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第百十二話 吉兆? 凶兆?

 慧がドアを開けて保健室に入ると、ソファに座っていた伊武と堤はほとんど同じタイミングで慧の方を見た。そして間もなく、


「あら、風見君じゃない。どうしたの?」


 と、伊武を追って保健室に来た慧でもなく、慧を避けて保健室に来ていた伊武でもなく、第三者の堤が話を切り出した。


「用があって来ました」

「朝っぱらから保健室に?」

「はい」

「ふーん、そう。体調不良なのかしら?」

「いえ」

「フフッ、じゃあ、私か江波戸さんに会いに来たってわけね?」

「まぁ、そうですね」


 いつもの調子で冗談交じりに問いかけてくる堤に対し、慧は神妙な面持ちで淡々と答えていく。するとその様子を見て何か違和感を覚えたのか、堤の表情はちゃらけた雰囲気から一変、真剣そのものになった。


「ちょっとどうしたの? そんな怖い顔して。もしかして、本当は体調が悪いとか?」


 明確には分からないが、とにかく何か問題が起きているのだと感じ取ってくれた堤は、やや戸惑った様子で再度問いかけてきた。


「いえ、体調は本当に大丈夫です」


 そんな堤の気遣いを余所に、慧は尚も神妙な様子で答える。


「そ、そう。分かったわ。えぇっと、じゃあ、とりあえずここに座る?」


 自分が話し相手では無い。と察したのか、堤は自分が座っているソファを慧に明け渡そうとしたので、慧は堤がソファから立ち上がるよりも前に、


「いえ、用はすぐに済むので」


 と答えて堤を制した後、伊武の方を見た。そして、


「メッセージは届いてたんだよな?」


 と伊武に問う。


「……ん。来てた」


 伊武は俯いたまま、慧の方を見ずに答える。


「なんで返してくれなかったんだ? スタンプだけとかでも良かったのに」

「あの内容なら返さなくても良いかなって思ったから」

「まぁ確かに、必ずしも返さなきゃいけない内容ってわけではなかったかもしれないけどさ。その、なんていうか、返信が無いと心配するだろ」


 慧は少し表情を歪め、困った様子で心意を打ち明ける。するとその想いが伝わったのか、伊武はチラリと慧の方に視線を向けた。しかしそれは本当にチラリとだけで、コンマ数秒目と目が合ったかと思うと、伊武はすぐに視線を逸らし、そのまま黙り込んでしまった。それを見た慧は、無念の余りため息が漏れ出そうになったが、何とかそれを堪えると、堤の方に視線を戻す。


「俺、そろそろ教室に戻ります。すみませんが、後はお願いしても良いですかね?」

「えぇ。分かったわ」


 まだ状況が飲み込めておらず、不安そうな、心配そうな表情を浮かべている堤だが、それでも彼女はすんなりと慧の申し出を引き受けてくれた。


「ありがとうございます」


 何から何までキャッチしてくれる堤の心の広さに感謝の言葉と深い一礼を返すと、慧は伊武の方は全く見ずに保健室を出た。そして顧みることなく数歩前進したその時、たった今閉まったはずの保健室のドアが開き、そこから堤が出てきた。


「待って、風見君」

「はい。なんでしょうか?」

「放課後、時間取れるかしら?」

「はい。今日は何も無いですけど」

「だったら、また保健室に来てくれないかしら? 私がその時まで江波戸さんを引き留めておくから、もう一度ちゃんと話し合った方が良いと思うの。……いいえ、ちゃんと話し合ってほしい」


 そう言う堤の瞳と言葉には、今までに見聞きしたことがないくらいの力が籠っていた。


「分かりました。また放課後来ます」

「ありがとね」


 真っすぐ見つめて来る堤の懇願を断れるはずもなく、慧は放課後、保健室に再訪することを約束した。それに対して堤は微弱な笑みを浮かべて感謝を述べると、保健室の中に戻っていった。


「はぁ、ったく……」

【珍しくお怒りのようですね、ご主人】

「違うよ。あんな態度されちゃどうしようもないなぁって困ってるんだよ」

【そうですかねぇ。保健室に入る前から機嫌が悪いように見えましたけど。それに今だって、大分口調が強いような――】

「あぁもう、そうだよ。ちょっとだけイラついてるよ」

【うむ。素直でよろしい。その怒りは放課後までに鎮めておきましょうね】

「ちっ、分かってるよ」


 慧は不機嫌に答えると、イヤホンを外して教室へ急いだ。

 ……それから数時間に及ぶ授業を受け、放課後。


「伊武。戻って来ませんでしたね」


 帰りのホームルームが終わって一分経つか経たないかの折、右隣の恵凛が寂しそうに呟いた。


「うん。そうだね」

「ここ最近は教室にいることが多かったのに……。体調を崩して帰ってしまったのでしょうか?」

「うーん、どうだろう。俺の方には何も連絡は来てないけど……。龍宮の方は?」

「来てないですね」

「そっか。じゃあとりあえず、保健室に行って、江波戸が早退してないか聞いてくるよ」

「私も行きましょうか?」

「いや、それもありがたいんだけど、龍宮には、江波戸が家に帰ってるかどうか確かめてもらいたいかな」

「あっ、確かに、その可能性もありますよね。分かりました。こちらはお任せください」

「うん。よろしく」


 自分にも恵凛にもメッセージが来ていない上に、堤からも連絡が無いということは、伊武はまだ保健室にいる可能性が高い。そうと推理した慧は、少々心苦しいが、今日はどうしても伊武と一対一で話したかったので、それらしい嘘を吐き、恵凛と別行動になるよう仕向けた。


「それじゃ、何か分かったら連絡するね」

「はい。私も分かり次第連絡します」


 廊下に出て階段前で短く言葉を交わすと、恵凛は慧に背中を向け、そのまま階段を下りて行く。


(ごめん、龍宮。話が終わったらすぐに連絡するから……!)


 慧はその背中を見送りながら心の中で謝罪すると、保健室目指して歩き出した。

 その道中、もしかしたら話し合いが拗れるかもしれない。という最悪の状況を想定した慧は、念の為、今日一日中外していたイヤホンを付け直した。するとその直後――


【もうー。やっとですか、ご主人。今日はこのまま出番が無いのかと思いましたよ?】


 と、ラヴィの声が聞こえてきた。


「はぁ、やっぱり外そうかな」

【そ、そんなぁ! ひどいですよ、ご主人!】

「あのさ、なんか俺が悪いみたいな感じ出してるけどさ、元はと言えば、お前が火に油を注ぐようなことを言ったから一日中イヤホンを外してたんだぞ?」

【は、はい……。すみませんでした……】

「外されたくないなら余計な口出しはしないこと。いいな?」

【はい!】

「助けが欲しい時はこっちから合図を出すから」

【合図ですか? そんなものありましたっけ?】

「いや、無いよ」

【じゃあどうするのですか?】

「今臨時で作るんだよ」

【今からですか? 間に合いますかね?】

「大丈夫だよ。テキトーなので良いんだから」

【分かりました。どういうのにしますか?】

「うーん。出来るとしたら、合言葉を言うか、何かしらのハンドサインを眼鏡に映すか。このどっちかだよな」

【そうですね。その二択でしたら、話し合いの最中に合言葉を言うのは不自然かつ危険が伴うと思いますので、今日の所はハンドサインだけで良いのではないかと私は思います】

「だな。そっちだけ即席で作っておこう」


 そうは言ったものの、そんなすぐにハンドサインが思い付くわけもなく、慧の足は一歩、また一歩と保健室に近付いていく。


【ご主人、もう着いてしまいますよ?】

「分かってるよ。てか、急かすならお前も考えてくれよ」

【それは無理ですよ。私には手が無いですからね】

「ちっ、やっぱり――」

【あぁ! そ、それなら、ピースとかで良いんじゃないですかね?】

「あからさま過ぎるだろ」

【でしたら、片眼を隠すとか!】

「いやそれも……。ん、待てよ、案外ありかもな」

【えっ?】

「眉毛を掻くフリして右目だけ隠す。とかすれば良いんじゃないか? こんな感じで」


 慧はそう言うと、右手を右目の前まで持っていき、痒くもない眉を掻きながら右目のレンズだけを覆った。


【おぉ、これは良いかもしれませんね。合図としても分かりやすく、周りからもそこまで不自然に見えません!】

「だろ? よし、今日はこれで行こう」

【はい!】

「まぁ、使うかは分からないけど」

【ご、ご主人? 使ってくれますよね?】

「行き詰ったらな」


 なんて作戦会議をしている内に、慧はいつの間にか保健室の前まで来ていた。ここまで来たら、後はドアをノックして保健室に入るのみ。のはずなのだが、慧は保健室のドア前で動きを止めた。何故なら、


【むむ、お出掛け中。になってますね?】


 保健室のドアには、『お出掛け中』のプレートが掛けられていたからである。


「ど、どういうことだ、これ……」

【ふむ。ご不在なのでしょうか?】

「そんなはずは……。だって、向こうから提案してきたんだぞ?」

【まぁまぁ、落ち着いてください、ご主人。このプレートだけでは何も分かりませんから、今は考えるのではなく、保健室に入ってみましょう。先生がいなくとも、江波戸氏はいるかもしれませんし】

「た、確かに。その通りだな」


 予期せぬ事態に混乱していた慧だが、ラヴィのアドバイスを受けて冷静さを取り戻すと、ひとまず保健室のドアをノックする。……しかし、中から返事は無い。とは言えノックだけで諦めるのも早計だと、慧は一歩前に進み、


「堤先生、いますか。風見です」


 と声を掛けた。すると数秒後、ガチャ。と鍵が回る音がして、次の瞬間にはドアが開かれた。


「待ってたわ、風見君」


 ドアの隙間から顔を覗かせた堤は声を潜めてそう言った。


「えっと、なんで小声なんですか? あと、このプレートは――」

「しーっ。静かに。中で説明するから、とにかく入って」


 聞きたいことは山ほどあったが、ここは一旦堤の言う通りにした方が良いと思い、慧はそそくさと保健室の中に入る。すると真っ先に、今朝堤が座っていた一人掛けのソファに座る伊武の姿が目に留まった。


「説明するから、ちょっと来て……」


 隣に立つ堤は慧だけに聞こえる小さい声で囁くと、保健室の奥側にある自分のデスクに向かったので、慧もそれに続く。そして伊武に背中を向けて二人が並び立ったところで、堤は話を再開する。


「それじゃあ、ざっと状況を説明するわね」

「はい」

「まず、ドアのプレートだけど、アレは、この部屋を貸し切り状態にするために掛けておいたの。二人が静かに邪魔されず話し合いを出来るようにね。次に声を潜めてる理由だけど、これは単純に、あのプレートを出してる手前、私の声が聞かれると面倒なことになるからと思ったからよ」

「なるほど」

「それで、ここからが重要なんだけど、私はこの後、本当に出掛けるわ」

「えっ、そうなんですか?」

「えぇ。と言っても、一時間もかからないくらいよ。だから、その間に二人で話し合いをしてほしいの」

「い、一時間で聞き出せますかね?」

「緊張しなくても大丈夫よ。私が少し話した感じ、前みたいに殻に籠ってるってわけじゃなさそうだったから。焦らず冷静に話せば聞き出せるはずよ」

「分かりました。頑張ってみます」

「頼んだわね」


 そう言って慧の肩をポンと叩くと、堤はデスクの上に置かれている鞄を拾い上げ、保健室の出入り口に向かう。そして、


「じゃあ二人とも、留守をよろしくね~」


 と軽快に言い残して保健室から出て行き、ほどなくして鍵がかけられた。


「……座れば」


 堤が出て行ってから数秒後、突っ立っている慧を見て伊武の方が口火を切った。


「うん」


 慧は短く答えると、伊武の対面にある長ソファに腰かける。


「昨日の話からでいい?」

「うん。いいよ」

「ん。お母さんと会う日、決まった」


 伊武は無頓着に、まるで今朝の朝食のメニューを教えるかのように、大事な話をさらっと告げた。

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