第百四話 盲点
週が明けて月曜日。アラームで目覚めた慧は、登校の準備を済ませるためにノソノソとベッドから起き上がる。そして、廊下、階段、洗面所、トイレ、リビングと、毎朝恒例のルートを辿るのだが、その際、どこに行ってもまだ起きていないはずの父の気配を感じ、どことなくムズムズした。と同時に、自宅に誰かがいるのだという安心感を思い出した。
(久しぶりだな。この感じ……)
キッチンまで来た慧は、水切りラックに置かれている自分のコップと父のコップを見て思わず微笑んだ。嬉しさとは少し違う、懐古みたいなものだろうか。なんて考えながら、慧は自分のコップを手に取り、麦茶を一杯飲んだ。
その後、慧は父を起こさないよう出来るだけ静かに室内を移動し、身支度を整え、弁当を作り、軽い朝食を摂って家を出た。
「おはようございます」
ドアを開けて外に出た直後、真正面から挨拶が飛んで来る。スマホを見ていた慧は、その声に反応して視線を上げる。すると忽ち、門扉の向こう側に立つ恵凛と伊武の姿が目に入った。
「おはよう」
慧は挨拶を返すと、自宅の鍵をかけて門扉を抜ける。
「今、丁度インターホンを押そうと思っていたんですよ」
「そうだったんだ。じゃあ、グッドタイミングだったかな?」
「ふふっ。はい。グッドタイミングでした」
恵凛はいつも通り、ふわふわと大らかな調子で答える。でも、今日は何となく、テンションが高い気がするな。慧がそう思っていると、
「見てください、風見君。伊武が元気になったんですよ!」
すぐにその答えが発表された。
「そ、そうみたいだね。治って良かったよ。きっと、龍宮と三宅さんの看病のおかげだね」
慧は若干言葉を詰まらせながらも、どうにかホッとした風の声を作り、恵凛に話を合わせた。
(この感じ、一昨日の夜に俺と江波戸が喫茶店に行ったことを知らないみたいだな……。さては江波戸のやつ、あの日何も言わずに出て来たんだな? まぁいいや、とりあえず今は話を合わせておこう)
大体の予想がついた慧は、恵凛との会話に意識を戻す。
「いえ、私は何もしていませんよ。看病の大半は三宅さん一人で行っていましたから」
「そうなの? でも、江波戸を看病する三宅さんを手伝ってたんだから、龍宮も充分力になってたでしょ?」
「うーん、そうですかね?」
「うん。きっとそうだよ。な、江波戸?」
このまま押し切ってしまえ。そう思った慧は、(なんで土曜日に俺と会ったことを言ってないんだよ!)という僅かな恨みも込めて伊武にキラーパスを出した。すると伊武はその念を察知したのか、はたまた少しは申し訳ないと思っているのか、
「ん。そうかもね」
と、適当に話を合わせてくれた。
「本当ですか? ふふっ。良かった」
疑うことを知らない恵凛は、伊武の無感情なセリフにも飛び切り純粋な笑みを浮かべて喜んだ。かと思うと、伊武の横にススッと寄り、
「家で看病出来なかった分、学校では私がしっかり付き添いますね」
と言って伊武の腕を取る。
「い、いや、いいから……」
口ではそう言いながらも、伊武は恵凛を振り解こうとはせず、二人はピッタリとくっついたまま駅に向かって歩き出した。
(ま、まぁ、良い感じに収まったのかな?)
慧は仲良く歩いて行く二人を見て苦笑を浮かべると、少し遅れて歩き出し、背後から二人を見守るようなポジションに着いてその後を歩いた。
……登校後、何事も無く時は流れ、あっという間に昼休みを迎える。周囲の生徒たちがひと時の自由を過ごす中、慧はいつも通り鞄から弁当箱を取り出し、机の上に置く。しかしそれ以後、慧は包みも解かず、ぼんやり父とラヴィのことを考え始めた。
(今頃修理してるのかな。どのくらい進んだだろう。夢のことも確かめたいし、赤い軽自動車のことも聞きたいし、虹色のオーブのことも話したいし、早く直ってくれると助かるんだけどな……。って、なんかあいつに頼り切りじゃないか?)
考えを巡らせた末、自分がラヴィ無しでは生きられない人間になっているのでは? という悪い予感が生じたので、慧は首を横に振って考えを振り払う。
(ダメだダメだ。頼り過ぎるとあいつはすぐ調子に乗るからな。それに、あいつが直らない可能性だってあるんだから、俺一人でも解決出来るようにしないと。今のところ一番簡単そうなのは……。龍宮に虹色のオーブの存在を伝えるかどうか。だな)
そう判断した慧は、早速解決策を考え始める。しかし真っ先に浮かび上がったのは、今朝見た恵凛の笑顔であった……。慧の言葉を復唱して笑う恵凛。伊武が元気になったと報告して笑う恵凛。自分が役に立っていたと褒められて笑う恵凛……。とにかく笑顔の彼女ばかりである。何故笑顔の彼女ばかりが……? そう思った慧だが、答えは至極単純である。恵凛に笑顔でいて欲しい! あの無垢でピュアな笑顔を傷付けたくない! 慧がそう感じていたからこそ、笑顔の恵凛ばかりが浮かんで来たのである。つまり、恵凛が笑顔になれる選択が正解なのだ! そうと気付いた慧だが、彼の前には回り回ってあの問題が戻って来る。『果たして恵凛は、オーブの存在を知った方が幸せだろうか? 知らない方が幸せだろうか?』結局はこの二択なのである。この最初の二択の内、どちらかを選ぶ他に道は無いのである。という結論に帰り着き、慧は多大な徒労を感じて大きなため息を吐いた。
「よお、どうした。元気なさそうじゃん」
するとそこに友宏が現れた。
「え? いや、元気だよ」
「ほんとか? ため息吐いてたのに?」
「あぁ、まぁ、吐いてたけど、アレは別に落ち込んでたとかじゃなくて、何と言うか、その、一息ついてたって感じだよ」
「ふーん、なら良いけどさ。俺はてっきり、弁当箱を見てため息吐いてたから、中身を詰め忘れて箱だけ持って来ちまったのかと思ったよ」
話す中途から得意げな笑みを浮かべていた友宏は、予想通りくだらない冗談を言う。
「なわけあるか。ちゃんと入ってるよ」
心配してくれた友宏を無視するわけにもいかず、慧はそう答えながらようやっと包みを解き、弁当箱の中身を見せた。
「ホントだ。忘れてたらパンの一つくらい奢ってやろうと思ってたけど、これなら大丈夫そうだな」
「嘘つけ。最初から奢るつもりなんて無いくせに」
「んだと~。今日は本当に奢ってやろうと思ってたのに」
「じゃあ奢ってよ」
「いや、それは違うだろ。弁当あるんだから」
「別にパンじゃなくても良いだろ? 飲み物とか」
「ゴホン! おーっと、そろそろ飯を買いに行かないと売り切れちまう。この話はまた後でしよう!」
自分が劣勢になったと悟るや否や、友宏はクサい芝居をしながら慧の横を通り過ぎ、そのまま教室から出て行った。
(ったく。心配してんのか茶化したいだけなのか、どっちなんだよ。まぁ多分、アレが友宏なりの優しさなんだろうとは思うけどさ……)
心の中で呆れてはいたが、友宏が話し掛けてくれたことで気が紛れたのも事実なので、慧は友宏に対して多少の感謝も抱きつつ、箸ケースから箸を取り出す。そして遅めの昼食を摂ろうしたその時、左から鋭い視線を感じ、慧は箸を持つ手を止めてチラリと左を見る。すると先ほどまで寝ていたはずの伊武が起きており、その伊武と目が合った。
「ご、ごめん。起こしちゃった?」
「別に。そもそも寝てないし」
伊武は答えながら背もたれに背中を預けると、カーディガンのポケットからスマホを取り出し、ゲームを始める。
「なんだ、ずっと起きてたのか……。てことは、なんでこっち見てたんだ?」
「……」
「江波戸?」
「……別に。ただ、なんか変だなって。あと、眉間に皺寄ってる」
慧の方に向き直ってそう言い放つと、伊武はスマホに視線を戻した。
「えっ、変って――」
「お待たせしました~」
慧が聞き返そうと口を開いた直後、恵凛が教室に戻って来た。
「さぁ、お昼を食べましょう」
恵凛は自分の鞄からやや大きめの竹の弁当箱を取り出すと、それを持って伊武の席まで移動する。
「そんなお腹減ってない」
「ダメですよ。病み上がりこそしっかり食べないと!」
「はぁ……」
「はい。これどうぞ」
「いいって、自分で取るから」
目の前では微笑ましいやり取りが交わされているのだが、慧は伊武の言葉が気になってそれどころではない。
(変ってなんだ? 江波戸も元気が無いって言いたいのか? それとも他に原因が……? まぁ何にせよ、顔に出てるのは良くないよな。龍宮に何か勘付かれたら最悪だし、今日は一旦考えるのは止めておこう)
まだまだモヤモヤしているが、原因の究明と、恵凛に勘付かれないことの二つを天秤にかけた結果、慧は後者を優先するべきだと決断した。するとその直後、
「風見君もそう思いますよね?」
突然押し問答の流れ弾が飛んで来た。
「えっ? あぁ、うん」
「ほら、風見君もこう言ってますから、しっかり食べてください」
話はあまり聞いていなかったが、運良く正解を引いたらしい。慧は小さく安堵しながら、その流れに乗って自然と会話に混ざり、そのまま恵凛と伊武と昼休みを過ごした。
……眠気に耐えながら残り二時間の授業を受け、放課後。慧たちのクラスは、クラス担任の内海の到着が遅れたことにより、他のクラスよりも数分程遅れて帰りのホームルームが終了した。
「はい。それじゃあこれでホームルームを終わります。遅れちゃってごめんなさいね。今日は部活も無いから、みんな気を付けて、早く帰るようにね」
内海は急ぎ足でホームルームを締めると、名簿やら教材やらをパッとまとめて教室から出て行った。どうやら今日は忙しいらしい。なんて呑気なことを考えていると、友宏がやって来た。
「おい慧、先輩が来てるっぽいぞ」
慧と友宏の間で先輩と呼ばれているのはただ一人。
「やあ、助手君」
輝虎だけである。
「先輩、どうしたんですか?」
「こないだのことで話があってね」
教室に入って来た輝虎の答えを聞き、慧はすぐにオーブの話だと分かった。
「分かりました」
慧はそう答えた後、恵凛と伊武に向けて、「悪いけど先に帰ってて」と言おうとしたのだが、それよりも先に、
「じゃ、先帰ろ」
意外にも伊武がそう言い出した。
「は、はい。そうですね。風見君、頑張ってください」
恵凛も伊武が言うとは思っていなかったようで、少し驚きつつも、伊武と共に教室を去った。
「なになに。あんま聞かない方がいい話なんすか?」
「あぁ。出来れば助手君と二人で話したいかな。次の検証の相談なんだよ」
「マジすか! 了解っす。楽しみに待ってます!」
流れるようにまんまと輝虎に騙された友宏は、文句ひとつ言うことなく、恵凛たちの後を追うように教室を出て行く。そしてその場には慧と輝虎が残された。
「さてと、僕たちも早く話を済ませて帰ろうか」
輝虎はそう言いながら恵凛の席に着いたので、慧も自分の席に着き、話を再開する。
「それじゃあ早速ですけど、話ってのはオーブのことですよね?」
「あぁ、もちろん。助手君と恵凛君の様子が気になっていたからね。だが、本題はそれじゃあない」
「えっ? 何ですか?」
なんだかとても嫌な予感が漂い始める。
「実は今日、昼休みにもこの教室に来たのだが、その時、あることに気付いたんだよ。助手君、君、いつもかけているはずの眼鏡を、今日はかけていないね?」
今の今まで気付いていなかった自らへの衝撃と、よりによって輝虎にバレたという焦りで、慧は答えることが出来なかった。
「まぁ、君が眼鏡をかけていなかった所で、他の人はそこまで気にしないだろうね。だが、僕からしたら気になることなのだよ。それも非常にね。だって、つい数日前まで肌身離さずかけていた眼鏡を、今日になって突然外すなんて、おかしな話だと思わないかい? それに君は昼休み、伊武君に『なんか変』と言われたにもかかわらず、眼鏡のことを言わなかった。普段から眼鏡をかけている人ならば、真っ先に『あぁ、眼鏡のこと?』とか言いそうなものだけれど、君は何もピンと来ていないようだった。なんなら、眼鏡をかけていないというイレギュラーに、自分でも気付いていないように僕には見えた。さぁ、助手君。答えてもらおうか? まずは、何故眼鏡をかけていないか。からだ」
輝虎は勝利を確信したような笑みを浮かべ、慧の瞳をじっと覗き込む。
(ま、まずい。これはマジでまずいぞ……!)
平和に過ぎると思っていた一日の最後には、思いも寄らぬ落とし穴が待っていたのであった……。




