翼は無いけど空を飛ぶ
目下の悩みは、七日の余生をどう過ごすかだった。
やり残したあれこれに想いを馳せて、小石を海に投げ入れる。
この街では重たい犯罪行為だが、もう誰も咎めたり通報している暇は無いだろう。
もう一つ、小石を投げ入れる。
いや、違うか。そもそも、この下層街では今に限らず警察組織なんて機能していないんだっけ。
さらに、もう一つ……
「イッヒヒヒィ!」
石を投げようとしていた俺は、突然の大声に思わず心臓が跳ね上がってしまう。
両手を高く掲げて満面の笑みを浮かべたおっさんが、俺の横を通り過ぎて躊躇い無く海へ飛び込む。
あ、おい、と声をかける暇も無く。
おっさんは、跡形も無く、最初からいなかったかのように静寂の中に消え去った。
僅か数秒の出来事だった。
そういえば、こんな事を昔母さんから聞いた事を思い出した。
旧時代の海は、青っぽく見えるし波が立っているし、それに……
――沢山の水でできていて、落ちた物体を消滅させたりはしないとか。
それは、もはや海なんかでは無いのでは。
そんな事を考えながら、俺は小石を手のひらで弄ぶ。
海、正しくは量子淵海と呼ばれるどこまでも透明な、一週間後にこの世界が沈む奈落は空を飛べない俺達の悲喜こもごもに興味なんか無い、とでも言いたげに静寂を保ち続けていた。
※※
『タカマガハラ第四島、七日後に基部崩落』
数十分前。普段であればお昼時を伝えるスピーカーは、頂区第二市のエイダさん家の犬が子を産んだ昨日の一大ニュースと同じ調子で、この島の破滅を伝えていた。
世界規模で考えれば別段珍しい話ではなかった。
旧文明の遺産を騙し騙し使って虚ろの海に浮かんでいる『島』と呼ばれている人工物の塊の一つが、遂に耐えきれなくなって崩れる、それだけの話だ。
年に一度くらいの頻度で起こるらしいので、世界にある島の総数は知らないがよく起こる事、くらいに言ってしまってもいいのだろう。
それを聞いた周囲の反応は様々だった。
狂ったように泣き叫ぶ人、さめざめと涙を流し机に突っ伏す人、奇声を上げて走り回る人、等々。
一言で纏めてしまえば狂騒、というやつだろう。
さて、ありふれた現象なのに何故このように大騒ぎしているのか。
それは、基部崩落という現象が事実上の死刑宣告に他ならないからだ。
海を渡れる道具なんて存在しない今の時代では。
聞いたところによれば、旧文明の人間は海を渡る道具を作り出していたらしい。
海に浮かぶ『船』とかいう代物だっただろうか。
空を飛ぶ機械、なんてものもあったそうだ。
下層の変わり者の爺さんが出所の怪しい旧文明の本から再現したとかやっていたらしいが、海に浮かべた途端に飲みこまれて消滅したらしい。爺さんごと。
「全く、メシが不味くなっちまうよなぁ」
逃れられない絶望から茫然としていた、と思われる俺を現実に引き戻したのはこの狂騒に不釣り合いな、呑気に同意を求めてくる声だった。
「人間、って連中は大変だよな。こうなったら死ぬしか無いんだから」
俺と同じくらいの歳の男だった。
初対面の友好的な笑顔にどう返せばいいのかわからず、曖昧に笑みを返す事しかできなかった。
「ま、俺らにできる事はねぇからな……次の"渡り"はどこにするか決めとこうぜ、兄弟」
……ああ、成程。俺の事を同族と思ったから話しかけてきたのだろう。
俺の予想を裏付けるように、そいつは背中側が不自然に膨らんだ上着をちらりと捲る。
膨らみの正体、背から生えた一対の白銀の翼が、まるで周囲に誇示するかのように広がる。
それは、種族と言う名の特権階級の証だった。
翼人。道具を使って空を飛ぶ方法なんて失われて久しいこの世界において唯一、島から島を移動できる存在。つまり、この破滅を免れる事ができる身。
そして、わざわざこんな状況で俺に話しかけて来たという事は。
加えて、『兄弟』などという言葉を使ったという事は。
彼と同じような俺の背にもある膨らみに気付かれてしまった、という意味なのだろう。
ああ、そうだとも。俺も翼人だ。
島から島へと渡りを行い、破滅を避ける事のできる種族。
人々からは天使様だとか信仰されたり、妬みから来る憎悪といった両極端な感情をぶつけられる種族。
バレちゃったかー。
そんな彼に薄い笑いを向け、背の膨らみの中身を服を捲って見せる。
その行為で以て、言外に返す。
こんにちは同胞、どうだ、俺の翼は、と。
もちろん、皮肉を一杯に込めて。
――――焼け焦げ中ほどからへし折れた、かつて翼だった何かを。
※※
その時の顔は、今思い出しても少しだけ愉快な気分だった。
「……さて」
気にすんなよ兄弟こんなの予想できねえって! なんて肩をばしばし叩いて、酒でも一杯酌み交わすのも悪くない選択肢だっただろう。
俺の翼が何故こうなったのか三倍くらいに話を膨らませて語っても良かった。
だけど、実際はばつが悪そうな顔で早足に去られてしまった。
少しだけ、寂しく思う。
「……どうしよう、なぁ」
そんな寂しい一人での余生、何をしたものだろうか。
残るものなんて無いから豪遊する? まあ無難なところだろう。
新しい趣味でも見つける? 本気になれる何かが見つかったら、終わる瞬間の後悔が増すだけか。
遺書を書く……全部消えてしまうから意味は無いか。そもそも、言葉を遺す相手ももういない。
ああ、そうだ。
七日の余生とは言ったが、選択肢の一つでは七日ではない、というパターンもあった。
簡単だ今この岸から数歩前に歩いて、海に身を捧げればいい。
それだけで、あと一週間続く苦悩も増す一方だろう恐怖も、全て終わる。
……なんだ、これが一番いい選択肢じゃないか。
自分でも驚く程あっさりと、それが最良だと受け入れる。
昔のあの日に、初めて空を飛んだ時のように。
もう顔も朧げにしか思い出せない家族が、褒めてくれたあの時のように。
俺は、海に向けて空へと跳ねた。
死後の世界というのは、どんなものなのだろうか。
安らかなものであれば、いいのだけれど。
体が宙に舞い、後は重力に引かれるまま、さらに上に浮き上がり……
「……え?」
「た、助けてくれたまえそこの自殺志願者!」
なんで二段ジャンプをしたんだ。え? 直に天に召されるパターン?
そんな馬鹿げた考えは早々に振り払い目を開け状況を見ると、自分の体は宙にあった。
そこまでは良い。想定通りだ。
だけど、小柄な人間と思われる生き物が俺の背に頭をめり込ませている。
待て待て待て。なんだこれは。
突っ込んできたそれに押される形で、自分の体はもう一度僅かに浮き上がったらしい。
「うわーやだやだここで死にたくないこうなったら一蓮托生だぞキミ!」
「俺は死にたいんだけど!?」
何やらわめきたてる相手に思わずツッコミながら、必死に水をかき分けるように手を動かす。
勢いよくぶつかって来た相手のせいで岸から距離が離れている。この状況で、帰還する方法。
空中で体の向きを変えてさらに飛び込んだ方向とは逆向きに空中を移動する。
無理では? 早々に諦観で脳内が埋まる。
そこで、気付いた。もう使えるものだなんて思ってはいなかった、背中の翼に。
……動かせる、だろうか? 飛べない事はわかっている。何百、何千と試してそれができなくて、とっくの昔に諦めた。
「こな、くそぉ!」
溺れるものは藁をも掴む、などと言うが、折れた翼に飛ぶ事を願うなど、それ以下だろう。
自嘲しながら無理矢理に、それを羽ばたかせる。
失った時と同様のじくじくとした痛みと消えない違和感。
だが、一瞬、ほんの一瞬だけ、落下が遅くなる。
その与えられた刹那の時間で、強引に体を捻り向きを変える。
そこまで、だった。岸を掴もうとした手は一歩届かず、背の誰かと共に俺は虚ろの海へと落ちていく。
ああ、結局、こうなのだろうと諦観と共に納得する。
今この瞬間だけは、俺は生きようとしていた。
死を選んでもそれを邪魔され、生きようとしたが届かずに結局死ぬ。
自分の意思はどこまでも叶わないらしい。
「よくやったぞ、キミ」
そこで、不敵な声が耳に入る。同時に、体が大きく浮き上がる。
飛ぶ、なんて優雅じゃなく、思い切り背中を殴られ吹き飛ばされる感覚。
そして、俺達は彼岸から地上へと戻って来た。
「あいててて……」
「むう……ダクト鋼を割った際の噴流によっての飛行は制御困難……」
何かにタックルされ、さらに衝撃を撃ち込まれ。
背中を擦る俺は、ぶつぶつと呟く声へと目線を向ける。
この、意味のわからない騒乱の説明と謝罪だか感謝だか、何かしらを求めようと。
「……全く、将来の大発明家が死ぬ所だったぞ、もう……」
目の前にいたのは、少女だった。
廃墟街下層で暮らしているのだろう。ボロボロに汚れた白衣に、乱れた髪。
その背には、作り物の骨張ったハリボテの翼。
「おや? ふむむ、キミは……翼人、なのか? ……ほう!」
一応、俺が命を助けたはずの彼女は、俺の全身を眺めまわし、しきりに頷いている。
黒の髪に、黒の翼。にやりと、いたずらな笑み。その姿は、まるで。えーっと、何て、言っただろうか。前に読んだ本に出てきた。
「キミ、私の実験台……じゃなかった、協力者にならないか?」
ああ、そうだ。悪魔、とかいうのに似ていた。