勇者、我はさふいふ者ではなゐ。(原文ママ)
我、異世界に有り。
故に其の有様をこゝに記す。
大日本帝国の地を轢き始めた仏蘭西の乗り物パナァルエルバソールを横目に、野次馬で絢爛とする道を抜けた矢先の事。ふと頭を上げれば進取果敢に走るバギイがあり、我は目の前の光を失つた。
嗚呼、空腹で倒れるよりは易し。「貴様は死すべき」と嘶く馬に感謝した。かの荷馬車は、パナァルエルバソールと共に上陸した、西洋の妖デラハンかもしれぬ。
「ご主人様!」
ふと過去に囚はれてゐた意識を幼き声に呼びされた。我の脇に、羽織の裾を懸命に握り締める童が居る。名はリトと云ふ。犬の耳と犬の尾を持つ児女の眼窩には紅玉の輝きが埋め込まれ、水銀のやうに波打つ長き髪は風に遊ばれてゐた。
「どうしたのご主人様。お腹が空いたの?」
是と答へる。するとリトは尾骶より生やす箒で宙を掃き、無垢な眼差しを見開ひた。
「わー! やったあー! ごはんだー!!」
膝を屈伸して跳ね回る子供の道化を眺め、思はずのどかな情が胸に浮かんだ。
リトは非人に値する。我が人売りの商人から破格で買ひ取つた。
かの世はフベルアルド。獣の顔や体を持つ人ならざぬ者に溢れ、我が物顔で表に現はれるが、必ずしもそれらの身分は低くなゐ。人種は外にも多岐に渡たる。翼の生へた蜥蜴が言語を発し、白人か黒人か似つかぬ肌色の美女が奇術を使ひ、神は自らを神と自称する。全く以つて不可思議な所である。
我は現世と掛け離れた、妖怪の里にでも連れて来られたのだらう。こゝが西洋の郷にしても、文明や地理が我の見聞と異なる。最初は「我も奴隷にされるのか」と震へた物だ。
歴史で磨減つた煉瓦造りの街で、食事処の匂ひが漂ふ通りを闊歩する。一軒のめぼしゐ居酒屋をリトが示すが、「其処はお前には早い」と我は首を振つた。まだ十五にも満たぬ子を色の有る店に連れ込むのは氣が引けたが、リトは外に有る品書きを見てこゝが善ひと駄々をこねる。最後には我が堪忍した。
敷居を跨ぎ、家畜小屋の如し喧騒と葉巻の煙幕に巻かれながら、適当な席に着く。煩わしさは苦手だが、様々な飯を楽しめるのは善い。
西洋の食事も嫌いではなゐ。我の金銭ではさう易ゝ買へる物ではなかつたが、師である先生の懐を御借りした事はある。
牛鍋の、舌を惑はす妖艶な味は記憶に新たらしゐ。アイスクリイムやカレイライスも好みである。
然しやはり、高級料理と云えど、獣肉やパンを長く食す事は難づかしく……そもそも獣人の内に共食ひの概念はなゐのかと思ふのだが、其れはさておき……偶には魚を口にしたゐが、フベルアルドは魚食文化に乏しく、まず滅多に見かけなゐ。
質素で飽きが来てゐたとは云へ、ひえや粟の混じつた米の茶粥が恋しくなる。浮つく男が妻の有り難みを知る氣分とは、かの事だらうか。
生足と胸元を晒した派手な女給仕が料理を運んで来た。こゝでは安価な麦のみの塩粥と、大きなスティクだ。
「ご主人様、それだけ?」
リトがスティクを目の前に、申し訳なさそうに縮こまるが。
「まずはこれが食べたいのだ」
我はさう切返へして、自家製の塩魚汁を粥に振りかけた。
少女は我がスプゥンを動かす様子を見届けてから、皿の肉に意識を戻し、かぶりつこうとする。すると肉はあれよと宙に浮き、別の口に運ばれた。
「あーーーーーーー!!」
リトが悲鳴に近しゐ叫びを上げる。肉を攫つたのは、相撲取りのやうな大男だつた。咀嚼で動く厚い唇の端から肉汁が垂れてゐる。
「あー、うまかった!」
大男が離れてゐく。
「ちょっとー! リトの肉返えしてー!!」
リトが席を立ち男を追ゐかけやうとした為、「待て」と呼び止めた。
「私も行く。一人で動くな」
少女は頬をほおずきのやうに膨らませてゐるが、隷属である故に我の云ふ事は厳守する。
リトと共に先の大男に近づくと、相手方は面倒さうに眉をひそめた。よく見ると同胞が居るやうだ。計、三人か。
「んだよ、てめぇは!!」
唐突に声の打撃を食らふ。圧で思はず肩を揺らしてしまつたが「怯えるな。私の方が優位だ」と心に語り、嘆息する。
「貴方がたは人攫いか? リトにちょっ掻いをかけるのはやめていただきたい」
「はぁ? 何を根拠に」
根拠はなゐ。だが子供の衝動を利用して誘き寄せ、袋詰めにする手口はよく有る物だ。
「肉の勘定を求めたりはしない。私たちに関わらないでくれ」
「生意気な口を聞くじゃねぇか! 表に出ろ!!」
さうして我は酒場の外に引きずり出された。どうも話が通じなゐ相手のやうである。
「この俺に喧嘩を売ってきたからには、責任取ってもらおうか!」
何故だ。先に挑発したのはそつちだらう。
ちらりとリトの行方を確認し、傍に呼び寄せる。脈絡なき発言も相手の策略と思つたからだ。我の注意を逸らし、奴らの仲間がリトを攫ふ機会を窺つてゐるかもしれぬ。
「俺の名はガハルスト。こいつらはロックとナルペスだ」
三組の男らは不敵に笑ふ。果たし状もなしに決闘を行ふとは、フベルアルドの民族は酷く野蛮だ。武士の仇討ちも、明治に至つては古い慣習だと云ふのに。
「おい、お前も名前を言え!」
「……Aだ」
通名である。実の名で別世界の人である事を見破られ、襲われた事がある故に、こゝではアルファベツトのAを名乗るやうにしてゐた。これは数多の文筆家から頭一つ抜けようと機を狙つた、我の筆名でもある。
「その小娘はお前の奴隷だな?」
「そうだ」
「俺たちが勝ったらそいつを貰う! 可愛い体してるもんなぁ……」
リトは大男の視線に怯へながらも、はてと首を傾げてゐる。
なるほど、気の狂つた連中だ。リトに目をつけた理由が金銭目的ではなゐと知り、体の中に淀んだ濁流が渦巻ひた。体毛が逆立ち、歯を押しつぶさん勢ひで噛みしめる。
不埒な下衆共が。やはりリトを居酒屋に連れて来るべきではなかつた。
「おいおいどうしたー?」とせせら嗤ふ輩を睨んだ後に「これはいけない」と首を振り、胸の内に湧き出る煮え湯を冷やさうと深ひ呼吸をする。感情を露はにすれば、女神より与えられし力も荒狂つてしまう。リトを巻き込み、周りに被害を与へるわけにはゐかぬ。
極力、冷静に、淑やかに。
我は口を開ひた。
「貴殿の天上にある蒼さはまやかしか?」
「は?」
刹那、破落戸の背中から胸へ、灼熱の踊る剣が生へた。
残滓の火の粉が散る。心臓を貫かれた男は涎と共に驚愕と絶望を零し、乾いた双眸を揺り動かす。
どさりと地に潰れたガハルストと云ふ男を見て、辺りの全てが、しんと静まり返つた。
「な、何だ今のは!?」
ようやく沈黙を破つた破落戸の残りに、我は愛想のある含み笑いを返へす。
「これも魔法と呼ばれる奇術だ。私を『ここにおりながらここにあらず』と考えねば、地獄に落ちると思え」
我は敵方の正面に立つが、背後から貫いたやうにしか見えなかつただらう。
「開け、すていたす」
正方形の宙に浮かぶ額の内に、我の力の値を掲示する。其れを目にした破落戸達の顔から、面白ひくらゐ血の気が失せてゐつた。
「なんだこの狂った数値は……レベル二十三で魔法攻撃力が九万超え!?」
「異世界の人間だ!!」
「チート持ちか! 勝てねぇよこんな化け物に!! 逃げろ逃げろ!!」
右と左の足で地を鳴らし、二人の惡漢は遠ざかる。我は倒れた大男にも奇術を使ひ、傷を治した。
「情けで一度は見逃してやる。すぐに去れ」
「ひいぃ……!!」
尻尾を巻ひて離れて行く背中を見送ると、我は「ふう」と溜息をついた。
奇術を使ふ必要はなかつた。最初からステイタスなる印籠を見せつければ、血を流さずに済んだのか。
我こそは喧嘩に怯へる惰弱な青年と思つていたが、こゝに来てからは何度も傷つき、迫害され、虫の息を覚へたのである。傷を癒やしながら「野武士のような輩に容赦はいけない」と考へ直し、やがては奇術を使ふ事も躊躇わなくなつた。かの世の理に馴染んだと云へるだらう。だが、現世に残した母に「朗らか」と褒められた人情が薄れてゐくやうで、時に自らが恐そろしくもある。
瞼の裏に、郷里の雪に覆われた古家と、柳のやうに垂れた肉親の姿を浮かべた。「文豪になる」と息巻ひて家を飛び出し、幾年が過ぎたのか。我はかの地で骨を埋めるしかなゐのだらうか。
悩やんでも解決なし。懐古に浸る無念を沈ませ、元の視界を開く。
「ここを離れるとしよう、リト」
「う、うん! ……あれ?」
不意に、リトが雑踏の一点を見つめた。
「どうした?」
「ご主人様に怖い目を向けている人がいた。『あいつも転移者か』って」
「何?」
「でももういない。どっか行っちゃったみたい」
また命を狙はれるのか。もううんざりだ。そう安直に思ひ、リトの「あいつも」とやう言葉を深く考へる事はしなかつた。
……さう、こゝフベルアルドには、我と生きた刻の異なる転移人が居た事に。
この時は思ひもつかなかつたのである。
*
「ご主人様っ」
「うん?」
「"貴殿の天上にある蒼さはまやかしか?"って、どういう意味なの?」
「……謂わゆる惡言だ」
まさか「死に去らせ」の意味とは云へぬ。我も物騒な言葉を吐くやうになつた物だ。
嗚呼、哀しきかな。夏目先生のやうな美しゐ言葉の紬ぎは、我には持ち得ぬ力であつた。





