第二十一話 忘れ物で拾い物
教室内から全く声が聞こえて来なくなったので、慧は息の詰まるような思いで廊下に立っていた。が、しばらくして微かに声が聞こえて来て、ようやく詰まっていた息を吐き出した。
「はぁ、踏んだり蹴ったりだ……」
【はい、最近は色々なことが起きますね!】
「あぁ、誰かさんが家に来てからな」
【はて、何故そんなに気落ちしているのですか。こんなにもトキメキに満ちた日々を送っているというのに!】
「はいはい、そうですね。おかげでヘトヘトだよ」
廊下でラヴィと会話をして時間を潰していると、ドアがやけにデカい音を立てながら開いた。それを聞いた慧は慌てて壁から離れて顔を上げると、教室からは恵凛と璃音が出て来た。しかし当然、明るい表情ではない。
「なに、まだいたの?」
道端の吐しゃ物をでも見るような蔑みの眼差しと共に、冷徹な言葉が浴びせられる。
「そ、そりゃ、俺だって着替えないといけないからな」
「……ふんっ。行こ、恵凛」
ほんの数秒だけ慧を正視したかと思うと、璃音は最後にキッと睨みを利かせ、唇を尖らせて顔を背けると、足早に去って行ってしまった。
「ま、待って、璃音……!」
強気な璃音の後ろに隠れていた弱気な恵凛は、隠れ蓑を失ったように、はたまた親に置いて行かれた子供のように、小さく璃音の名前を呼びながら、小走りにその背中を追いかけた。
(昨日は相性が良さそうだなって安心してたけど、もしかして厄介な組み合わせだったか……?)
廊下に立ち尽くして体育館へ向かう二人の背中を見送っていると、五分前の予鈴が鳴った。
【ご主人、着替えなくて良いのですか?】
「あっ、そうだった」
予鈴に気付いていなかった慧は、ラヴィの一声で我に返り、今自分が危機的状態に置かれているという事を思い出して教室に駆け込み、未だかつてない速さで着替えを済ませると、誰も居ない廊下を全速力で走った。
校則に逆らった甲斐もあり、慧は授業開始の鐘と共に体育館に到着することが出来た。生徒が纏まっていないところを見る限り、担当の本間もまだ到着していないようだった。それを見た慧はホッと一息ついて体育館履きに履き替え、何食わぬ顔で体育館に入ろうとしたその時、ポン。と肩を叩かれた。心臓が縮み上がるような思いをなるべく表に出さないように振り向くと、そこには本間が立っていた。
「お前、眼鏡なんかしてたか? まぁいい。裸眼でも大丈夫なようなら、外しておいた方が良いぞ」
そう言って暑苦しい笑みを浮かべると、本間は先に体育館へ踏み入り、得意の大声で生徒を集め始めた。
【眼鏡を掛けたままの運動は危険ですから致し方ないですね】
「だな」
【しかし意外にも、皆さん眼鏡を掛け始めたことを気にしないのですね】
「他人の事情にずかずか踏み込める時代じゃ無いんだよ」
慧は不愛想に答えると、誰も見ていないことを確認した後に眼鏡とイヤホンを外してそれぞれをケースにしまうと、体育館に備えてあるシューズボックスに上履き入れと共に置き、既に完成されつつある隊列に割り込んだ。
「よし、じゃあ今日は二時間通しで身体測定と体力測定をやるぞ。まずは女子が身体測定だから、保健室の方に向かってもらって、男子は体育館内の種目を終わらせるぞー。外種目とシャトルランは後日やるから、今日は安心して取り組んでくれ。ハッハッハッ!」
さも生徒たちが嫌っている種目を熟知しているような言い回しと共に大声で笑い飛ばすと、本間は男子の隊列に寄って来た。一方女子の隊列には若い女性教員が付き、短い説明をすると体育館を出て行った。残された男子連中は、本間の指示に従って体力測定に臨んだ。
……握力測定、長座体前屈、上体起こし、反復横跳びの室内四種目は一時間半ほどで終了した。終わるとすぐに「休んでる時間は無いから、すぐに移動するぞ!」と本間が号令を掛けた。それに対して一人の生徒が「時間はオーバーしてるけど休憩はしたいです」と申し立てたが、「どうせこの後の身体測定は早く終わるから大丈夫だ!」という本間の根拠のない勢いだけの言葉に騙され、二クラス分の男子たちはほんの数分間だけ身体を休めると、皆渋い顔をして体育館を出た。
「あぁー、疲れた~」
隣を歩く友宏は大きく伸びをしながらそうぼやいた。
「ったく、身体測定前に体力測定なんてあり得ないよな」
友宏とは逆側にいる男子生徒がぼやきに賛同する。
「ほんとだよ。こんなヘトヘトじゃ身長誤魔化せねぇよ」
「お前、背伸びするつもりだったのか?」
「わりぃかよ」
「俺はそっちより体重の方が気になるわ」
「女子か、お前は」
慧を隔てて高校生男児らしい会話が交わされる。慧はそれを何気なく聞き流しながら、今朝のことを思い出してため息をついた。
「なんだ慧、ため息つくほど疲れたのか?」
「まぁ、ある意味。ははは……」
「お前、結構ヘタレ系男子か? 体力測定もへなちょこだったし」
「ヘタレってわけじゃ無くて、ただ、体力が無いだけだと思ってるけど……」
「それをヘタレって言うんだよ」
「そう? ヘタレってのは精神的に――」
「あぁ! もう、言い訳はいらん!」
「はいはい。じゃあヘタレで良いよ」
「お前ら、仲良いのか悪いのかよく分かんねぇな……」
慧と友宏の会話を聞いていた三人目の友人の一言で、その会話は一段落ついた。しかし慧の心の中には、友宏に言われた「ヘタレ」という単語と「言い訳」という言葉がこびりついて落ちなかった。
(言い訳か……。確かに、全部正直に話すべきなのかもな。父さんのことも、母さんのことも、ラヴィのことも。そうすれば、今朝龍宮の弁当が美味しかったって言葉も信憑性が増すし……。って、なんか計算高くて嫌味な奴に見えるな。はぁ、どこまで正直になれば良いんだよ……)
集団で移動しているクラスメートの背中を茫然と追いながら脳内で煩悶を繰り返していると、やがて前方を行く生徒たちが立ち止まった。しかし考えで頭がいっぱいだった慧はそれに気付かず、咄嗟に立ち止まれずに集団の一人にぶつかった。
「あ、ごめん」
唐突のことで心無い謝罪を述べながら、慧は数歩後退した。そしてこのタイミングでようやく辺りを見回し、既に保健室前まで来ていることを知った。
「よし、じゃあここからは数人ずつ保健室に入って、身長、体重、座高を測っていく。順番は特に関係無いから、早く休みたいと思うやつからドンドン入って良いぞ~」
本間はそう言うと、保健室のドアを開けて中に入って行った。すると瞬く間に男子生徒たちは長い列を成し、慧は独り取り残された。しかしそこまでして早く休憩したいと思っていない慧は、相も変わらず考え事をしながら最後尾に並んだ。
……流石に最後尾となると、予想以上に時間が掛かった。このままでは自己嫌悪のループに陥りそうになった慧は列が半分ほど進んだところで考え込むことを止めてしまったので、余計に長く感じていた。
(早く休憩したいわけじゃ無いけど、思ってたより長いな)
列の前方をチラチラと確認しながら少しずつ前進して行くのはとてももどかしかった。少しずつ、試行錯誤をしながら歩み寄って行く感覚。それが丁度今現在自分が立たされている状況と酷似しているようにも感じられ、慧は本日幾度となく誘って来る負のループに引き込まれそうになるのであった。
「測定も終わったし、体育館行こうぜ!」
「ちょっくら女子の様子でも見に行くか~」
本日のノルマを終えた男子生徒数人は、下賤な会話と共にゲスな笑みを浮かべ、慧の横を通過していった。
(ったく、盛りの動物かよ――)
と心の中で男子たちを蔑んだ慧だが、それと同時に下着姿の恵凛と璃音の姿がパッと浮かんできて、思わず顔を俯けた。
(はぁ、俺も大差ねぇな。でも、決してアレは自分から見に行ったわけじゃ無いし、不可抗力だったよな。って考えると、俺の方がまだマシだよな。いやでも、不可抗力とは言え実際に見てしまった俺の方が罪は重いのか……?)
脳内が徐々にピンク色で染まりいく中、数人前の生徒までが保健室に呼ばれた。その呼びかけで我に返った慧は、次はもう自分の番だと悟り、しっかりと背筋を伸ばすためにも気持ちを落ち着かせることに努めた。
「よし、じゃあ残りの奴ら、入って来い」
保健室から少しだけ身体を出した本間は、それだけ伝えると再び保健室に引き戻った。声を掛けられたラストの十人程は一列のままぞろぞろと保健室に流れ込み、慧もそれに続いて室内に入った。すると先日来た時にはあったはずのソファやらローテーブルやら堤のデスクやらは全て片付けられており、代わりに数人の記録係とテーブル、それとそれぞれを測る計測器具が義務的に並んでいた。
「自由に並べ。終わったやつから体育館に戻るように」
保健室の出入り口で門番さながらの立ち姿を見せている本間は、それとは真逆の無頼漢のような口調でそう言うと、保健室を出て行った。
(体育館に戻るのは本間の指示だったのか。いやいや、だとしても覗き見しようとするのは良くないだろ。……って、俺が言っても説得力無いか)
仕様もないことを考えている間に慧の番が回って来た。まずは身長を測り、次いで体重、座高と測っていき、ものの十分ほどで計測を済ませると、慧は一番最後に保健室を出た。そしてその足で体育館へと向かう。階段を上がり、二階の渡り廊下を歩き、そして再び階段を下りて教室棟の一階渡り廊下から体育館へ。というところで、慧は立ち止まった。
「あ、体育館履き……。保健室か」
思わず独り言を漏らすと、ポケットに入れているスマホを取り出して時間を確認し、恐らく間に合うだろうと判断した慧は保健室へ引き返すことにした。
見つかっても怒られない程度に速足で廊下を行き、階段を駆け下りると保健室の表札が視界に入る。当然辺りに人の気配は無い。
(眼鏡とラヴィも入れっぱなしだし、さっさと回収しないとな)
少し荒れている呼吸を整えると、慧は保健室のドアをノックして入室した。
「失礼します。忘れ物を――」
「おや、男子はもう終わったと聞いたのだけど」
急いでいたこともあり、向こう側の挨拶を聞く前にドアを開けてしまった慧は輝虎の計測の現場に立ち会ってしまった。
(ん? どういう状況だ?)
保健室の出入り口から丁度正面にある身長計には輝虎が立っている。横向きに設置されていて、かつ背筋をピンと伸ばし、ぴっちりとした体操着を着ているせいか、いつもは白衣やらブレザーやらに匿われていた胸が浮彫りになっており、慧は無意識の内に数秒間釘付けにされてしまった。
「ど、どうかしたかな? あ、あまり見られると、恥ずかしいのだが……」
じっと見つめられていることに気付いた輝虎が珍しく淑やかな声で慧のことを諭そうとしつつ、チラチラとアピールを続けていると、ようやくその仕草が目に入り、慧は自分の失態に気付いて首が千切れそうな勢いで顔を背けた。
「すみません! 俺、忘れ物を取りに来ただけで!」
顔を背けるだけでは失礼な気がして、慧は保健室のドアノブを握ってそのまま逃げ出そうとしたのだが、輝虎が声を掛けたので動きを止めた。
「これかな、忘れ物は?」
多少頬を赤らめているが、いつもの口調で語り掛けた輝虎は足元にある水色の袋を手に取った。
「は、はい」
「見てもいないのに答えるんじゃない」
俯いたまま答える慧を見て、輝虎は冗談交じりに返しながら歩み寄って来る。そして、
「さぁ。これから体重を測るんだから、君は早いところ立ち去ってくれたまえ」
慧の視界に入るよう、わざと下の方で袋を持ちながら輝虎が言う。
「ほらほら、まだもう数人来るらしいから、早いところ戻った方が良いと思うよ、僕は」
冗談とも真実とも取れる声音で追撃をされた慧は、慌てて体育館履きの入った袋を受け取った。すると今度は袋の陰に隠れていた、白く細いすらりと長い美しい二本の足が視界に映ったので、咄嗟に深々とお辞儀をして誤魔化した。
「あ、ありがとうございます。その、本当にすみませんでした!」
「良いんだよ、気にしなくて。それより、その袋、少し重くないかい?」
「すぅー、まほ。スマホと眼鏡が入ってたんです」
「……ふむ、それで焦っていたのか。ありがとう。それじゃあ今回のことは水に流すよ。だからほら、早く」
輝虎はニコリと笑みを浮かべると、慧が保健室から出て行くのを見送り、体重計に向かった。
「何故か気になるな、彼は……」
「すみません、腕は組まずに自然とお願いします」
「あっ、これは失礼」
愛想良く答えて姿勢を正すと、輝虎は再び思案気な表情浮かべるのであった。




