第百二十二話 一水四見
いろいろあった週末も終わり、月曜日。いつも通りの時刻に鳴ったアラームで目覚め、いつも通りに登校の準備を済ませた慧は、リビングのソファに腰かけ、家を出る時間になるまでボーっと待機していた。
(メモ。どうするべきかな……。江波戸の件も終わりが見えて来たし、先輩の方もひとまず落ち着いたから、タイミングとしては悪くなさそうなんだよな。でもなぁ、なんか腰が重いんだよなぁ。どこにあるかも分からないし、そもそもまだ残ってるかも分からないし。それに、メモを見つけたからって母さんが戻って来るとも限らないし……。って、江波戸には散々偉そうなこと言ってたくせに、自分が同じ立場になった途端弱音ばっかり吐くなんて、めっちゃダサいな、俺……)
寝れば少しはプラス方向に考えが変わっているかもと期待していた慧だが、起きても結果は同じであった。メモを探した方が良いのか、探さない方が良いのか。結局この二つの間を永遠に行ったり来たり。まだまだ答えは出そうにない。一応気持ち的には、これまでの伊武の行動や伊武とのやり取りを思い返し、自分も母と向き合うべきなのだろう。いや、向き合わなくてならない。と、メモを探すことに前向きではあるのだが、その決心がつくには、その最初の一歩を踏み出すには、まだもう少し時間や判断材料が必要だと慧は感ずるのであった。
【ご主人。そろそろお時間ですよ】
「あぁ、うん。ありがと」
視線を時計に向けていたおかげでラヴィが声を掛けてくれた。慧はその一言に礼を返すと、傍らの鞄を持ってソファから立ち上がり、家を出た。
外は雨が降っていた。まるで憂う自分の心模様を反映したかのようである。なんて詩的な字句が慧の脳内に浮かんだが、慧はすぐにそれを美辞麗句と決めつけ、くしゃくしゃに丸めて脳内のゴミ箱に捨てると、傘を差して駅に向かった。
雨のせいか、はたまた悩み事のせいか、慧はいつもより一、二分ほど遅れて駅に到着した。しかしその事実に全く気付いていない慧は、傘の生地に張り付いた雨粒を悠長に払い始める。すると間も無く、線路沿いの道方面からパシャパシャと急ぐ足音がこちらに近付いてきた。
「あっ、風見じゃん」
足音に反応した慧が左方に顔を向けると、丁度駅の屋根下に駆け込んで来た璃音と目が合い、璃音が先に声を上げる。
「おはよう、雀野」
「あんた何チンタラしてんの? もう電車来るよ?」
挨拶も無しに璃音はそう返すと、手荒くバサバサと傘を振るわせ、生地を纏めもせずに改札を抜けて行く。まだそんなに急ぐ時間じゃないだろ……。慧がそう思いながら傘を纏めていると、電車が駅に到着するというアナウンスが聞こえて来た。それでようやく慧も危機感を覚え、慌てて改札を抜けると、階段を駆け上がり、ギリギリ電車に乗り込んだ。
「はぁはぁ、危なかった……」
「余裕こいて雨粒なんか払ってるからでしょ」
電車に駆け込んだ慧が乗降口の脇にある手摺りに掴まって小さく心の声を漏らすと、背後からすかさず厳しい言葉がかかった。振り返ると、そこには璃音が立っていた。
「同じ車両だったのか……」
「嫌なわけ?」
「いや、別に」
「間に合って良かったね」
「あぁ、うん」
「間に合って、良かったね?」
「う、うん。雀野のおかげだよ、ありがと」
感謝の言葉がご所望なのだと察した慧がそう答えると、璃音は満足げにニコリと笑みを浮かべ、スマホをいじり始めた。
それから約十分間電車に揺られ、慧と璃音は天方中央駅で降りた。折角同じ電車の同じ車両に乗り合わせたので、二人は何となく、暗黙の了解で、教室まで一緒に行くことになった。
「恵凛とかは一緒じゃないんだね」
改札を抜け、他の生徒たちが散り散りに学校へ向かい始めた辺りで璃音が話を切り出す。
「うん。今朝は会わなかったからね」
「ふーん。いつもそんな感じなんだ?」
「そんな感じって?」
「約束とか無しに、朝ばったり会ったら一緒に登校してる感じなんだねってこと」
「あぁ、うん。そうだよ。しょっちゅう俺と登校してて変な噂が立ったら龍宮に迷惑だろうと思って、基本は登校時間をズラしてるよ」
「あんたなりの気遣いってことね」
「まぁ、そうだね」
話はここで一段落し、少し歩いてから、
「にしても、今日は大分ギリギリだったんじゃない?」
と璃音が話を再開する。
「うん。いつもと同じ時間に出て、いつもと同じ感覚で歩いてたつもりだったんだけど、雨が降ってたせいか、歩くのが遅くなってたみたいなんだよな」
「あぁ~、あるよね、そういうの。自分的にはいつも通りのはずなのに、なんか一つ歯車がズレてる感じ」
「歯車がズレてる感じ、か……」
璃音の何気ない一言を聞き、慧の頭の中には昨日の母の姿と、母が出て行った時の光景が浮かび上がってくる。きっと、いや間違いなく、この歯車がズレているんだ。慧はそう思った。
「風見?」
「ん? あぁ、ごめん。なに?」
璃音の呼び掛けで慧は母の幻から解放された。
「どうしたの? さっき駅前でもそうだったけど、なんか今日、ボーッとしてない?」
「いや、そんなことないよ」
「そんなことなくない。考え事?」
「ははっ。まぁ、そんなとこかな」
「なによそれ……。伊武の方、上手くいってないとか?」
「いや? むしろもう大詰めだよ」
「大詰め? 仲直り出来そうってこと?」
「うん」
「ふーん。そうなんだ」
慧の答えを聞いた璃音は悔しそうに唇を尖らせた。
「雀野の方は上手くいってるのか?」
「順調よ!」
慧の問いに璃音は自信満々に答えた。かと思いきや、その表情は徐々に曇っていき、
「って言いたいとこだけど、正直、足踏み状態かな」
「そうなんだ。何が原因なの?」
「うーん、なんだろ。曲も全然出来ないし、バンドも解散しちゃったし、打つ手も無ければ次に何をすればいいのかも分からないって感じなんだよねぇ~」
「そっか。八方塞がりって感じなんだな……」
慧はそう答えながら、(理由のベクトルは違うけど、雀野も俺と同じで、最初の一歩を踏み出せないんだな)。と、仲間意識のようなものが芽生えると同時に、その事実から少しだけ勇気を貰ったような気がした。
「ちょっと、それだけ?」
「いやいや、色々考えてたんだよ。てか、俺から聞いといてなんだけどさ、その話、俺にして良かったのか?」
「あっ……。ま、まぁ、今日は特別よ。情報交換ってやつ?」
「ははっ。そんな強情にならなくても、みんなで問題を解決すればいいのに」
「それは、そうだけど……」
「何となく引っ込みがつかないんだろ? 分かるよ」
「うっさい。で、なんか案はないの?」
どうやら図星だったようで、璃音は不機嫌そうに話を進める。
「急に案って言われてもなぁ。もうこうなったら、直接浜崎さんに会いに行くのが一番良いんじゃないのか?」
「それが出来たら苦労してないわよ」
「曲を作るよりは簡単だと思うけどな……」
「はぁ、あのね。一個言っとくけど、あたしとあの人が仲直りするなんてのは朝飯前なのよ。連絡取って会って話せば、いつだって簡単に仲直り出来んの。でも、今回そうしないのには理由があんのよ」
「理由か……。それは聞いてもいいやつ?」
「本当は言いたくないけど、今日はもう既に口を滑らせてるから最後まで話してあげる」
そこは潔いんだな……。慧は心の中でツッコミを入れ、話の続きに耳を傾ける。
「ボーカル決定戦が終わった後、あんた、私の事を追いかけて来て言ったでしょ。白を選んだ理由を本人に聞かなくて良いのか? って。で、そん時のあたしは理由を聞くのが怖くて逃げた。けど、それから日が経って、改めて考えて思ったの。あの人があたしを音楽から遠ざけるために、ましてや音楽を辞めさせるために白を選ぶわけないって。あの人はきっと、あたしのことを思って白を選んだんだって。となれば、あたしも意味のある回答を出さなきゃダメっしょ。って思ったの。だから今回は、会って話してはい仲直り。って感じにはしたくないんだよね」
「なるほど。白を選んだ理由ね……」
あの日ライブハウスに引き返して浜崎本人の口から理由を聞いている慧は、その内容を思い出しつつ、案外いい線を行っているなと思いながら呟く。すると慌てて璃音が、
「あっ、待った! 白を選んだ理由、言わなくて良いからね。てか、絶対に言わないで!」
と、止めに入った。
「大丈夫。言わないよ。ちょっと内容を思い出してただけだから」
「それでポロッとこぼすとかも無しだからね?」
「わ、分かってるって」
慧はそう答えながら、それだけ真剣に浜崎と向き合おうとしているのだな。と、璃音のガッツを心の中で高く評価した。
「まぁ、てなわけで、あたし的には、あの人が行動で試練を課したように、あたしも行動で成長を示したいわけ。あと、普通に見返してやりたいし……」
「そっか。ちょっと遠回りにはなりそうだけど、それが何と言うか、雀野っぽいし、二人らしい仲直りのやり方なのかもな」
璃音の心意気を聞いた慧は、(最後の一言を除き)璃音は璃音なりの方法で浜崎と向き合おうとしているのだなと大いに感服し、璃音の背中を押すような言葉を返した。
「へへっ。でしょ?」
「うん。応援するよ。あと、力になれるかは分からないけど、俺で良ければ協力するからさ、助けが欲しくなったらいつでも声かけてくれて良いからな」
「うーん、まぁ、めっちゃ追い詰められたらね」
「ったく、そこは相変わらず頑ななんだな」
「まぁね。一応あたしから持ち掛けた勝負だし、そこはやり切りたいかなって」
「ははっ。良いと思うよ。雀野のそういうとこ」
「は、はぁ? なに言って……。やっぱおかしいわ、今日のあんた」
璃音は早口にそう言うと、歩度を速め、慧の少し先を行く。慧はその背中を見つめながら、先ほどの彼女の言葉を思い出す。
『あの人があたしを音楽から遠ざけるために、ましてや音楽を辞めさせるために白を選ぶわけないって。あの人はきっと、あたしのことを思って白を選んだんだって』
何故かこの言葉が引っ掛かる。璃音と浜崎の話なのだが、どこか自分にも関係しているような気がする。
(もしかして母さんも、俺たちが嫌いになったわけじゃなくて、俺たちのためにあの家を出て行くしかなかった。なんて可能性もあるのかな……? いや、流石に希望的観測だな)
慧は脳内に浮かんだ愚考を切り捨てると、昇降口で傘を纏めている璃音に追い付き、そのまま璃音と共に教室のある四階へ向かうのであった。




