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第三十一話 振り出しへ

 昨日まで作戦に前向きだった恵凛が突然ネガティブになったという小さな変化が気になり、慧は休み時間を利用して隣のクラスに赴いた。するとその姿が目に入ったのか、璃音が教室後方のドアまで歩いて来た。


「どしたの、風見?」

「あ、丁度雀野を呼ぼうと思ってたんだよ」

「あたしを?」

「うん。龍宮のことで聞きたいことがあって」

「恵凛の? ま、あたしに答えられる範囲でなら答えるけど」

「ありがと。えっとじゃあ、土曜日の買い物が終わった後なんだけど、龍宮と連絡取ったりした?」

「うん。連絡と言うか、昨日も会ってたよ」

「あ、そうだったんだ。そこでなんか言ってたりした?」

「えっとね、昨日は恵凛に呼ばれて……」


 ……時は遡り日曜日。慧が一人気ままな休日を過ごしている一方で、恵凛は璃音と連絡を取り、駅前のカフェで合流しようとしていた


「ごめん~。お待たせ!」


 線路沿いの道を駆けて来た璃音はカフェの前で待っていた恵凛を見つけると、謝りながら近寄って来た。


「いえ、私もつい先ほど来たばかりなので」

「そっか、なら良かった。それじゃ、入ろっか」

「はい」


 メッセージをやり取りする中で、連日星峰を案内させてしまうのは金銭的にも疲労度的にも出過ぎた真似だと思った恵凛がこのカフェを選んだのであった。勿論璃音がこの思慮を知る由も無く、二人はこの、つい最近出来た古屋根駅前のカフェに入店し、窓際の席に腰を下ろした。


「実はここ、あたしも初めて来るんだよね……」


 席に着いた璃音はメニューを衝立代わりに口元を隠すと、少し前のめりになって店員に聞こえないよう小さくそう言った。


「そ、そうだったのですか……。すみません」

「別に謝ることじゃないよ! あたしも来てみたかったし」


 今度は快活に答えると、璃音は自らの手元に広げた数ページしかないメニューに視線を落とした。

 数分の吟味の後、恵凛はブレンドコーヒーを、璃音はレモンスカッシュを頼んだ。すると程無くして、渋い口ひげを生やした四十代半ばの男性の手によってコーヒーカップとグラスが運ばれた。


「ごゆっくり」


 男はギリギリ聞き取れる声で言うとカウンターへ引き返し、グラス磨きの作業に戻った。店内には恵凛たちの他に一組の客がいるのみで、それほど忙しくないようである。その事実は静寂に直結しており、店内に流れるジャズ風の音楽のみが恵凛と璃音の耳に届いた。


「それで、今日はどうしたの?」


 二、三口レモンスカッシュを飲んだ璃音が思い出したように言った。


「特に用事があるというわけでも無く、ただその、璃音とお話がしたくて……」

「なにそれ。それだったら、あたしだってもっと恵凛と喋りたいし!」

「ふふ、良かった。嬉しいです」


 潤滑油とまではいかないが、慧がいなくて少し探り探りだった二人は互いに微笑みを浮かべて心のドアをノックし合った。


「昨日さ、二人でカフェに行けたら良いね~。みたいな話したけど、まさかこんなに早く叶うとは思わなかったよ」

「すみません。私が待ち切れなくて誘っちゃいました」

「そっか、待ち切れなかったか……。恵凛って、奥手のように見えて実は結構グイグイ積極的に来るよね」

「そ、そうですかね? すみません」

「ううん、良いの良いの。気にしないで」


 璃音はそう言って無邪気な笑顔を見せる。するとそれに釣られて恵凛も笑顔を浮かべる。こんな調子で他愛の無い会話が数分続いていた折、恵凛がコーヒーを飲みながら不思議そうな瞳で自分を見つめていることに気付いた璃音は、対面にいる相手の顔を覗き込み、


「ん? どうしたの?」


 と、微かに揺り動かしていた身体を止めて言った。


「あっ、いえ、ずっとゆらゆらとしていたので、もしかしたら他に用事があったのかと思って」

「あぁ~、ごめんね。これ癖なんだ。直そうとは思ってるんだけど、音楽が聞こえるとどうしてもそのリズムに乗っちゃうって言うか」

「そうだったのですね」

「気になるよね?」

「いえ、確かに先ほどまでは気になりましたが、理由を知れば少しも気になりませんよ」

「ほんとに? えへへ、良かった。でも、揺れてたら言ってね。あたしは少し気にしてるんだからね」

「ふふ、分かりました。そうします」

「うん! じゃあさ、恵凛は何か自分の気にしてる所って無いの?」

「えっと、そうですね……」


 ここで恵凛の言葉は止まった。璃音は自分に打ち明けてくれたのに、自分は悩みを打ち明けられない。恵凛はなりげなく呼吸を整えて続きを話そうと試みるのだが、どうしてもネガティブな未来ばかりが脳内を占め、とうとう答えるタイミングを逸し、璃音が会話を継いだ。


「ごめんごめん。なんか軽いノリで聞いちゃったけど、無理に言わなくて良いからね! それに、最低限あたしから見た感じ、悪目立ちしてる所なんて無いし!」


 何かを察してそう言ったのか、はたまた本当に恵凛に悩みが無いように見えて話を切り上げたのか定かでは無いが、とにかく璃音は底抜けの明るさを以てそう言うと、話題はそこで途切れ、その日は解散となった。と言うのも、璃音のスマホに再三親からの連絡が入っており、痺れを切らした璃音が申し訳なさそうに解散を申し出たからであった……。


 ……事のあらましを璃音が話し終えると丁度チャイムが鳴った。


「って感じだったかな。……もしかして、あたしが親の呼び出しで早めに帰っちゃったから、それを気にしてるのかな。それかあたしの言い方が悪かったとか?」

「うーん、どうだろ。考えて正解が出るとも思えないけど……。とりあえずチャイムも鳴ったし、そろそろ教室戻るよ。聞かせてくれてありがとう」

「うん。あたしも後で会いに行くね」


 そう言う璃音に礼を述べて別れると、慧は自分の教室に戻り、自らの席に着いた。


(さっきの話を聞く限り、どこが悪いってのも無かったけどな……。強いて言うなら雀野の語調が強かったとか、言葉選びが悪かったとかか? いやでも、龍宮がそんなことに引っ掛かるとも思えない。って思うのも、俺の中の龍宮のイメージが先行してるだけか……)


 いくら思考を改めてみても同じ場所を堂々巡りしているような気がして来て、慧はため息をつくと共に一度考えることを止めた。しかしだからと言って授業に集中できるわけでも無く、慧はこのしこりを解消すべく再び解決策を練った。その結果、先ほど聞いた話も璃音のフィルターがかかっているかもしれないし、そもそも片側の意見だけを聞いて解決するような事件があろう訳も無いので、ひとまずは恵凛の話も聞き、その上で決断を下しても遅くは無いという所に行き着いた。

 なんてことをぐるぐると考えている内に授業終了のチャイムが鳴った。一旦心を落ち着かせてから恵凛に声を掛けようと思っていた慧だが、クラスメイトたちの慌ただしい様子を見て次の授業が移動教室だったことを思い出し、とにかく恵凛を止めようとする一心で、心の準備がつくよりも前に席を立とうとする恵凛に声を掛けた。


「龍宮、ちょっといいかな?」


 声を掛けられた恵凛は綺麗な黒髪をなびかせて慧の方を向いた。


「はい。何でしょうか?」


 少し驚いたようでいて、しかし嬉しそうに恵凛は聞き返した。


(やばいな。なんて聞けばいいんだ。ストレートに、さっき雀野から聞いたんだけどってのは、なんかプライベートを土足で歩いてるような気がして……って、この気遣いが良くないのか? いやでも、ここはそれとなく昨日の話を龍宮に誘発させた方が良いよな。うん。そうしよう)

「風見君?」


 思ったよりも長く考え込んでいたようで、つい先ほどまで嬉しそうな笑みを浮かべていた恵凛は眉をハの字にして不安そうに慧を見つめていた。


「と、とりあえず、音楽室に向かいながら話そうか」

「はい。そうですね」


 二人は互いにどぎまぎと教科書を取り揃えると、ほとんど同じタイミングで重ねた教科書を手に取って立ち上がった。


「えっと、じゃあ、行こうか」

「は、はい」


 慧がどう切り出そうか迷っている間に二人は廊下へ出た。しかし音楽室までという制限を設けられている都合上、慧にはもう迷っている余裕など無いのであった。


「それで、さっきの続きなんだけど」

「は、はい! 何でしょうか」


 とりあえず話し出した慧に対し、恵凛は身構えるような強張った様子で答えた。


「今朝の様子が少し気になってさ。その、越えられない壁がって話なんだけど」

「そ、そのことですか……」

「話しづらかったら全然大丈夫なんだけど、一昨日は雀野と仲良くしてるように見えたからさ。もしかして雀野と何かあったのかなって。ごめん。こんな邪推しちゃって」


 慧はなるべく腰を低く低く努めてそう言ったが、言い終えたところで、あれ、これが龍宮の言ってた越えられない壁なんじゃないか? と思い、冷や汗をかいた。しかし今更どうしようも無いので、慧は恵凛の言葉を待った。


「……実は昨日。璃音とお茶をしたのですが」


 と、恵凛は徐に話を始め、そのまま璃音とほとんど同じ道筋の話を聞かせてくれた。


「……と言うことがあって、璃音に迷惑をかけてしまったのかと心配で」


 やはり用事がある璃音を引き留めてしまっていたかもしれないということに負い目を感じていたのか……。と、慧が納得のいかない理由を飲み込もうとしたその時、恵凛がポツリと言葉を続けた。


「それと」

「そ、それと?」


 もうほとんど諦めかけていたところに希望の接ぎ穂が現れたので、慧は期待の眼差しを恵凛の横顔に向けた。するとそのタイミングで恵凛も顔を上げ、慧の方をチラリと見た。そして意を決し、小さく開いた口が短く息を吸ったかと思うと、


「……ごめんなさい」


 という一言だけが零れた。


「い、いや、大丈夫だよ。こっちこそごめん」


 期待せずにはいられない一言から始まった反動か、慧は思いの外気落ちした声音で返事をしてしまった。その過ちにはすぐに気付きはしたのだが、それは後の祭りであった。恵凛は溢れそうな感情を押し殺して小さく頭を下げると、教科書を胸に抱えて早足に音楽室へ駆け込んでしまった。


(なに焦ってんだ俺は。話しづらかったら大丈夫って前置きしたのは俺なのに……)


 消えた恵凛の背中を幻視しながら心の中で自責するものの、それが直接的な解決に繋がる訳でも無く、慧は小さくため息をついた。


(最悪この四者お見合い状態が続くとも考えられるし、いつまでも受け身ではいられないよな……。となるとやっぱり、俺から心を開くしかないのか……?)


 正解の無い問題に四苦八苦した結果、慧は結局目を背け続けていた壁に行き着いた。


(そりゃ進むのを怖がって足踏みしてるだけじゃダメだって分かってるけど、成功が約束されてるわけじゃないのに、この壁に挑む必要があるのか? そもそもこの壁の先に何がある? 確かに龍宮の願いは叶えてあげたいけど、俺が嫌われるかもしれない危険を冒してまで進むべき道なのか?)


 逃げたい自分と立ち向かいたい自分との争いが慧の心内で絶えず行われ、考えれば考えるほど慧はドツボにハマって行く。するとそこへ――


「おい慧。そんなところで何やってんだ」


 と、背後から声がかかった。


「うおっ」


 自らの思考に浸っていた慧は突然掛かった声に驚き、出したくも無い声を本能のままに発した。そんな羞恥を抱きながら振り向くと、そこには友宏が立っていた。


「何突っ立ってんだよ。音楽嫌いなのか?」

「いや、そう言うわけじゃないけど」

「なら早く入ろうぜ。もう授業始まるぞ」

「うん。もう行くよ」

「おう、いこーぜー。……あっ、そうだ」


 いつの間にか慧よりも先に進んでいた友宏は、音楽室のドアに手を掛けたままの状態で首だけを回し、慧の方を振り向いた。


「今日一緒に昼飯食おうぜ。お前の背中が何かを語りたそうにしてたからな」

「え?」

「なーんてな! 単純に今日は一緒に食う奴がいねーんだ」


 友宏は明朗に笑い飛ばしながら言うと先に音楽室へ入って行った。慧はそんな友宏の背中を追いながら、微かな希望をそこに見出すのであった。

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