第五話 勃発
バイツライト建国歴251年、帝国南部都市カルカサ。
堅牢な城壁に守られた都市内部だけでも三千人以上の人間が暮らしており、周辺の農地の人口を合わせると約一万三千人の人間がこの地域に根を下ろしていた。
辺りに広がる肥沃な平野を利用した牧畜や農業が盛んであり、帝国内でも中規模の都市であるカルカサを維持するだけの食糧と、カルカサの主産業である紡績、織布業の原材料となる綿花や麻、羊毛が周辺の農地から供給されていた。
百年程前までは南方の諸国家連合体、プサイ神聖連合との国境近くに位置し、幾度となく戦乱と略奪の嵐に晒された都市だが、バイツライト帝国の版図拡大にともない国境線から遠ざかった事で現在は最前線からはかなり離れている。
またプサイ神聖連合との軍事的緊張も近年は緩和されていることもあって、ここ数十年程戦乱を経験しておらず、帝都を囲むコルテスの壁に匹敵しようかという城壁が、かつての軍事都市としての名残を残すのみだった。
そんなカルカサの中心地に存在する官庁の一つに、警務局というものがあった。
中央から派遣された警督がトップを努める治安維持の為の組織であり、犯罪者の捜査、捕縛や市中の見回り等を主な役割としている。
大理石の柱を四本建てた厳しい玄関を持つ三階建ての建物の中では、夜番の警吏が数人、一階のテーブルの回りに腰掛けながらコップを片手に談笑していた。
警吏の夜間の業務としては突発的な事件が起きない限り、二時間に一度、二人一組で町の見回りをするだけ。
今は他の組が廻っており、彼らは果実水を飲みながら干し魚や塩漬けの木の実等などを齧って、時間を潰していた。
「……そういえば、あいつら遅いな。 何時もならそろそろ帰って来てるのに」
「どうせ酔っ払い同士の喧嘩でも止めてるんだろ。 最近この辺りは平和だし、血の気の多い荒くれ共は、鬱憤を溜めちまう」
「そうっすねぇ。 あ、所でこの前の奴隷の件ってどうなったんですかね。 ほら、主人から理不尽に虐待を受けてるって駆け込んできた」
「ああ、あれか? 法務局の方で調査した結果、確かに度を越した虐待があったと分かったらしいぜ? 奴隷は主から没収で、今は公有奴隷としてカルカサの清掃夫をやってるってさ」
「そりゃ良かったっす。 幾ら何でもちょっとしたミスで爪を剥がしたり焼印を押すのは限度を超えてますよね。 虐待と躾を履き違えてやがる」
バイツライト帝国は古くから奴隷制度を有する国であり、正確な統計は無いが現在人口の約半数は奴隷だと言われている。
奴隷の出自も周辺国家から売られてきた者、戦争で捕虜にされた者、元は自由民だったが貧しさや借金で奴隷に身を堕とした者、奴隷の母から生まれた者など様々だが、最近の帝国は版図の拡大に以前ほどの関心を持っておらず、むしろ領土の安定に腐心しているので、戦争により帝国に連れてこられた奴隷は少なくなっていた。
奴隷の身分は必ずしも永続的なものではなく主人の遺言や、手柄を立てた見返り等で解放奴隷とされ、バイツライト帝国の自由民の仲間入りをすることも多く、また自由民が奴隷となる事も珍しくはない。
建国から二世紀半が過ぎた現在、元々バイツライト帝国を建国した民族と奴隷として連れてこられ後に解放された民族の間では混血が進み、バイツライト帝国は人種の坩堝となっていた。
奴隷は今でも過酷な労役に耐えていることには代わりないが、主による私的な処刑や、命に関わる危険が大きい懲罰を禁じられたりと以前よりは権利を認められている。
警吏達が女房の愚痴やら、上司の悪口で盛り上がっていると、警務局の扉が大きな音と共に開け放たれた。
そこには二ヶ月前に警吏として配属された新人の男が、息を切らせて立っている。
目は血走っており、どうみても尋常ではない様子であった。
「お、おい、どうしたよ」
「せ、先輩方、応援お願いします! 街の中で人が暴れてて、いや、人じゃない! えーと……」
「ガイナ、一回落ち着け、な?」
何とかガイナという警吏を宥め透かす。
一息つくと、ようやく少し落ち着いた様子で、ガイナは先程起きたある出来事について語り始めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「おい、こんな所で寝るな! 泥棒に服まで盗まれるぞ」
素焼きのコップを握り締めたまま地面に寝転がっていた中年の酔っ払いを、ガイナ肩を揺らして起こそうとする。
揺れに反応した男はうっすらと目を開けて、胡乱な目つきでガイナを見やると壊れた人形のように首を左右に振った。
「うぅるへぇ……、あっちいけ強盗め……。 俺はなぁ、お前みたいな盗賊なんか……、ひっく」
訳のわからない文句を呟きながら男は、素焼きのコップを適当に投げ、それは地面に落ちて鈍い音を立てて割れた。
「こ、このっ! 警吏に対してなんと無礼な!」
男の無礼な行為に思わず頭が熱くなり、腰から捕縛用の縄を取りなすが、一緒に見回りをしている先輩のラムザに止められる。
「ほっとけよ、そんな酔っ払い。 夏で外も温かいし、寝ても死にゃしねえよ。 最悪でも裸にひん剥かれて虫に刺されるくらいだ」
「いや、しかし、警吏が侮辱されてそのまま引き下がったのでは示しが……」
「どうせ明日になれば、何も覚えてりゃしないって。 早く先行くぞ」
そう言い捨てて勝手に歩き始めたラムザを、ガイナは慌てて追いかける。
ラムザは既に齢四十を超える、かなり年長の警吏であり、カルカサで警吏になる前は兵士として数多くの戦場で戦った古強者らしい。
今でこそくたびれた中年男という風体だが、よくよく観察すれば細身ながら鍛え抜かれた肉体を維持しており、腕の方も未だ健在。
本人は野良犬剣法と謙遜するが、実戦で身につけた剣技と体術を独自に融合させた戦い方は一つの武術と呼べるまでに洗練されており、訓練の一環で練習試合をした時は幼少から剣術の訓練に励んでいたガイナでも敵わなかった。
人格面ではともかく、実力ではガイナが警吏の中で一番敬意を払う存在だ。
臣家という所謂、ある条件を満たすことで叙せられる期間限定の下級貴族の家に五男として生まれたガイナは、本来であれば臣家に生まれた男児の常として官僚になる為に幼少から法律、経済学、修辞学等の学問づけの生活を送る筈であった。
だが一番上の年の離れた兄が非常に優秀で、下位での登第とは言え若干十七歳、ガイナが四歳の頃に帝試を通り抜け官僚になった。
それにより当分の間は家の安泰は保証され、ガイナが物心付いた頃には両親の教育熱は落ち着いており、上の兄達とは違い彼はある程度自由に育てられた。
幼い頃から体を動かす事が好きだった彼は次第に剣術や弓術にのめりこみ、十三の時には地元で行われた成人前の少年が参加する剣術の大会で優勝する程になる。
将来は武術を活かした仕事に就きたいと考えたガイナは、十五歳になって成人すると警吏としての職を求め、ここカルカサを訪れたのだった。
警吏となる為にも採用試験はあるが、文字の読み書きや簡単な計算が出来る技能、法律についての知識に、健康な身体があれば通るのは難しくない。
そうして一人の警吏として街を守る為に働き始めたガイナだったが、その仕事は思ったよりもやりがいのあるものではなかった。
酔っ払いの喧嘩の仲裁や、日常的な見回り、空き巣や詐欺など犯罪の調査、城門での人の出入りの管理が主な仕事で、かつて憧れた剣の腕を活かして悪党を成敗するような大捕物などまず起こらない。
いや、それだけならば街が平和だということで喜ばしい事だろう。
しかしガイラから見ると警吏の先輩方の職業倫理にも問題があり、本来禁止されている場所に露店を出している商人や、門での荷物検査を簡略化して貰いたい者から金を受け取り私腹を肥やすものが殆どだった。
一応彼らの言い分としては重大な犯罪については勿論ちゃんと取り締まるが、ほんの軽い犯罪まで一々法律通りに対応していたらきりがない。
こういった賄賂も社会を円滑に回す潤滑油だ、と嘯いていたが、平民の出が多い他の警吏とガイナの価値観には食い違う部分が多々有って、例え小さな犯罪でもあえて見逃すというのはガイナにとっては受け入れがたいものだった。
悶々としつつも見回りの順路を歩き続けると、またしても道端に寝ころがった酔っ払いらしき人物を発見する。
だが今度は横たわった者の傍らに、連れと思われる二人の人影が座り込み、肩を揺らしているようだ。
赤く揺らぐ松明の光では良く見えないが、二人とも相当激しく動いている。
「何か様子が変だ……、もしかして急に具合悪くなって倒れたのかも知れない」
ラムザが少し真剣な声で告げ、人影の方に歩み寄っていく。
ガイナも同様に、理由は分からないが違和感を感じていた。
「おい、あんた達、大丈夫か」
ラムザが声を掛けても、倒れた人間のそばにいる二人は反応しない。
それに近くに寄ったことで分かったが、彼らから酷い臭いが漂っていた。
果実を潰して腐らせたような、甘ったるくて不快な臭気。
公共の浴場もある筈なのに、この者達はどれほど湯を浴びていないのだろうか。
「お……、おい、あれ違うぞ」
近づきつつあった足を急に止めたラムザは、緊迫して強ばった声で話しながら、倒れている人間の方を指差す。
ガイナにもこの距離ならばはっきりと見えた。
倒れた人の首元付近の地面には黒いシミが広がっており、衣服も僅かに光を跳ね返しながら真っ黒に濡れている。
甘ったるい臭いに混じって漂ってきた鉄の臭いが、あれは血液だと否応無しに語っていた。
あの二人は倒れていた人間を介抱していたのではない、食らっていたのだ。
息を飲みながら見つめるガイナ達に、二人はゆっくりと振り返る。
そこにあったのは人では無かった。
目は白く白濁し、肌は生者ではありえない黒や紫にまだら模様に変色していた。
身に纏った貫頭衣は浮浪者も着ないだろうと思われる程破れが激しく、体液が滲んで黒いシミがこびり付いている。
その時ガイナはあの臭いの元は垢汚れ等ではなく、腐臭だったのだと理解した。
喉からは泥水が泡立つような濁った音を発しており、不快な死臭がより強くなる。
「ひっ……、ひっ……」
ガイナは自らも知らない内に後ずさっており、意味のない言葉を漏らしながら腰の剣を探るも、焦りで指が滑り柄が握れない。
間違いない、確かに死んでいる。
なのにどうして動いているのか。
死者が動くという有り得ない現象を目にして、混乱するガイラだが、そこにラムザの鋭い声が飛んだ。
「落ち漬け、ありゃ亡者だ」
「も、亡者?」
ガイラの脳裏に、かつて呼んだ文献の記述が蘇る。
正しき手順で葬られず野ざらしにされた亡骸は、悪しき魂が宿り、独りでに動き出す事がある。
だがバイツライト帝国に限らず、この世界の殆どの国では遺体は火葬してから粉骨する為、普通に暮らしていれば亡者を見ることは滅多にない。
「こんな街中で見たのは初めてだが、戦場では特に珍しくもねえ。 ………下がってな」
ラムザは腰から柄に革紐を巻いたグラディウスを抜く。
帝国軍の兵士に支給されている何の変哲もない量産品だが、日頃の手入れが良いのか刀身にはサビ一つ浮いておらず、月光を反射して鈍く冷たい光を湛えている。
低く唸りながら歩み寄る亡者に向けて、剣を奥に構えた半身の姿勢をとると、軽く腰を落として膝を曲げる。
そして亡者の内一体が二歩程の距離にまで近づいた瞬間、膝に溜めていた力を一気に開放し、腰を回転させながら亡者の顔に向けて剣を突きだした。
ちょうど鼻の辺りに突き刺さった剣は肉と骨が混ざる耐え難い音と共に、深々と頭の中に入っていく。
ラムザはそれを抜こうとはせず、逆に突き放すように思いっきり押し込んで、亡者の一体を後ろに倒す。
すかさずもう一体の亡者へと向き直り、今度は足元に潜り込むようにして亡者の両足を右足で払い、地面に向かいうつ伏せに倒れた亡者の延髄へと予備の短剣を突き立てた。
二体の亡者は潰された虫のように手足を痙攣させながらも、やがて動かなくなっていく。
油断のない表情でその様子を見届けた後、ラムザはようやく息を付いた。
「覚えとけ。 亡者は人間と違って、胴体を少し切られたくらいじゃ死なねえんだ。 確実に仕留めるには頭を破壊するか、首を落とすか。 だが動く相手の首を一撃で落とすのは神業だし、結局突きが一番良い。 後、刺した剣を抜こうとすんなよ。 こいつらは動きは鈍いが、力は並みの人間より余程強い。 もし掴まれたら、そのまま組み付かれて噛み殺されちまうからな」
「は……、はい。 で、でもどうしてこの町に亡者が? 墓地に葬られた遺体は全て火葬されているはずなのに……」
「分からねえ。 それより亡者があれだけとは限らない。 俺はこの辺りを見回ってみるからお前は警務局に行って応援を呼んで来い。 夜番じゃねえ奴も叩き起こせと伝えろよ」
「は、はい、分かりました!」
ガイナは大急ぎで警務局へとひた走る。
心の中で密かに望んでいた筈の大事件だったのに、今のガイナが感じているのは、かつてない恐怖だった。