朝焼けに背を向けて
ようやく長く降り続けた雨が上がった。
昨日の夜、寝る時間になっても消えなかった雨音は、今ではすっかりどこかにいき静かな朝独特の空気が漂っていた。
寒いだろうな、と思いつつも抑えきれない衝動に負けて窓を開ける。途端、予想以上の冷たい風が私の顔面にぶつかり髪を撫でていった。一瞬身を竦めつつも改めて外へ乗り出してみれば寒さに少し慣れ、思わず清々しい心地に目を細めた。
「寒い……」
突然後ろから不機嫌そうな声が聞こえて驚く。振り向く間もなく声の主は覆いかぶさるようにのしかかってきた。正直重たい。
だが相手は上から毛布を被っているのか、そのまま私も包むようにして少しでも熱を逃がさんとしてくれる。なんだかんだ優しい人なのだ。
「ごめんね」
ちょっと苦笑して窓を閉め、相手の腕の中で振り向いた。見上げる顔はそこまで不機嫌ではない。彼もまた、朝の空気に触れて気持ちがすっきりしたのだろう。
「おはよう、陽春」
「おはよう、星くん」
お互いに顔を見合わせて挨拶をかわし、笑いあう。外の空気の冷たさとは違い、ほのぼのとした温かな時間だ。
でもそうのんびりはしていられない。今日からまた一週間が始まるのだ。ついては学校に行かなければならないのである。お弁当のおかずは昨日の夜のうちにいくつか用意はしているが、朝に作ろうと思っていた品も二つほどある。自分だけならまだしも星くんの分がないなんて絶対に避けなくてはならないパターンだ。
「何か手伝おうか?」
昔から料理は好んでやっていた星くんだ、任せても問題はないが先週はほとんどやらせてしまったから今日くらいは自分でやりたいもの。慌てて首を振って「ううん、大丈夫」と答えておく。実際時計を確認しても予定より余裕があるから大丈夫だ。
「先に着替えてくるね」
「おう」
急いで星くんの部屋へ行き、事前に持ってきておいた制服に袖を通す。
私と星くんは同じ高校に通う二年生だ。幼稚園からの幼馴染でよくある家がお隣さん。
今回の土日は互いの両親で旅行に出掛けているため、私は星くんの家にお泊りさせてもらっていた。家に一人でいるよりはずっと一緒にいる星くんといてくれた方が安心らしい。
私たちも親承認の上で付き合いをしており、特にこれと言った問題もない。こういったことは既に何度かあり将来のシミュレーションをしているかのようだ。
なんて考えながらエプロンをしつつキッチンに向かえばそこに立っているのは星くんである。
大丈夫、って言ったのに……。
軽く苦笑しつつそのまま向かえば「弁当は任せたけど朝ごはんは別だよな」とドヤ顔をしてくる。
「ほんと星くんって昔から料理は好きだよね」
「親父がよくやってんの見てたからな」
「おじさんプロじゃん」
「だからこそだろ」
星くんのお父さんはホテルのコックさんをしている。もちろんお母さんの方もお料理はできるけれど、職としていることもありお父さんが料理をすることも多いらしい。うちのお父さんは料理に関してはてんでダメだから今度教えてもらえばいいと思う。
「今度私使うから、星くん先に着替えてきたら?」
冷蔵庫から卵とチーズを取り出しながらそう言えば素直に着替えに行く。喧嘩は小さい頃はそれこそ頻繁にあったが高校生にもなればそんなこともなく平和に過ごしている。正直言って幸せな日々だ。大好きな人と仲良く屋根の下。数年後にはこれが本当に形になっているのだろうか。
将来にぼんやりと思いを馳せながら卵を割りボールに入れて箸でかき混ぜる。その間にフライパンを火にかけて温める。油を入れて卵を少し入れ、卵焼きを作り始めた頃に星くんが戻ってきた。
「陽春の卵焼き! 俺好きだよ」
「ありがと。でも見られたら崩れそう……」
「ん? 何、今更緊張してんの?」
おかしそうに笑いながらも朝食の準備をし始めてくれる星くんはやっぱり優しい。幼稚園に上がる頃、星くんのお隣に引っ越してきてくれた両親に感謝しきれない。
チーズ入りの卵焼きを作り上げてレタスを洗い食べやすい大きさにちぎる。そうこうしているうちに弁当箱にご飯をよそい終わった星くんが「できたか?」と様子を見に来た。相変わらず料理に関しては仕事が早い。
「うん、どうかな?」
「どれどれ……お、綺麗にできてんじゃん」
「へへへ」
「さっさと詰めて朝ごはん食べちゃおーぜ」
「そうだね」
はい、と渡された弁当箱におかずを詰めてご飯にふりかけをかける。持ってきていた鞄に弁当箱を押し込めば「水筒忘れんなよ」とさりげなく渡してくれる。高校生にしてなんて気が利く彼氏だろう。
ちなみに今の状態は彼氏の家に泊まっているとも言えるがそこは置いておく。気にしたってしょうがないしお互い不便はしていないからいいのだ。
二人で食卓につくと星くんはテレビのリモコンを操作し天気予報をつけてくれる。お天気お姉さんによると今日は気温が低いものの一日中晴れだそうだ。
「これなら父さんたちも予定通りに帰ってこれるな」
「そうだね」
予定では今日の昼には帰ってくるはずだ。もちろん私たちはその頃学校にいるわけだけど。
味噌汁を飲みながらテレビの左上に表示されている時計を見れば星くんが手伝ってくれたからか、家を出るまでずいぶん余裕がありそうだった。
一度家に戻って物を置いてきてもいいかもな。
なるべく持ち物は少なくしていたけれど全くないわけではない。このペースなら片づけに戻る時間ぐらいはあるだろう。
「ごちそうさま」
星は早々に食べて茶碗を片付け始める。小学生の頃は私の方が食べるの早かったのに。いつの間にか追い越されて今じゃすっかり早食いだ。男子の成長は凄まじい。
「陽春も早く食べて物片づけてこいよ。こっちの片づけは俺やっとくから」
どうやら星くんも同じことを考えていたらしく言うが早いか洗い物を始める。これは迷惑をかけないためにも早いとこ食べて食器類を下げなくては。
のんびり動かしていた箸を少し早くして残った魚の身をつまみ上げる。やっぱり鮭は美味しい。これは先日私のお父さんが朝市で買ってきてくれたものだ。
自分で言うのもなんだが、星くんの両親と私の両親の組み合わせはナイスだと思う。私のお父さんは早起きでこうして新鮮な魚なんかをよく買ってきたり連れて行ってくれたりするし、それを手にする星くんのお父さんの料理はもちろん最高。お母さんたちもお菓子作りが得意でちょっとしたもので飾り付けや雰囲気づくりをするのも得意だから小さい頃のクリスマスや誕生日パーティーなんかはよく周りの友だちに羨ましがられたものだ。
「ごちそうさまでした。じゃあこれ片づけてくるから、こっち頼むね」
「おー」
家に置いてくる荷物だけ手にして隣にある自分の家へと帰る。洗濯物は洗濯籠に入れ、頼まれていたゴミも先に出しておく。
再び戻れば既に外に出る準備をする星くんの姿が目に入った。え、もうそんな時間になった⁉ と慌てて壁にかかっている時計を見れば依然として余裕が有り余っている。普段なら家を出る直前に準備をするのに何か用事でもあるのだろうか。
「星くん?」
「陽春、少し早く出ないか? さっきより太陽のぼってきてあったかそうだし」
どうやらのんびり朝日に当たりながらお散歩しつつ学校に行こう、という提案らしい。
最近は互いに部活が忙しくてこうして二人一緒に過ごすことも実は久しぶりだ。デートなるお出掛けも特別な行事がある時ぐらいしかなく、普段は時間が合えば一緒に登下校するくらいだった。
「うん、行こう。星くんと一緒に行くのなんか久しぶりだね」
「バカだな、だからこそだよ」
「あー、バカって言った。ひどーい、勉強は私の方ができるのに」
「それ言うなよ……」
「アハハ、ごめん」
料理ができるという高い女子力、バスケ部に入っているというスポーツ万能、顔も悪くない……はず。後は頭脳だが残念なことに星くんはここが弱い。もちろん全くできないわけではないのだが、無駄に知識があるくせに勉強のことになるとなぜか身が入らないらしく成績はいつも中間辺りにいる。酷いときは中の下に位置する。
「そういやゴミ捨てたか?」
自分の家のゴミを手にしながら星くんは聞いてくる。さっき捨てたことを伝えれば良かった、と頷いてくれる。名前の通り大きくて広い心を持っている人だな、と思う。
「星大」
「……ん?」
ちゃんと彼の名前を呼べば当然のごとく不思議そうにこちらの顔を覗き込まれる。ちょうど朝焼けが当たって眩しいくらいに顔が輝いて見えた。惚れた弱みなのかもしれないけど、やっぱりカッコいい……な。
「どうした? 急に」
私が何も喋らないことを不審に思ったのか輝く顔がだんだん訝しげになる。慌てて「ううん、何でもない」と手を振ってみせるが本人はあまり納得した様子ではなかった。
「ちょっと名前呼んでみたくなっただけだよ」
「ふ~ん?」
イマイチ腑に落ちない、という顔はしていたがこれ以上追及しようとはしておらず、またここに星くんの心の広さが見て取れた。
「綺麗だね、朝焼け」
振り返り、空を見る。
暗いカーテンはほとんど引かれており代わりに現れたのは優しくて眩しい光。紫とピンクのグラデーションがメインで、太陽の周りは金色の光が包み込んでいた。その光は辺りの家、屋根、道路、私たちまでもを照らしている。そして今もこの瞬間、この世界をも、優しく照らしているのだ。
「……ハル」
「……え?」
ワンテンポ遅れて顔を戻せば真剣な顔でこちらを見ておりドキリとしてしまう。だがその顔はすぐに崩され、「今の、可愛かった」とふにゃりと笑いかけられた。
「え……え⁉」
星くんの心が分からず軽く混乱する。そんなことは気にせず星くんはポンポンと頭を軽く撫でてから朝焼けに背を向けた。そのまま放心して突っ立ていれば再び向けられる笑顔。
だから、もう。
朝日に照らされた笑顔なんて反則だ。ますます惚れてしまう。
でも、いいや。好きなんだもん、何度だって惚れるよ、星くん。
「朝日に照らされて振り向くハル、好きだな」
近くまで駆けよればそんなことをサラリと言われる。幼馴染である故か時々星くんはドストレートに思いを伝えてくる。でもそれは嫌いじゃない、むしろ嬉しい。だから私も同じように伝えるんだ。
「私も、さっき朝日に照らされていた星くん、カッコいいな、って思ってた」
「じゃ、お互い様だな」
「うん、呼び方もお互い様だね」
ハル、というのは昔の星くんが私を呼ぶときの呼び名だった。付き合い始めてからは名前で呼んでくれるようになったけど、逆に私は星くんのことを名前で呼ばなくなった。なんか名前を呼ばれなれなくて自分も呼び方を変えたくなったら星くんがこの呼び方を提案してくれたのである。
けどいつか、また名前で呼ぶからね、星大。
心の中で名前をそっと呼んでみる。もちろん相手は答えないが代わりに手を差し出された。
「寒くないか?」
気温が低いのは分かっていたので手袋は持っている。でも今は自然の光に当たって、星くんのぬくもりを感じたい気もした。
さすがに普段手を繋ぐことはないからちょっと躊躇したけど近づく私の手を星くんはあっけなく掴み取り握ってくれた。太陽のように温かい。
「あったかいや」
素直にそう言えば「良かった」とまた微笑んでくれる。
背中に当たる日の光も暖かくて心地いい。まるで星くんが包んでくれているかのようだ。
ふと、朝起きてふいに窓を開けたくなったあの衝動を思い出す。もしかしたら星くんのぬくもりに似ていたから惹かれて感じようとしたのかもしれない。
朝焼けはとっても綺麗で、見ているだけでもホッとする何かがある。でも背を向けてもその何かは変わらずそこにあって、伝えてくれる。だから後ろ髪を引かれる思いもなく素直に背を向けられる。
「なんか背中を向ける、って良いことのように思えないけど……悪くないかも」
「……むしろ背中を向けないと分からないよな、この暖かさは」
一人呟いた言葉の意味を正確に受け取って返してくれる星くん。その言葉はまさに今の自分たちに当てはまるようだった。
中学まではよく一緒にいたが高校に入ってからはお互い時間を合わせるのが難しくて一緒にいることも減っていた。でも、だからこそ相手の存在の大切さ、ありがたさ、そして大好きな気持ちをよりはっきり自覚することができる。寂しいけど、全て悪いわけではない。
「今度は朝日、見に行こう。陽春」
「うん、今度はじっくり見ようね。星くん」
もう一度だけ同時に後ろを振り返る。
太陽は先ほどよりも高くなり、辺りもすっかり明るくなった。それでも注がれる温かさと優しさは変わらず世界に広がっている。
二人は前を向いて歩く。
朝焼けに背を向けて。
でもそれは、あくまでも優しく温かく、静かに二人を見守っているだけだった。
Fin.