第百二十五話 心に素直に
渡り廊下を抜け、階段を下り、下駄箱で靴に履き替え、天方中央駅へ向かい、電車に乗り、古屋根駅で下車する。その間慧と伊武は、全く言葉を交わさなかった。帰路を共にしているというのに、二人で歩いているというのに、二人は独りであった。しかしそれで良かった。少なくとも、今の二人にはそれが全然気にならなかった。考えるべきだと思って考え事に執心している慧と、話さなくて良いなら何も話したくないという伊武とで、意見を擦り合わせずとも利害が一致していたのである。とは言え、古屋根駅で下車してその風景を目にすると、慧の心内には俄かに、もうあと数分で自宅に着いてしまう。無言のままここまで来てしまったが、伊武は気まずい思いをしていないだろうか……。流石に何か話した方が良いだろうか……。という後悔と憂慮が芽生えてきて、慧は十数分振りに口を開いた。
「江波戸、今日はごめん。その……」
帰り道の沈黙に限らず、今日の度重なる過失の全てを思い返し、その全てについて謝罪しようと口を開いた慧だが、それでは長くなりそうだし、却ってまた迷惑をかけるのではと思い、過失の中から一つを選び出し、それを中心に謝罪しようと考えを改めたのだが、肝心なその一つを瞬時に選び出すことが出来ず、言葉に詰まる。すると、
「はぁ、別に気にしてないから。今日のこと全部」
まるで慧の心を読んだかのように、伊武が面倒くさそうに答えた。
「そ、そっか……」
伊武の心意気に感謝するべきか、或いは重ねて謝罪するべきか。慧はまたしても言葉選びに悩んだ末、口を噤んだ。となると勿論会話は途切れてしまい、二人は何事もなかったかのように傘を差して駅を離れた。
それから数秒後、横断歩道の信号待ちに、ふと伊武が口を開く。
「でも、一つだけ言っておく」
「な、なに?」
「お人好しって勝手だよね。他人の問題には首突っ込んで来るくせに、自分の問題は一人で抱えたがる。……ま、どうでも良いけど」
吐き捨てるようにそう言うと、伊武は先に歩き出し、横断歩道を渡って行く。
(今のってもしかして、俺のことを言ってたのか……? ニュアンス的には一人で抱え込むなって感じに聞こえたけど、遠回しに手伝うって言いたかったのかな……? いやいや、まさかな。思い上がりだな)
遠ざかる伊武の背中を見ながら浮かんで来た馬鹿らしい疑念をすぐに振り払うと、慧は信号が赤に変わる前にその背中を追って歩き出した。
その後、特にこれといった会話をすることなく帰るべき場所に帰り着いた慧と伊武は、門前で別れを告げて帰宅した。
「ただいま」
挨拶をしても返事はなく、人の気配もない。加えて、玄関にいつも出しっぱなしになっている父の靴もない。この状況から察するに、父は恐らく出かけているのだろう。そう推理をしつつ慧は家に上がり、まずは手洗いうがいを済ませるために洗面所へ向かう。次いでリビングへ向かい、空っぽの弁当箱をシンクに置くと、真っ直ぐ自室へ向かった。そして暑苦しい制服を脱いで薄手の部屋着に着替えると、その流れのままベッドに寝転がる。
……。こうして沈黙の中で一人になると、慧の脳内には再び母のことがチラつき始める。そしてそれは瞬く間に満ち満ちる。
(あの人が現れた直後にオーブの色が濃くなったってことは、虹色のオーブが暗示してたのは、あの人の存在だったってことなのかな……。確か鑑定してくれた人は、十中八九悪い結果にはならないけど、キツイ壁を乗り越えることになるかもしれないって言ってたよな……。状況的にはピッタリ当てはまってる気がするんだよなぁ……。悪い結果にはならない。か……。ってことは、俺の頑張り次第では、めっちゃ良い結果になるってことも考えられるのか? いやでも、そもそもの話、こんなオカルト話を信じていいのか……?)
ベッドの上で右へ左へ転がりながら、慧は絶えずオーブのことと、母のことを考える。しかし考えれば考えるほど、これ以上考えてはいけない、期待してはいけない、希望を抱いてはいけないような気がしてくる。何故なら、今慧が根拠の軸に据えようとしている虹色のオーブという存在は、ただのオカルト話に過ぎないからである。その結果に行き着いた慧は、鞄の中からラヴィ一式を取り出し、今日一日出番の無かった相棒に話し掛ける。
「ラヴィ、ちょっといいか?」
【……】
「ラヴィ?」
【……はぁ。なんですか】
相棒は案の定不機嫌そうである。その理由を大凡把握している慧は、すかさず弁明と謝罪を始める。
「今日は悪かった。ほとんど鞄から出してやれなくて。でもさ、眼鏡もイヤホンも本体も、雨に濡らしたくなかったんだよ。分かってくれるよな?」
雨が降っていることを言い訳に、慧はなるべく弱々しく、申し訳なさそうな口調で同意を求める。
【まぁ、私がいくら高性能とは言え、機械は機械ですから、濡らしたくない。濡らしてはいけない。というお気持ちを抱くのはよーく分かりますよ。ですが、雨くらいなら大丈夫ですから! お風呂に落とすだとか、海に落とすだとか、水浸しにされない限り、大抵は大丈夫ですから!】
「そうだよな。雨に濡れたくらいじゃ壊れないよな。でも、万が一を思って、俺はお前を鞄にしまっておいたんだよ」
【ご、ご主人。私のことを心配して……。私、感涙であります……】
上手くいったな。ラヴィの反応を見て、慧は心の中でしめしめと思った。しかし次の瞬間、
【とまぁ、茶番はここまでにしておきましょうか】
と、ラヴィはガラッと態度を変え、サバサバした声音で話を再開する。
「あ、あれ……?」
【私もバカではありませんからね。ご主人の本音と建前くらい聞き分けられますよ。というわけで、さあ、話してください。お話ししたいことがあるのですよね?】
「うん。母さんのことなんだけど……」
いつもの茶番が始まると思っていた慧は一瞬面食らったが、ラヴィの態度と声音が真剣そのものだったので、慧はすぐに気持ちを切り替え、今日あった出来事を話し始めた。と言っても、ラヴィも鞄の中で大体の話は聞いていたと思った慧は、今日あった出来事を一から説明するのではなく、今日あった出来事について自分がどう思ったのかを一つ一つ伝えていった。昨晩から考えている母のメモを探すかどうかについて思っていることに始まり、今朝璃音の覚悟を聞いて思ったことや、放課後に写真を撮り、濃くなっていたオーブを見て思ったこと、恵凛のオーブも気になっていること、そして最後に、つい先ほど伊武に言われた遠回しな助言のこと、等々。慧は今日あった出来事を思い返しながら、その感想を述べていった……。
【なるほど……】
長い長い感想が終わると、ラヴィは冷静に一言、そう呟いた。
「ちょっと長くなり過ぎたな」
【いえいえ、そんなことはありませんよ。ご主人がそれだけ真剣に考えているという証拠です】
「そっか……。うん、そうだな。それで、ラヴィはどう思う?」
【そうですねぇ。ご主人を気遣った丸い言い方をしますと、悔いの無い選択を。ということになりますが、恐らくご主人はそれを望んでいないと思いますので、率直に申し上げます。私は、一度お母様とお話なさった方が良いと考えております】
「まぁ、そうだよな……」
疾うに答えは分かっていたような、しかしだからこそ聞きたくなかったような、複雑でいて茫漠とした気持ちを抱きながら、慧はポツリと答えた。
【お話した方が良いとは言いましたが、別に今すぐにというわけではありませんからね。少しずつ少しずつ、気持ちを前に向けて行けば良いと思いますよ】
「うん。それは分かってるよ。でも、どうにもオーブの事が気になってさ。オカルト話だって理解してるつもりなんだけど、今色が濃くなってるってことは、今が最大のチャンスなのかもしれない。これを逃したら、もう二度とチャンスは訪れないのかもしれない。とか考えちゃうんだよな」
【ふむ、なるほど。つまりご主人は今、オーブというのは非現実的な存在で、そんなオカルト話一本を根拠に突き進むことは出来ない。と思う反面、先日聞いた虹色のオーブが持つ意味やら暗示やらが、今現在ご主人が抱えている問題にマッチしてしまっているが故に、オーブの存在を完全に切り捨てることが出来ない。という状況に陥っているわけですね?】
「そう。まさにその通りなんだよ」
【これはこれは。大分オーブに影響されていますね】
「そうなんだよ。だからどうにかしてオーブの存在を切り捨てたいんだけど、なんか方法ないかな?」
【無いです】
「えっ、じゃあどうすれば……?」
【どうするも何も無いですよ。だってご主人は、虹色のオーブを信じたいと思っているのですから】
「信じたい? オーブのことを?」
【はい。そこまでオーブのことを気にしているのは、何かしら理由が欲しいからなのだと私は思いますよ。お母様に会いに行く口実が欲しい。でも、手元にある判断材料は虹色のオーブだけ。これでは納得性と真実味に欠けるから、なかなか踏み切れない。しかし心の奥の奥では、お母様に会いたい、お母様と話したい。と思っている。だから煮え切らないのだと思いますよ。少しキツイ言い方になってしまいますが、ご主人が右往左往しているのはオーブのせいではなく、勇気が湧いてこないだけ、覚悟が固まらないだけなのだと私は思います】
「……」
ラヴィの機械的で冷たく、それでいて鋭い意見に慧は言葉を失った。自分でも知らない、いや、見ようとしていなかった自分の心の奥底に潜む本音を言い当てられたような気がして、何も言い返せなかったのである。
【淡白かつ不遜な物言いをしてしまい、申し訳ありません】
「いや、良いんだよ。多分俺、この目覚めの一発を期待してお前に話し掛けたんだと思うし」
【そうですか。少しでもお力になれたのなら幸いです】
「うん……。俺、メモ探すよ」
相談に乗ってくれたラヴィだけでなく、自分なりのこだわりと覚悟で問題解決に勤しむ姿を見せてくれた璃音と、母親と向き合う努力と勇気を間近で見せてくれた伊武の助けもあり、慧は小さいようで、とても大きな一歩を踏み出すのであった。




