第3話 忍び寄る
その日は朝から雨が降っていた。傘を差して登校した生徒達は同じ状況で下校を始める。
太陽は右手で傘を差し、反対の手には折り畳み傘を握り締めていた。泣きそうな表情で歩道を走る。水溜りを無視して突っ込んだ。ズボンの裾は雨に濡れて黒く変色していた。
通い慣れた十字路を右手に曲がる。自動販売機の横手に急いで回り込んだ。
愛奈は白いワンピース姿で立っていた。
「今日は早いんやな」
「土砂降りじゃないか」
「ウチは平気やで」
愛奈は笑った。雨粒が全身を突き抜けて路面で爆ぜた。その姿は痛ましく、太陽は目を背けた。黙って折り畳み傘を突き出す。
「ウチに傘は無理やって」
「僕がどうにかするから」
太陽は折り畳み傘を広げた。後ろの金網のフェンスに柄の部分を差し込んで固定させる。
「傘の中に入ってみてよ」
「気にし過ぎやって」
言いながらも行動に移す。愛奈は気恥ずかしそうな表情で傘の中に入った。
「どうかな」
「絶対、そっちの方がいいよ」
「ありがとう」
愛奈の一言に太陽は顔を赤くした。落ち着きのない態度で横に並んだ。
「なんか、こっちまで恥ずかしくなるやん。おおきに、とかの一発ギャグで流せばよかったわ」
「それって関西では普通じゃないの? まいど、とか」
「ないわ! 一般人は商売人や芸人とちゃうで。感性がヘンとちゃうか……そうや、ウチの関西弁、どう思った?」
愛奈は真剣な目を向けてきた。
「どうって。関西弁だなーって感じかな」
「嘘やろ? 黒髪ロングの白ワンピやで。深窓の令嬢が関西弁って、普通は目と耳を疑う程の驚天動地やろ」
「僕が極度の奇人みたいな言い方はやめてくれないかな。まあ、見た目は可憐なイメージなんだけど、関西弁に違和感はなかったよ。よそよそしい感じがしなくて、ほっとするんだよね」
自然な笑みが浮かんだ。
満更でもない様子で愛奈は言った。
「それならええわ。今日は中央の砂漠地帯の探索やんな?」
「隠しボスが、いる、らしいから……」
太陽の表情が歪む。差していた傘が斜めになった。庇護を受けられなくなった肩が雨に打たれる。
突然の事態であった。愛奈は支えられない両手を伸ばし、弱々しい声で話し掛けた。
「どうしたん? 具合でも悪いんか?」
「……いつもの、頭痛なんだけど……今日は少し、痛みが、強いみたい……」
首の後ろを強く握ってじっと耐える。鋭利な刃物で突き刺すような痛みが弱まった。太陽はよろよろと歩いて自動販売機で水を買った。制服の胸ポケットから鎮痛剤を取り出し、いつもの倍の二錠を口に含み、水で押し流した。
項垂れた姿で太陽は立ち尽くす。
折り畳み傘から出てきた愛奈が心配そうな顔で寄り添う。
太陽はゆっくりと頭を上げた。
「心配させて、ごめん。もう、大丈夫だから。今日は砂漠地帯からだね」
「今日は、ええから」
「でも、楽しみにしてたじゃないか」
「ええから」
少し強い声が返ってきた。雨の中に立つ愛奈は怒りの表情となった。同時に激しく泣いているようにも見えた。
「わかったよ。今日は帰る。また明日」
「うん、また明日」
愛奈は笑みを浮かべる。嬉し涙に変わった。
太陽は家に帰り着いた。玄関で濡れた制服を手で払う。ぐっしょりとした触感が掌にへばりつく。嫌うように手を振って二階へと上がった。
自室に入ると速やかに着替えた。濡れた制服はハンガーに掛けて窓際に吊るした。
太陽はベッドを無視して机に向かった。スマートフォンをネットに繋げて『頭痛の原因』と入力して検索を始める。
ストレスの項目に目がいく。食生活の指摘もあった。改善の方法が簡単で目にする度に表情が和らいだ。
安心した矢先に『脳腫瘍』という不吉な文字が出てきた。『転移性、悪性』と続く。
太陽はスマートフォンの電源を切った。
「ただの片頭痛だよ」
明るい声で口にした。反面、表情は暗い。椅子から立つと即座にベッドに転がった。仰向けの姿でぼんやりと天井を眺める。
額の上に手の甲を置いた。僅かに残った雨の冷たさが発熱した頭に染み込む。
胸中に渦巻くものをゆっくりと口から吐き出した。
太陽は翌朝、鈍痛によって目覚めた。軽く捩じるようにして上体を起こす。頭の重さで猫背となった。額に掌を当てると熱を感じた。
昨日の雨で風邪を引いたのかもしれない。納得できる答えに黒い異物が刺し込まれる。
「……脳腫瘍」
無意識に出た言葉に本人が驚いた。階下から母親の呼ぶ声がする。奇妙な強弱が加わって意味を聞き取ることができない。耳が遠くなり、気分は一気に老け込んだ。
苛立った足音が近づいてきた。ノックはなく、ドアが勢いよく開かれた。怒りの形相の母親が仁王立ちとなっていた。
「起きているなら返事ぐらいしなさい」
強い口調のあと、表情が揺らぐ。眉間の皺はなくなってベッドに駆け寄る。
「具合が悪いの?」
「……片頭痛で、頭が痛くて。今回は風邪かも」
母親は身を乗り出した。
「車を出すから急いで用意しなさい」
「学校は?」
「母さんが電話します」
大股で部屋を出ていく。続いて階段を駆け下りるような音が聞こえてきた。
力なく笑うと太陽はベッドを下りて出掛ける用意を始めた。脱ぎ易いスウェットシャツに半ズボンを合わせた。
その後、待機していた母親の車に乗った。助手席で安全ベルトを装着した直後、車を急発進させた。
狭い道を制限速度ギリギリで走る。太陽は引き攣った顔のまま、地元の総合病院送りとなった。