第百二十三話 優しい嘘
悪天候のため皆早めに家を出たのか、教室には既にほとんどのクラスメートが集まっていた。その中には恵凛と伊武の姿もあった。二人は自分の席に着き、恵凛は読書をして、伊武は机に突っ伏して、と、各々ホームルームが始まるまでの時間を潰していた。慧はそんな二人の姿を教室後方の出入り口で視認してから自分の席に向かう。
「おはよう、龍宮」
自分の机に鞄を置いた慧は、まず先に、起きている恵凛に挨拶する。
「おはようございます」
恵凛は読書の手を止めると、慧の方を向いて挨拶と微笑みを返した。かと思うと、そのまま言葉を続ける。
「伊武から聞きましたよ。土曜日のこと。風見君の見守り付きでお母さんとお話をしてきたって」
「う、うん。そうなんだ。その、隠しててごめん。本当は先週、龍宮に江波戸のことを聞かれた時に言っておくべきだったんだろうけど、なかなか言い出せなくて……」
「いえいえ、気にしないでください。それについても伊武から聞いていますので」
「えっ?」
「伊武に話さないで欲しいって頼まれていたから話せなかったんですよね?」
「あぁ……。うん……」
そんなこと言われた覚えはないのだが、恵凛にそう言われた直後、これに便乗すれば楽になれるぞ。という悪魔の囁きが聞こえてきて、それは一瞬のうちに慧の心を支配してしまい、結果慧は、ただ相槌を打つだけで済ませてしまった。
(やっちまったぁー! 何やってんだ俺は。我が身可愛さにあっさりと楽になる方を選ぶなんて……。こんなことしてたら一生龍宮に話せないままだ……。ん? てか待てよ、そもそも江波戸は本当にそんなこと言ったのか? もしかしたらこれは、龍宮が俺の嘘を炙り出すためについた高度な嘘って可能性も……。いやいや、流石にそれはないな。龍宮がそんな意地の悪い罠を張るとは思えないし。でも、可能性がゼロとも言い切れないよな……?)
なんて慧が自ら疑心暗鬼に陥っていると、
「話し合いの結果までは聞けていないのですが、風見君は何か聞きましたか?」
と、恵凛が平然と話を続けた。
「い、いや、まだだよ」
慧はそれに慌てて答える。
「うーん、そうですか……。やっぱり、伊武が話してくれるのを待つしかないみたいですね」
「うん。俺もそれが一番かなって思ってるよ。はは……」
不必要な愛想笑いを添え、歯切れ悪く会話に一区切りがついたところで慧は再び内省に戻る。
(ふぅ。良かった。今の話し方的に、龍宮がわざと嘘をついたって線は限りなくゼロに近そうだ。ってことはつまり、江波戸が本当にそう言ったってことになるよな? なんで自分が悪者になるようなことを言ったんだ……? これは直接本人に確かめた方が良さそうだな。それを確かめてから、龍宮に真実を話すかどうか決めても遅くないはずだ)
そう結論を出した慧は、左隣の席で眠っている伊武に視線を移す。するとそのタイミングで予鈴が鳴り、それに反応した伊武がゆっくりと上体を起こした。そして黒板の上に掛かっている壁掛け時計で時間を確認したのだが、その際、視界の端に自分のことを凝視している慧の姿が映ったようで、伊武はすかさず鋭い視線を慧に向けた。
「なに」
「い、いや、なんでもないよ」
目が合うや否や喧嘩腰の言葉を浴びせて来た伊武にビビり、慧は弱気な言葉を返して自らの手元に視線を移す。
(めっちゃ機嫌悪いじゃん……。こりゃ今日聞くのは無理そうか? いや、諦めるにはまだ早い。寝起きで機嫌が悪いだけかもしれないし、今は一旦、聞けそうなタイミングが来るまでじっくり待とう)
一度は心が折れかけたものの、最終的には様子見をするという方針に定まったところで、教室前方のドアが開き、内海が教室に入って来た。
……それから様子見すること四時間。午前の授業は全て終わり、あっという間に昼休み。今日の伊武は珍しく全ての授業に出席していたため、授業と授業の間にある十分休みに話しかけられるチャンスは何度もあった。しかし恵凛がいるところで、「なんで俺をかばうようなことを言ったんだ?」なんて旨の質問が出来るわけもなく、だからと言って伊武と二人きりになる努力をすることもなく、今に至る。
(やべー、もう昼休みか……。ここまで来たら様子見とかしてる場合じゃないな。どうにかして江波戸と二人きりの瞬間を作って、サラッと聞き出さないと)
今の方針ではダメだと悟った慧は、早速方針をチェンジして、スピード勝負に出ようと決意する。しかし、
「風見君、伊武、お昼一緒にどうですか?」
それは見事に、恵凛の無邪気さの前に玉砕した。
「う、うん。いいよ」
慧は喉元まで迫り上がっていた言葉を飲み込んで答えると、鞄から弁当箱を取り出しつつ、今日はもう無理そうだなと心の中で落胆した。が、次の瞬間、
「龍宮さん。ちょっと良いかしら?」
今度は教室後方の出入り口から第三者が介入して来た。恵凛がその声に振り向くのはもちろん、慧も何となくその声の主が気になったので、身体を少し後ろに反らして教室後方の出入り口を見ると、そこには担任の内海が立っていた。
「はい」
呼ばれた恵凛は短く答えて席を立つと、内海の元へ向かう。そして二、三往復のやり取りを交わして席に戻って来ると、
「ごめんなさい」
真っ先に詫びを入れて頭を下げた。
「早退することになりました」
頭を上げた恵凛は、慧が理由を聞くよりも前に、何なら驚きの声を上げるよりも前に理由を述べた。
「そ、そうなんだ……」
間違いなく体調不良ではないので、恐らく家庭の事情での早退なのだろう。とすぐに察した慧は、「家のことで?」と続けて聞くことも出来たのだが、その時突然慧の脳内に、「龍宮」という巨大な看板が浮かび上がって来たので、慧はこれ以上言及することは控えた。
「それでは、お先に失礼します。……あの、また今度、お昼のお誘いをしても良いでしょうか?」
「うん、もちろん。気を付けてね」
「はい。ありがとうございます」
恵凛はホッとしたような笑みを浮かべてそう言うと、もう一度頭を下げ、スライドドア付近で待っている内海と合流し、そのまま廊下の向こうへ消えて行った。そしてその場には、慧と伊武が残された。
(何があったかは気になるけど、俺に出来ることは何も無いからな。強いて言うなら、何事も無いことを祈るだけだ……。というか、図らずとも二人きりになったな……)
見送りを終えると同時に絶好のチャンスが訪れたことを知った途端、慧の中には俄かに緊張感が芽生えた。全身がやや強張り、鼓動が早まっていくのを感じる。
(落ち着け、俺。シンプルに、順を追って話を進めていけば大丈夫だ。まずは昼ご飯に誘う。で、何でも良いから話をして、その後にサラッと、今朝の龍宮との話に待って行って、そこで理由を聞く。よし、これでいこう)
しっかりと会話のプランニングをしてから、慧は伊武の方に身体を向けて口を開く。
「なぁ江波戸。せっかくだし、二人で昼、食べないか?」
「ん。いいよ」
恐る恐るかつ辿々しく提案した慧に対し、伊武はスマホをいじりながら、思いの外すんなりとオーケーを出してくれた。
「マジか。良かった」
「別にそんな驚くことじゃないでしょ。どっちにしろ、勝手に三人で食べる流れになってたわけだし」
「ははっ、確かに」
朝に比べたら多少は機嫌が良いように感じたので、慧は少しだけ安堵して笑みを溢した。とは言えこれは序の口に過ぎない。「お昼に誘う」という第一段階をクリアしたまでの話で、問題はここからなのである。どうやって今朝の話に持っていくか。これが重要なのである。慧は数秒だけ生じた穏やかな瞬間を堪能すると、すぐに話を再開する。
「龍宮、家で何かあったのかな?」
たった今、恵凛が早退するという小さな出来事があったので、慧はそれを利用して、そのままシームレスに今朝の会話に移行しようという作戦を思い描いた。しかし伊武は、
「なにが」
と、何事も無かったかのように答えた。
「えっ、今さっきの話、聞いてたよな?」
「ん。早退の話でしょ。聞いてたけど」
「それについて、何かあったのかなって思わないのか?」
「まぁ、思ったところで何もできないし」
「そ、そりゃそうだけどさ……。江波戸は今、龍宮の家に世話になってるわけだし、多少は気になるだろ?」
「平気」
「いやいや、その根拠は――」
「これ」
伊武は慧の言葉を遮って答えると、スマホの画面を慧に突きつけた。そこにはメッセージアプリのトークルームが表示されており、その相手は、三宅。となっていた。そして肝心のメッセージは、
『つい先ほど本家からの呼び出しがあり、お嬢様はそちらに向かいました。ですが安心してください、夜にはお戻りになるようですので、伊武様はいつも通り、ご帰宅して大丈夫ですからね』
と書かれていた。
「仕事早っ。てか、手厚いな……」
「ふっ、なんか気に入られてるみたい」
伊武は少しだけ喜びの感情を露にして答えると、自然な微笑みを浮かべた。
「な、なるほどな……」
納得はいかないが、納得せざるを得ない証拠と、何より、伊武の稀有な微笑みを見せられてしまったので、慧は無理やり話を飲み込むことにした。しかし飲み込んだせいで会話が終了してしまった。こうなったら、もう一度話題を考え直す他ない。その事実を受け入れた慧が再度話題を探し始めようとしたその時、
「そろそろ本題に入ったら?」
ほんの数秒前まで笑みを浮かべていたはずの伊武が、いつも通りのポーカーフェイスで問い掛けて来た。
「えっ、本題って……。まさか江波戸、今朝の会話、聞いてたのか?」
「いや」
「じゃあなんで、話したいことがあるって分かったんだ?」
「何となく。様子がおかしかったから」
「挙動不審だった的な?」
「まぁ、そうかな」
「マジか……」
慧は答えるともなく呟くと、今朝登校途中で璃音にも似たようなことを言われたな……。と思い出し、今後はもう少し振る舞いに気をつけようと胸に誓った後、伊武に向き直る。
「そこまで気付いてるなら遠回りする必要も無いな。実は今朝、龍宮と話した時、江波戸が俺を口止めしてたって、心当たりの無いことを言われたんだ。これについて、江波戸本人から本当にそう言ったのかと、なんでそう言ったのかの理由を聞きたいなと思って」
「あぁー、それね。もう聞いたんだ」
伊武は近いうちにこの瞬間が訪れることを予期していたような軽い口振りで返し、言葉を続ける。
「確かに言った。私が風見の口止めをしてたって」
「なんで自分が悪者になるようなことを言ったんだ?」
「これが一番丸く収まると思ったから」
「丸く収まる?」
「そう。私が口止めしたってことにしておけば、恵凛が私を責めることも無いし、あんたと恵凛の関係もこじれずに済むと思った。だから嘘をついた」
「なるほど。結果、江波戸の狙い通り、全て丸く収まったってことか」
「まぁ、今んとこはね。あんたが変なことしなければ、今後も大丈夫だと思う」
「変なことってなんだよ」
「正義感に駆られて真実を話そうとする。とか」
「うっ、や、やらないよ……」
正直理由次第では洗いざらい恵凛に打ち明けようと考えていたので、図星を突かれた慧は窮屈な返答をした。
「ま、忠告はしといたから」
「うん。気を付けるよ」
「あとこれ、一応恩返しでもあるから」
伊武は早口にそう言い切ると、竹の弁当箱からサンドイッチを取り出し、それにかじり付いた。
「ははっ、そっか。ありがとな」
なんだかんだで伊武との親睦が深まっていることを実感しつつ、慧も自分の弁当箱を開き、二人はポツポツと会話をしながら昼休みを過ごすのであった。




