを頼るようなタイプには見えないよな……。まぁ、あくまでも印象だけど」
【まぁまぁ、今はそれで良いのですよ。それが偏見にならないように、明日からまた頑張れば良いのです! と、言う事で、今日は失敗した~。と凹まず、むしろ前進したと思ってください。事実、ご主人の精神的にも、江波戸氏との関係値的にも進捗はあったのですから!】
「うーん、上手いこと言い包められる気はするけど、不思議と蓋然性が高まって来るのがムカつくな」
【なっ! なんてこと言うのですか! ご主人のメンタルケアもしつつ、収集したデータから論理的推測もお伝えしたというのに!】
「ごめんって。別に嫌味を言いたかったわけじゃ無くて、その、ちゃんとナビっぽいことしてるなって、見直してたんだよ」
【ナビっぽいって……。それもあまり褒められている気はしませんよ、ご主人……】
「ま、まぁとにかく、ありがとう……」
【え、今なんと仰いましたか!】
「二回は言わない」
【そんな、不意打ちなんて卑怯です!】
「だったらまた活躍するんだな」
【えぇ、やってやりますとも。今度はしっかりと感謝してもらいますからね! 手始めに、帰宅したらすぐに次の作戦を練って……】
ぶつぶつと呟き続けるラヴィを余所に、慧は自宅を目指し、弾むような歩度で住宅街を進んだ。数分前まで慧の心を覆っていた暗雲は嘘のように消え失せ、今では明日に向かっての晴れ晴れとした闊達な気持が広がっていた。
翌日、少しの期待を胸に登校した慧だが、その期待は呆気なく玉砕した。
「今日も来てないみたいだな。江波戸」
自分の席に鞄を置いて左隣の空席を眺めていると、慧の背中がポンと叩かれ、背後から声が聞こえた。大体の見当はついていたが、振り返らなければそれはそれで面倒なことになりそうだと思った慧が振り返って見ると、思った通り、そこには友宏が立っていた。
「なんだよ、友宏」
「なんだよってなんだよ。お前が江波戸の机をじーっと見て悲しそうにしてたから声を掛けてやったってのに」
「別に悲しそうには見てないよ」
「ほんとか? じゃあ何で見てたんだ?」
「まぁ、心配だなぁーって感じ」
「なんじゃそりゃ。感情がこもってねぇな。でも、確かに今日来なかったら丸々一週間来なかったことになるし、気にはなるな……」
「だろ。クラスメートとして、気になるよな?」
慧はあえて、クラスメート。と言う単語を強調して問い返した。
「あぁ、気になる。……いや待てよ。そこまで気にしてるってことは、まさか、お前がなんかしたのか?」
「何でそうなるんだよ。俺は何もしてないって」
「だよな。流石にそれはないよな」
「うん、ないない。だからもうこの話は終わり」
どれだけ策を弄したところで友宏には効果が無いと分かった慧は無理矢理話を打ち切った。そして席に着いて鞄の中身を取り出し始めると、友宏は渋々最前列の自分の席に歩いて行った。
(ったく。どう考えたら俺を疑えるんだよ。友宏の突拍子の無さは時折怖くなるな。……まぁでも、あながち間違ってない可能性もあるのか? 現に今日も来てないわけだし。やっぱり昨日のは失敗だったんじゃないのか?)
昨日のラヴィの励ましと推察とで心に安寧を得たはずの慧であったが、教室に来て空席を目にし、その上友宏の疑いの言葉を聞かされると、やはり全面的に自分が悪かったのではないだろうか。というどす黒い靄が心を曇らせ始めた。こうなったら三度ラヴィに意見を仰ごうかとも考えたが、最早誰かの意見を聞いて晴れるような軽い靄では無いような気がして、慧は机に両肘をつき、手を組んでその上に顎を乗せて考え込んだ。
「おはようございます、風見君」
それから一分も経たずして、今度は上品で麗しい声が掛かった。それに反応してチラリと右方を見やると、机に鞄を置いた恵凛と目が合った。かと思うと、彼女は席に着きながら慧に微笑みかけた。
「どうしたの。何て言うか、機嫌が良さそうって言うか」
「はい、そうなんです! 実は今日の放課後、璃音の部活動を見学しに行くことになりまして」
「雀野の? ってことは、軽音楽部か。でも、本格的な入部ってまだだったような……」
「はい。そうなのですが、仮入部の時からずっと来てくれていたから、璃音のバンドは一週早く活動を認められたらしいんです!」
「確かに、仮入部期間より前から活動してたっぽいしな」
「はい。どうやら一つ上の学年に幼馴染の方がいるようで、そのお方と組んでいると言っていました」
「なるほど。だから早い段階からバンドを組んでたのか……」
慧は数週間前に聞いた昇降口でのケンカと、部活動見学の時に渡り廊下で聞いたケンカを思い出しながらそう呟いた。
「楽しそうですよね、複数人で何かを演奏をするって。私もやってみたいです」
一人合点している慧に気付かず、恵凛は何かを空想するような恍惚とした表情で心の声を漏らした。
「龍宮は何か演奏できるの?」
「あ、えっと、ピアノを少々……」
「へぇー、そっか。龍宮に似合うね」
「そ、そうですかね? ありがとうございます……」
恵凛は頬を赤らめながら慧に礼を述べると、視線を逸らし、照れ隠しの代わりに鞄の中から教科書を取り出し始めた。
「で、でもですね。全然上達しなくてすぐに辞めちゃったんです……」
教科書を全て出し終えた恵凛は申し訳なさそうにそう付け足した。
「そうだったんだ……。ごめん」
「いえ! 風見君が謝ることではありません。私に才能が無かっただけなんですから。……じゃなくてですね。そんな下手な私に、もう一度楽器に挑戦しようと思わせてくれた璃音が凄いって話をしたかったんです!」
「そ、そうなんだ」
凄い熱量だな。と内心思いながらも、慧は話を続ける。
「その、龍宮は雀野の演奏を聞いたことがあるの?」
「はい。昨日少しだけ聞きました」
「あぁ、昨日の用事って」
「そうなんです。璃音の部活動を見学させてもらって、その後駅前を案内してもらったんです」
「そうだったんだ。それで今日はバンドの練習を見るって感じか」
「はい。風見君もどうですか?」
「え、俺も? う、うん。行けるけど」
「では一緒に行きましょう!」
「う、うん」
あまりのテンポの良さに慧は状況を把握しきれずに返事をした。それと言うのも、もしかしたら誘われないかなぁ。と心のどこかで淡い願いを抱いていたところに、本当に誘いが来たので、それが現実なのか虚構なのか一瞬で区別することが出来ず、上の空で返事をしてしまったのであった。そしてその誘いが現実だと認識出来る頃にはホームルーム開始のチャイムが鳴っており、結局ちゃんとした返事が出来なかった慧は少しだけむず痒く思ったが、結果として誘われたのだからそこまで気に病む必要は無いと考え直し、その一考でホームルームを終えた。
……それから数時間にわたる退屈な授業乗り越え、短い昼休みを挟んだ後に残り数時間の授業を終えた生徒たちはようやく勉強から解放される。しかしその前に、帰りのホームルームが急く生徒たちの前に立ちはだかる。
「はい、みんなお疲れ様~。授業も本格的に始まって来て疲れてるとは思うけど、もう少し頑張ってね。今日は軽く連絡事項を伝えたら解散にするから」
内海は生徒たちの心労を和らげる術を心得ていた。内海の言葉はざわついていた生徒たちを忽ち鎮め、ホームルームはスムーズに開始された。
「じゃあ最後に、今配ったプリントの説明だけします。それは部活動の入部希望用紙になってます。提出期限は来週の金曜日までになってるので、忘れないように提出してください。出来れば帰宅部じゃなくて、どこかの部に所属してくれると嬉しいなって先生は思ってます。……と、それじゃあ連絡はこれでおしまいです。一週間お疲れ様でした。起立、気を付け、礼」
内海の号令でホームルームが締められると、生徒たちはぞろぞろと廊下に流れ出た。慧は少しの間廊下の人通りが減るのを待ち、それからようやく席を立った。するとそれに合わせて隣席の恵凛も立ち上がり、慧の方をチラリと見て、
「では、行きましょうか」
と言ったので、慧はうんと答えて頷き、二人は多少人通りの少なくなった廊下を進み、視聴覚室を目指した。
「今更だけど、雀野と合流しなくて良かったの?」
渡り廊下まで来た慧はふと疑問を口にした。
「はい。璃音は色々と準備があるそうで、先に向かうと言っていました」
「あっ、そっか。機材のセッティングとかもあるだろうしな」
「はい。練習と言えど、出来るだけ良いものを見せたい。と言っていたので楽しみです」
「そんなこと言ってたんだ。それは龍宮も朝から機嫌が良いわけだ」
「そ、そんなにご機嫌でしたかね?」
「うん。でも、別に悪い意味で言ってないからね。何事も、楽しそうに見てくれる人と一緒に見た方が楽しいしさ」
「ふふ、はい。そうですね」
和気あいあいとした雰囲気のまま、二人は実習棟に辿り着き、そして四階の突き当りにある視聴覚室に到着すると、慌ただしく出入りをしている数人の生徒を見つけた。
「まだ準備中なのかな」
「そうみたいですね……」
少し離れたところで様子見をしていると、程なくして視聴覚室の出入りに交じって璃音が飛び出してきた。
「あっ、璃音」
恵凛が声を上げると、二人の存在に気付いた璃音が歩み寄って来た。かと思うと、突然頭を下げた。
「ゴメン! あたしに急用が出来ちゃって、あたしたちのバンド一時間後にずらしてもらったんだ。ほんとにゴメン!」
「い、いえ、私たちは大丈夫ですよ。ここで待っていますから、お気をつけて行って来てください」
「うん、ほんとにゴメンね! すぐ戻るから!」
後ろ歩きをしながら手を振ると、璃音はすぐに振り返って廊下を駆けて行った。そして間もなく右へ曲がり、渡り廊下へと突入するとその背中は見えなくなった。
……それから待つこと一時間後。璃音は約束の時刻に戻って来なかった。バンドメンバーも軽音楽部員も皆諦めて続々と帰る中、慧と恵凛だけは璃音を信じて最終下校ギリギリまで彼女を待つことに決めた。




