第百十七話 口下手な母娘
歩くこと数分。慧と堤は人通りの多いデッキを南西側に抜け、駅ビルに沿った通路を進み、階段を下ってすぐにある道路沿いの駐輪場まで来ていた。そしてその場所から、もう少し歩いた先にある駅から一番近いとされているファミレスと、その前で待つ伊武の姿を視界に捉えながら、行き交う人々の邪魔にならないようにひそひそと時間を潰していた。
「お母さん、まだ来ないわね」
腕時計で時間を確認した堤が呟く。それもそのはずで、伊武がファミレスの前に到着してからは、もう五分ほどの時が流れていたのである。
「ですね。何時に約束してるんでしょう」
「うーん。私もそこまで詳しくは聞いてないのよね。でも、ついさっき十一時半を過ぎたから、多分三十分前後で約束してるんじゃないかしら」
なんて推察をしていると、ファミレスの左方から真っすぐ伊武の方に向かって歩いて来る女性の姿が慧の目に留まった。
「あっ、あの人。そうじゃないですか?」
「来た?」
慧の言葉に反応して、堤は慌てて振り向く。そして、
「んー、そうねぇ。背格好とか髪型はそれっぽいけど……」
と、何だか煮え切らない言葉を続けた。しかしそうなるのも無理はない。何故なら、向かって来る女性の服装が、以前見たクロコの服装と比べて、とてつもなく地味だったからである。
「無地のシャツにジーパンなんて……。前回会った時のキラキラでタイトなドレス姿が焼き付いてるせいか、同じ人とは思えないわ」
「同感です。まぁでも、まだ違う人って可能性もありますから」
慧がそう答えて間もなく、女性は伊武の傍で立ち止まった。
「フフッ。どうやら、お母さんで合ってたみたいよ」
「は、ははっ。みたいですね」
慧と堤がそんなくだらないやり取りを交わす一方。伊武とクロコは店前で軽い会釈だけ交わすと、特に話すことなくファミレスの中に入って行った。
「二人、お店に入ったわよ」
「ちゃ、ちゃんと見てましたよ」
「そう。なら良かった。それじゃあ、数分経ったら私たちも行きましょうか」
「はい」
二人は伊武の指示通り、一、二分遅らせてからファミレスに入店する。土曜日という事もあり、席が埋まっていたらどうしようという心配はあったが、まだギリギリ昼前だったのが功を奏したのか、パッと見た感じ、店内にはまだ空席があった。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
入店してすぐ、若い女性のホールスタッフが二人のもとに歩み寄る。
「えぇ。そうです」
堤はそう答えながら店内をぐるりと見まわす。そして店員が案内を始めるよりも前に、
「あの。ここ、一番手前の席を指定しても良いですかね?」
と問い掛けた。すると店員は笑顔を浮かべ、
「はい。大丈夫ですよ」
と朗らかに答え、慧と堤を出入り口から一番近いテーブルに案内した。慧は一人掛けの木椅子に。堤は壁に沿って奥まで伸びているソファにそれぞれ腰かけると、店員は、水はセルフサービスです。だとか、注文が決まったらそちらのベルでお呼び出しください。だとかの決まった説明を残し、他のテーブルに向かった。
「なんでここを……?」
店員が去ってすぐ、慧はメニューも見ずに堤に問い掛ける。
「愚問ね。ほら、左見て、左……」
堤の囁くような回答を受け、慧は首を左に回す。すると自分たちと同じ列の窓際の角席に座っている伊武の姿とクロコの姿を発見した
「あっ……」
「二人の位置が見易く、それでいてバレなさそうな位置を選んだのよ」
そう言って堤はニヤリと微笑む。
「流石です。そこまで気が回りませんでした」
「フフッ。まぁ、ここまでする必要はなかったかもしれないけど、一応ね?」
堤は笑みを浮かべたまま答えると、メニューを手に取り、それをテーブルの上に広げる。
「さぁ、私たちもお客さんらしく、何か頼みましょ」
「あっ、はい。そうですね」
「ここは私が払うから、好きなものを選んで」
「いや、そんな、悪いですよ」
「良いのよ。元はと言えば私が風見君に、江波戸さんを気に掛けて欲しい。ってお願いしたのが始まりなんだから。その報酬ってことで。ほら、選んで」
「分かりました。じゃあ……」
頑なに断るという選択肢もあるにはあるが、実質イエスの一択だと悟った慧は目の前に差し出されたメニューを見て、ランチのハンバーグを選んだ。
それから数分後。注文を終え、ドリンクバーから各々好きな飲み物を注いできた二人は、品が届くのを待ちつつ、持ってきたドリンクを飲みつつ、引き続き伊武とクロコの動向を窺っていた。
「注文もせずに、二人ともだんまりですね」
「そうね。きっとお互い話しづらいんだと思うわ。だからここは、ゆっくりじっくり見守りましょ」
「はい、そうですね」
慧はそう答えると、手元のコップから伸びるストローを咥え、オレンジジュースをちびちび飲みつつ、ポケットからスマホを取り出した。最悪の場合、伊武の背中を押すようなメッセージを送ってあげようと思ったのである。しかしそれが実現するよりも前に、
「今、口が動いたわ」
と、堤から迅速な報告が入った。
「えっ、どっちのですか?」
「お母さんの方よ。あっ、江波戸さんも何か答えてるわ。でも、なんて言ってるのかは聞き取れないわね……」
「もっと耳を澄ましてみましょう」
慧たちが座っているテーブル席から伊武たちが座っているテーブル席までは、四人掛けのテーブル席が二つ配置されていた。幸いにもその二つのテーブル席にはまだ誰も座っていなかったので、頑張れば聞こえるかもしれないと期待してそう答えた慧だが、当然聞こえるわけがない。四人掛けのテーブル席二つ分の空間があり、店内には音楽もかかっていて、かつ休日の昼頃で学生やら子連れの客が多く、店内には他の客たちの話声も充満している中で、伊武たちの会話だけをピンポイントで聞けるはずが無いのである。
「……えっと、風見君? 流石に無理なんじゃないかしら?」
「……はい。無理でした」
堤がツッコんでくれたおかげで素直に引っ込むことが出来た慧は、やや前のめりになっていた姿勢を元に戻し、またストローを咥えながら何か別の策はないかと頭をフル回転させるのだが、特段良い案は浮かんで来ない。すると数秒後、
「うーん。会話が聞けないとなると、二人の顔色を見て判断するしかないわねぇ」
と、堤が零した。
(顔色……。顔色を見て……?)
堤の独り言を聞いて何か引っ掛かりを覚えた慧は、すぐさま首を回し、伊武の顔色を見る。しかし距離がある上に伊武がポーカーフェイスであることが足枷となり、顔色を見ただけでは、何となく口が動いているなぁ。程度のことしか分からなかった。
(顔色を見るって言っても、口が動いてるってこと以外には何も分からないな……。いや、待てよ?)
伊武の口元を見てとある作戦を閃いた慧は、眉毛を掻くフリをして眼鏡の片目を覆う。すると瞬時に、
【何か閃きましたか、ご主人?】
とラヴィが反応してくれたので、慧はスマホのメモ帳アプリを開き、そこに、
『読唇術って出来るか?』
と打ち込み、ラヴィに見せた。
【読唇術……! その手がありましたね。出来ますよ!】
ラヴィの返答を聞き、慧はガッツポーズ代わりに力強くうんうんと頷く。
【視線をお二人の方に向けてください】
そう指示するラヴィにもう一度頷いて応えると、慧は念のためスマホに打ち込んでいた文字を消去し、スマホをポケットにしまってから伊武とクロコに視線を戻す。
【お二人の口の動きを見て、私が逐一報告していきますので、声などはご主人の脳内で補完してください】
一言注意を添えると、ラヴィは早速伊武とクロコの読唇に移る。
「学校は行ってるの?」
「ん。行ってる」
「寝る場所はどうしてるの?」
「友達の家に泊ってる」
「そう。なら苦労はしてないのね」
その言い方は無いだろ。と思う慧だが、ここはグッと堪え、話の続きを待つ。
「で、話ってなに」
「そ、それは……」
まだ心の準備が出来ていないのか、伊武のストレートな質問にクロコはたじろぐ。そして少し間を置いてから、
「バイトの事。私から話して退職にしてもらったわ」
と言葉を続けた。
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、次はこっちから話していい」
「待って、まだあるから。その……」
そこまで言っておきながら、クロコは口を結んでしまった。やはりまだ迷いがあるのだろうか、或いはあと一歩を踏み出す勇気が出ないのだろうか。なんて慧が考えていると、伊武がバッグから何かを取り出し、それを母親の手元に置いた。
「あれは何だ……」
【スケッチブックですね】
思わず声を漏らしてしまった慧にラヴィが答える。
「こ、これ……。お父さんの……」
「嫌だよね、見るの。でも、見て欲しい」
伊武はそう言うと、右手をそっと伸ばし、スケッチブックを繰って言葉を続ける。
「この絵を見て、私も絵を描きたいって思った」
「……」
「描いてるお父さんも、描かれてるお母さんも嬉しそうで、そんな二人の姿をいつか私が描きたいって思った」
そこで言葉を止めると、伊武は再び右手を伸ばし、ページを繰る。
「お父さんほど上手くないし、こんなの見せられて不快だと思うけど、これが今の私の気持ち。二人で前に進みたい」
それきりラヴィの報告が途絶えた。慧の目が正しければ、伊武の口もクロコの口も動いていないので、ラヴィが意図的に報告をしていないわけではない。つまり、沈黙が訪れたのである。
「話。終わったのかしら?」
単に伊武たちの様子を窺っていた堤がぼそりと呟く。
「どうでしょう」
慧はそれに素っ気なく答えると、尚も伊武とクロコの様子を眼鏡に捉える。そして十秒ほど経過した折、
【ごめんね、伊武……。もう少し時間をちょうだい】
とラヴィから報告が入った。かと思うと、クロコはサッと席を立ち、両手の中に自分のバッグと伊武から差し出されたスケッチブックを抱え、やや俯きながらこちらに向かって歩いて来た。それを見て、慧と堤は咄嗟に顔を逸らすのだが、別に二人の存在に気付いたわけではなく、クロコは慧の背後を通り抜けると、レジで支払いを済ませ、風のようにレストランから出て行ってしまった。
「行っちゃった……。わね」
「はい……」
何が起きたのか全く理解できていない堤と、読唇していたにもかかわらず状況が読み込めていない慧は、互いに呆けた顔を見せ合った。
「何も無かった。ってことでいいのかしらね?」
「まぁ、問題は起きませんでしたね」
「そうね……。とりあえず、江波戸さんを呼びましょうか」
堤はそう言って腰を上げると、伊武に向かって手招きをした。するとすぐそれに気付いた伊武は席を立ち、こちらに歩み寄って来ると堤の横に腰かけた。
「どうだったの?」
読唇すらできていない、本当に何も知らない堤が早速問い掛ける。それに伊武は、
「別に」
とだけ答えた。
その後、堤は他にもいくつかの質問をしたのだが、それらは全て、「別に」という一言で切り捨てられてしまった。そんな伊武の態度、様子を見て、もしかしたら気持ちの整理中なのかもしれない。と察した二人はそれ以上追及することは控え、結局何が起こったのか分からぬまま、慧と堤は普通にランチを済ませてレストランを後にした。




