放課後のアトリエ、春は逢瀬
「瑠璃子せんせー!」
古びた床をギシギシ鳴らし、駆け寄ってきた男の子。四年生だったと思うけども自信はない。担当が低学年だからと言い訳せずに、あとでちゃんと覚えよう。
教師になって一か月、こういうことには慣れてきた。高学年になってもまだまだ無邪気でかわいいなと思いつつ、注意はちゃんとする。落ち込ませない程度の優しさをもって。
「こら、廊下を走っちゃいけませんよ」
「おしゃべりしたかったんだ。先生かわいくて人気者だから、早くしないとほかの子と話しちゃうでしょ」
「大丈夫です。先生はみーんなが大事だもの、えこひいきしません」
「先生やさしい!ちっちゃーい!」
「ちっちゃいは余計です!」
怒ってない。むしろ自分も人のこと言えないのに軽口たたくとごろがかわいい。
このまま話していたいけれど、あいにくこれから午後の授業。子どもたちが来る前に図工室へ行かないと。手短に話してもらおう。
「それで、お話ししたいことがあるんでしょう?」
「こっちこっち」
手招きするその子は、今度はちゃんと歩いて十歩ほど先で止まった。
この渡り廊下の壁一面に飾られた絵。この間四年生が授業で、学校近くの建設現場に行って描いたもの。たしか、代々木競技場という名前になるはずの。
「まさか許可が出るなんて思いませんでしたよ。日本初のオリンピックの会場、その建設風景を画題にできるなんて。子どもたちがうらやましいですねえ」
この学校に着任してまだ数日のとき。高学年の図工教諭、高峰先生が、嬉しそうに言っていたのを覚えている。ある意味貴重な絵たち。
その中のひとつを、うんと腕を伸ばして指し示す男の子。大変そうでほほえましい。
そんな彼の絵には、建設中の建物の外壁と、作業員らしき人たちの働く風景。この子ははたらく人々を中心に描きたかったのかな。比較的丁寧なタッチだ。足場も描いてあるとはいえ、建物のほうは灰色で塗りつぶしただけに近いのに。見上げるようにしたかったんだろうけど、平面的になってしまっている。
でも九歳と言えば、見たものをそのまま写実的に描けるようになりつつある、という程度の年齢。まだそこまで達していなくても問題ない。個人差はあるから。
描きたいものがあってそれを描こうとする姿勢があれば、気持ちとしてははなまるをあげたい。実際、この絵に貼ってある紙には、名前と一緒に『優』の文字が躍っていた。春風に乗ってたなびいていた。
「先生、もしかして僕の絵苦手?」
「違う、そうじゃないのよ」
……だから、どうしても。
掲示されているのが、この絵だけだったらいいのに。そう思ってしまう。顔が引きつるのが自分でわかる。
目の前180度。どこを見渡しても似たような絵。
構図も、色彩も、描く対象も。全部違うのに、奇妙な統一感。いかにもな子どもらしさ。いくら同じ学年だからといってもこれは異様だ。そう感じない絵ももちろんあるけれど、一部でしかない。
理由はわかっている。
「技術・技巧的な指導をできるだけ避け、子どもたちの自由な想像性と創造性に任せる」
それが学校の図工の方針で、そういう思想を推し進める運動があるから。この一か月で痛いほど身に染みた。
ただ技能を高めて教師の指導という型に沿うのではなく、表現力と想像力を育てたいと。理念はわかるし、とても大事なことだ。でも、技術を得れば自己表現ができなくなるとは、私は思わない。大学で講義を受けたころから疑問に思っていた。
むしろ、描きやすいやり方や表現方法、ものの見方を知ることではじめて、なにをどう描こうか考える楽しみが生まれるのでは? 技術を活用することで、自分の中にある『表現したいもの』に近づけるのでは? 道具なしでは航海できないと、叫べるものなら叫んでみたい。
もちろん最初は自分なりにやってみるのが大事だ。でも九歳や十歳なら、そろそろ型を学び始めていていい頃合いだと思う。
この絵たちに統一感を感じるのはきっと、方法を教わっていないから。知識がないから思い浮かぶ構図や描き方に限界があって、壁にぶつかってしまった。そして、技巧に触れようとすると諌められる。
……でもほとんどが『優』なんだよなあ。
もやもやを抱えながら眺めていたら、見つけてしまった。
『可』がある。瀬田 明美という子の絵だった。でも、どうして。
こんなに達者で、こんなにいきいきしているのに。資材や人をかき分けるようにこちらへ向かってくるクレーン車を、迫力豊かにとらえているのに。緻密な背景と荒々しさのあるクレーン車の対比。ダイナミックな構図。薄暗くて渋い色使いの中、かすかに見える晴れやかな空。
あきらかに絵の心得がある子だ。しかもその技術で描きたいものを表現できているように、私には映った。
単純に、見惚れていたんだと思う。
「その絵がどうかしましたか、浮羽先生?」
声をかけられてようやく、背後に人がいるのに気づいた。高峰先生だ。いつから見ていたんだろう。
いつも通りの涼やかな笑顔だけど、ぎょろっとした目に圧がある。長身に見下ろされて、首を横に振ることしかできなかった。
「信じていますよ」
それだけ言い残して高峰先生は去っていった。
まだ一か月の関わりでも、あの人が立派な教師なのはよくわかる。今の私にはできない授業だ。
――ただ、どうしようもなく主義が違うだけ。
それだけだから、立場の差でなにも言えない自分に腹が立つ。穏やかに話し合おうとしても難しいとはわかっているのに。そうすればいいか、悩みは深いけれど。
「もうすぐ授業よ。慌てずに急ぎなさい」
「わかった。またね、先生!」
早足で図工室に向かいながら。
瀬田 明美さん。この子の名前は覚えておこうと思った。
☆
授業以外で図工室にいる時間は意外と少ない。準備は図工準備室か、職員室の自分の机。基本的に図工室の管理は高峰先生がしている。放課後に向かうのは、今のように黒板を消し忘れたときくらい。
この学校は放課後に図工室を解放していて、画材と絵や工作に使える材料を取り揃えている。日中家に親がいない、図工に興味のある子向けらしい。通りがかるくらいでしか知らないけれど。
子どもたちの邪魔はするなと言われているから、さっと入ってさっと戻ろう。そう思って引き戸を開けたら。
カーテンを閉め切って、最低限の照明で。広い部屋の一番奥にひとり、女の子が絵を描いていた。
世界にあの子しかいないみたいに張り詰めて静まった空気の中、絵と向き合っている。真剣さは椅子に座るうしろ姿だけで十分伝わってきた。たぶん今、近づいてはいけない。
黒板を消すついでに、今日のままだった日付を書き換えよう。明日は五月十五日。黒板消しを手に取ろうとしたとき、声がして。
「早めに出ていってください」
聞き覚えのない凛とした声色。叫んでいるようではないのに、部屋の向こうからでもはっきりと聞こえた。
「ええ。すぐ終わりますよ。でもこれだけ教えて」
――その前に、知っておきたいことがある。私の好きな絵を描く子だという予感がした。
だから、自分に出せる一番やわらかい声で問いかけてみる。
「お名前は?」
「……明美。瀬田 明美」
ああ、納得だ。あの絵を描けるくらいの子なら、これくらい鬼気迫っていておかしくない。
ようやくこちらを振り返った瀬田さんは、大人びた顔つきに拒絶を浮かべていた。切れ長で聡明そうな目に、おかっぱとその表情は似合わない。
話したこともない私に対して、冷たい態度なのはどうしてか。なんとなく想像がついたから。
少しずつ、彼女のほうへと近づいた。
「……やめて」
瀬田さんの声がほんの少しだけ震えた。やっぱりだ。ごめんね、怖がらせたいわけじゃないの。その絵をちゃんと見てみたかった。
これは……サイか。動物園のサイだ。ごつごつした肌の質感がよく出ていて、迫力ある仕上がり。写実的で繊細な筆づかいと力強さの同居が、おそらくはこの子の持ち味。
――確信した。これは、埋もれてはいけない才能だ。
もっとじっくり見たかったけど、瀬田さんがそれを許さなかった。広げられた両腕と胴体で、カンバスの大部分が隠れる。でも、もう遅い。
「素敵な絵を描くわね。繊細で、でも力があって。工事現場の絵もそうだったけど」
「えっ」
どこがいいかを強調して褒める。
詰まったような声。見開かれた目。鳩が豆鉄砲を食ったようとは、たぶんこのこと。褒められるとは思ってなかったんだろう。
安心して。高峰先生と私は、考え方が違う。
「瀬田さんの絵、先生はとても好きよ」
「ほんとう……!? あっ、うわっ――よいしょ!」
勢いよく立ち上がった拍子に、絵の具のたっぷりついた絵筆を落としかけてわたわた。嬉しそうな顔のままでセーラー服が汚れてないか確認する姿は、年相応で愛らしかった。
姿勢を正して。
「あの。内緒の話、してもいいですか?」
「秘密は守るわ」
瀬田さんはおずおずと口を開いた。
「悪いがこういう絵を描くなら可しかつけられないし、賞にも選んであげられないぞ』って、高峰先生に言われてるの。すごく謝ってくるの」
「……でも、こういう絵が好き?」
「うん。だから、どうしようって。わたしの絵、みんなにも好きになってほしい」
ひと呼吸のあと。私とそんなに変わらない背で訴える。
「先生。わたしのこと、手伝ってくれますか?」
「ええ。先生にできることなら」
ほとんど反射的に、そう答えていた。