第二十話 届かぬ言葉
慧が待ちわびていた上りの電車は予定通り七時半過ぎに到着した。他に人がいるわけでも無いし、ギリギリの乗車で無いにもかかわらず、慧は半ば駆け込み乗車のような形で電車に乗り込んだ。いくら自分がせかせかと行動しても電車の発車時刻やら速度やらが早まることは無いと自覚しているのだが、無意識の焦りが慧の行動を全て早めてしまったのであった。
【今日の電車は一段と揺れていますね?】
「違うよ。俺の貧乏ゆすり」
【貧乏ゆすり! なるほど、電車に乗って落ち着いたかと思ったのですが、そうでもないみたいですね】
「いや、落ち着いてはいるよ。ただ、じっとしていたくないだけで」
【それを落ち着きがないと……。まぁ、たまには焦っているご主人を見守りましょうかね】
イヤホンをしているにも関わらず、ラヴィの声は少しも慧に届かなかった。しかしラヴィにとってそれは好都合だったので、それから無理に話しかけることもなく、結果この会話を最後に、電車はあっという間に天方中央駅に到着した。
考え事と心配事との板挟みで上の空だったせいか、いつの間にか周りには乗客が満ちていた。慧は到着のアナウンスと共に人の波を掻き分けて電車を降りると、まずはホームを見回した。しかしそこには予想通り恵凛の姿は無かったので、慧は階段を駆け下りて改札を抜け、早足で学校を目指した。
正門の間を通って坂を上がり、ちらほらと歩いている同級生やら上級生やらを追い抜かして自分の下駄箱まで辿り着いた慧がそれを開いて上履きを取り出したその時、視界の右端にフッと人影が現れた。が、そんなことには気を留めずに上履きに履き替えると、とうとう声が掛かった。
「ちょっとあんた、真横に人が立ってるのに全く気にしないわけ?」
声がした方を見ると、そこには璃音が立っていた。
「おはよう、雀野。弁明したいところだけど、今はそれどころじゃないんだ」
そう言った慧が璃音の横を通り抜けようとすると、璃音がその進路を妨害した。
「なんだよ?」
「なんだよ。じゃないわよ。あんた、恵凛と一緒に登校するんじゃなかったの?」
恵凛という名前が聞こえた瞬間、慧の行動と思考は一瞬にして停止した。それから「え?」という返事が出るまでは数秒間を要した。
「今日はギターを持って来る日だから少し早めの電車に乗ろうと思って駅に向かったら、駅前に一人で立ってたのよ? 朝だから変な人もいないとは思うけどさ、どうかと思うよ、あたしは」
何度か聞いたことのある怒声ではあったが、そこにはどこか失望の念も込められているような、暗いトーンも感じられた。
「ごめん。その、昨日と今朝で色々あってさ……」
確かに昨晩から今朝に掛けて様々なことが起きた。しかしそのどれもが璃音に説明できることでは無かったので、慧はただひたすらに、顔を俯けて謝る他無かった。すると当然、そんな謝罪だけで満足する性格でもない璃音は、徐々に怒りを露わにして、慧に一歩詰め寄った。
「そんな謝罪で済むと思ってるわけ? って言っても、あたしに謝っても仕方ないし、さっさと教室に行って恵凛に謝るわよ」
「うん、もちろん」
「まったく。恵凛、めっちゃ悲しそうだったんだからね。もしまたこんなことあったら、今度は本気で殴るからね!」
璃音はそう言うと、右手をグーにして慧の胸を小突き、先に教室へ向かって行った。
【中々手厳しいお言葉ですね】
「あぁ。でも、事実だから否定は出来ないよ」
左胸に微かに残る璃音の拳の感触を確かめながらそう言うと、慧も自分の教室を目指して歩き出した。
教室には既に半数以上の生徒たちが登校しており、ホームルームが始まるまでの時間を仲の良い数名でグループになり、暇を潰していた。そんな中、独り自分の席に着いて読書をしている恵凛の姿は、すぐに慧の目に留まった。
「ほら、あたしも一緒に謝ってあげるから」
廊下に立って行く末を見守っていた璃音だが、慧が中々教室に入らないのを見て渋々そう切り出した。
「大丈夫。なんかややこしくなりそうだし……」
「なに、なんか言った?」
「いや、何も」
慧はそう言って璃音から離れると、教室を進んで自分の席に着いた。そして鞄を机に置いて中から筆記用具やら教科書やらノートやらを取り出しながら心を落ち着けると、鞄を机の横に掛けて恵凛の方に少しだけ身体を向けた。すると丁度ドアの付近に立っている璃音が視界に入り、その璃音が「早く早く」と言わんばかりのジェスチャーをしている姿を見て少しだけやる気が失せたが、その反面、心持が軽くなり、すんなりと最初の言葉が零れ出た。
「龍宮、今朝はごめん!」
そう言うが早いか、相手がこちらを見ているかも確認せずに慧は頭を下げた。そうして十秒ほど恵凛の答えが聞こえるまで頭を下げていたのだが、一向に返答が無い。こうなったら、流石にそろそろ頭を上げた方が良いのか? と思ったが、いや、むしろまだ誠意が足りないのかもしれない。とも思えたり、相反する考えが脳内でせめぎ合った。しかしこのままでいるわけにもいかないので、慧は勇気を出して一度頭を上げることにした。
ゆっくりと現実を受け止めるのも嫌だったので、慧は勢いよく頭を上げた。するとその勢いに驚いたのか、恵凛は少しビクつきながら本を閉じてチラリと慧の方を見た。しかしコンマ数秒目線が合うと、再び視線を逸らしてしまった。
「言い訳がましいけど、龍宮が来る前に色々あって――」
恵凛の反応が芳しく無かったので、慧が弁明を進めようとしたその時、ホームルーム五分前の予鈴が鳴った。慧の言葉はそれによって遮られ、様子を見守っていた璃音も、「やれやれ」と言いたげに首を左右に振り、自分の教室に戻って行った。
(でもまだ時間はある。このまま弁明を……)
と思っていた慧だが、こういう日に限って他の生徒たちは律儀に予鈴を守り、教室は直ちに静まり返った。そしてその静寂を堪能する間もなく、担任の内海がいつもより数分早く教室に現れた。
「あら、今日はみんな席に着いてるのね。金曜日だから疲れてるのかしら……。まぁ良いわ。それじゃあ、ホームルームを始めます」
こうして慧の謝罪と弁明は度重なる不運によって機会を奪われ、有耶無耶なものとなってしまったのであった。
「……何度も言うようだけど、部活見学は今日までです。まぁ、来週いっぱい仮入部期間だからそんなに焦らせる必要はないんだけど、一応、表面上の予定は今日までだから、気を付けて下さい。っと、今日の連絡はこれくらいかな。あと、龍宮さんの教科書は来週の月曜日に届く予定だから、風見君、今日もよろしくね」
ホームルームを締めた内海は、最後に一言だけそう付け加えて教室を出て行った。とは言え、弁明も完遂していない気まずい状態で自分から席を寄せるのも気が引けてしまい、慧は次の授業の準備をゆっくりと進めながら策を考えた。が、そんな努力はすぐに水の泡となる。
「よう慧。って、お前眼鏡かけてたっけ?」
朝から元気よく駆け寄って来たのは、言うまでもない、友宏である。
「う、うん。席が後ろだから、念のため」
「ふーん、まぁいいや。それより、今日のこと、覚えてるよな?」
「え、今日……?」
昨日は色々あったせいか、朝一番に約束したはずの部活見学を失念していた慧は曖昧な返事をしながら視線を逸らした。
「覚えてるよなぁ?」
圧を掛けるように一言一句はっきりと発音した友宏は、机にバンッ。と両手を着き、逃がすまいと慧の顔を覗き込んだ。
「あぁー、えっと……」
先ほどから恵凛のことで頭がいっぱいだった慧は、そう簡単に思考回路を組み替えることが出来ず、ほとんど真っ新な脳内を手探りで歩き回ったが、もちろんすぐに答えは見当たらない。そうして考え込んでいる間に、ふと視界の右端に恵凛の姿が映った。彼女はいつもの如く姿勢正しく授業の始まりを告げるチャイムを待っているようであったが、そんな中、少しだけこちらに耳を傾けていることに慧は気付いてしまった。
(マズい。ここで答えられなかったら、約束をすぐに忘れる奴だと思われるよな……?)
微かに恵凛の姿を捉えてしまった上、マイナス方向への妄想も捗ってしまったせいか、慧の脳内は更に真っ黒に塗り潰された。とその時、慧に救いの手が差し伸べられる。
【部活見学ですよ、ご主人……】
暗闇に射す光芒のように、慧の視界がパッと開けた。
「あ、部活見学のこと?」
「なんだ、覚えてんじゃん!」
「ま、まぁ……」
「ってことだから、今日は帰るんじゃんねぇぞ。あと、さっさと机くっつけろよ!」
約束を思い出しただけで一気に機嫌を取り戻した友宏は、机に置いていた両手でそのまま机を押し、恵凛の真横まで運び終えると上機嫌で自分の席に戻って行った。そして慧がそろりそろりと椅子を引きずって机の前に戻って来た折、一時限目の始まりを告げるチャイムが鳴った。
それから少し後、若い小太りの教師が入って来ると、すぐに生物の授業が始まった。もう自己紹介やら世間話やらで時間を潰すなんてことは無く、しっかりと授業らしい授業が進行されていく。時折私語が聞こえたりはするものの、基本的には担当教師のやけに高い声とチョークが黒板に当たる音とが広がるのみであった。それら雑音を耳にしながら、慧は右隣にいる恵凛とどうやってコンタクトを取ろうか考えた結果、自分の目の前に広がっているノートとシャーペンを見て閃いた。
(そうか。筆談にすれば良いんだ……! これなら変に気を揉む必要も無いし、直接顔を合わせなくても、声を出さなくてもスムーズかつ丁寧に話を進められるし。これでいこう)
そうと決めた慧は早速シャーペンを手に取り、ノートを一番後ろのページまで捲って文字を綴り始めた。
……考える時間、書く時間も含めて五分以内でシャーペンを置いた慧は、最後に自分で読み直して内容の不備や誤字脱字が無いことを確認してから小さく頷いた。
(うん。長文過ぎても良くないし、ひとまずはこれで相手の出方を伺おう。きっと筆談なら龍宮も応じてくれるだろうし)
【これは妙案ですね。早速見せてみましょう】
視界を共有しているラヴィもこう言っているので、慧は自信をもってノートを恵凛の方へ滑らせた。すると恵凛は少しだけ驚いた素振りを見せ、それから文章を読み始めた。
これは上手くいった。と心の中でしたり顔を浮かべていた慧だが、いくら待っても返事は来ない。それもそのはずで、恵凛はまだシャーペンすら持っていなかったのである。慧は様子を伺うがてらにようやくその事実に気付き、そっとノートの上にシャーペンを転がした。
(これじゃあまるで、書くことを催促してるみたいだな……)
なんて危惧を抱きながらぼんやりと授業を聞いていると、ノートとシャーペンが返却された。待ってましたとばかりにノートを覗き込むと、自分が先ほど書いた文の少し下の列から、数行に渡って文字が記されていた。
「私の方こそ、ごめんなさい。自分の感情を上手く言葉に言い表せなくて、口を閉ざしてしまいました。筆談ならばとも思ったのですが、それでもペンを持つと頭の中が濁るようで、言葉が浮かんできません。明日までに気持ちの整理をつけておきますので、何卒お出掛けの件はよろしくお願いします。今日の放課後に私と璃音とで計画を立てておきますので。どうか……」
返事を書くつもりでシャーペンを握ったまま文面に視線を走らせた慧であったが、たった数行、たった数個の文字を目にした直後、慧はそっとシャーペンを置いた。
(なんで、なんでこんなにモヤモヤするんだ……)
読み直せば読み直すほど、心の中の靄は広がっていった。仲直りしているようで出来ていない。理解の一歩手前まで来ているというのに、理解し合えない。言葉と文字とが二人の隔壁を成しているように感じられて、慧は思わずノートを閉じた。しかしそれからすぐ、この状態では板書が写せないことに気付き、結局ノートを開くのであった。
そうしてそれ以上進展の無いまま一時限目が終わった。無造作に広げられている教科書とノートを片付けた慧は、友宏に捕まるよりも前に席を立ち、教室を出てトイレに向かった。
「はぁ、上手く謝れた気もしないし、許された感もないし、どうすりゃいいんだ……」
個室トイレに入った慧はすぐに便座へ腰かけて、小さく独り言を漏らした。
【妙案だと思ったのですがね】
「うーん、何が良くなかったんだろう」
【そうですねぇ。あの反応を見る限り、良い悪いというわけでも無い気がしますけどね】
「どういうことだよ?」
【あの文章を読む限り、この問題を解決してくれるのは時間かと、私は思いますよ】
「時間? でも、明日までには……」
【その焦りが悪循環を生む可能性もあります。下校までにはまだ時間もありますから、今は一旦落ち着いて考えてみましょう】
「……確かに。白黒はっきりさせようとし過ぎてたのかもな。今は一度落ち着いて」
――考えが纏まったところで慧が個室を出ようとした時、男子生徒の話し声が聞こえて来たので慧は思わず開けかけていた鍵を再度閉めてその場に留まった。
「次の体育だりぃなー」
「な。身体測定と体力測定なんてやらなくても良いだろ」
「それな。まぁ、まだ女子と合同だからそれは救いか」
「うわ、お前女子のこと変な目で見てんのかよ」
「仕方ねぇだろ、それが男ってもんだ」
「なに言ってんだか。お前と一緒に居たら俺まで変態扱いされそうだから先行くわ」
「あ、おい! ちょっと待ってくれよ!」
話し声と足音が遠ざかって行くのを確認した後、慧はそっと個室を出て手を洗い、廊下に出た。するとその折、クラスメートの一人が体操着姿で目の前を横切った。慧はそれを何気なく見送ろうとしたのだが、数歩前進してから次の授業が体育だという事を思い出し、即座に駆け出した。
(体育って俺のクラスじゃんか! ヤバいな、着替える時間あるかな……)
廊下を駆けながらブレザーのボタンを外し、ネクタイを緩め、教室後方のドア前に辿り着いた慧は迷わずドアに手を掛けた。
「どう、デカい? 下は大丈夫そうだね。じゃあ次は」
(女子の声……?)
室内から聞こえて来た声に反応してドアを開く手を止めようと努力はしたのだが、その甲斐虚しく、引き戸は全開になった。するとまず、机に置かれているワイシャツが目に入り、続いて、ブラジャー姿の恵凛と、こちらに背中を向け、ポニーテールを解いている璃音の姿が映った。
「……っ!」
廊下側を向いて立っていた恵凛は、慧を見つけると一瞬で頬を赤らめてその場にしゃがみ込んだ。そんな恵凛を目の前で見ていた璃音は何かを察してすぐに振り返ると、当然慧と目が合う。その璃音も、上半身はブラジャーのみの姿であった。
「あ、あ、あんた……」
「ご、ごめっ――」
「なに見てんのよ!」
慧が謝る間もなく、顔面に強い衝撃が走った。
「いってぇ……」
顔を片手で覆いながら数歩後退した後、片目を薄く開いて見ると、ブラジャーにスカート姿の璃音が目の前まで迫って来て、上履きを拾い上げていた。かと思うと、すぐに引き戸が閉められた。
「さ、最悪だ……」
と呟くものの、心のどこかでは美味い思いをしたと思わざるを得ないようで、慧は複雑な気持ちを誤魔化すように頭を掻きながら廊下の壁にもたれかかり、二人が着替え終わるのを待った。




