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第十九話 行違う挨拶

 テーブルの上には重箱が三つ広げられ、それを挟んだ向かい側には恵凛がピシッと背筋を伸ばして座っている。


(……って、なんでこうなったんだよ)


 良いとは言えない目覚め。早朝の訪問。新機能の誤作動。ラヴィの囁き。様々なことが要因して今現在に至っているわけだが、ここに来てそれらを冷静に把握した慧は心の中でため息を漏らしていた。しかしこの事態を招いたのも、恵凛を家に招いたのも自分であるという事実は覆らない。となれば、今やれることはただ一つ。目の前にある飯を食う。これに限る。


「箸、取って来ます」


 覚悟を決めた慧はそう言って席を立った。


「あ、ごめんなさい。気が利かなくて……」

「いや、気にしないで。元々おすそ分けしに来ただけなんだし、箸は無くて当然だよ」


 自分の一挙手一投足に恵凛が気を遣ってしまうと思った慧は、あくまでも自分が施しを受けているのだという雰囲気を出すために微笑みながらそう言うと、反論の余地を与えないためにすぐさまキッチンに向かった。そして迷いなく食器棚の前に辿り着くと、引き出し部から自分の箸を取り出し、続いて恵凛の為に一度も使ったことの無い箸を取り出そうと思ったのだが、そこでふと、相手の境遇を思い出し、ここは無難に割り箸を出しておくか。と考えた慧は、引き出しの隅の方に纏めていたコンビニの割り箸を手に取った。


「今、麦茶しかないんだけど、それでも良いかな?」


 次いで、食器棚から自分のコップと来客用のコップ(未使用)を取り出し、それをワークトップに置いた慧はキッチンの向こう側にいる恵凛にそう問いかけた。


「は、はい! 大丈夫です」


 誰かの家に、それも学友の家に招かれた経験が無い恵凛は形容しがたい緊張を全身で感じながら、固い事務的な返事をした。一方、慧も慧で誰かを家に招く、それも同世代の女性を家に招いたことなど無かったので、どれくらい麦茶を注ぐべきかという些末なことにリソースを割いており、恵凛の緊張には少しも気付いていなかった。

 そんなこんなで結局麦茶を半分だけコップに注いだ慧は、それを持ってリビングに戻って来た。そして恵凛の前に割り箸とコップを置くと、一度キッチンに戻って自分の箸とコップ、それと麦茶が入っているピッチャーを持ってきて、自分の席に着いた。


「ごめん、割り箸しか無くて。あと、そのコップは誰も使ったことの無いやつだけど、気になるようなら飲まなくてもいいし。それと――」

「ふふ、ありがとうございます。押しかけてしまったのは私の方なので、気にしないでください」


 とりあえず弁明を並べ立てる慧を見て少しだけ緊張が解れたのか、恵凛はごく自然な笑みを浮かべてそう言うと、割り箸を手に取った。


「は、はは。良かった。初めて人を招いたから緊張しちゃってさ」


 カラカラに乾いた笑い声ではあったが、慧も恵凛の一言で大分力みが取れたようで、リラックスした様子で返す。


「私も、誰かのおうちにお邪魔するのは初めてで」

「そっか、そうだよな……。初めてなりに出来ることは何でもやるからさ、遠慮なく言って」

「はい。……その、早速なのですが、これはどうやって使えば?」


 恵凛は嫌味の無い純真な苦笑いを浮かべながらそう言うと、割り箸を差し出した。慧もそれに似たような苦笑いを返すと、割り箸を受け取り、それを綺麗に割って見せた。


「こうやって、割って箸にするんだよ」

「なるほど。便利ですね!」

「はは、なんか色々と新鮮だな。……あ、ごめん。別に馬鹿にしてるわけじゃなくて」

「ふふ、はい。承知してますよ。これからも色々教えてください」

「うん、出来る限り頑張るよ」


 そう言って三度笑みを交わすと、二人は各々、いただきます。と挨拶をして重箱に箸を伸ばした。

 訪問時に重箱を見た時、滅多に見ない豪華な料理が入っていたらどうしよう。とか、おせち料理のようにぎゅうぎゅうに詰まっていたらどうしよう。という考えが浮かんで多少身構えていた慧であったが、いざ卓上の重箱に目を向けると、至って平凡な、小学生の運動会に持って行く弁当のようなカジュアルな内容で安心した。一段目にはおにぎりとサンドイッチ。二段目には煮物や焼き鮭、卵焼きや漬物。そして三段目にはバナナやイチゴ、ブドウやミカン、それにカットしたリンゴ等々。果物類が入っていた。こうして説明をすると全ての段に一杯一杯料理が詰められているような印象を与えてしまうが、実際は三、四割が余白である。しかしだからと言ってスカスカに見えるわけでも無い。仕切り板を巧みに利用していたり、なるべく底が見えないように綺麗かつ大胆に盛り付けがされていたりして、見栄えは申し分無かった。と、慧は心の中で一通り賞賛こそしたものの、やはり一般家庭の朝食の量でないことに変わりは無かった。とは言え、見ていたら次第に食欲が湧いてきたので、慧はひとまず煮物を口に運んだ。


「あむっ。んっ、美味しい!」

「本当ですか? 良かった……」


 とても胃に優しい、柔らかくて薄めの味付けが慧の箸を加速させる。正直、口に入れた瞬間は味が薄すぎるとも思ったのだが、折角作ってくれたのにそんなことは言えないし、そもそも味付けがマズいわけでも嫌いなわけでも無い。ただ、少し薄いだけだ。慧は言い聞かせるともなく心の中でそう呟きながら、煮物をパクパクと口に運ぶ。


【ご主人~。そろそろ私にもお料理を見せてくださいよ~】


 味覚に集中して煮物を味わっていると、ラヴィがこそこそと小さく囁きかけて来た。


「悪いとは思うけど、あの新機能がある限り眼鏡は掛けられない」


 正面に座っている恵凛の様子を伺いながら、小声で返答する。


【むぅー。私だって好きであの機能を授かったわけでは無いのですよ!】

「そりゃ分かってるけど……」


 渋い返事をしながら箸を置くと、慧は右手をスッと伸ばしてハムとチーズが挟まっているサンドイッチを手に取った。


【何か取りましたか? ねぇ、何か取りましたよね?】

「うん、サンドイッチ」

【私にも見せてください!】

「後で見せるから」

「どうですか……?」

「うん、美味しいよ。……ん?」


 ぐだぐだと注文を付けて来るラヴィに雑な返答をしていると、その間に恵凛の質問が混ざっていることに気付き、慧はフリーズした。


「あの、お口に合わなかったでしょうか?」

「いや! すごく美味しいよ!」

「そうですか、それなら良いのですが……。その、少し様子がおかしいように見えたので、つい浅慮な質問をしてしまいました。ごめんなさい」

「俺の方こそ、ごめん。ちょっと、考え事をしてて」


 咄嗟に誤魔化しの言葉を口走った後も会話は広がらず、とても微妙な雰囲気が食卓に満ち始めた。


【今の返答は良くなかったかもしれないですね~】

「ゴホン。元はと言えば、お前が話しかけてくるからだろ……」


 わざとらしく咳き込みながら脇を見ると、慧は小さい声で文句を垂れた。


【だとしても、女性と二人きりの時に、考え事をしていた。は良くないと思いますよ~】

「そんなこと今更言われても――」

「あの……」


 こそこそと口論をしていると、恵凛が勇気を振り絞ったような微かに震えた声で沈黙を破った。それを辛うじて聞き取った慧が即座に姿勢を正して視線を向けると、恵凛は席を立って帰り支度を始めた。


「麦茶、ご馳走様でした。今日は突然押しかけてしまってごめんなさい。私、そろそろ失礼しますね」


 元々朝食を渡すためだけに来た恵凛に持ち帰るものなどは無く、辞去を述べ終えるとすぐ、リビングを出て行ってしまった。


「あ、ちょっと……!」


 慧は残り数口で食べ終わるサンドイッチをテーブルに置いて恵凛を引き留めようとしたのだが、彼女は全く振り返る気配も無く、その背中を追って慧が廊下に出た頃には既に玄関ドアは閉まりかけていた。そしてやがて、ドアは緩慢な動作と重厚な音を立てて閉まった。


「はぁ。やっちまった……」


 数分前までの朗らかな空気を、割り箸を見て喜んでいる恵凛の笑顔を思い浮かべながら、慧は思いがけず心の声を漏らした。


【ごべんなざい、ご主人~! 私のせいで全てが水の泡にぃ……!】

「何だよ、さっきまで偉そうにしてたくせに」

【私がお料理を見たいと言ったばかりにぃ!】

「もう分かったから。登校の準備を済ませて龍宮の様子を見に行こう」

【はい! とその前に、ちょこっとだけ料理を見せてください】

「はぁ、分かったよ」


 慧はそう言ってリビングに戻ると、テーブルに置いていた眼鏡を掛け、同じく置いていたサンドイッチの残りを右手に取り、一口に食べた。

 その後、一旦重箱の中身を一つのお重に纏めて冷蔵庫に入れ、残る二つのお重と、コップやら箸やらをシンクに置いた慧は自室に向かって制服に着替えた。そして軽く学校鞄の中身を確認してリビングに戻ると、既に七時を回っていた。少し早いが、もう家を出ようと壁掛け時計から視線を逸らすと、丁度テーブルの上に残された、全く使われていない綺麗に揃った割り箸に目が行った。慧はそれを見ると、不安や哀切などの仄暗い感情と、少しの焦りを覚えて家を飛び出した。そうして隣家のインターホン前で立ち止まると、慧は念のため眼鏡を外した。


【ちょっとご主人。掛けていてくださいよ】

「また変な機能が暴発したら嫌だよ」

【アレはこちらで制限をかけたので大丈夫です!】

「本当か?」

【はい、本当ですとも!】

「まぁ、そこまで言うなら掛けとくよ。でも、ヤバいと思ったらすぐに外すからな」

【えぇえぇ、良いですよ。同じミスはしませんから】


 胡散臭いラヴィの言葉を信じ切ることは出来なかったが、かと言ってここで食い下がったら無駄に時間が過ぎると思った慧は、何も言い返さずに眼鏡を掛け直してインターホンを押した。すると間もなく玄関ドアが開き、エプロン姿の中年女性が顔を覗かせた。


「はーい?」

「あ、どうも、隣の風見です。龍宮……。えっと、恵凛さんと同じクラスの……」

「あぁ~、あなたが風見慧くんね。私はお嬢様の家政婦をしている三宅みやけと申します。本当はこちらから挨拶に伺おうと思っていたのだけど、何せ引っ越しが急だったものでね……。わざわざ来てもらってごめんなさいね~」


 既に厳格な執事と何度か顔を合わせていたので、当然の様に家政婦然とした家政婦が出てくると思っていたのだが、そんな予想を良い意味で裏切る、食堂のおばさんのような親しみ易い家政婦が出て来て勝手に意表を突かれた慧は、ワンテンポ遅れてから会釈をした。


「それで、何の御用かしら?」


 何も言い出さない慧を見て、三宅が首を傾げながら問いかけた。


「あ、すみません。もうそろそろ登校する時間なので、一緒に行った方が良いかなと思って来たんですけど」

「あら、そうなの? お嬢様なら少し前に出て行ってしまいましたけど」

「出て行ったって、うちにお裾分けをして、帰ってきた後にってことですか?」

「えぇ。一度お帰りになったと思ったら、その数分後には出て行かれましたよ」

「一人でですか?」

「えぇ、そうよ」

「そうですか、分かりました。ありがとうございます」


 慧は頭を下げて挨拶をすると、家政婦の三宅が玄関から離れるよりも前に、駅に向かって走り出した。残された三宅は目をパチクリさせたのち、再び首を傾げて玄関ドアを閉めた。


【話は聞いていましたよ! 龍宮氏は一人で先に行ってしまったようですね】

「はぁはぁ、あぁ、そうみたいだな」

【あの別れ方では、気まずくて一緒に登校するのは難しそうですからねぇ】

「あのな、そんな気楽に話してらんないんだよ」

【何故です?】

「電車の乗り方だって、昨日教えたばかりなんだ」

【なんと! それは急がねば】

「だから走ってるだろ!」


 ラヴィへの無駄な応答に酸素のリソースを割かれながらも、慧は全速力で古屋根駅を目指した。幸いにも、駅までの道のりはほとんどが直線だったので足への負荷は最低限で済んだのだが、如何せん運動をしていないので、駅に着くころには満身創痍であった。


「はぁはぁ、着いた。外には居ないみたいだな……」


 ほんの数秒間立ち止まった慧は、両手を両膝に当てて呼吸を整える。そして完璧に息が整うよりも前に歩き出すと、改札を抜けてホームに上がった。しかしそこにも恵凛の姿は無く、慧は物理的にではなく、精神的に息が詰まるような思いをした。


【いませんね……。どうしましょうか、ご主人】


 骨を伝って脳に伝達されたはずのラヴィの声は、慧の心にまでは届かない。


【ご主人。誰か周りの人に聞いてみるのはどうですか?】


 何とか慧の気を取り戻すために、ラヴィは少し大きめの声音でそう言った。するとようやく声が届いたようで、「そうだな。駅員に聞いてみよう」と独り言のように呟いて階段を下った。そして改札横にある駅員室を覗き込むと、男性が一人椅子に腰かけていたので、慧は迷う間もなく声を掛けた。


「すみません」

「どうかしたかな?」

「えーっと、つい数分前くらいに、これと同じ制服の女子生徒、見かけませんでした?」

「あぁー、何人か見たよ」

「その中に、黒いロングヘアの子。居ましたかね?」

「うーんとね、確かいたと思うよ。一本前の電車に乗って行ったよ」

「本当ですか!」

「うん。何人か他の生徒さんもいたみたいだから、安心して良いと思うよ」

「良かった。ありがとうございました」

「そりゃ良かった。待ち合わせか何かだった――って、もういない……」


 愛想の良い駅員から、恐らく恵凛であろう情報を得た慧は安心してホームに戻った。そしてベンチに腰掛けたは良いものの、今度は学校がある駅でしっかりと降りられたかが心配になって来て、結局上りの電車が来るまで、独りソワソワとし続けるのであった。

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