第十七話 バージョンアップ!
確認がてらとは言っていたものの、アップデートの話など全く聞いていなかった慧は少しの間その場で硬直した。
(え? アップデートって言ったよな? 待てよ、今アップデートしたってイヤホンが無いからラヴィは使えないぞ。ってことは早いところ止めないと、骨折り損になっちまう……!)
高速でキーボードを打つ父のもとに歩み寄ると、慧は先に頭を下げた。
「ごめん、父さん。実はイヤホンを失くしちゃって」
「あぁー、それなら大丈夫だ。イヤホンも新調するからな。まぁ、時間があるようなら探しておいてくれ」
「そっか、それなら良かっ……」
あまりにもあっさりとした返答が来たので、慧は流れのままにその言葉を鵜呑みにしてしまいそうになったが、すんでの所で理性が働き、言葉が止まった。
(ん? 今、確かに大丈夫って言ったよな。イヤホンも新しくするとか何とか……。つまり俺は助かった。のか?)
頭をゆっくりと上げ、現状を整理しつつ父の作業に視線を向ける。ノートパソコンには英語ばかりが羅列されており、意味は一切分からない。しかしそれがプログラミング言語なのだろうという事は辛うじて分かった。時折手元の書類に目を通して、高速でタイピングをする父。慧はただ立ち尽くしたまま、画面いっぱいに英語が増殖していく様を眺める。
(えーっと、簡単にまとめると、テスターは続行で、ラヴィはアップデートされて、イヤホンを探す必要は無くなった。ってことだよな。うん、間違いないはず。じゃあここで畏まってる意味もないってことか)
ようやくその答えに辿り着いた慧は床に置いていた鞄を拾い上げ、一度自分の部屋に向かった。そしてそこで薄手のスウェットに着替えると、再びリビングに戻って来た。
「慧。これで夕飯を買ってきてくれないか? まだしばらく掛かりそうなんだ」
一度作業の手を止めた父は財布から一万円札を取り出し、それを慧に手渡した。そして慧の答えを待たずして、父はパソコンに向かってしまった。
「分かった。じゃあ、行って来るよ」
部屋着感丸出しのスウェットで行くのは気が引けた。しかしまた部屋に戻って新しい洋服に着替えると、手間も洗濯物も増えるし……。なんて考えていると急に億劫になってきたので、慧はそれ以上考えることを止め、スウェットで行くことにした。そうしてスマホを右ポケットに、財布と家の鍵を左のポケットに入れて家を出た慧だが、数歩進んだところで立ち止まった。
(まだ時間が掛かるって言ってたし、今日は少し遠い方のコンビニに行くか)
と思い立ち、いつも通っている駅近くのコンビニでは無く、住宅街を抜けた先にある大通り沿いのコンビニへ行くことにした。
数十分前には軽い気持ちで大通り沿いのコンビニを選んだ慧であったが、そこへ到着する頃には後悔の念でいっぱいになっていた。
(いくら時間があるからとは言え、やっぱりこっちにしたのは不正解だったかもな……。まぁ仕方ない。引き返すのもバカらしいし、さっさと買い物を済ませて帰ろう)
ガラガラの駐車場を横切りながら小さなため息をつくと、慧は人気の無いコンビニに入店した。
「いらっしゃいませー!」
やけに張り切った声が店内と脳内に響く。
(大通り沿いなのに客が少ないな。夕飯前はこんなものなのか……?)
そんな取り留めのないことを考えながらスマホを取り出すと、歩きながら現在の時刻を確認した。そして何となく飲料売り場で立ち止まってスマホを眺め続けていると、飲料売り場横にあるバックヤードのドアが開いてもう一人の店員が出てきた。そしてやる気のない声で「いらっしゃいませ」と言ったので、慧が何気なく反射的にそちらを見ると、店員は速足でレジに向かってしまった。
(なんだ、今度は愛想の無い店員だな)
我に返ったというか、そこで一度スマホから視線が外れた慧はそのままスマホをポケットにしまい、カゴを持って弁当売り場に向かった。そしてロースカツ弁当二つとサンドイッチを二種類、ついでに明日の昼食分のおにぎりを三個買うくらいバチは当たらないだろうということで、それらをカゴに入れて一旦はレジに向かったのだが、無性に炭酸が飲みたくなったので一度飲料売り場に戻り、自分用のサイダーと父用の緑茶をカゴに入れて再度レジに向かった。他に客もいないので、律儀に誘導テープが貼られている場所から行かなくても良いだろうと思った慧がお菓子売り場の方に回って真っすぐレジに向かおうとしたその時、自動ドアが開いておばさんが入店してきた。するとおばさんは一直線にレジへ向かい、瞬く間に愛想の良い店員を捕まえてしまった。
「レジお願いしまーす」
おばさんに捕まるや否や、女性店員は嫌味の無い声音でヘルプを呼んだ。その一部始終を見ていた慧は、きっと迷惑客なんだろうな。と心の中で独り言ちながら、結局誘導テープが貼られている上を通り、店の奥側に位置するレジに向かった。
「お願いします」
もう一人の女性店員がレジに着いたのを見て、慧は口癖のように言いながらカゴをカウンターに置いた。
「いらっしゃいませ……」
聞き取れるか微妙な声量で挨拶をすると、女性店員はスキャナーを手に持って会計を始める。しかし本当に愛想が無いなと思った慧は、ほんの多少の興味から店員の顔を覗いてみようとしたのだが、帽子を余りにも目深に被っており、加えてマスクもしていてよく見えなかったので、諦めて財布を取り出そうとした時、会計を終えた店員がカゴを下ろすと、ネームプレートがチラリと目に入った。そこには確かに「江波戸」と書かれていた。
「江波戸?」
思わず慧が名前を読み上げると、店員は少しだけ肩を浮かせた。しかし何も無かったかのように商品を袋に詰め始めたので、人違いなのか? と慧が思った次の瞬間、帽子の隙間から銀色の前髪がはらりと零れた。
「あっ。……箸、二つお願いします」
見覚えのある銀髪にまたしても声が漏れてしまったが、ここで言及したところで互いにメリットは無いし、何より自分が口出しをしても迷惑だと思った慧は、咄嗟に言葉を選りすぐり、その場を誤魔化した。
「はい。……会計は二千六百八十円です」
恐らく伊武も自分の正体がバレたこと、そして慧が察して話を逸らしたこと。全てに気付いたうえで会計を進めた。慧としても、これで良かったんだ。と自らに言い聞かせ、その後は定型的な業務風景が流れ、慧は店を離れた。
(多分、いや、間違いなく、江波戸だったよな。まさか江波戸もここら辺に住んでるのか? まぁでも、触らぬ神に祟りなしって言うし、今日のことは見なかったことにしよう。うん、そうしよう)
つい数分前までは帰り道でサイダーを飲もう。なんて画策をしていた慧であったが、その野望はたった一つの懸念に打ち破られた。そして本格的な空腹と喉の渇きを覚える頃には、自宅に辿り着いていた。
「ただいま」
リビングに入ってから帰宅を告げると、散らかっているテーブルを軽く片付けて、そこにコンビニの袋を置いた。
「てきとーに選んできちゃったけど、確かロースカツ好きだったよね?」
「おぉ、覚えてたのか? 案外嬉しいもんだな。俺がレンジにかけて来るから、お前は座って待ってろ」
作業を一時中断した父は、笑みを浮かべながら弁当を二つ受け取って台所に向かった。残された慧はもう少しだけ机上の書類を整理すると、ビニール袋に残っているサンドイッチと飲み物、それと誤魔化しの為に貰って来た箸を取り出して先ほどまで父が座っていた隣の席に腰かけた。
弁当一つにつき凡そ五分の温め。一度目のアラームが鳴ると、悶えるような声を上げながら父が弁当を持ってきた。
「はいよ、先食っててくれ」
半ば放るように弁当を置くと、父は手に息を吹きかけながら台所に戻って行く。だいぶ熱そうだけど、折角父さんが気を遣ってくれたから先に食うか。と、竹製の箸を袋から出し、熱々の弁当を食べ始めた。
それから数分後、父はまたもや熱そうにしながら弁当を持って来ると、一旦テーブルの端に弁当を置き、ノートパソコンとラヴィを奥の方へずらして空いた場所に弁当を持ってきた。そうしてようやく席に着いた父に、慧は買ってきた緑茶を手渡して自分はサイダーを開けた。
「あ、そう言えば、お釣り返してなかった」
「いや、良いんだ。取っておけ。また追加で試作品を使ってもらうことだし、手付金ってことでな」
上手い冗談を言ったつもりなのか、父は上機嫌に笑いながら慧の肩を軽く叩くと、残りの白米と一切れのロースカツを一気に頬張り、ゴミを捨てるために立ち上がった。
「お前はゆっくり食べてて良いからな」
用事を済ませて戻って来た父は、椅子に着くとすぐにノートパソコンを引き戻して作業を再開した。こんなに近くで、いや、そもそも父の仕事風景を見たことが無かった慧は、言われた通りのんびりと食事を続けながらラヴィが少しずつアップデートされていく様を眺めた。
……しかしひたすらに単調な作業は慧に眠気をもたらし始めた。自分が作業をしているならまだしも、ただ眺めているだけなのだからそれは必然であった。そこで慧は寝落ちする前にやることを済ませておこうとリビングを離れた。まずは風呂に入り、そこで三十分ほど時間を潰し、風呂上りには洗濯機の予約をすると、今日干していた僅かな洗濯物を畳んで自室のタンスにしまった。この一連の行動をいつもより時間をかけて行い、夜の九時ちょっと前にリビングへ戻って来た。
「お、戻って来たな。いやー、予想より時間が掛かったが、ついさっき終わったよ」
リビングに入って来た慧を見て父は嬉しそうに語るのだが、慧本人は喜ぶのが正解なのか、安心するのが正解なのか、労うのが正解なのか分からなかった。その中途半端な心情は想像通り曖昧な表情や言葉となって露見したが、父はそれに構わず話を続けた。
「よし、まずは起動してみてくれ」
どちらが子どもなのか疑ってしまうほどに父は無邪気であった。慧はテーブルに置かれているラヴィを手に取ると、電源ボタンを長押しして起動した。
「点いたよ」
明転した画面を見せながらそう言うと、父は足元に置いている鞄を自らの膝の上に乗せ、そこから片手で持てるサイズの箱を二つ取り出した。一つは正方形に近く、もう一つは長方形の箱であった。
「それじゃあまずはこっちから……」
ぶつぶつと呟きながら正方形に近い箱を開けると、そこからはまた正方形に近い形のケースが出て来た。しかし箱とは違い、ケースは大分薄い。慧が物珍しそうにケースを観察していると、父の手によってそれは開かれた。するとその中には、またまた物珍しいフックのような形をした何かが入っていた。
「これは骨伝導式のイヤホンだ」
言葉で説明するとともに、父はケースからイヤホンを取り出し、それを右耳に引っかけた。
「こうやって引っ掛けるだけだ。念のためもう一個用意してあるが、基本的には片耳に装着していれば十分だと思う」
父は左を向き、自分の右耳が息子によく見える形で静止して説明を続けた。
「で、もう一つが……」
骨伝導イヤホンを外してケースに戻すと、今度は長方形の箱を手に取って開ける。するとそこから長方形の巾着袋のようなものが出て来た。父はそれの口を開けるとそこに親指と人差し指をそっと入れ、シックな黒縁眼鏡を引っ張り出した。そしてそのまま眼鏡を掛けると、慧の方を真っすぐに見た。
「眼鏡だ」
「うん、見れば分かるよ」
「ゴホン、そうだな。……で、こいつに関してだが、ちょっと言葉で説明するのは面倒だから、ひとまずラヴィとペアリングをしながら軽く説明しておく」
父はそう言うと右手を出したので、慧はすぐに察してラヴィをその手に乗せた。未だ画面いっぱいを真っ白に染めているラヴィを受け取った父は、電源ボタンを長押ししてペアリングモードに移行させ、机に置いた。続いて眼鏡右側の蝶番より少し後方の上部に設置された黒いボタンを長押しすると、数秒後にラヴィの画面が一瞬だけ明るんだ。それを確認した父は眼鏡をケースに戻し、今度はイヤホンを取り出して耳に掛け、曲線の外側にあるボタンを長押しした。
「イヤホンは前と同様」
と、ペアリング作業の途中で父は説明を再開した。
「この試作品と通信を行うためのデバイスだ。強いて言うなら、快適性を上げただけだな。耳に入れるイヤホンだと外の音が聞こえ辛いし、見栄えも悪い。だからこの形にしてみた。もしも使い辛かったら言ってくれ。耳に入れるタイプのもあるから」
「分かった」
「で、こっちの眼鏡だけど、こいつは優れもので、なんと試作品に視覚データを送ることが出来るんだ。それと、フレームにあるボタンを押せば写真も撮れる。あとは対象をスキャン出来る機能も備わっていて、それも勿論試作品に保存される。それに加えて――」
まだまだ長引きそうな説明は、イヤホンのペアリング終了音によって断たれた。
「よし、終わったな。まぁ後はアップデートされたこいつが逐一説明してくれるはずだ。ってことで、俺は風呂に入って寝る」
ここ数十分一方的に説明をしていた父は、突然遊び飽きた子どものように全てのデバイスをテーブルに放置して、心の赴くままにリビングを出て行った。
「ほんと、マイペースな人だな……」
リビングに残された慧は取っ散らかっているテーブルを見てぼやいた後、数歩前進して恐らく復活しているであろうラヴィを左手で取り、空いている右手で新しいイヤホンを取って右耳に掛けた。そして一呼吸置くと、数時間振りに名前を呼ぶ。
「ラヴィ?」
声が返って来ることは無かったが、画面上に三本の黒い線が浮かび上がる。するとそれらはゆっくりと動き出し、さも人が瞬くかのように黒い棒を丸くしたり伸ばしたりして、やがて驚いたような表情で形を留めた。
【ご主人! 何だかお久し振りですね!】
「あぁ、話したいことが山ほどあるよ」
数時間振りにラヴィの声を聞いた慧は、自然な微笑みを浮かべて席に着いた。




