第百十一話 漠然とした気持ち
全身全霊を賭けたと言っても過言ではない大博打に勝利した慧は、帰宅するや否や、最低限の手洗いうがいだけを済ませて自室のベッドに寝転がっていた。
「はぁー、疲れた。喋っただけでこんなに疲れるとはなぁ……」
【それほど気が張っていたということですよ】
「うん、確かに緊張はしてたな。けど……」
【けど? 何か気になることがあるのですか?】
「いや、大したことじゃないよ」
【ムッ! 何ですか、今更隠し事ですか?】
「あっ、ごめんごめん。別に隠そうとしたわけじゃないんだよ。ただ単純に、今話しても解決しないかなと思ってさ」
【解決しない。ですか?】
「うん。なんて言うか、説明が難しいんだよな」
【なるほど。言語化が難しいのですね。でしたら、もう一度順を追って整理してみるというのはいかがでしょうか? 何か新しい発見があるかもしれませんよ?】
「整理なら何回もやったよ」
【それは、独りで。の話ですよね? 私とはまだやっていませんよ!】
「回りくどいな……。要するに、話してほしいってことだな?」
【流石ご主人。その通りです! 私が思うにですね、悩みというのは、頭の中でぐるぐる考えるよりも、考えを書き出してみたり、声に出してみたり、誰かに話してみたりした方が、より整理されると思うのですよ! だからですね、私に話してみてください!】
「うーん、まぁ確かに。一理あるな……」
【ですよね! ということでご主人。物は試しです。さぁ、思いのままに話してしまいましょう!】
「はぁ、分かったよ……。デメリットがあるわけでもないし、話すよ」
【ありがとうございます!】
「まぁ、結論から言うとさ、今朝の会話からずっと、漠然とした気持ちが俺の中にあるって話なんだよ」
【漠然とした気持ち。ですか?】
「うん。今朝の会話で俺、お前に不安なのかって聞かれた時、緊張なのかもって答えただろ?」
【はい。そうですね】
「でも、テラスに向かってる途中で気付いたんだよ、これは緊張じゃないって。いや、もっと正確に言うと、緊張だけじゃないって」
【ほう。緊張だけではない。ですか。もう少し詳しく教えていただいても?】
「うーん。めっちゃアバウトな説明になるけど、嬉しいとか楽しいとか、苦しいとか悲しいとか、ポジティブな気持ちもネガティブな気持ちも一緒くたになってるような感じだったんだよ。で、そこに緊張も含まれてて、たまに顔を出してくる。みたいな。だから今のところは、漠然とした気持ち。としか言い表せなくてさ」
【ふむ、なるほど……。様々な感情が一緒くたに……】
ラヴィはそう呟くと、そのまま黙り込んでしまった。
「ほらな。話してみたけど解決しなかっただろ?」
【そ、そうですね。私の見通しが甘かったです……。ご主人の忠告を無視して余計な口出しをしてしまい、申し訳ございません……】
「いやいや、別に謝らなくていいよ。今すぐ解決しなきゃいけない問題ってわけでもないし、今すぐ解決したいってわけでもないし。それに、多少のガス抜きにもなったしさ」
【ご主人……】
「まぁ、最初からこの問題はじっくりゆっくり紐解いていこうと思ってたからさ、行き詰ったらまた改めて相談するよ。だから、その時こそよろしくな?」
【はい、勿論です! いつでも、何でも、私に相談してください!】
「ふっ、立ち直りの早い奴だな……」
慧は半笑いで呟くと、イヤホンと眼鏡を外し、近くのテーブルにそれらを置いた。そして短めの午睡でも取ろうかと瞼を閉じ、徐々に徐々に意識が遠のき始めたその時――
『いえ、私にはこれくらいの事しか出来ませんので。それでは』
『平気。また今度でいい』
放課後に自分の眼前から去って行った恵凛と伊武の姿が、まるで花火のように脳内で弾け、瞬く間に散っていった。
(そうだ。あの二人、どうなったんだろ……。一応メッセージで確認しとくか)
脳内で再生されたビジョンを見てそう思った慧は、たった今閉じたはずの両瞼をカッと見開き、枕の脇に置いていたスマホを手に取る。そしてメッセージアプリを起動すると、まずは恵凛の方に、
『今日はありがとう。龍宮のおかげで落ち着いて先輩と話し合えたよ。そっちはあの後、江波戸に追いつけたかな?』
と、感謝とその後を尋ねるメッセージを送り、次いで伊武の方には、
『今日はごめん。明日以降は予定空いてるからさ、いつでも気軽に声かけてくれよ』
と、謝罪と今後の予定についてのメッセージを送った。
(……うん。間違えてないな)
二人のトークルームを何度も開き、送信相手、送信内容に間違いがない事を確認した慧は、スマホを持ったまま右手を腹の上に下ろし、天井を見つめてホッと一息つく。
(ふぅ、これで一旦返信待ちだな……。にしても、龍宮のことは何か引っ掛かるし、江波戸の用件もなんだかんだ気になるし、雀野の様子も見ておきたいし、先輩との今後は心配だし。やることも考えることも山積みだな……。漠然とした気持ちの正体も探りたいところではあるけど、これはしばらく無理そうだな……)
なんて問題の多さに辟易していると、スマホが振動した。画面を見ると、そこには恵凛の名前が表示されていたので、慧はノータイムでアプリを起動した。
『いえいえ、お気になさらず。少しでもお役に立てたのなら何よりです。それと、こちらはあの後、伊武と合流して無事帰宅できましたよ!』
文章が区切られる毎にカラフルな絵文字がついている恵凛の返信を見て、慧は思わず微笑した。この微笑には、相変わらずだなという安心と、伊武と合流出来て良かったという安心と、恵凛に対する違和感はただの勘違いだったのかもしれないという安心と、様々な安心が混在していた。慧はそんな安心いっぱいの微笑を浮かべたまま、恵凛への返信を打ち始める。
『そっか、良かった。合流出来たみたいで。このお礼は後日必ずするね』
『いえ、そんな、悪いですよ。私は何もしていないのに』
『そんなことないよ。今回の件も含めて、最近は龍宮に助けてもらってばっかりだよ。だからさ、何かしらお礼させてくれないかな?』
『分かりました。それなら、私が困った時にお手伝いをしてもらう。というのはどうでしょうか?』
『うん。いいね。そうしようか』
『ありがとうございます。では、その時が来たら、いの一番にご相談させていただきますね』
『うん。分かった。待ってるよ』
なんだか上手く躱されたような気もするが、ここでしつこくお礼をしたいと言うのはむしろ迷惑になると思った慧は、素直に『その時』が来る事を信じてそう返信した。すると恵凛から、会話の終了を暗示するサムズアップした可愛らしい犬のスタンプが送られてきたので、慧はそれに初期から備わっている簡素なグッドスタンプを返し、メッセージアプリを閉じた。
(よし。ひとまず龍宮の方は大丈夫そうだな。そしたら後は、江波戸からの返信を待つだけだ……)
心の中でそう独り言ちると、慧は瞼を閉じ、軽い瞑想状態で返信を待つことにした。
……しかし、いくら待っても返信は来ず、いつしか夕飯の時間になり、気付けば風呂に入る時間になり、そしてあっという間に寝る時間になってしまった。
(江波戸のやつ。何してんだ?)
流石に伊武の様子が気になった慧は、眠る前にメッセージアプリを開き、伊武とのトークルームを開く。すると、自分が送ったメッセージの左側に『既読』の二文字が付いているのを発見した。
(っておい、既読無視かよ……! まさか、今日の放課後の件で怒ってるわけじゃないよな?)
既読無視の理由を訝る慧だが、その疑問に対するアンサーを持っているのは、この世界で唯一人、伊武だけである。つまり今グダグダ考えるくらいなら、早く寝て明日を迎え、直接伊武に聞いた方が効率的である。という答えに辿り着いた慧は、アプリを閉じ、スマホを充電器に繋ぎ、さっさと眠ることにした。
翌朝。セットしていたスマホのアラームで目覚めた慧は、ワンチャン返信が来ているかもしれないと思い、アラームを止めた後にロック画面を確認した。しかし、そこに通知は表示されていなかった。とは言え、もしかしたらアプリのバグで通知が来ていないだけかもしれないと思い、念には念を入れてメッセージアプリも開いて見たのだが、やはり結果はロック画面と同様で、伊武からの返信は来ていなかった。
(なんだ、無視されてるのか? それとも面倒だから返してないだけか? まぁどちらにせよ、龍宮と一緒にいるはずだから、体調不良ってことはないと思うし、いつも通りの時間に出れば二人に会えるだろうし、最悪、教室で絶対に会うわけだから、その時に聞けば良いか)
そう結論付けた慧は、ベッドから起き上がり、朝のルーティーンに移った。
それから数十分後、登校準備を済ませた慧はいつもより少し早めの時刻に家を出た。そして自宅前で二人が出て来るのを待ったのだが、三、四分待っても二人が出て来る気配が無かったので、慧は致し方なく駅に向かった。
【龍宮氏と江波戸氏、出てきませんでしたね?】
「うん。なんかあったのかな……」
【連絡してみますか?】
「いや、とりあえず学校に行ってみるよ」
【そうですね。早とちりは良くないですもんね】
「うん」
慧は口数少なに答えると、それ以降無駄話はせず、やや早足で改札を抜け、電車に乗り、天方中央駅で下車して、またしても早足で改札を抜け、勢いを落とすことなく坂を上り、靴を履き替え、一段飛ばしで階段を上り、廊下を抜け、少し息を荒げながら一年七組のドアを開く。すると、
「あっ、風見君。おはようございます」
丁度教室から出ようとしていた恵凛と鉢合わせた。
「お、おはよう、龍宮」
「息が荒いですね。急いで来たのですか?」
「うん。ちょっとね」
「もしかして、私たちのこと、待ってました……?」
「まぁ、うん、そうだね」
「ごめんなさい。今朝方、伊武が一本早い電車で行きたいと申し出て来たのですが、あまりにも急だったので、風見君に連絡するのを忘れていました……」
「ううん。気にしないで、全然大丈夫だから」
慧は息を整えながら頑張って作り上げた笑顔で答えると、少しだけ顔を横にずらして窓際の最後尾の席を見る。しかしそこに伊武の姿が無かったので、
「あれ? その言い出しっぺの江波戸は?」
と、思ったままのことを口走ってしまった。
「あっ、伊武なら先ほど教室を出て行きましたよ」
「そっか、分かった。ありがとう」
「はい」
恵凛は優しい笑みを浮かべて答えると、小さく一礼して慧の横を抜けて行った。一方慧はそれを見送ると、自分の席に向かい、鞄を机の上に置き、早々に教室を出て行く。
【ご主人、当てがあるのですか……?】
「うん。多分あそこだ……」
ボソッと聞いて来たラヴィに小声で答えた慧は、再び早足で廊下を進み、ものの数分で保健室の前までやって来る。
【なるほど。確かにここが一番あり得そうですね】
イヤホンからはラヴィの声が聞こえて来たが、慧はそれを無視してドアをノックする。
「はーい」
「失礼します」
中から返事があったので、慧は一言添えてから保健室のドアを開ける。するとその先には、養護教諭である堤と、お目当ての伊武が対面になって座っていた。




