第三十四話 割れない殻
「そんなこと言わないの。心配してる人もいるんだから」
ソファに腰掛けて間もなく、堤は幼子を宥めるような口調でそう言った。
「嘘。そんな人いるわけ無い」
「本当よ? 今日だって昼休みにわざわざここへ来たんだから」
「誰が?」
「うーんと、それはねぇ……。事情があって言えないの」
「ほら、嘘」
「全く、なんでそこまで卑屈になるのかしら。本当に来たのに」
「あっそ」
自分の名前を秘匿にしてくれた堤に心の中で感謝をしながらも、その心はすぐに伊武への気掛かりに変わっていた。伊武はいつもダウナーな調子が故に、今現在もただ怠いだけだと言われればそうなのかもしれないが、それにしても今日の声には活気が無いように慧には思われた。これをただ、彼女はダウナーな気質だから。と言う一言で纏めてしまってはいけないような気が慧にはしたのであった。しかしだからと言ってこの場で飛び出せるだけの勇気も無く、慧は引き続き息を潜めながら二人の様子を伺う。
「それで、今日は何時までここに居るつもり?」
「先生が帰るまで」
「また? うーん、だとしたらもう帰らないとね」
「なんで」
「今日はちょっと用事があるのよ」
「……そう。じゃあ帰る」
伊武は不機嫌そうに、或いは気だるげに短く言うとソファから立ち上がった。
「あ、ちょっと。今日も送るわよ?」
「いいです、別に」
言下に答えると、伊武はそれ以上何も言わず、何もせず、保健室を出て行ってしまった。
「あぁー、行っちゃった……。ってことで」
堤はそこで言葉を区切ると、徐にソファを離れた。そして微かな足音を立てながら自らのデスクへと向かい、そして身体を斜めにしてその裏側を覗き込み、しゃがんでいる慧を見下ろした。
「聞いてたでしょ、風見君。江波戸さんをよろしくね」
「えっ、は、はい?」
一瞬の出来事過ぎて何を頼まれたのかも分からなかったし、そもそも堤は最初からここに自分がいることを知っていて伊武と会話をしていたのかという所まで考えが追いついてくると、慧の心には羞恥心が芽生え始めてきた。しかし今はそんな感情に臆している暇はない。とにかく何か弁解しなければ。と考えた慧はひとまず立ち上がり、そして、
「すみませんでした!」
と、開口一番頭を下げた。
「盗み聞きするつもりは無かったんです。ただその、来た時に誰もいなくて、そこに突然誰かが来たから咄嗟に隠れちゃっただけなんです……!」
良心の呵責に追い立てられて罪を自供する犯人のように、慧は頭を下げたままやや早口で語った。すると間もなくクスクスと笑い声が聞こえ、ポンと慧の左肩が叩かれた。
「そんなことはどうでも良いのよ。保健室はみんなが来ていい場所なんだから。それより、江波戸さんのことが心配でここへ来たんでしょ?」
「は、はい。まぁそんなところです」
慧は頭を上げ、堤の笑みを見て少しホッとしながら言葉を返す。
「だったら今すぐあの子を追って、自分で聞き出すのよ。あの子が殻に閉じこもってる訳を」
「は、はい!」
常ならば面倒だと感じる場面であるはずが、何故か今は神仏に何かを説き聞かされたかのように慧は素直に答えた。そしてもう一礼して堤の横をすり抜けると、保健室を後にして下駄箱を目指した。
(流石にまだ帰ってないよな)
生徒用の下駄箱が並ぶ玄関に辿り着いた慧は、ひとまず下駄箱の陰に身を潜めて昇降口を見張った。するとその直後、学校鞄を背中に背負った伊武がそこを抜けていった。慧はそれを視認すると、自分も靴に履き替えてその後ろ姿を追った。
(話しかけるべきか……。それとも少し様子を見るべきか……?)
保健室での伊武の様子から想像する限り、彼女はきっと機嫌が悪いか、何か悩みがあることは確かである。と慧は推察していた。そしてそれを踏まえ、慧は今すぐに話しかけるべきか否かの二択で迷った。
(うーん、もしかしたらショッピングモールの一件で俺に会うのが気まずくて教室に来てないって可能性もあるのか? いやいや、それは流石に自意識過剰か……。てかそもそも何を話せば良いかも定まってないし、ここはどちらにせよ、一旦様子を見るか……)
その考えに落ち着いた慧は時折身を隠したり、スマホを弄ってみたり、とにかくドラマで見たことがあるような三流の尾行技術を用いて伊武の後ろを歩いた。するとその内に正門を抜け、駅に着き、星峰とは真逆の上りの電車に乗り、伊武は終点の安雲橋駅で降車した。
(こんなところまで来て何するんだ……。確かここら辺って、上手い飯屋が多いのと、後はゲーセンとかカラオケとかパチンコ屋が多いって聞いたことあるけど……。それとも、自宅の最寄り駅がここなのか?)
様子見をすると決めてから、話し掛ける勇気が湧かずにとうとう終点まで伊武の後を追って来てしまった慧は駅周辺に立ち並ぶビルの数々を眺めながら、小耳に挟んだことがある安雲橋駅の情報を思い出していた。するとその折、
【ちょっと、ご主人。何をぼうっとしているのですか!】
と、ラヴィの声が聞こえて来て、慧は我に返った。
「ん、なに?」
【彼女、どんどん遠くに行ってしまいますよ!】
「あ、ほんとだ。サンキュ」
ラヴィのおかげでギリギリ伊武を見失わずに済んだ慧は、デッキを歩く人々の隙間を小走りにすり抜け、階段を駆け下りて数分程伊武の後ろを進んでいると、突然伊武が左に曲がった。それをしかと見ていた慧はそそくさとその現場まで歩み寄ると、少し顔を上げ、そこに大手アミューズメント複合施設の看板を発見した。
「複合施設か……」
【どうしたのですか? 声色が暗いですが】
「あぁ、いや。探すのが面倒だなって」
【何故です?】
「このビル全部が遊び場みたいなもんなんだよ。ボウリングとかカラオケとかダーツとか、どの階に行っても遊べるからどこにいるか分からないんだ」
【なるほど。それは確かに面倒ですね】
「まぁ、ここまで来たら探すけどさ」
【そうですね。私も全力でサポート致します!】
「あぁ。江波戸を見かけたら教えてくれ。なるべく見回すようにするから」
慧はそれだけ伝えると、早速アミューズメント複合施設に踏み込んだ。
一階にはクレーンゲームやメダルゲームが大量に設置されており、その中心部には上りと下りのエスカレーターが並び、二階には少量のパチンコとスロット、それと対戦ゲームやレースゲーム、リズムゲームやカードゲームなどのアーケードゲームが大量に詰め込まれていた。どうやら一階と二階はセットでゲームセンターになっているらしい。そしてそれより更に上へ行くにはエレベーターで上がる仕様になっているようで、三階にはボウリングが、四階にはカラオケが、五階にはダーツがあると入り口付近の案内板に記されていた。
(意外と複雑な構造なんだな。それに、三階より上は会員カードが必要なのか……。俺は持って無いから、とりあえずは一階と二階を回ってみるか)
三階より上へ行くには条件があると知った以上、慧は一、二階だけを捜索する他無かった。しかしそれのおかげで慧の心はむしろ軽くなっていた。制限が無ければこのビルのほぼ全てを見て回らなくてはならないと思い込んでいたこともあり、一、二階に限定されたことは慧の気持ちを多少は前向きにさせてくれた。そんな珍しいポジティブシンキングが途切れる前に、慧はクレーンゲームコーナーに進み入った。
自分も含め、学校帰りにここへ立ち寄っている生徒もいるようで、種々様々な制服がクレーンゲーム前に群がっていた。慧はその群がりを、ゲームの内容物を吟味するように目を凝らしながら、それでいて不自然に思われないように見て回った。しかし伊武の姿はどこにも無かった。それどころか、数人でがやがやと騒ぎ立ててゲームをプレイしている客ばかりで、黙々とソロプレイに徹している客は一人もいなかった。
【ここにはいないようですね】
「お前もそう言うなら間違いないな」
タイミング良くラヴィの助言もあったところで、慧はクレーンゲームコーナーを離れた。
次いで慧はメダルゲームコーナーに来た。ここにも学生がいるにはいたが、どちらかと言うと成人した男女が多いように思えた。慧はそこをなるべく目立たないようにこそこそと進みながら、天方中央高校の制服を着ているはずの伊武を探した。
……しかし、ここにも伊武の姿は無かった。となると後は二階を探すしかない。慧は目当てのゲームが空いていなかったような素振りをしながらエスカレーターまで辿り着くと、それに乗って二階へ向かい、早速アーケードゲームコーナーに立ち入ったその時、奥の方で台を叩く大きな音が聞こえて来た。
「なんだ?」
嫌な予感がした慧はそう呟くと共に早足で音がした方へ向かった。すると、対戦ゲームが数台並んでいるところに男性店員が数名と、野次馬が数名集まっていた。
「おい、ふざけんな!」
「ちょっと君たち、落ち着いて!」
「なんで俺らなんだよ! どかねぇ方が悪いだろ!」
「分かったから、一旦落ち着いて!」
数人の店員と学生が言い争いをしていると、その群れからひょいと一人抜け出す影があった。少し遠くから見ていた慧はその姿をしっかりと捉え、
「え、江波戸?」
と、呟いた。すると間もなくして、
「おい待て女! まだ終わってねぇぞ!」
制服を着崩している男子高生が荒々しく叫ぶが、勿論伊武が立ち止まることは無い。
「まぁまぁ落ち着いて! 相手は女の子一人なんだから!」
「ちっ、分かったよ。分かったから離せよ」
伊武が逃げ出したことで怒りの矛先を失った数人の男子生徒たちは渋々諦めたようであった。慧は瞬く間に収束した事件を見届けると、ふと我に返って伊武のことを思い出した。
【ご主人! 早く追いましょう!】
「わ、分かってるよ!」
ラヴィにも催促された慧は踵を返し、今来た道をそっくりそのまま引き返してエスカレーターで一階に下ると、走って施設から出た。そして左右を交互に見回し、伊武の姿を探した。
【今、今いましたよ!】
「どっち!」
【今向いている方です!】
そう言われるがまま、慧は駅とは反対方向に向かって走り出し、まばらにある人通りを避けながら進むと、やがて伊武の後ろ姿が慧にも捉えることが出来た。しかし彼女が走る先を一瞥すると、信号が明滅していた。このままでは信号に行く手を阻まれるか、最悪伊武が事故に巻き込まれる可能性もある。瞬時にそう判断した慧は迷う間もなく叫んだ。
「江波戸!」
するとその声に伊武は立ち止まった。その直後、信号は赤に変わった。
「はぁはぁ、良かった。止まってくれて」
こちらを怪訝そうに見つめている伊武に歩み寄りながら、慧は無理矢理微笑んで見せた。
「何でいるの」
乱れている呼吸を努めて押し殺しながら、伊武はいつもの気だるげな調子で言った。
「た、たまたま、用事があって駅前を歩いてたら、ゲーセンから出て来る江波戸が見えてさ……」
そう答えて伊武の表情を伺うと、彼女は明らかに目を細めて慧を疑っているようであった。これは流石に苦しい嘘か……? と怖気づいた慧は言葉を付けたすことにした。
「こ、この前のこともあったから、心配で!」
「……あっそ」
言葉を選んでいる暇も無く、慧はとりあえず浮かんだ言葉を発した。すると案外伊武も興奮しているらしく、素直にその言葉を受け取ってくれた。
「とりあえず、自販機でなんか買おう」
話し掛けてしまった以上、もう後には退けないと覚悟を決めた慧は給水を口実に伊武を誘い、車と人が行き交う駅前の道から離れて裏道にある自販機へ向かった。そしてそこで慧はスポーツドリンクを二本購入し、片方を伊武に手渡した。
「はい。これ」
「ありがと」
自販機の横にある腰の高さほどの石塀に座っている伊武は、飲む前にチラリと慧の顔を見て、それからスポーツドリンクを何口か飲んだ。慧は沈黙とその視線が小恥ずかしく、少しだけ身体の向きを伊武から逸らした後に喉を潤した。
【どう切り出そうか悩んでいるのですか?】
話し出せないままペットボトルの中身が空になりそうになった時、ラヴィの救いの手が差し伸べられた。それに対し慧は喉を鳴らすフリをしながら「うんうん」と答えた。
【私が思うに、直球で聞いていいと思いますよ。先ほどのご主人の発言で、江波戸さんはきっと気付いているはずですからね。保健室に来た人物の正体に】
そう言われて先ほどの発言を思い出した慧は、確かに自分が「心配」と言う単語を発していたことに気付き少しだけむせた。なんてやり取りをコソコソしていると、伊武が立ち上がった。このままでは帰ってしまうと焦った慧は慌ててそれを引き留めた。
「ちょ、ちょっと待って! 聞きたいことがあるんだ……」
コンマ数秒間伊武を見据えて目力でも訴えていると、彼女は小さくため息をついて再び腰を下ろした。良かった。慧はホッとしながらも話を始めた。
「あのさ、何で最近学校に来ないんだ?」
「……関係ないでしょ」
「いや、そんなことない。もしかしたら、こないだの星峰でのことが関係してるのかなって思ったから、俺は呼び止めたんだ」
「それは……」
何か言いたげに口を開いた伊武だったが、その後に言葉はついて来ない。そして、
「単純に行きたくないだけ」
と言い放って立ち上がろうとした。それが何だか腑に落ちなかった慧は一歩前に出て進路を塞いだ。
「無理に聞き出すみたいなことはしたくないけどさ、心配なんだ。今日だってなんか揉めてたし――」
自分がゲーセンにいたことを裏付けてしまう失言に気付いた慧はそこで話すのを止め、伊武を見た。すると彼女は身を震わせて石塀に座っていた。その姿を見た慧は自らの失言を隠そうという気持ちを優に越え、一瞬にして伊武への心配の気持ちが勝った。
「あっ、ごめん……」
ショッピングモールの時と似た怯え方だ……。と心の内で思いながら、慧は先ほどいた位置まで戻って謝りを入れた。しかし伊武はそれに反応を示すことは無く、静かに立ち上がるとそのまま大通りの方へ走り去ってしまった。慧はそんな伊武の背中を目で追いながら、今の自分に彼女を追う資格は無い。と自省するのであった。




