第百十六話 一歩
翌朝。慧がいつもの時刻に家を出ると、自宅の門扉の傍には恵凛が立っていた。と言っても、こちらに背中を向けて立っていたので、慧が出て来たことにはまだ気づいていないようであった。そんな恵凛の後姿を見て、俺を待ってたのかな? と思った慧は、気を利かせて、
「あれ、龍宮?」
と、こちらから声を掛けた。すると恵凛はその声に反応して振り向き、
「あっ、おはようございます」
と、淑やかな笑みを浮かべながら朝の挨拶を口にした。
「おはよう。ちょっと待ってて、すぐ行くよ」
慧は軽い挨拶を返してから玄関の鍵をかけると、門扉を抜けて恵凛と合流する。
「すみません。連絡もせずに待ち伏せみたいなことをしてしまって」
「いやいや、全然大丈夫だよ。俺も謝りたいことがあったし、丁度良かったよ」
「えっ、何かありましたっけ?」
「うん。昨日のこと」
「昨日? 伊武のことですか?」
「そう。また龍宮に迷惑かけちゃったからさ」
「そんな。風見君が謝る必要はありませんよ。二人で協力して伊武を見つけようって話でしたし、私も伊武のことが心配で動いただけですから」
「そっか……。うん。ありがとう」
あまりにも純真過ぎる恵凛の言葉を聞き、慧は一瞬、事の全てを話してしまおうかと思った。しかしギリギリのところで、勢い任せに口走るのは危ないと思い直し、喉元までせりあがって来ていた言葉を全部飲み込んで感謝だけを伝えた。これで話は一段落。と思われたのだが、恵凛が静々と話を継ぐ。
「えっと、それでですね、その伊武のことでお話があって、風見君をお待ちしていました」
「江波戸のことで?」
慧はそう答えながら、ようやく、話題の当人である伊武がいないことに気付いた。
「はい。でもとりあえず、今は駅に向かいましょうか。これ以上立ち話をしていると電車に乗り遅れてしまうので」
「うん。そうだね。そうしようか」
ひとまず恵凛が家の前で待っていた理由だけが説明されたところで、二人は会話に一区切りをつけて駅に向かって歩き出した。
「……その、先ほどの話の続きですが」
それから一、二分無言で歩いた後、恵凛がさり気なく話を再開する。
「伊武は今日、体調不良で休むそうです」
「そっか。だからいなかったんだ」
「はい。でも多分、仮病だと思います」
不意に、それも抑揚無く放たれた鋭く無機質な言葉に、慧は何もリアクションを起こすことが出来なかった。その上、
(もしかして、俺たちが隠し事してるって気付いたのか……?)
と、慧の胸中には一気に不安や焦りが募り、嫌な予感ばかりが脳裏を過り始める。しかしこのまま黙り続けているのも怪しまれると思い、慧は無理やり口を開く。
「な、何でそう思ったの?」
「些細なことなのですが、今朝、伊武の部屋からずっと物音がしていたからです」
「物音?」
「はい。掃除をしているような、整理整頓をしているような、そんな音でした」
恵凛の返答を聞いた慧は、(江波戸の奴、母親の元に帰る準備をしているんだな)。とすぐに察しがついた。と同時に、(流石にここまで来たら、龍宮にも説明すべきだよな……)。とも思った。その理由は至極単純で、何日も世話になった恵凛にこの事を告げないのは、道理に反すると思ったのである。そこで慧は、後々伊武にどやされる、又は殴られる覚悟を決めて口を開く。
「実は、そのことなんだけど――」
慧がそう切り出したその時、
「あっ、恵凛!」
と、前方から声が聞こえて来た。それを耳にした慧と恵凛は、二人して幻術から解かれたかのようにピクリと肩を浮かし、視線を前方に向ける。するとそこには、こちらに向かって手を振っている璃音の姿があった。そしてその背後には駅があり、自分たちの数メートル先には横断歩道と信号が見えた。どうやら慧たちは、いつの間にか駅前まで来ていたようである。なんて呑気な推察をしていると、青信号がチカチカと明滅を始めたので、二人は致し方なく会話を中断して小走りに横断歩道を渡り、駅前で待つ璃音と合流する。
「おはようございます。璃音」
「おはよ、恵凛。あと風見も」
「いや、ついで感すごいな」
「そりゃそうよ。あたし達は今、敵対してるんだから」
「えっ、あぁ、そうだったな」
璃音の本音を引っ張り出すために伊武が挑発した結果、変な競争が始まってしまい、表面上では敵対しているという事を慧はすっかり失念していた。
「ったく、もう忘れたの? てか、伊武はいないんだ?」
「はい。今日は体調不良でお休みです」
「ふーん、あっそ。まぁいいや、行こ、恵凛」
「は、はい」
興味無さそうな風を装いながらも、璃音はどことなく思案気に呟くと、やや強引に恵凛を連れて先に改札を抜けて行く。
(敵対してるとか言ってた割に、江波戸のこと気にしてそうだったな……。と言うか、雀野の方はどうなってるんだ? 江波戸の方は大分順調だけど、雀野の方は何も進展を聞いてないな。それどころか、こないだは安雲橋高校の生徒に絡まれてたしな……)
なんて次から次へと浮かんで来る様々な心配事に翻弄されていると、
「風見! 何してんの、もう電車来るよ!」
と璃音から声が掛かった。
「あぁ、うん! 今行く!」
その声で正気を取り戻した慧は、駆け足で改札を抜け、階段を駆け上がり、恵凛と伊武と共に電車に乗り込んだ。
……その後、学生らしく六時間の授業をしっかりと受け、放課後。帰りのホームルームが終わったところですぐに恵凛を呼び止め、帰り道を共にし、その道中で伊武のことを話そう。と計画を立てていた慧だが、
「えりーん! 話したいことあるから、一緒に帰ろ!」
またしても璃音の邪魔が入った。
「はい。今行きますね」
恵凛はそう答えると、席を立ち、教材を丁寧にまとめて鞄の中に詰める。そして鞄を肩に掛けると、出入り口に向かって歩き出す。
(まだ間に合う。引き留めるなら今だ……!)
心の中で希望の声がこだまする。しかしそれはやまびこの如く、段々と小さくなっていく。そしてそれに伴い、恵凛の背中も段々と遠のいて行き、最終的には心中のこだまが消えると共に、恵凛の姿も廊下の向こうに消えてしまった。
【良いのですか、ご主人?】
ラヴィの問い掛けに慧は頷いて応える。しかし本心では、良くないと思っている。にもかかわらず、慧は恵凛を引き留めなかったし、今も、慌てて追おうとはしない。今朝電車に乗る前に決めた覚悟が揺らいでしまったのだろうか? それとも、最初から覚悟なんて決まっていなかったのだろうか? 自分で自分の心が、考えが、まるで理解できない。慧は自分に辟易しながら席を立つと、その日は一人で帰路に就いた。
帰宅後。ぼんやりと天井を見つめながら自室のベッドに寝転がっていると、スマホがバイブレーションした。慧はそれに気付きながらも、一分ほど放置してからスマホを手に取り、電源を入れる。するとロック画面に浮かび上がった通知には、伊武の名前が表示されていた。
『土曜日。十一時に出て来て』
内容はこれだけであった。
『分かった』
慧も短く返信すると、アプリを閉じ、スマホをベッドサイドのテーブルに置いた。
(うーん。どうするべきだろうな……。一番良いのは、江波戸本人の口から、土曜日に母親と話して、その結果次第では家に帰るって旨を龍宮に伝えてもらうことだよな……。うん。やっぱこれが一番良い気がする)
その結論に行き着いた慧は、先ほどテーブルに置いたばかりのスマホを手に取り、アプリを起動し、
『土曜日のことなんだけど、龍宮にも全部話しておいた方が良いんじゃないか? 話し合いの結果次第では家に帰るつもりなんだろ?』
と打ち込んだ。しかし送信ボタンは押さずに、
(流石にお節介が過ぎるか……? もしかしたら今日の夜言うのかもしれないし、今はまだ送らないでおくか)
と心の中で独り言ち、今書いたメッセージを全て消去してしまい、再度スマホをサイドテーブルに置いた。
(明日。明日必ず聞こう……)
そうと決めてアプリを閉じると、慧はそれ以降このことは考えず、夜を過ごした。
しかし翌日。伊武はまた体調不良で休みだった。恵凛も恵凛で伊武の話は全く振ってこない。となるとこちらから切り出すのも何となく億劫になり、結局慧は恵凛にも話さず、伊武にもメッセージを送らず、ラストチャンスの金曜日を棒に振ってしまった。
そして約束の土曜日。慧は今年に入って一番目覚めの悪い朝を迎えた。何故なら、色んな悩みが夜気に紛れて慧を襲い、少ししか眠らせてくれなかったからである。慧はそんな悩みに振り回されて披露し切っている頭のまま、感覚を頼りに朝のルーティーンをこなし、身支度を済ませ、自室のベッドに腰かける。
【大丈夫ですか、ご主人?】
「え、うん。大丈夫だよ……」
【ご主人の出番は無いかもしれませんが、いつでも助太刀に入れるよう、シャキッとしておかないとダメですよ?】
「分かってるよ」
心配してくれるラヴィをあしらうと、慧は伊武の指示通り、十一時ピッタリに家を出る。すると真っ先に、二日前に恵凛が立っていた場所と同じ場所に立つ伊武の後姿が目に付いた。しかし慧は声を掛けずに玄関の鍵をかけると、少し歩いてから、
「おはよう、江波戸」
と力無く声を掛けた。それに対して伊武は、
「ん。行こ」
と、慧の方は見ずに答え、さっさと歩き出す。慧はその態度に思わずため息を吐きそうになったが、何とかそれを飲み込むと、門扉を閉めてその後を追い、伊武と肩を並べた辺りで話を切り出す。
「今日の話し合い、上手くいったら家に帰るのか?」
「まぁ、そのつもり」
「龍宮には言ったのか?」
「いや」
「言ってないのかよ?」
「ん。言う必要ある?」
「あるだろ。数週間世話になったんだから」
「あぁ、だね。じゃあ、今日のが上手くいったら言っとく」
「うん。よろしくな」
あまり信用できない口約束をしたところで古屋根駅に辿り着いてしまったので、話はそこで途切れた。
それから特に会話も無く、十数分間電車に揺られた後、二人は安雲橋駅に降り立った。プラットホームのエスカレーターに乗って改札口まで上がって来ると、改札を抜け、切符売り場の端にある柱の近くで立ち止まる。
「ここで待ち合わせなのか?」
「先生とね」
伊武がそう答えた直後、
「おはよう。風見君、江波戸さん」
暗めのキャスケットに暗めの眼鏡と黒のマスクを装着した怪しい人物に声を掛けられた。
「えっと、もしかして……」
「私よ」
怪しい人物がマスクを外すと、見慣れた堤の顔が表出する。
「はぁ、なんでそんな恰好を……」
「変装よ、変装。江波戸さんのお母さんとは一度顔を会わせてるから、一応ね」
「なるほど。まぁ確かに大事だとは思いますが、ちょっとオーバーな気も……」
「これくらいがちょうど良いのよ。他の生徒に見られるのもマズイわけだからね」
「あぁー、確かに。それもそうですね」
なんて他愛ない話をしていると、
「じゃ、二人は時間ずらしてから来て。よろしく」
と、伊武はあっさりと手短に作戦を告げて踵を返し、二人に背を向けてデッキの方に歩いて行ってしまった。
「相変わらずマイペースな奴だな……」
「まぁまぁ、緊張していつも以上にぶっきらぼうになってるだけかもしれないし、許してあげましょ」
「うーん。そうですね」
「フフッ。それじゃあ、私たちもレストランの前まで移動しておきましょうか」
「はい」
サポーターである慧と堤は、念のため伊武の姿が微妙に見えるくらいの距離を保ちながらその後を追い、決戦の地、駅前のファミレスへ向かうのであった。




