第二十九話 ちょっとした糸口
「追ってた来た奴ら、引き返したみたいだぞ」
周囲の声にかき消されないように、しかしそれでいて至って優しい声音で慧は声を掛けた。するとその数秒後、伊武の震えは止まったようであった。とりあえずこのまま壁ドンをしているのが辛かった慧は緩んだ伊武の手から逃れると、両腕をそっと引いた。そして適度に伊武を気遣う言葉を掛けながら、二人は近くのレストエリアに向かい、そこにあるソファに腰かけた。
「大丈夫か? 気分が悪いようなら水かお茶買って来るけど」
「……平気」
「そっか、分かった」
とても気まずい空気が漂っていたが、憔悴している伊武を独り残して去ることも出来ず、慧は一人分の余地を空けて伊武の隣に座った。
「……ありがと」
いくらか時間が流れ、そろそろ上の二人も心配し始めているかもしれないと慧が考え始めた折、右隣からポツリと声が聞こえた。聞き逃してもおかしくないほど一瞬でか細い声だったが、慧は何とか偶然にその言葉を拾い上げた。
「いや、たまたま見えたからさ。それに、あんな人混みを全力で走るなんて、ただ事じゃなさそうだったし」
「……駅前でちょっとトラブっただけ」
「そっか、まぁ、何も無くて良かったよ」
で、良いんだよな? と、自らの発言に疑問を抱きながら慧は伊武の方をチラリと見たが、伊武はレストエリアに来た時と同様、両肘を両膝に着き、深く項垂れたままであった。どうやら慧の発言が気に障ることは無かったようであったが、とは言え、元気がないことには変わりが無かった。
「もしあれだったら、途中まで送ろうか?」
「……いい。あなた、誰か待たせてるんでしょ。戻りなよ」
「え、いや、うん……」
こんな状況でも自分の全てが見透かされているような気がした慧は、言い訳や嘘をつくことも無く、素直に頷いて答えた。
「……じゃあ、私、バイトあるから」
数秒後、俄かに立ち上がった伊武はそう言うと、さっさと歩き始めた。身構えていなかった慧は突然のことに驚きながらも伊武を止めようと立ち上がると、それを察知したのか、伊武は慧が声を掛けるよりも前に立ち止まって振り向いた。
「お礼は今度する」
伊武はそれだけ言うと、再び踵を返して人混みに消えて行った。
【行ってしまいましたね……】
「え、うん」
伊武がいなくなってからも尚、消えて行った人混みの手前に彼女の背中を見ていたような気がした慧だが、ラヴィの声でその幻想はかき消された。
【お二人も待っているでしょうし、そろそろ戻りましょうか】
「そうだな」
【江波戸氏のことが気になりますか?】
「まぁ、そりゃな。でも、考えてどうにかなる問題ってわけでも無いし、今は二人の所に戻るよ」
そうは言っても簡単に切り替えられる訳もなく、頭の中では伊武のことを考えながら四階へ向かった。
二つのエスカレーターを早足で上がり、慧は四階に到着した。二人を探すために周囲を見回してみたものの、沢山の人で溢れ返っていて、この場から動かずに二人を探しあてるというのは困難であった。それにしても凄い人混みだ。と思うのも当然で、四階はエスカレーターで上がって来るとすぐにフードコートが待ち構えているのであった。エスカレーターを囲むように飲食エリアが広く設けられており、そしてその飲食エリアを囲むように飲食店の受付カウンターが壁に沿って設置されているのであった。受付カウンターは丁度「コ」の字を逆にしたような形でエスカレーターと飲食エリアを囲っており、店が連なっていない面は普通にショッピングモールとしての機能を取り戻し、飲食以外の様々な店が奥まで続いていた。
(ここに来る前の話なら、二人はフードコート内にいるはずだよな)
そう考えた慧がショッピングモールの奥へと続く道から視線を外し、フードコート内を歩き始めようとしたその時、
「風見!」
と、璃音の声が聞こえた。慧は瞬時に声がした方を向いて二人の姿を探したが、それらしい姿を捉えることは出来なかった。
(今確かに声が聞こえたんだけどな……。人が多くて聞こえた方向を間違えたのか?)
その場に立ち尽くしながら考え込んでいると、右手をパチンと叩かれた。誰かにぶつかったのかと慌ててそちらに向き直ると、そこには呆れ顔の璃音と、微笑んでいる恵凛が座っていた。
「目の前にいるのに見つけられないってマジ?」
「あ、あれ。えっと……。ごめん。もっと奥にいると勝手に思ってて……」
「あんたのためにわざわざエスカレーターの近場で待ってたのに、これじゃ台無しよ」
「悪かったって」
「あたしじゃ無くて、恵凛に言って」
「え?」
「恵凛が提案したのよ」
「そ、そうだったんだ。ごめん、龍宮」
「いえ、良いんです。見ていて面白かったので」
そう言う恵凛は満面の笑みであり、漏れそうな笑い声を耐えている様子は、どこからどう見ても怒っている様には見えなかったので慧は安心した。
「なに、あたしの時と全然態度違うじゃん」
「え、いや、まぁ、それは……」
「はいはい。分かってますよ~。それより早くご飯食べよ、お腹減った」
「お、おう。そうだな」
「ここにあるお店は恵凛に教えておいたから。あと、あたしたちは今日うどんにしようと思ってるんだけど、風見はどうする?」
「じゃあ俺もうどんにしようかな」
「オッケー。じゃ、買いに行こっか」
そう言って立ち上がる璃音に慧と恵凛は各々賛同の言葉で答えると、三人はうどんのみを扱っている専門店の受付カウンターまで移動した。
「あたしは釜玉うどんにしようかな」
「じゃあ俺も」
「私も同じものにします」
「あんたら、冒険心ってもんが無いのね……。まぁ良いわ、並ぼ」
璃音、恵凛、慧の順番で盆を手に取ると、そのままカウンターの流れに従い、注文をして、うどんを受け取り、好きな天ぷらやら惣菜やらトッピングを盆に乗せ、会計に移る。滞り無く注文から会計を済ませた三人はそれぞれが選りすぐったうどんを手に、なるべく近場の席を探してそこに着いた。
「タイミングよく席が空いてよかった~」
「はい。もしかしたら、風見君が忘れ物をしてくれたおかげで、良い感じに時間帯がズレたのかもしれませんね」
「そ、そうだったら嬉しいかな、なんて。ははは」
「恵凛。あんた意外とチクッと刺すようなこと言うのね」
「はい? あっ、すみません。忘れ物をしたおかげだなんて失礼でしたよね……」
いや、そっちじゃ無くて……。と、慧も璃音も心の中で似たようなことを思ったが、二人がそれを口に出すことは無く、話頭は転じられた。
「そういえば、忘れ物は見つかったの?」
「うん。大したものじゃ無かったから盗まれもしなかったみたい」
「そう、なら良かった。それじゃ食べよっか」
三人は手を合わせ、いただきます。と挨拶をすると、各々割り箸を割って食事を始めた。
「……ん、美味しい」
初めてチェーン店のうどんを口にした恵凛は思わず感動の声を漏らした。
「美味しいっしょ。あたしもこの店のうどん好きなんだ」
「はい。麺がつるつる入って来て、食感はもちもちで、とても美味しいです」
「麺つゆも美味しいんだよね~」
「はい! 天ぷらも美味しいです!」
一口飲み込む毎に味の感想を言い合っている女子二人を見て、慧は一人だけ場違いのような気がしないでも無かったが、そんな二人と一緒に食事をしているだけで、もうずいぶん前から知っているこのうどんの味も今日だけは新鮮に感じられて、いつの間にか慧は完食していた。
「風見はやっ」
「ふふ、お腹が空いていたんですね」
「あ、ごめん。なんか今日のはいつもより美味しく感じてさ。じゃなくて、俺のことは気にせず、ゆっくり食べてて良いから」
「あったり前でしょ」
「少しだけ待っていてくださいね」
「うん。……あ、そしたら、先に食器を片付けて来ようかな」
食事をしている二人のことをじっと眺めているのも失礼な気がしたので、慧はそう言って席を立った。
「また一人でどっか行った」
片付けに立った慧の背中を見送りつつ、璃音はうどんを啜った。そして咀嚼中に何かに気付いたような表情を浮かべると、それを飲み込んで言葉を続ける。
「あいつ、もしかしてあたしたちに何か隠してるんじゃない?」
「へぇ? そ、そう、ですかね?」
慧と密かに練っている作戦がバレたのかと思った恵凛は、平静を繕おうとしてむしろ声が裏返った。
「だってさ、さっきの聞いたでしょ? 忘れ物、大したものじゃ無かったから平気だったって。それって何よって話じゃない?」
「た、確かに。そうですね……」
「朝から様子おかしかったし、なんかあると思うんだよね~」
璃音は思案気にそう言うと、再びうどんを啜った。
「そ、そう言えば、先ほどのお話、途中でしたよね」
どうにかして話を逸らしたかった恵凛は、うどんを飲み込んでそう切り返した。
「さっき? あぁ、風見を待ってるときにしてた話ね」
「はい、そうです。私、もっと璃音のこと知りたいです」
「あたしは全然いいけど、聞いてて面白いかなぁ」
「はい。面白いです! それに、何か恩返しをしたくて。と言うよりは、何が恩返しになるか知りたくて」
「分かった。じゃあ続きを話してあげる」
同性をも悩殺する恵凛の上目遣いに負けた璃音は、笑顔でそう答えると残りのうどんを啜って話を始めた。
「うちは五人家族だって所まではしたんだっけ?」
「はい。ご両親と、弟さんがお二人ですよね」
「そうそう。で、親は共働きでいつも帰りが遅いから、あたしがご飯作ったり洗濯物やったりしてるの」
「偉いですね、璃音は」
「まぁね。でも、あたしは家族が大好きだし、今の生活も好きだよ。そりゃ不便なこともあるけどね」
「不便?」
「うん。たまーにだけど、自分の時間が欲しいなぁって時にも、弟の面倒見なきゃいけなくなったりとか、家事しなきゃいけなかったりとかがあってね」
璃音はそう言うと、ため息のような一呼吸を置いた。するとそのタイミングで恵凛と目が合ったので、すぐに笑顔を作って見せた。
「私、いつでもお手伝いしますから! 何でも言ってください!」
自分に気を遣って作られた笑顔だと察知した恵凛は、考える間もなく、心の赴くままに口を動かしていた。璃音はその語気に少し驚いた様子を見せたが、先ほどよりは柔らかい自然な笑みを浮かべ、「うん。困った時は頼らせてもらうね」と答えた。それに対して恵凛は照れ隠し兼、璃音と距離が縮まった嬉しさから、笑顔を浮かべた。するとそのタイミングで、慧が呑気に戻って来た。
「あ、戻って来た」
「意外とまだ人が多くてさ、食器を落とさないように慎重に運んでたら遅くなっちゃった」
「ふーん、そう。じゃ、丁度あたしたちも食べ終わったし、風見にはまた運んでもらおうかな」
「え、俺が?」
「当たり前でしょ。荷物持ちするって言ったんだから」
「これも含まれるのかよ……」
「ふふ、私のは大丈夫ですので、璃音のを運んであげてください」
「恵凛も運んでもらえば良いのに」
「いえ、私は御勉強も兼ねて、自分で返却してみたいのです」
「そっか。それじゃ一緒に行こ。あたしが教えたげる!」
二人は次の行動を決めると素早く立ち上がり、話を続けながら歩き出した。残された慧は命令通り璃音の盆を手に持つと、再び返却口を目指して二人の背中を追った。
食器を返却した後、恵凛が、本屋があるなら少しだけ寄りたい。と言ったので、三人はそのまま四階を一回りすることにした。ついでに四階には楽器店もあるらしく、璃音がそこにも寄りたいと言ったので、本日の功労に対する感謝として、慧と恵凛はその申し入れを快く聞き入れた。
慧は長丁場を予想していたが、二人の買い物は実に短いものであった。本屋では恵凛が小説と新刊のコーナーをチラリと見ただけで、楽器店では恵凛が数個のギターを試し弾きしたのみで、合わせて一時間にも満たずして三人はレストエリアのソファに腰を下ろしていた。
「二人とも、本当に少ししか見なかったけどアレで良かったの?」
「はい。本格的に見始めてしまうと切りがないので……」
「あたしも。今日は恵凛を案内するために来たわけだし、もう少ししたら帰らなきゃだし」
璃音にそう言われてスマホを起動した慧は、既に午後の三時を迎えようとしていることに気付いた。
「もうこんな時間か」
「うん。二人には悪いけど、あたし五時前後には帰らないといけないからさ」
「お気になさらないでください。今日一日私たちの案内でお疲れでしょうし、そのくらいには帰宅しましょう」
「だな。今日はありがとな、雀野」
「別に、あんたの為じゃ無いし。じゃ、次は三階をザッと見て、その後は二階を一回りして帰ろ」
「はい」
「あぁ、そうしようか」
レストエリアを離れた三人は、まず三階へ下った。璃音の前情報通り、確かに三階の店は慧たちが目を凝らしてみるような商品を扱っている店は少なかった。つまり長居をする理由も無く、本当に風のように店前を流れて行くのみで三階の案内は終わった。
次いで二階。このフロアでは女子二人が何店舗か洋服店を見て回り、一時間と少しを掛けてフロアを一周した。商品の購入までは至らなかったものの、やはり女子はオシャレが好きなようで、疲れているだろうにも関わらず、二人は始終高めのテンションを維持していた。
「とまぁ、星峰のショッピングモールはこんな感じね」
流石に疲れが伺える顔色と声音で璃音は言う。慧と恵凛は心からの感謝を述べ、三人は四時前後にショッピングモールを出た。
六時間に亘るウィンドウショッピングを終えた帰路は沈黙が多くなった。それは慧たちだけでなく、駅構内を歩いている人々にも共通していた。昼間と比べたら全てが控えめになった駅を行き、改札を抜け、電車を待ち、買い物帰りの乗客に紛れて数駅揺られ、三人は古屋根駅に帰って来た。
「はぁー、今日は楽しかった!」
「はい、私もです!」
「恵凛が楽しめたみたいで良かった! また行こうね」
「はい。勿論です!」
「うん。それじゃ、あたしは家の用事があるから帰るね」
最後の元気を振り絞るような調子で二人に別れを告げた璃音は、数メートル後ろ歩きで手を振ると、その後は振り返らず、線路に沿った道を真っすぐ歩いた。慧と恵凛は少しの間その背中を見送り、信号が青になったタイミングで自分たちの帰路へ就いた。
「疲れたけど楽しかったなー」
「はい。とても楽しかったです」
「大した情報は集まらなかったけど、二人が楽しそうだったから良かったよ」
「あっ、そのことなのですが……」
そう言って恵凛は少し悩んだ様子を見せたが、数秒の沈黙の後に話し始めた。それと言うのは慧が食器を返却しに席を立った時に得た、璃音の家族情報と、家庭事情の話であった。
「そっか、それで今日も早く……。雀野、大変そうだな」
「はい。私、璃音のお手伝いをしたいです」
「今日の案内のお礼に……」
そこまで言って慧は閃いた。
(そう言えば、今日江波戸を助けた後、いつかお礼をするって言ってたよな。上手いこと雀野のことを一緒に助けてやれば、仲直り出来るんじゃないか?)
瞬時にそれを考え付いた慧は、我ながら良い案かもしれないと思いながら恵凛にそのことを伝えようとしたのだが、そもそも今日伊武に会ったことは自分だけの秘密だったとギリギリのところで気付き、何とか思い留まって返答を続けた。
「いつでも雀野の助けになれたらいいね」
「はい。そのためにも、もっと信頼してもらわないといけませんね」
「見てる感じ、二人はもう結構仲が良いように見えるけどね」
「いえ、まだまだです。私ももっと頑張らないと」
「それを言ったら、俺はもっともっと頑張らないとな」
「ふふ、二人で頑張りましょう」
慧と恵凛は疲れているはずの両足を軽やかに進めながら、その後も他愛無い会話をしながら自宅を目指した。




