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第百二十一話 あの日、あの人

 赤い車が走り去って数秒後、静かに慧の前まで歩み寄って来た父が、中で話そう。と言ったので、慧はそれにぼんやりと頷いて応え、二人はひとまず帰宅した。


「座って待ってて」


 父はそう言ってショルダーバッグをダイニングチェアに置くと、キッチンへ向かった。一方慧は何も言わずにその姿を目で追い、父が冷蔵庫を開けるところまで見てからようやく歩き出すと、父のバッグが置かれている椅子の対面の席に腰掛けた。


「はいこれ。喉、渇いてるだろ」


 父はそう言いながら慧の前に麦茶の注がれたコップ置く。


「ありがとう……」


 慧は感謝の言葉をボソッとこぼし、ゆっくり麦茶を飲みながら、じっくり父への質問を考える。しかし、


(父さんはあの人と出掛けてたのか? 父さんとあの人は知り合いなのか? 父さんとあの人は何の話をしてたんだ? そもそも、あの人は誰なんだ?)


 と、聞きたいことが次から次へと浮かび上がって来て、そしてそのどれもが重要な質問のような気がして、どれから聞くべきなのか一向に定まらず、慧は結局、麦茶を半分ほど飲んでコップを手元に置いた。


「きっと今、聞きたいことがありすぎて混乱してるよな?」


 黙っている慧を見て心中を察したのか、父が話を切り出す。


「うん」

「そうだよな。ごめんな、何も話してなくて」


 父はそこで一度言葉を止め、一呼吸挟んでから話を再開する。


「本当は先週、話しておくべきだったんだと思う。二人でとんかつを食べに行った帰りに、お前が赤い軽自動車の話とそれに乗ってる人の話をして、心当たりはあるかって聞かれた時に」


 父の不穏な語りに、慧は相槌を打つのも忘れて次の言葉を待つ。


「実はあの時、何となく頭に浮かでる人はいたんだ。でも、確証が無かったから話すことは控えた。いや、違うな。それは言い訳だ。確かに半分は確証が無かったからだけど、もう半分は、話す決心がつかなくて、意図的に話さなかったんだ。って、今更こんなこと言ってもしょうがないよな。まぁそんなわけで、このままにしちゃいけないと思ってな、数日前、確証を得る為に、あの時頭に浮かんでいた人物に連絡して、今日会って来たんだ」

「……俺が前に何回か家の前で見たのも、あの赤い軽自動車と、あの人だった。てことは、俺が話した人と、父さんが頭に思い浮かべていた人は同一人物だったってことで良いんだよね?」

「あぁ。そう言う事になるな」

「それで、あの人は何のために何度もウチに来てたの?」

「それは……」

「今日、聞いて来たんだよね?」


 慧の問いに父は眉を顰めて頷く。しかし中々言葉を返そうとしないので、慧は質問を変えることにした。


「あの人、父さんに会いに来てたの?」

「概ねそれで合ってるな。だが、目的はもう一つあった」

「もう一つ?」

「あぁ……」


 そう答えた切り、父はまた口を噤む。平生から父は、誰かと会話をする時に最も適した言葉を用いようとするせいで、言葉選びに時間が掛かる。つまるところ口下手なのだが、今日に限ってはその生まれつきの口下手が悪さしているようには見えない。今の父は、言葉を探しているというよりかは、根本的に答えたくなさそう、話を進めたくなさそうなのである。とは言え、慧もここですんなり引くわけにはいかない。こんな微妙なところで話を切り上げられるわけがない。


「もう一つの目的って?」


 答えたがらない父に慧は詰め寄る。


「もう一つの目的は……。お前を見るためだ」

「俺を……?」


 追い詰めた父の口から出た答えを聞き、慧は言葉を失う。


「あの人は、お前の母さんなんだ」


 衝撃を受けている所にダメ押しの一撃が加わり、慧は完全に絶句する。そしてチカチカと激しい眩暈が走った数秒後、慧の脳内ではつい先ほど見た光景が再生される。

 ――赤い軽自動車と、その傍らに立つ女性。彼女は慧を見つけるや否や、慧に背を向け、車に乗り込み、車を走らせる。走り出した車はどんどん慧から遠ざかり、あっという間に視界から消え去る。また行ってしまった……。後悔と無念に苛まれ、慧は瞼を下ろす。……しかしいつまでも感傷に浸ってはいられない。そう思った慧が瞼を上げると、慧は何故か一階の廊下に立ち、玄関の方を見ていた。下からやや見上げるような視界の先には父の背中があり、その奥には、長い黒髪の女性が立っている。


『待ってくれ、灯子とうこ

『話し合いはさっき終わったでしょ』

『いや、俺はまだ納得できないよ……』

『あなたはいつもそう。自分の納得ばかり優先して』


 弱々しく抗議をする父にぴしゃりと答え、女が振り向く。すると女の顔が、母の顔が、慧の目に鮮明に映った。どこか突出して目立つパーツがあるわけでも無く、パッと見で目を奪われるほど華やかなわけでも無い。しかし見ていると安心する、全てのパーツが丸く柔らかく調和した整った優しい顔立ち……。以前にも何度か似たような幻影を見たことがあるが、ここまで鮮明に母の顔を思い出したのは久し振りのことであった。


『もう無理。話し合いも終わり』


 母はハッキリそう言い切った後、父の背後に立つ慧を見つける。


『あっ、慧。ごめんね、こんなところを見せちゃって』

『慧……。その、ちょっとこっちの部屋で待っててくれないか?』


 父はあからさまに気まずい表情を浮かべると、リビングの方へ移動してドアを開き、慧をそこに誘導しようとする。しかし慧はそれに構わず母の前まで進む。


『慧。あの人のこと、よろしくね。あと、これを渡しておくから』


 その場で少し腰を折った母は慧に視線を合わせてそう告げると、慧の手に紙片を握らせた。そして、


『元気でね、慧』


 と、儚さと悲哀に満ちた微笑みを残し、二人に背を向け、玄関ドアの向こうに広がる光の中に消えて行った――。


「……慧? 大丈夫か、慧?」


 母を飲み込んだ真っ白い光を見つめていると、その光の向こうから父の声が聞こえて来る。父さんが呼んでいる……。そう知覚した直後、慧の意識は途轍もない速度で現実へと引き戻され、目の前には、玄関ドアではなく父の姿が現出する。


「う、うん。大丈夫」

「良かった。何度呼び掛けてもピクリとも動かないから心配したよ」

「ごめん」

「いや、謝るのは父さんの方だよ。嫌なことを思い出させたよな?」

「まぁ、うん。でも、もう大丈夫だよ。何年も前のことだし」

「そうか。それなら良かった」


 親子は互いに不格好な笑みを浮かべ、互いに次の言葉を探り始める。


「……それで、母さんとは何を話したの?」


 数秒後、慧が話を再開する。


「そうだな。うん」


 慧の問いに答えているというよりかは、父は父自身の気持ちを確かめるかのようにポツリと言葉をこぼし、呼吸を整えてから慧の方に向き直る。


「今後のことを話して来たんだ」

「今後のこと?」

「あぁ」


 父の声音は先ほどよりも重々しく、鈍く、前進を嫌っているかのようである。しかしその面持ちからは、答えることからは逃げられないという覚悟が感じ取れたので、慧はじっと、父が話し出すのを待つ。


「今日してきた話はな、その、父さんと母さんが離婚するかどうかって話と、母さんがお前を引き取りたいって話だ」

「……」


 慧は何かリアクションを起こそうと口を開くのだが、聞かされた報告はどちらも衝撃が大きく、どちらも軽い気持ちで触れられるような内容ではなかったので、慧は結局何も言えずに口を閉ざした。


「突然こんな話をされても、どんな反応をすればいいか分からないよな。父さんも分からなかったよ」


 父は慧に同情しているとも、自分の本音を吐露しただけとも取れるような弱音を吐き、麦茶を一口飲んだ。


「まぁでも、今日明日に結論を出せってわけでもないからさ。その、準備する時間はいっぱいあると思うよ。あっ、いや、準備って言っても、悪い結果に向けて心の準備しようってわけじゃないからな? これから良い結果に向かうための準備時間がいっぱいあるってことだからな?」

「ふっ、分かってるよ」


 冷静を装っている父だが、その話し方や言葉選びから父も混乱しているのだと分かった慧は、思わず笑みを漏らして答える。そんな慧を見て父も笑みを浮かべるが、程なくして真剣な表情を取り戻し、


「慧。悪かったな」


 と改まった謝罪をした。


「別にいいよ。いつか向き合わなきゃいけないことだったんだし」

「そうだな。お前ももう、子供じゃないもんな」

「うん」

「これからは一緒に、母さんのことを考えていこう」

「うん」


 こうして父から大体の事情を聞き終え、半強制的に母と向き合うことになった慧は、父との会話を良き所で切り上げ、自室に向かった。そしてショルダーバッグを勉強机の上に置くと、まずはラヴィの充電や洋服の着替えを……せずに、慧は勉強机の引き出しを次から次へと漁り始める。


【何をしているのですか、ご主人?】


 一つ目の引き出しを閉じた辺りでラヴィが問い掛けて来た。先ほどの父との会話に全く関与して来なかったので忘れていたが、慧はまだ眼鏡とイヤホンを装着していたのである。


「どこかにあるはずなんだ。メモが」

【メモ? ですか】

「うん。母さんからもらったメモが……」


 慧は引き出しを漁る片手間にラヴィの質問に答える。


【どのくらいの大きさか教えていただけませんか? 私も探しますので】

「えっと、どれくらいって難しいな。確か、スマホくらいのサイズ感だった気がするけど」

【分かりました。お任せください!】


 ラヴィは自信ありげにそう言ったが、結局それらしい紙片が見付かることはなく、数分が経過した。


【ありませんね】

「はぁ、やっぱり無いか……」

【貰ったメモというのは、紙切れ一枚だったのですか?】

「うん。それも折りたたんで渡されたからさ、多分、ゴミと間違えて捨てちゃったのかも」

【そうですかねぇ? ご主人のことなら、どこかに保管していそうな気もしますが】

「俺のことならって誰目線だよ……。まぁでも確かに、安易に捨てるとは思えないんだよな」

【ですよね? となればもう、ご主人の秘密の隠し場所を思い出すしかありません! ご主人が本当に大事だと思っているものを保管する場所。それを思い出すのです!】

「うーん。大事なものを保管する場所か……」


 慧は考え込みながらベッドに腰かける。引き出しの中はもう見た。ベッドの下に保管するにしては小さすぎるし、クローゼットの中。はほとんど洋服で埋め尽くされているから多分無いだろうし。となると、もう慧の部屋に保管できそうな場所はない。


「ダメだ。浮かんで来ない」

【そうですか……。それ、そ、それ、では……】

「ラヴィ?」

【ど、どう、や、ら、もう、充電がない、よう、です……】

「先輩のわがままに付き合い過ぎたんだな……。分かった。今日のところはここまでにしておいて、また今度探そう」

【は、い】


 一人でもメモを探すことは出来るのだが、色々と考え始めてしまったせいか、慧の中で、あのメモが家族関係を修復する一助になるかもしれない。という期待より、もしかしたら、知らなくても良い事実を知って、もっと悪いことになるかもしれない。という恐怖の方が大きくなってしまい、慧はラヴィの充電が切れたことを口実に、メモ探しを断念してしまった。と言っても、母と向き合う事を諦めたわけではない。今はただ、時間も、勇気も、覚悟も、何もかもが足りないだけなのである。

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