約束の鬼嫁
全国の各藩が江戸に構える藩邸というものがある。その敷地内では藩の法度が優先される。そして何よりも、藩の“都合”が第一となる。
故に、藩士による不祥事は幕府に知られる前に密かに処理されるのが常であり、彼らが武士である以上、その方法は切腹が主となる。
とはいえ、納得して腹を切る者ばかりではない。
「やはり、承服はできん」
九州のとある藩の江戸藩邸。中庭に面した方丈の一室で一人ごちている居田牟一郎もその一人である。
「清……」
視線の先には、横たわる年若い女性の姿があったが、牟一郎に名を呼ばれても、返事をすることは叶わぬ。すでに死んでいるのだ。
だが、わかっていても牟一郎は二度、三度と声をかけた。
「これも武士の習わしか」
「そうさ。そういう世の中にしてきたのも、お前ら侍どもよ」
他に“人”はいないが、独り言に応える者がいる。
「妖め。人語を解すか」
死装束を着た牟一郎。その正面、亡きお清を間にして一体の鬼がいた。
鬼は、薄い装束を着た女の姿であったが、声は何とも言えぬ艶がある、しかして男とも女ともつかぬ響きを纏い、牟一郎の耳に届いた。
さらさらと上質の絹の音。ゆるりと牟一郎を指した指は長く、長い爪は血のように赤黒い。
「おれを喰いに来たか? それとも……」
「おお、こわい」
お清の身体を喰らいに来たと答えるならば、自分の腹を切る前にお前を斬ると吐き捨てる牟一郎に、鬼はおどけてみせた。
「牟一郎。あたしは、お前の祖先と交わした約定を果たしに来たのさ」
「約定?」
「そうさ。お前の祖先はあたしと戦って、勝った」
鬼に名はない。ただ、鬼として自我が目覚めた山の中で、時折迷い込む人や、人ならざるものを喰らい、力をつけたという。
「ある日お前の祖先が現れ、三つの昼と三つの夜を通して戦い、夜明けにあたしはとうとう敗れて、封印された」鬼は言う。「そして勝者に願いを聞いた。それが鬼としての筋ってもんだ。そうだろう?」
牟一郎の祖先は、居田家が断絶する危機にあるとき、その子孫を助けてほしい、と願った。
「それが、今この時というわけさ。約定によって封印されたあたしが、牟一郎の前に復活できたこと、それが何よりの証拠。都合よく、現世に留まるための、空になった身体もある」
鬼の視線が、横たわるお清へと向いていることに気づいた牟一郎は、自らの腹を斬るため手にしていた脇差の鞘を抜き払ったかと思うと、稲妻のごとく立ち上がる。
「やはり、貴様は悪鬼の類か」
「いや、人を喰らうこともあったが、こうしてきちんと約束を果たそうというあたしを、そう邪険に扱うものじゃない。牟一郎を守ろうにも身体がなければ、どうしようもない」
今の鬼は肉体を失った魂だけの存在でしかなく、その姿も声も牟一郎にしか見えず、聞こえぬという。
「そら、そうしている間にも敵はすぐ近くまで迫ってきておるぞ」
「くっ……」
いつもの牟一郎であれば、もっと早く気づいていたであろう足音が、部屋の外から静かに近づいてくる。
「お前がきちんと死んだかどうか、確認しにくるのだろうさ。いいや、どちらかと言えば死なずにぐずぐずと好いた女の死体にすがっている方が、連中には都合がよかろうよ」
鬼は嗤う。
自裁すら満足にできぬ、武士の魂を持たぬ罪人として“始末”した方が、藩として示しがつくというものだ、と。
「そして、清とおれが死をもって償ったとして公儀に届けるという寸法か」
牟一郎たちの罪は藩の宝であり、仙台の将軍家より賜った脇差である『瑠璃光剣』を盗んだというものだった。
「好いた女を庇い建てして、挙句無実の罪で死ぬのか?」
お清は、藩邸に保管されていた瑠璃光剣を盗んだなどと疑いをかけられ、弁解すらゆるされぬまま自害を強要された。
牟一郎はお清を唆したとして、今まさに命を奪われようとしている。
「さあ、選んでくりゃれ。あたしはあなたを護らねばならぬのだが、このまま女の死体と折り重なって死ぬというのなら、どうにも止めようがない」
だが、牟一郎が命を長らえ、そして復讐しようと言うのであれば手を貸すし、彼を護ると鬼は約束した。
「復讐?」
「そうさ。冤罪であるならば他に下手人がいるのだから、そいつを捕まえて復讐するのさ。あたしとあなたならば、そりゃあもう、全然難しいことじゃない」
「簡単に言ってくれる」
思わず、牟一郎は笑みを浮かべた。
つられるように鬼も笑ったが、その直後に障子の向こうから声が聞こえた。
「居田、どうやらまだ生きておるようだな」
「井藤か」
知っている声だ。そして、彼と清を無実の罪に追いやった連中の一人である。
「介錯をしてやってもよい。何なら扇腹でも構わん。判定でも有名な新陰流の遣い手のお前が、そんな最期で良いと申すならば、な」
嘲弄の言葉。
それが牟一郎の背を押した。
「……鬼よ。なるほどおれはもう、他に選択肢はないらしい。人よりも鬼の言葉の方が耳障りよく聞こえてしまうのだから、最早人としての在り様すら失ってしまったのかも知れぬ」
誰に話しているのだ、と困惑する井藤の言葉を無視して、鬼は答える。
「なぁに。あなたは人として怒りに身を震わせている。人の心でものを考えている。……さあ、決断するは、今ぞ」
「良い、わかった。良かろう、良かろう。鬼よ、お前の言葉に従おう」
膝をつき、牟一郎は亡き清の額をそっと撫でた。
ひやりとした感触に寂しさを覚えるが、死後の安寧を願いながら、両腕で頭を抱きかかえると、ひとしきり泣いた。
「……もう死んでおる女に、いつまで執着しているのだ。さっさと死ねば、地獄で再会できように」
するすると障子を開けて入ってきた井藤の後ろには、二人の侍が立っている。
「地獄には行く。だが、それは今ではない」
「なに?」
「鬼よ、頼んだ。だが、こ奴だけはおれの手でやる」
「うぬ!」
振り返った牟一郎の手に抜き身の脇差があることに気づいた井藤の動きは速かった。
牟一郎を始末するつもりで腰に提げていた刀に右手が触れ、井藤の背後に居た者たちからは、居合の一閃が牟一郎の首を捉えるが早いかに見えた。
しかし、その狙いは外れ、控えていた侍たちは狼狽える。
「井藤さま!?」
血しぶきを上げたのは井藤の方だった。
まさに刀を抜かんとする瞬間、牟一郎の脇差は斬撃に向かわず、井藤と刀の柄頭同士を打ち合わせるようにぶつかりあったのだ。
そして、抜刀を止めて跳ね返る勢いのまま、脇差の切っ先は吸い込まれるように井藤の細い下あごからずぶりと刺さり、上あごから脳天まで到達した。
即死である。
「おのれ!」
慌てた様子で一人の侍が刀を抜いた瞬間、違和感があった。
もう一人隣にいたはずの同輩の声がしない。
「あ……?」
ふと見ると、同僚の侍は井藤と同じように血を流して倒れている。代わりに、死に装束を纏った“死んだはずの女”が立っていた。
額に小さな角を生やして。
「良き哉、良き哉。肉ある身体というのは、本当に良い。肉を貫いた感触がある」
清の身体に入り込んだ鬼の右手は、肘から先が血に濡れている。
滴り落ちる血を、小さな赤い舌でちろちろと舐めとると、口の端から赤い雫が零れた。
「血の匂いがするねぇ、味もわかる。……ああ、久しぶりだ」
「ひ、ひぃ……」
「そんなに怖がる必要はないさ、ねえ」
鬼が話しかけている間に、侍の胸には刃が生えていた。
横倒しにした脇差で、牟一郎が背後からするりと骨の間をすり抜けて心臓を貫いている。
「御見事。あたしを封じた祖先の技から、少しも鈍っていないようだねぇ、怖い、怖い」
「茶化すな」
ぶっきらぼうに返した牟一郎だが、その視線は鬼が憑りついた清の顔から離れない。
「……ふふ、良いのだよ、あなた」
鬼が両手を広げる。
「心の臓は止まっているけれど、多少は温もりがあるんじゃないか」
「いや……いや、やめておく」
牟一郎は頭を振って、死んだ井藤の懐から懐紙を抜き取り、血まみれの脇差を拭った。
納刀してからやや考え、三人の死体から財布を奪う。
「おやおや、侍のやることかね」
「侍の矜持など、たった今捨て去ったわ。これから先、藩に追われながら下手人を探さねばならん。金はあって困るものではない」
それと、と牟一郎は忌々し気に鬼を見る。
「その“あなた”という呼び方はなんだ」
「なぁに。ちょいと思いついたのさ。牟一郎よ、あなたとの子を成せば、その子を護っている限りあたしは自由になれるんじゃないかって。要するに、子孫が続けば約束を果たしたってことだろう?」
「ふ、お前の考えは単純だな。だが、お前を抱く気もなければ、おれの罪がなくならなければ、居田の性は失い、家は続かぬことになる」
「ふぅん。“さむらい”ってのは、どうも面倒だねぇ」
「お前はどうやら気楽に考えていたようだが、これから先何年かかるやもわからぬことに片足を突っ込んだのだ。覚悟せいよ」
井藤らの死体を乗り越えて中庭に出ると、爽やかな風が牟一郎の頬を撫でた。
その片腕に、清の両手が絡みつく。
ねっとりとした血のせいなのか、鬼が入りこんだせいなのか、死んだはずの清の手から温もりが伝わってきた。
「ええ、せいぜいお手伝いして差し上げますよ」
「鬼夜……。そうさな、お鬼夜と名乗ると良い」
「あら、ふふふ……。ではそういたしましょう」
人の道を外れた侍は何かを噛み締めるように口を閉ざし、鬼は笑った。