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第二十二話 勃発、体力バトル!

 保健室を出た慧は大きく深呼吸をした後、袋を開いてラヴィと眼鏡とイヤホンが入っていることを確認した。三点とも体育館履きに押しつぶされてはいたものの、傷一つ無く紛失もしていなかったので、慧はそこでまた深く呼吸をした。


(良かった。また先輩に何か見つかって取られでもしたら大変だ。特に今回は、二つともラヴィと同期してるし、一つでも失くしたら即バレ案件だ)


 慧は心の中でホッと一息つくと共にラヴィへの謝罪も済ませると、袋を閉じて階段を駆け上がった。そして廊下に誰も居なくなると、職員棟の昇降口からひょこりと伊武が姿を現した。


「アイツも遅刻組……? ま、別にいいや」


 廊下を抜ける風に吹き飛ばされてしまうような小声で呟くと、伊武は気だるそうに鞄を背負い直し、保健室に向かった。そしてドアノブに手を掛けようとしたその時、先にドアノブがガチャリと下に傾き、ドアが独りでに開いた。


「おっと、これは失礼」


 開いたドアの先には計測を終えていつも通りの白衣姿に戻った輝虎が立っていた。その姿を見るや否や、伊武はドアノブを捻るために伸ばしていた右手を素早く引き、すっとドアの左側に避けた。


「道まで譲ってもらってすまないね」


 輝虎はそう言いながら保健室を出て右手をひらりと挙げて伊武に簡易な挨拶をすると、そのまま自分の教室に向かって歩いて行った。


「……大丈夫、見られてない」


 伊武は先ほどよりも小さい声でそう呟く。その声は微かに震えていた。ほんの数秒で息を整えると、伊武は保健室のドアを開けて中に入った。

 その頃慧は体育館に戻って来ていた。ほとんど駆け足に近い早歩きで来たせいか、あからさまに息が上がっていた。慧は走って来たことがバレないように息を整えた後、体育館の下駄箱に踏み入った。


「おっ、慧。お前どこに行ってたんだよ」


 下駄箱には男子生徒が群がっていた。その中でも後列で無駄話をしていた友宏が慧の存在に気付き、話を中断して歩み寄って来た。


「これを保健室に忘れちゃって」


 慧は体育館履きの入った袋を軽く持ち上げながら答えた。


「そうだったのか。ま、いい時間つぶしになったんじゃね?」

「なんで?」

「まだ女子の体力測定が終わって無いんだよ。だからここにたむろってるわけ」


 やれやれ。と言いたげな表情で男の群れを見やった後、友宏は話を続ける。


「ちょっとトイレ行ってる間に後続の奴らが集まって来ちまってさ、もう十数分間くらいはこいつらの背中ばっかり見てるよ」


 溜め息交じりに語る友宏を見て、慧は何とも言えない愛想笑いで応対した。


「ったく、あと何分かかるんだ」

「えっと今は……。十一時半だよ」


 イライラしている友宏に対し、慧は冷静にスマホを取り出して時刻を確認してそう答えた。


「まだ二十分くらいあんのか……。ここにいるとアチーし、外の渡り廊下にいようぜ」

「確かに、そうするか」


 授業が終わるまでまだ時間があることを知った二人がその場を離れようと振り向くと、そこには上下長ジャージに身を包んだ伊武が立っていた。


「おう、江波戸。今登校したのか?」


 完全に目が合っていたのは慧だったが、咄嗟に何も言い出せず、結果、友宏が先に口を開いた。


「うん……。まだ体力測定やってるんでしょ?」

「え、お、おう。中で女子がやってるよ」

「じゃあどいて」


 短くハッキリ物申すと、伊武は真っすぐ二人に向かって歩いて来た。その圧に負けた慧と友宏がすかさず道を空けると、伊武は二人の間を抜けて下駄箱に入った。と同時に――


「ちょっとアンタたち! ジロジロ見てんじゃないわよ!」


 怒号が響いた。すると前方にたむろしていた男子たちがそろそろと道を空け、その割れた道の先には璃音が立っていた。そしてタイミング悪く、璃音と伊武がバッチリ正面から向かい合った。


「ぎ、銀髪女……!」

「あ……」


 あの一件以来奇跡的に顔を合わせていなかった二人は互いに思い思いの言葉を漏らした。


「やっと会えた。アンタ約束覚えてるわよね?」


 体育館の入り口で仁王立ちをしている璃音は伊武のことを指さししながら大仰にそう言った。しかし伊武がそれに応ずることは無く、璃音の横をクールに抜けて行った。


「ちょ、ちょっと。無視しないでよ!」


 璃音はそう言うと、下駄箱にいる男子たちをガン無視して体育館に戻って行った。


「なんだなんだ、面白いことになりそうだな!」


 つい先ほどまで驚きの余り微動だにもしていなかった友宏は、スイッチが入ったおもちゃのように急に騒ぎ始めた。そして呆けている慧の腕を取ると、未だ呆気に取られている男子たちの群れを易々と抜けて最前線に躍り出た。


「見ろ。六組の雀野、ずっと江波戸を追いかけてるぞ」


 友宏は言葉の一節一節に嬉々とした笑いを混ぜながら、慧のことを小突いた。


「そ、そうだな」


 あまり気乗りがしないというか、璃音と伊武を見ているだけで何が起きるのかハラハラしている慧は半ば放心状態で答えた。


(大丈夫だよな。何も起きないよな。それこそ殴り合いとか……。いや、男の喧嘩じゃ無いしそれはあり得ないか。でも雀野の性格を考えたら無いとも言い切れないか……?)


 と、慧が考え込んでいると、甲高いホイッスルの音が体育館内に響き、慧は現実に引き戻された。するとそれに次ぎ、一、二、三、四、と回数を数える声がまばらに聞こえて来たので慧が体育館内に視線を向けると、そこでは反復横跳びが行われていた。


「おいおい、雀野と江波戸。いい勝負してるぞ」


 横にいる友宏が興奮した様子でそう言うので、慧は友宏の視線を追って少し右側に視線を移すと、そこでは璃音と伊武がほとんど同じ速さで熾烈な争いを繰り広げていた。


「すげぇ、二人とも相当速いぞ」

「いや、雀野の方が少し速くないか?」

「いやいや、江波戸は長ジャージであの速さだぞ?」


 やましい気持ちで体育館に戻って来たはずの男子連中も、いつしか三十秒間の戦いに釘付けとなっていた。そして間もなくホイッスルの合図で測定が終了し、璃音と伊武はテープの貼ってある場所から離れて各々休憩を取った。


「はぁはぁ、やるわね……」

「だ、大丈夫?」


 腰に手を当てて呼吸を整えている璃音の元に、心配そうな声を出しながら恵凛が歩み寄った。


「大丈夫。ちょっと驚いただけ。まさかあの女があそこまで動けるとは思ってなかったから」


 割と運動に自信があった璃音は、数人の女子に囲まれている伊武のことをじっと見つめながらそう答えた。


「でも、回数なら璃音の方が上だったと思いますよ」

「ほんとに?」

「はい、恐らく」


 その言葉を聞いて回数が気になった璃音は、それとなく伊武を囲んでいる女子の群れに近付いて耳をそばだてた。その結果、ギリギリ数回の差で璃音が勝っていた。


「どうでした?」

「あたしの勝ち!」


 璃音が笑みとピースサインを浮かべながらそう答えると、後列組の集合を告げるホイッスルが鳴り、今度は恵凛が測定へと向かった。そして間もなくもう一度ホイッスルが鳴り、後列組の測定が始まった。


「あの二人の勝負、熱かったな」

「最後に上体起こしが残ってるんだろ? 賭けようぜ」

「おぉ、いいね」


 慧の背後ではそんな会話が繰り広げられているのだが、慧の視線は体育館内の恵凛、璃音、伊武の三人の間を反復横跳びしており、全く情報が入って来ていない。が、そんなことを知らない友宏は、後ろの会話を盗み聞きして慧に話しかけて来た。


「おい、慧。俺たちも混ざろうぜ」

「……え、なに?」

「お前、聞いてなかったのか?」

「あ、うん。ごめん」

「ったく、お前だけ女子の胸でも見てたのか?」

「いや違っ! そんなわけ――」


 否定しようと声を荒げた自覚があった慧は咄嗟に周囲の男子たちの顔色を伺ったが、どうやら今の会話は聞かれていなかったようで事なきを得た。


「お前な、変なこと言うなよ」


 今度は最大限声を潜めて友宏にそう言うと、友宏は悪い笑みを浮かべながら軽く頭を下げて謝罪とは言えない謝罪をして見せた。なんてやり取りをしているうちにホイッスルが鳴った。


「ほら、上体起こし始まっちまうから、賭けに混ざろうぜ」

「いや、俺はいいよ」

「ふーん、あっそう」


 友宏は生返事をすると、それ以上慧に絡むことなく小さな賭場へ向かった。しかしそんなことには目もくれず、慧は袋の中から眼鏡とイヤホンを取り出して素早くそれらを装着すると、イヤホンを隠すためにサッと右の壁際に寄った。


「おい、大丈夫か……?」

【おや、どうしたのですか、ご主人?】

「どうしたのって、その……」


 まさか自分の口からラヴィを置き去りにしたなんてことを言い出せる訳も無く、慧はほんの数秒黙り込んだ。


【もう授業は終わったのですか?】

「いや、まだだけど」

【ならば私とお話ししている場合では無いのでは?】

「まぁ、それはそうなんだけど……」

【だったら早く戻ってください】

「分かってるよ」


 小声でやり取りを終えた慧はひとまずラヴィが無事だという事に安心して、ホッと一息こぼした。するとその直後、周囲の男子たちがざわつき始めた。


「始まるみたいだぞ」


 壁際に立っている慧を見つけ出した友宏は、わざわざ歩み寄って来てそう言った。


「えっ、うん。みたいだな」


 安堵して気が抜けていた慧は少しだけ肩をビクつかせ、咄嗟にイヤホンを見られるのはマズいと思い、イヤホンだけをサッと取り外してポケットに忍ばせた。そしてさり気なく壁際から離れると、体育館の左奥でスタンバっている集団に視線を向けた。

 体育館に敷かれたマットの上では各々が準備を整えている。頭をこちらに向けて次々と寝転んで行く女子生徒たち。そんな中、手前の列の一番右に伊武が寝転び、その横のマットに璃音が寝転ぶと、その足の上に恵凛がゆったりと腰を下ろした。それらを含めて全体の様子を眺めていた担任の女教師は、全員の準備が整ったことを確認するとホイッスルを口に持っていき、甲高い音を体育館に響かせた。

 ――ホイッスルが鳴ると、寝転んでいた女子生徒たちは一斉に上体起こしを始めた。他の生徒たちがゆるい動きと悲鳴のような声を上げながら上体を起こす中、璃音と伊武はデッドヒートを繰り広げていた。

 そしてそのまま二人の独走状態で三十秒間の計測が終了すると、回数記入と後列組との入れ替わりを兼ねたインターバルを挟み、後列組の計測が始まった。


「どっちが勝ったんだろうな」

「ちょっと遠くて聞こえなかったな」

「終わったら即聞きに行こうぜ」


 賭けをしていた男子たちは、いつの間にか体育館履きに履き替え、体育館の中に踏み込みながらそんな会話をしている。


「俺たちも行こうぜ」


 友宏はそう言うと先に靴を履き替え、体育館内に入って行った。慧もそれに続いて袋から体育館履きを取り出すと、それに代わって眼鏡とイヤホンを袋に入れて群れの最後尾に紛れ込んだ。

 それから間もなく後列組の計測も終わり、男女ともに整列するよう指示が下されたので生徒たちはいつも通り体育館の中央に集まると、授業終了の号令がかかり、生徒たちは長い測定から解放された。となると、数名の賭けをしていた男子たちは待ってましたと言わんばかりに璃音を取り巻き、その結果を聞いて一喜一憂しながら体育館を去って行った。友宏もそれに混ざって先に教室へ向かってしまったので、独り残された慧は上履きを履き替えた後に眼鏡とイヤホンを装着して璃音の動向を伺った。


【どうかしたのですか?】


 視線が動いていないことに気付いたラヴィがそう切り出した。


「いや、別に」

【何も無いのに見つめているのはどうかと思いますよ?】

「いや、マジでなんでも無いから……!」


 痛いところを突かれた慧が慌てて否定をしていると、フッと目の前に人影が過った。誰にせよ、ラヴィの存在がバレるのは嫌だった慧が口を噤んで視線を上げると、そこには恵凛が立っていた。


「あの、風見君」

「な、なに?」


 目の前に現れた恵凛を見て、今朝のことやら授業が始まる前のことやらを思い出してしまった慧は声を上ずらせながら問い返した。


「風見君は、あの二人のこと何か知ってますか?」


 そう言う彼女の視線を追うと、璃音と伊武を見ているようであった。


「うん、数日前に色々あって」

「そうですか……。その、私……」


 恵凛も気まずいのか、徐々に頬を赤らめながら口ごもる。すると――


【もしかしたら、お二人に仲良くしてほしいのかもしれませんね】


 ラヴィの声が天啓のように降り注いだ。これだ。そう思った慧は、藁にも縋る思いで助言をそのまま口に出した。


「な、仲直り。して欲しいよね……?」


 言った後の数秒の沈黙が心臓を押し潰そうと迫り来る。


(これを機に気まずさが晴れればとか思ったけど、ミスったか……?)


 邪な気持ちで発言してしまった事を悔いていると、恵凛の数十メートル背後にいる璃音が歩き出し、伊武の正面に立ち止まった。


「あんた、なかなかやるじゃない」


 数人しか残っていない体育館に璃音の切り口上が広がる。その声に振り向く恵凛と伊武。しかし誰が答えるでもなく、璃音が話を続ける。


「ま、どっちもあたしが勝ったわけだけど、久し振りに楽しかったし、こないだのこと許してあげても良いよ」


 返事をしない伊武に多少苛立つ様子を見せながらも、璃音はグッと堪えて握手を求めるように右手を差し出した。が、伊武はそれを無視して璃音の横を素通りしていった。そして慧と恵凛の横も何食わぬ顔で通り過ぎて行き、伊武が完全にいなくなった次の瞬間――


「ふっざけんじゃないわよぉぉ!」


 璃音の怒号が体育館内にこだました。


「か、風見君っ」

「は、はい?」

「仲直りのお手伝い。してくれませんか?」


 必死で訴える恵凛の瞳は微かに潤んでいた。そのあまりの美しさに、慧は静かに、そして確かに、頷いて応えるのであった。

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