第百九話 締結
翌朝。学校へ行く準備を済ませた慧は、リビングのソファに腰かけ、昨晩輝虎に送ったメッセージを読み返していた。
『明日の放課後、話したいことがあります。時間ありますか?』
『あぁ、平気だよ。それじゃあテラス集合にしようか』
『はい。そうしましょう』
側から見たら、たった一回行われた何の変哲も無いラリーである。しかしこれには、当事者たちしか知り得ぬ重大な意味と、互いの思惑が込められている。
【何か不安ですか。ご主人?】
「いや、不安ってわけじゃないと思う。緊張、なのかな? まぁとにかく、後悔はしてないよ」
【そうですか、それなら良かったです。不安や緊張というのは、時間や誰かの言葉がいつの間にか消し去ってくれているものですが、後悔というのは、時間が経っても、誰かに落としてもらっても、質の悪いシミのようにいつまでも残るものですからね】
「なんだそれ。誰かの格言か?」
【いいえ。強いて言うなら私のですかね】
「ふっ、あっそ。……まぁでも、実際その通りかもな。後悔を残すくらいなら、今やれるだけのことはやっておかないとな」
【はい。悔いが残らないように頑張りましょう】
「うん」
会話が一段落したところで丁度家を出る時間になったので、慧はソファから立ち上がり、いつも通りの時刻に家を出た。
……その後、何事も無く緩やかに時は流れ、放課後。帰り支度を済ませた慧が、そろそろテラスに向かおうかな。なんて考えていると、
「ねぇ、ちょっといい」
左隣の伊武から声が掛かった。
「うん。どうした?」
立ち上がろうとしていた慧は椅子に座り直して答える。
「この後、なんかあんの」
「あぁー、うん。ちょっと用事があるかな」
「ふーん。そう」
「ごめん。もしかして母親の――」
「平気。また今度でいい」
慧の言葉を遮るように答えると、言い出しっぺの伊武は席を立つ。そして、
「じゃ」
と呆気なく会話を切り上げ、さっさと歩き出してしまう。
「あっ、おい!」
慧はそれを引き留めようとするのだが、伊武は聞く耳持たず、そのまま教室から出て行ってしまった。
(なんだ今の? 多分、母親のことで何か進展があったんだろうけど……。まぁ、そんな思い詰めてるようにも急いでるようにも見えなかったし、今日は先輩の方に行って大丈夫そうだな……。大丈夫、だよな……?)
伊武の様子からして追わなくても大丈夫だと判断した慧だが、もしかしたら母親との関係が悪化したのかもしれない。という可能性も拭い切れず、慧は不安と心配の入り混じった視線を教室後方のドアに送り続ける。すると、
「伊武のことは私にお任せください」
と、今度は右隣の恵凛から声が掛かった。
「蒲池君から聞きましたよ。昨日、璃音のことがあって、先輩とのお話が途中なんですよね?」
「う、うん。そうなんだ。でも、いいの? ここ最近龍宮に任せ切りだし、龍宮だって他にやりたいことがあるんじゃ……」
「私のことは気にしなくて大丈夫ですよ。やりたくてやっているだけですので。あっ、それと、璃音の方も気にしなくて大丈夫だと思いますよ。今日は軽音楽部の方に出ると言っていたので」
「そっか……。色々フォローしてくれてありがとう、龍宮」
「いえ、私にはこれくらいの事しか出来ませんので。それでは」
恵凛はそう答えて微笑むと、伊武の後を追って教室から出て行った。それはまるで頬を撫でるそよ風のように、静かで優しい去り際であった。
【なんて素晴らしい方なのでしょう……】
そんな恵凛の姿に感銘を受けたのか、息を潜めていたラヴィが感嘆の声を漏らす。
「あぁ。ほんと頼りになるよ。けど最近、これで良いのかなって思うんだよなぁ」
【はて。龍宮氏との関係は良好のように見えますが?】
「うん。悪くは無いんだよ。でも、なんか引っ掛かるんだよな」
【ふむ。完全に勘の類。というわけですね?】
「まぁ、そうなるな」
【なるほど……。そう言う勘は馬鹿に出来ませんからね。大事にしましょう。ですが、今は忘れましょう!】
「え?」
【なんせ、今日はこれからビッグイベントが待ち構えていますからね!】
「まぁ、確かに。龍宮のことはまた後でゆっくり考えるか」
【はい。お家でじっくり吟味しましょう!】
「だな」
慧は短く答えて席を立つと、学校鞄を肩にかけて教室を出る。そして、教室棟の廊下を行き、渡り廊下を過ぎ、全く人気の無い実習棟にやって来る。ここまで来たら、後はこの角を右に曲がって、テラスへと続く一直線を進むのみだ。なんてぼんやり考えていると、慧はふと気付いた。意外にも、自分が平常心を保てているということに。常ならば、何から話そう。とか、失敗したらどうしよう。とか、無駄なことを考えだして、勝手にネガティブになり始めている頃なのだが、今日は全くそれが無いのである。それどころか、脳内はスッキリ整理されており、今なら臨機応変に何事にでも対応できそうな気さえしていた。
(何だろう、この感じ……。朝は何となく緊張だと決めつけてたけど、これは絶対緊張じゃないな。となると、ラヴィが復活して根拠のない自信が湧いて来たとか? いや、それも違う気がする。これは自信でもない。もっと別の何かだ……)
慧は漠然とした自分の気持ちを解明しようと考えを巡らす。しかしその答えを導き出すにはこの一直線は些か短すぎたようで、気付けばテラスの出入り口前に辿り着いていた。
(着いちゃったな……。まぁ、そんなに気にすることでも無いし、今は交渉に集中しよう)
慧は一瞬で気持ちを切り替えると、ガラスドアの向こうに見える白衣の背中を視界に捉えながらドアノブに手をかける。
「すみません。遅れました」
テラスに出た慧は、テンプレートの挨拶をしながら輝虎のもとへ歩み寄る。
「あぁ、平気だよ。僕もついさっき来たところだからね」
輝虎も輝虎でテンプレートの挨拶を返すと、「さぁ、好きなところに掛け給え」と続ける。慧はそれに「はい」と答え、丸テーブルを挟んだ輝虎の対面の席に腰かける。
「いやぁ、それにしても驚いたよ。まさか昨日の今日で、それも君の方から話がある。なんてさ」
そう切り出した輝虎はニヤリと笑みを浮かべて見せるが、その瞳は笑っておらず、少しの違和感も見逃さないと言わんばかりにギラギラと光っていた。
「そんなに意外でしたか?」
対して慧は顔色ひとつ変えず、能天気に返す。
「あぁ。二、三日は逃げられると思っていたよ。次の策が思い浮かぶ時間稼ぎのためにね。でも、こうして僕を呼び出したと言うことは、もう既に次の策が閃いていると解釈した方がいいのかな?」
「ははっ。次の策なんて大したものはありませんよ。ただ、昨日のままじゃお互い消化不良かなと思ってこの場を設けただけですよ」
「フッ。そうか。親切だねぇ、助手君は。ところで、今日は忘れなかったんだね、眼鏡」
「はい。今日は先輩に見せるという目的もありましたからね」
「ほう。それは有難いね」
積極的に揺さぶりをかけてくる輝虎だが、慧はそれを全く意に介さず、淡々と答えていく。すると輝虎も今日の慧は一味違うと悟ったのか、再びニヤリと口角を上げると、白衣のポケットに突っ込んでいた両手を出し、少し前のめりになって丸テーブルの上に両腕を置いた。
「さてと、前置きはこれくらいにしておいて、そろそろ聞かせてもらおうかな、話したいことってやつを」
「はい。そうですね」
突然テンポアップすることで主導権を握りに来た輝虎に対し、慧は一度間を作り、精神的にも会話的にもリセットをかけてから話を再開する。
「まず最初に、昨日の質問に答えておきます。この眼鏡は、昨日先輩が推理した通り、視力を補助する以外の目的があって掛けてます」
「ふむ。やはりそうか。それで、どんな機能が備わっているんだい?」
「まあまあ、そう焦らないでください。いくつか確認したら、ちゃんと全部説明するつもりですから」
「確認? なんの確認かな?」
「先輩に話すべきかどうかの確認です」
「ほう。つまり、僕がその確認をクリアできなければ、今日の話は無しという事かな?」
「はい。そうなりますね」
「フッ、オーケー。良いだろう。何でも聞いてくれ給え」
「ありがとうございます。じゃあ一つ目、イヤホンのこと、覚えてますか?」
「あぁ、勿論。君のお父さんの試作品、だったね」
「そうです。アレは試作品第一号でした。そしてこれが第二号です」
慧はそう言うと、右耳に掛けている骨伝導式のイヤホンを一時的に外して輝虎に見せ、再び右耳に戻す。
「イヤホンを着けていたのか。気付かなかったよ」
「はい。見えないように着けてますからね。そして次にこれ」
そう言って今度は眼鏡を外す。
「実はですね。これも試作品なんですよ」
「その眼鏡も?」
「はい。先輩が拾ったイヤホンと、今見せたイヤホンと眼鏡。これらは全部父の試作品なんです」
「ふむ。眼鏡とイヤホンねぇ……。あまり関係は無さそうに見えるが?」
「そうですね。この二つに直接的な関係はありません。そこで出て来るのがこいつです」
慧は眼鏡を掛け直すと、ズボンの左ポケットに手を突っ込み、そこからラヴィ本体を取り出してテーブルの上に置く。
「一番重要なのはこいつなんです」
「これは……」
「そう。先輩、知ってますよね、こいつのこと」
「……」
輝虎はラヴィ本体を見つめて黙り込む。
「別に先輩を問い詰めようとか、怒ってるとかってわけじゃないんです。最初に言った通り、確認がしたいんです。あの日、俺が先輩の家に泊った日、こいつを触りましたよね?」
「……あぁ。触ったよ」
「やっぱりそうでしたか」
実はまだ録画を確認していない慧は、輝虎の自白を聞いて小さく呟き、話を続ける。
「先輩的に、こいつはなんだと思いますか?」
「スマホ。では無いね。あの日少しだけ画面を見たが、アレはスマホの画面では無かったからね。だから僕は、それも試作品だと思っているよ」
「はい。その通りです。こいつも父が作った試作品です。そして、こいつが全ての大本なんです」
「大本? どういうことかな?」
「簡単に言うと、こいつがあるからこそ、さっき見せたイヤホンと眼鏡は最高のパフォーマンスを披露できるってことです」
「なるほど。それはつまり、三位一体的なことかな?」
「はい。大体合ってます」
「ふむ、そうか。そう言う事だったのか……。僕はてっきり、イヤホンにせよ、眼鏡にせよ、そのスマホみたいなものにせよ、全てが独立した試作品だと考えていたが、逆だったのか……。全てが纏まって一つの試作品だったんだ……」
輝虎はぶつぶつと自分の推理を整理し始める。慧はその呟きを聞き、やはり輝虎は大分核心に近いところまで来ていたのだな。と思った。そしてそれと同時に、間違いなくラヴィに興味を持つと確信したので、予定通り、交渉に入ることにした。
「とまぁ、色々話してきましたけど、今話せるのはここまでです」
「えっ! そ、そんな……。もっと詳しい機能を説明してくれるんじゃなかったのかい? ハッ、もしかして、僕は何か確認をクリアできていなかったのかい?」
「いえ、完璧です」
「じゃあ何故?」
「ここから先は、俺と先輩お得意の取引をしたいんですよ」
「取引?」
「はい。俺は先輩に試作品の機能を包み隠さず教える。対して先輩は、この試作品たちのことを一切口外しない。それと、試作品の機能チェックを手伝う。というのが最低条件です。どうでしょうか?」
慧はとりあえず、昨晩ラヴィと決めた二つの条件を最低条件として提示した。すると瞬きする間もなく、
「良いだろう!」
と輝虎は快諾した。
「え、えぇ……。良いんですか?」
「あぁ。勿論だとも。試作品の機能は包み隠さず教えてくれるのだろう?」
「はい」
「それに、試作品の機能チェックも手伝っていいのだろう?」
「は、はい」
「僕ばかり得している条件じゃないか! 断るはずが無い!」
輝虎は中庭にこだまする程の大声で言うと、その勢いのまま立ち上がり、大声で笑いだした。
【う、上手くいった……。みたいですね?】
「そう、みたいだな……」
こうして、最大の賭けになると思われていた慧の思い切った取引は、あっさり大成功するという味気ない幕引きを迎えたのであった……。




