元子爵令嬢とサラリーマンの俺
背に太陽の光を浴びながら、俺はベンチに座る女子高生の前に跪きシュッシュ、シュッシュと腕を動かす。
時には大胆に大きく、時には小さく繊細に。
熱をもったカッターシャツはじんわりと湿り、額から流れる汗が地面に黒い斑点を描く。
「こんなものでいかがでしょうか?」
「腕が落ちたわね、ベルク」
俺は今、女子高生の靴を磨いている。
鞄から取り出したハンカチを両手に持ち、右へ左へと反復運動だ。
言っておくが俺は靴磨き屋などではなく、先々月に布団卸売店の営業職に入社したばかりのサラリーマンだ。
それに俺は山田 二郎というTHE 日本人を表す名前である。断じてベルクなどという、どこぞの偉そうなカタカナ名など授けて貰った記憶はない。
俺は額の汗を拭いながら10分前の記憶を思い返した。
午前中の営業回りを終えた俺はコンビニで鮭と昆布のおにぎりを買い、日陰を求めて公園を歩いていた。
お昼時とあって人はあまりいない。
木陰に腰を下ろしおにぎりを頬張っていると、ベンチに座る女子高生を見つけた。
こんな時間に公園にいるのだ、サボりだろう。
白いカッターシャツに紺の蝶ネクタイ、チェック柄のスカート。
俺は制服マニアではないのでどこの高校かは分からないが、目を見張るのはその容姿だ。
肩の上で切り揃えられた烏の濡羽色の髪に、モデルと言われても疑わない端正な顔立ち。
細身の体なのにシャツを押し出す膨らみが見て取れる。
あまりに見ていたからだろう。
彼女は俺の存在に気付いた。
一瞬驚いた顔をして、なにやら考え込む仕草をすると、手のひらを下に向けて指を曲げ伸ばしした。
こっちにこいと言ってるのだ。
鑑賞料を請求されてはたまったものではものではないが、俺が美人女子高生とお近づきになれるチャンスなど宝くじに当たるレベルだ。
虎穴に入らずんば虎子を得ず、ともいう。
俺は冷静を装いながら彼女に近づいた。
「あの、なんでしょうか?」
営業のイロハを叩き込まれた俺は、いくら年下であっても敬語を忘れない。
だが返事はなく、彼女は目の前に立つ俺に向けて座れというように顎をしゃくった。
それでは遠慮なくと隣に座ると頭をはたかれた。
彼女の視線を追うと、どうやら目の前の地面に座れと言っているようだ。
俺にだって男のプライドがある。
さすがに付き合い切れない。
だがその場を離れようとしたはずなのに、彼女の持つ異様な威圧感に俺の体は意識と反するように動いていた。
断じて地面に座れば視線の高さが彼女の太もものちょっと上くらいかな? といった、やましい気持ちで動いたのではない。あくまで威圧感を感じたからだ。
スラックスが汚れることもいとわずに体育座りをした俺の頭が再びはたかれる。
……正座が正解らしい。
まるで説教を受けるような体勢になると、ようやく彼女は表情を緩めて口を開いた。
「全くあなたはなっていないわね、ベルク」
「ベルク? あの、それって」
「あぁ、もう。あなたはベルクファスト=イデオン。自分の名前も忘れてしまったのね?」
「いや、俺の名前は山——」
また頭を叩かれた。
怒っているので黙っていると、彼女は語り出した。
曰く、前世で俺は子爵令嬢だった彼女に仕えていたらしい。
いわゆる専属の執事だったとか。
子爵家の五女だった彼女は他の兄弟姉妹とは母親が違い、不遇の生活を強いられ、たった一人の味方がそのベルクなんちゃららしい。
どこぞのライトノベルかと思える設定を聞いているうちに、俺は彼女に哀れみの感情を抱いていた。
これだけの容姿を持ちながら、とても残念な娘だと。
厨二病を拗らせた彼女は学校でも居場所が無いのだろう。
昼休憩のほんの僅かな時間だけでも妄想に付き合ってあげるのが、大人の対応なんではないだろうか?
「ちょっと、聞いているのベルク?」
「はい。聞いていますよ、お嬢様」
役に徹した俺の言葉に満足したのだろう。
彼女は口角を少し上げると、上に組んだ右足のつま先を俺に向けた。
目の前に差し出された学校指定の革靴を……まさか舐めろというのか!?
ある種の人間にとってはご褒美かもしれないが、正常な知識人である俺にはそんな事は出来ない。
せめて生足にして欲しい。いや、半分脱げかけの靴下ならばギリギリのラインともいえる。
俺が心の内で葛藤していると、彼女は催促するように顎をしゃくる。
「磨きなさい」
「はえっ?」
舐めるのではなかったようだ。
俺は前のめり気味の姿勢を正し、仕方なく鞄からハンカチを取り出して右へ左へと動かす。
それが公園で美人女子高生の靴を磨くという、普通の人生で歩むことはなさそうな現状に至った理由だ。
「こんなものでいかがでしょうか?」
「腕が落ちたわね、ベルク」
そりゃそうだ。
だって俺、山田二郎だもん。
まぁ、俺なりによく付き合ってあげたと思う。
そろそろ遊びは終わりだと腰を浮かそうとすると、彼女は小さくため息をついた。
「もういいわ……次は左よ」
左と言われても、そろそろ仕事に戻らなくてはいけない。社会人は学生と違って暇ではないのだ。
右手を地面につき、腰を少し上げたその時——彼女のしなやかな右足が浮き上がり地面に下ろされると、鮮麗な左足が持ち上がる。
「次は左足ですね、女王様!」
また頭を叩かれた。
「お」と「じょ」の位置を間違えただけなのに。
再び必死にハンカチを右へ左へと滑らせながら、しかし心の内は荒れていた。
微かに腰を上げていたことをどれだけ後悔しただろうか。
ほんの僅かに視点が上がったことで、防衛の象徴たる砦が見せた一瞬の隙を見逃してしまった。
だからこそ俺は最高の磨き屋になるのだ。
そして満足そうに微笑む彼女にこう言ってやる。
『左右のバランスが悪いので、もう一度右側も磨きますね』
と。
それも卑屈に上体を屈めながらだ。
だが、俺の純粋なその想いは報われなかった。
彼女が「もういいわ」と打ち切ってしまったのだ。
俺は吠えた。
心の中で吠えた。
まだ完璧に終わっていない仕事を打ち切られる悔しさ。
靴磨き職人のプライドはズタズタだ。
だが、まぁ仕方ない。俺は仕事を割り切れる大人の男だ。
チラと彼女を見ると、つまらなそうな顔で顎に手を当てている。
ここは下僕……執事として何かお声がけしないといけないだろうか?
「あの、お嬢様。なにかお悩みでも?」
「別にないわ。薄幸なのは前世で慣れているし、しいて言うなら……あなたがちっとも私のことを思い出さないくせに、視線だけは胸や太ももにいくこと。そういえば前世でも子供みたいな私の体つきが好きだったものね」
なぜバレたし!
女性は視線に敏感とはいうが本当のようだ。
あくまで俺は制服の生地に汚れがないかを見ていただけですけどね。
しかし……、手のひらではおさまりきらないような膨らみに、キュッと窄んだ腰回りが子供のような体つきと言うのなら、この国のロ〇コンは暴動を起こすだろう。
それにしても、薄幸という言葉が気になる。
学校ではこの容姿ゆえにいじめられ、家庭内でも彼女は思い込みの激しい娘としてぞんざいな扱いを受けているのだろうか?
「お嬢様、いくらお心が強くとも、人から与えられる負の感情は少しづつ蓄積され、心を蝕むもの。誰かに話すことでいくらか心が楽になることもあるでしょう。一つ私に話してみませんか?」
彼女は「そうかしら」と遠くを眺めながら、自身のことを話し始めた。
「お父様とお母様はいつも外出していて、私に毎月僅かなお金を渡すだけ。兄様と姉様は私の行動をあれはダメ、これはダメと制限してくるわ。毎朝早くに起こされ、自分で食事を作らされるの。お昼の食事は昨日の余り物がほとんどね。学校に行けば靴箱にはたくさんの書状が届いているし、勉学に励もうとすれば邪魔をされるわ。もちろん前世に比べれば大したことのない話よ」
んんっ!?
心の中で俺は首をひねった。
彼女のなにか諦めたような顔つきに不幸な生い立ちを想像してしまったが、よくよく考えてみるとなんか違う気がする。
俺は一つ一つのことを丁寧に尋ねてみた。
「お父様とお母様は週末以外、朝早くから夜遅くまでどこかにいってしまうわ。そして……これで自分の生計を立てろと毎月1万円を渡すだけ」
共働きで頑張る両親で、月のお小遣いは……1万円!?
俺の高校時代なんて4千円だったぞ。
「兄様も姉様も夜9時には帰って来いとか、夜道を一人で歩くなとか、なにかと私の行動に注文を付けるのよ。今日だってせっかく学校が休みなのに「そんな薄着で出歩くな」って怒るのよ」
少々シスコン気味だが、妹の無防備さを心配するいい兄と姉だろう。
俺としてはその注意された薄着を一目確認したいところだ。
「毎朝7時には起こされると、昨日の残りの食材を箱に詰めるわ。私はそれをもって500mも先にある学校に歩きで行くのよ」
弁当は昨日の残りものが基本だ。
それに500mだと学校も自転車通学の許可は出さないだろう。
「ほぼ毎日靴箱には『いつ、どこそこに来い』と書状が届いているわ。兄様には行かなくていいと言われているから行ってないけど、すぐにまた書状が届くのよ」
あぁ、恋文ね。
きっと大勢の男子高校生諸君が僅かな期待を持って何度も涙しているのだろう。
兄のシスコン度は上方修正だな。
「勉学のために学校に行かされているのに、休憩時間も放課後も女性たちが話しかけてきて、一緒に遊びにいこうと言うのよ」
俺は結論を出した。
はい、リア充!
この娘リア充!
全くもって恵まれた青春だと言わざるを得ない。
俺の高校生活なんて……。
自身の灰色の高校生活を思い出し項垂れる俺の頭上から、呟きの声がかかる。
「ねぇベルク。いつになったらあなたは私の手を引いて新しい生活の地に連れてってくれるのかしら?」
やや恥ずかし気に俺の方にチラと視線を向けた彼女。
彼女の設定の中の前世では駆け落ちでもしたのだろうか?
「その、お嬢様。少々記憶が朧げなのでお聞きしますが、私とお嬢様はどうなったのでしょうか?」
また叩かれた。ダブルで。
もしかすると脳にダメージを与えることで記憶を呼び覚まそうとしているのだろうか?
彼女はというと俺を叩くことに快感を覚えたのか、顔を赤らめている。
「もしかしてお嬢様はS——」
「幸せに暮らしたわよ」
ボソリと呟いた彼女は顔を背けた。
まぁ、なんだ。幸せに暮らしたのなら良かった。
ハッピーエンドだ。
それじゃあ今世も幸せに暮らしましょうかと言おうとすると、俺のスマホが震える。
手に取ると画面には部長の名前が浮かび上がっていた。
チラと彼女に視線を向けると、やはり顎をしゃくられた。
出ろとのことだ。
「はい、もしもし」
『おぉ、山田、今どこにいる? MDデパートさんから苦情の電話があった。すぐに向かってくれ』
「はい。分かりました」
電話が終わっても彼女はそっぽを向いたままだ。
もうちょっと付き合ってあげたいところだが、そろそろお別れの時間だ。
「……お嬢様、私はそろそろ戦地に戻らねばなりません。どうかお達者で」
立ち上がりスラックスについた土をはたくと、俺はお辞儀をした。
夢の時間はもう終わりだ。
背を向けた俺はそのまま歩き出した。
背後からかかる声はなかった。
きっと彼女も現実を見せられ、夢から覚めてしまったのだろう。
あれからというもの、俺は公園で昼飯を食べるのを日課にしているが、彼女の姿を見ることはなかった。
別にまたお嬢様と執事ごっこをしたいわけじゃない。
ただ、なんとなく、夢から覚めた彼女は元気にしてるだろうかと気になっているだけだ。
もしあの時俺が電話に出なければと想像すると、もったいな……可哀そうなことをしてしまったと考えてしまう。
でもリア充の彼女のことだ、新しい遊び相手などすぐに見つかるだろう。
ふと、彼女が座っていたベンチに目がいく。
そこには透き通るような金髪の女子高生が座っていた。
北欧の天使が舞い降りたかと思える彼女の青い瞳。
やがて視線がぶつかると、上向きに握った手から伸びた人差し指が伸び曲げされる。
俺の英語は中学生レベルだが、俺が北欧美人女子高生とお近づきになれるチャンスなど隕石が頭に降ってくるような奇跡的確率だ。
危ない枝に上がらねば熟柿は食えぬ、ともいう。
俺は冷静を装いながら彼女に近づいた。
「May i help you?」
営業のイロハを叩き込まれた俺は、外国の方だろうと対応は完璧だ。
だが返事はなく、彼女は目の前に立つ俺に向けて座れというように手を差し向けた……地面に向けて。
俺はしぶしぶと……口元を緩ませながら正座した。
まるで説教を受けるような体勢になると、ようやく彼女は口を開き流暢な日本語を披露した。
「全くあなたはなっていないわね、寄道」
「よりみち? あの、それって」
「はぁ、もう。あなたは須賀原 寄道。自分の名前も忘れてしまったのね?」
「いや、俺の名前は山——」
頭を叩かれた。
お嬢様がバシンなら、彼女はペチンといった感じで。
彼女が言うには、前世の俺はどこぞの大名の息女だった彼女に仕える家臣だったらしい。
彼女の話を聞きながら、俺は思う。
そろそろ前世を占うサイトに登録しようと。
「お嬢様、前世の話を聞かせて下さい」
「仕方ないわね。一番下にリンクを貼ったから読んでおきなさい!」
お読み頂きありがとうございます。
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