第百二話 修理と修復
三十分以上電車に揺られてようやく帰宅した慧は、真っ先に脱衣所へ向かった。その理由は、昨日着ていた服や下着、それに使用済みのバスタオルなど、洗濯しなければならない物がたくさんあったので、それらを忘れる前に洗濯籠に入れておきたかったからである。次いでもう一つ、やっておきたいがあった。それは、大分余ってしまった歯磨き粉やシャンプーなどのお泊りセットを目立つ場所に置いておくことである。今回の泊りの為にわざわざ購入したお泊まりセットだが、ほとんど使わず余ってしまったので、先に使い切るための誘導をしておきたかったのである。と、こうして帰る前から予定していた二つの優先事項を片付けると、慧はバッグを持って自室に向かった。
自室に辿り着くと、まずはバッグを勉強机の上に置いた。そしてその中から、財布、鍵、スマホ、充電器、それからラヴィ一式を取り出し、その一つ一つを元入れていた場所、元あった場所に戻した。その後、バッグに何も入っていないことを確かめて、スマホとラヴィの本体をそれぞれの充電器に繋ぐと、慧はベッドに寝転んだ。少しだけ、ほんの少しだけ休憩しよう。そう思いながらゆっくり瞼を閉じると、慧はあっという間に眠りに落ちた。
……目覚めたのは夕方頃であった。慧の感覚としては、瞬きをしたら夕方になっていた。という感じなのだが、現実では、寝落ちしてからもう二、三時間は経過したらしい。
(あぁー、よく寝た。やっぱり自分の部屋の自分のベッドで目覚めるのは最高だな)
睡眠の質と目覚めの良さから改めて実家の素晴らしさを感じつつ、慧は上体を起こす。
(今朝は慣れない環境で寝ていた上に、変な夢を見たせいか、ちゃんと眠れていなかったんだな……)
寝落ちと快眠の所以を考察しながら両腕を持ち上げ、慧はうんと伸びをする。そしてそれを終えると、頭の中には「夢」という単語だけが意味深に残り、それは波紋のように広がっていく。
(夢……。そういえば、夢のことをラヴィに聞くつもりだったんだ。充電を確認しないと)
まるで洗脳されたかのように、突然使命を、やるべきことを思い出した慧は、勢いよくベッドから立ち上がり、勉強机の上で充電していたラヴィの本体を手に取る。電源ボタンを軽く押してみるが反応はない。充電が切れて完全に電源が落ちてしまったのだろうか? そう考えた慧が電源ボタンを長押しすると、パッと画面が点灯した。
(良かった。とりあえず充電は完了してるっぽいな)
一安心しながらラヴィが起動するのを待つ。しかしいくら待っても画面は真っ白いままで、変化する気配はない。
「おい、ラヴィ?」
【……】
呼び掛けてみても応答はない。
「充電が問題じゃないのか?」
そう呟いた直後、嫌な予感が走る。
(ま、まさか、壊れたのか? めっちゃ高性能だから忘れかけてたけど、コイツって試作品だもんな?)
画面が点灯して以降、うんともすんとも言わないラヴィを見て、慧は最悪の予想を思い浮かべる。しかしそれと同時に、こうなったら打つ手は一つ。製作者である父に連絡する他ない。という対応策も思い浮かんでおり、慧はあたふたする間もなく、枕元のスマホを手に取る。何度も試作品を預けられている慧からしたら、こんなのは緊急事態に含まれないのである。
『ラヴィが壊れたっぽい』
慌てて電話をするでもなく、慧は淡白なメッセージを送る。すると、
『えっ! どうなってる? 状況を詳しく教えてくれ!』
父の方が取り乱してしまった。と言っても、これも毎度のことなので、慧は至って冷静に、『要点を話すよ』とワンクッション挟んでから、出来るだけ明解な返信を送る。昨晩充電を忘れて寝てしまったこと。今朝は電源すらつかなかったこと。半日充電して今起動してみたところ、画面が真っ白のまま動かないこと。話し掛けても応答が無いこと。等々、時系列に沿ってラヴィの現状を綴った。輝虎の家に泊っていたというのは関係ないと思ったので伏せておいた。
『分かった。ひとまず今は電源を落としておいて。明日帰ってチェックするから』
焦っているのか、怒っているのか、はたまたもう仕事モードに入ったのか。絵文字も無く、感嘆符も疑問符も無いシンプルかつ簡素な返信が届いた。慧はそれに、『了解』とだけ送り、ラヴィの電源を完全に落とした。
(夢のことはまたお預けってことか……)
自分の不注意でこうなったとは言え、謎が謎のまま残り続けているのはとても歯痒い。しかしだからと言って焦って変なことをするのはもっと面倒な事態を招くことになる。そこまで分かっている慧は、今出来ることを、つまりは念のためラヴィを充電器に繋いでおく。ということだけを済ませて部屋を出た。
階下に向かい、間食を求めてキッチンの冷蔵庫やら棚を調べて慧は気付いた。そもそも今日の夕飯が無いということに。そこで慧は買い出しに行くことにした。夕飯だけならコンビニでも良かったが、ついでに他の物も、例えば弁当に入れる冷食のおかずや、常備用のカップ麺など、補充しておきたい物もそこそこにあったので、慧は自転車を出してスーパーに向かった。
スーパーに着くと、慧は無駄なウィンドウショッピングはせず、夕飯の弁当、冷食、カップ麺、ついでに少々のお菓子。と、目的の物があるコーナーだけを回り、それらを買い物カゴに入れて真っすぐレジに向かった。予定よりも金を使ってしまったが、明日父が来る予定だし、それに、たまには贅沢するのも悪くないだろうと言い聞かせ、慧は帰路に就く。
住宅街まで戻り、後は自宅までの一本道を直進するのみ。というところまで来ると、慧の目に、一台の赤い軽自動車が映った。まだまだ遠くてハッキリとはしないが、恐らくそれは、自宅の近くに停まっているように見えた。とは言え、自宅とは反対側に路駐してあるので、きっと向かいの家に客人が来ているのだろう。ウチではない。と慧は推理した。
(ここら辺はデカい駐車場も無いし、路駐するのはしゃーないよな。ま、早めに帰ってくれることを祈ろう)
なんて呑気に考えながら自転車を漕いでいると、唐突に、慧の脳内にある記憶の引き出しがガタガタと震え出した。
(なんだ? この奇妙な感じ……。デジャヴ……?)
自宅に近づくにつれ、震えは激しくなる。そしてついに自宅に辿り着こうという折、
(そうだ、あの車。前にも全く同じ場所に路駐してたんだ。正確な日にちまでは思い出せないけど、あの鮮明な赤には見覚えがある……!)
震えていた記憶の引き出しが完全に開き切った。
全て思い出した慧は、速度を緩めて自宅前に自転車を止めると、ゆっくり自転車を下りながら、バレないように赤い自動車を盗み見る。……間違いない。色も車種もデジャヴと一致する。となると、残るは運転手だ。そう思って運転席に視線を移すと、そこには、以前にも見たサングラスをかけた長髪の女性が座っていた。
(やっぱり! 前に見た人だ)
警戒心を強めながらも、慧は視線を逸らし、何食わぬ顔で自転車を押して門扉を抜ける。そして自転車に鍵をかけようとしたその時、背後でエンジン音が聞こえた。慧は急いで振り返るが、赤い自動車は既に走り出してしまっていた。
(一緒だ……。あの車は前回も、俺と目が合ったような気がした直後に走り出した……。俺を知ってるのか? それか、父さんの知り合いとか?)
これ以上推理するには情報が足りない。しかしキッパリ諦められるわけも無く、慧は不毛な推理をしながら自転車に鍵をかけ、家に入り、買ってきた物を片し、弁当を温め、席に着く。きっと今日はこのまま不毛な時間に支配されるのだろう。慧本人もそうと覚悟した直後、それは突然断たれた。机に置いていたスマホの画面が点灯したことによって。
「えっ、江波戸からだ……」
ロック画面に浮かび上がったメッセージの送り主の名前を見て、慧は思わず声を漏らした。かと思うと、表示されているメッセージを見て、今度は忽ち声を失った。何故なら、
『暇?』
その一言、いや、一文字しか届いていなかったからである。
(そ、それだけ? 流石にこの一言だけじゃないよな……)
ロック画面に表示されているのは最後に届いたメッセージで、もしかしたら他にもメッセージが届いているかもしれない。それか、改行して他にも文章が書かれているかもしれない。そう思った慧はメッセージをタップしてトークルームを開く。しかしそこには、『暇?』の一文字しかなかった。
(マジかよ……。数日前に俺が送ったメッセージ、ガン無視か……)
慧は少し引きながら、しょげながら、返信を打ち始める。
『俺は暇だけど……。そっちの体調は、もう大丈夫なのか?』
相手の質問には答えつつ、慧は気になることを投げかける。
『平気』
最低限の返信が届く。
『なら良かった。それで、なんの用だ?』
これ以上の追及は無意味だと考え、慧は話を進めることにした。
『聞きたいことあるんだけど、出て来れる?』
なんだろう。聞きたいことって。慧はそう思いながらも、
『うん。大丈夫だよ』
と返信した。
『じゃ、十分後くらいに出てきて』
『分かった』
話はトントン拍子に決着してしまったので、慧はとりあえず考えることを止め、約束の十分後に間に合うよう、早速食事の後片付けを始めた。
片付けを済ませた慧は、スマホ、鍵、財布。この三種の神器のみを持って家を出た。念のため十分経つ前に家を出たので、外にはまだ伊武の姿は無い。まぁ待つとしてもこっから更に十分待つことはないだろうし、家の前で待っとくか。そう考えた慧が自宅の門扉を抜けると、それと同時に龍宮宅の玄関ドアが開き、伊武が出て来た。
「あっ、よお」
久し振り。と言うのは違うような気がしたし、本当に平気か? と言うのもくどい気がした慧は、軽く短い挨拶をする。
「ん。行こ」
道路まで出て来た伊武は、挨拶も説明もせずに慧の前を通り過ぎる。
「えっ、おい、どこ行くんだよ?」
「喫茶店」
行き先を答えただけで、伊武は歩度を緩めようとしない。これは何をしても無駄だな。そう悟った慧は黙って後に続いた。
そうして二人は大した会話を交わすことなく駅前の喫茶店まで来ると、迷わず中に入る。
「いらっしゃいませ~」
入口のベルが鳴ると、それに反応して堤の声が聞こえる。すると間もなく、堤がひょこりと現れた。
「あら、どうしたの?」
二人の顔を見て、堤は嬉しいような疑わしいような表情を浮かべる。
「江波戸が聞きたいことがあるって言うから付いて来たんですけど……」
「そう。分かったわ。テーブルは片付けちゃったから、カウンターで良いかしら?」
慧と伊武は頷いて応え、三人はカウンターに向かう。
「今日はもう店仕舞いの予定だから、ゆっくり話してちょうだい」
カウンターの内側に回った堤は、優しい声音で伊武に語り掛け、二人の前に水の注がれたグラスを置く。伊武はそれを手に取ると、一口だけ飲み、コースターを横の方にずらしてそこにグラスを置いた。そして空いた場所に自分のスマホを置き、
「これ見て」
二人に画面を見るよう促した。それに対して慧と堤はチラリと視線を交わした後、各々スマホの画面をのぞき込む。どうやら誰かとのトークルームが表示されているようだ……。
『話したいことがあるの。都合がいい日を教えてほしい、合わせるから。でももし嫌なら、無視してくれても構わないわ』
慧は最新のメッセージを読み、相手の名前を確認する。『お母さん』。相手の名前は確かにそう表記されていた。
「今日、突然来た。二人が何かしたの?」
伊武が話を継ぐ。
「少しだけ話し合いをしたわ」
隠す意味も無く、隠し通すことも不可能と判じ、堤が答える。
「ごめん。勝手なことして……」
余計な手出しだったかな……? そう思いながら、慧は堤に乗じて詫びを入れる。すると、
「別に謝って欲しいわけじゃない」
予想外の答えが返ってきた。
「ただ知りたかっただけ、どうしてこうなったのか。それで……」
「それで?」
「……ほしい」
「ん?」
「き、来て欲しい。一緒に。どっちでも良いから……」
伊武は視線を逸らし、聞こえるか聞こえないかの声量で早口に言った。
「フフッ、もちろんよ」
一瞬は驚いた顔をした堤だが、すぐに喜びが勝ってきたようで、微笑みを湛えて答える。
「俺も。いつでも手伝うよ」
慧も賛同を示しながら、安堵の笑みを浮かべる。
「……ん。じゃあ、今日はこれだけだから、もう帰る」
二人の答えを聞いて耳を真っ赤にした伊武は、そう言って席を立つ。そして、
「また月曜日」
と言い残し、カウンターを離れた。
「ちょっ、おい」
「フフッ。行ってあげて」
「は、はい。ごちそうさまでした」
慧は手短に挨拶を済ませると、伊武の後を追い、合流し、龍宮宅まで送り届けた。




