5 妖精たちはたわむれて
「ブラックオニキスか。大物が出てきたね」
『◇Door』の歌潟支部事務所。コーヒーを片手に窓際に立ち、窓のブラインドに指をかけながら東堂がつぶやく。
「彼は要注意人物だ。魔法使い・一般人を問わず、自分の研究のため他人を利用することに、一切のためらいがない。ある意味で、由緒正しい魔法使いとも言えるがね。暗黒の時代には、彼のように手段を選ばず道を切り開く魔法使いこそが英雄だった。だがもう、昔の話さ……」
「向かいのラーメン屋さんも、そんな話聞かされても困るんじゃないですか?」
「いや君たちに話しかけてるんだよ!?」
あせったように振り向いて、東堂が言う。レクスはソファに腰掛けたまま、渋い顔をしてクッキーをかじった。
「じゃあこっち向いて話してくださいよ。そこ座ったらどうですか。早くしないとクッキー全部食べますよ」
「仮にも上司に対してどんだけ横柄なのよ、あんたは……」
向かいに座った杏華があきれた顔でぼやく。
あの後、オニキスを取り逃がしたレクスたちは本部に戻って東堂に一部始終を報告した。東堂がなぜか立ち上がり、窓の向こうを見ながら何やら話しだしたが、杏華は気にせず全員分のコーヒーを淹れると、買い置きの菓子からクッキーを開けて食べ出した。いつものことらしい。そして今に至る。
トリリアとアムニアは机に並んで座り、一枚のクッキーを分け合って食べている。可愛らしい光景だったが、二、三度まばたきをするといつのまにかクッキーの種類が変わっている。傍目には、小さな口でのんびり食べているようにしか見えないのだが。彼女たちが口を開けて「はむっ」とクッキーに食らいつくと、次の瞬間には明らかに口の大きさを越えた範囲のクッキーが欠けている。まるでストップモーションのアニメのような食事風景だった。
「ええと、それでだね」
言われた通りソファの端に座りつつ、東堂が話を続ける。
「妖精商会の残りの構成員は、君たちのおかげでおおよそわかった。残りはブラックオニキス一人だ。彼が誰かの下で働くなどあり得ないし、部下が残っているのに自分が出てくるというのも性格上考えづらいからね。もっとも、手ゴマの魔物はまだ相当数いるだろうが」
「オラッカだけでもかなり潜伏してるみたいでした。オニキスの統制がなくなったら、それはそれで厄介です。野生化しますから」
「そうだね。だがまあ街に残る魔物に関しては、いくつか案はある。これはまだ本部と調整中だが、歌潟市警察との連携もなんとか取れそうだしね。重要なのは妖精たちの奪還、そして『妖精商会』、すなわちブラックオニキスの打倒だ」
「警察に手伝ってもらうってことですか」
「いや、そちらはあくまで一般市民を守るための案だ。邪悪な意志を持つ魔法使いと、警察とはいえ一般人を相対させるのはあまりにも危険だ……『◇Door』の理念に反する。先も伝えたが、今現在、『◇Door』本部にこちらの情報を伝え、救援要請を送っている。ただ、妖精商会が横流しした妖精をめぐる小競り合いが、各地で起きていてね。そのせいで本部も慢性的に人手不足なんだ。増援が来るのは、早くても三日後だ」
「それまでは、こちらから手を出せないと?」
レクスが声に不満をにじませたことに気付いたのか、東堂はなだめるように言った。
「ブラックオニキスは狡猾だ。それに、彼の拠点がどこにあるのかもわからない。むやみに交戦しても消耗するだけだよ」
「けど、ただ待つのだって危険じゃないですか? 増援を待ってるのは僕らだけとは限らない。妖精を利用しようとしてる魔法使いの中に、オニキスに強力する奴がいるかも」
「確かにその危険性はあるが……拠点を探し出すにも人手がいる。オニキスなら、先日の廃墟街のように、獲物を誘いこむ罠を多数仕掛けていることだろう。罠にかかって、こちらの戦力がわずかにでも欠ければ、奴は一気に攻めてくるぞ――というより、君とトリリアくんがいなければ今頃、そうしていただろうな」
「うーむ」
レクスはうめく。ふと思い立ち、向かいの杏華に聞いてみた。
「夏原はどう思う?」
「ふぇ!?」
カフェオレをちびちび飲んでいた杏華(猫舌らしい)は、不意に話を振られて、とまどったような声を上げる。
「どう思うって、え、ええっと……その」
わたわたと手を振る杏華。
「あのその、えと、とにかく、て、敵を倒せばいいんじゃない? オラッカでも何でも、見かけたら片っ端から倒していけば、その……いいんじゃ、ない、かな……って」
「………」
「………」
「だって敵はほら、敵だし? 倒して悪いってことはないわよね、だって敵だもの。だからともかく敵を見つけては倒し、見つけては倒して、その、つまり、ええと……」
「………」
「………」
「……な、なんか言ってよ」
不安げに、杏華。レクスは、東堂と顔を見合わせてうなずく。
「なるほど、深入りしない範囲で敵の戦力を削ぐ作戦か。悪くないな」
「妥当だね」
「で、でしょー!?」
一転して得意げな表情になった杏華が、ぐいっと一気にカフェオレを飲もうとして、「あちっ!」と叫ぶ。アムニアが半眼でそれを見上げ、小さくため息をついた。
「んー、でもさー」
トリリアが、クッキーを片手に話に入ってくる。
「本部から魔法使いの人の増援がくるんでしょ? 相手だって魔法使いなんだったら、それくらい予想してるんじゃない? だったら、数日以内に何か仕掛けてくるんじゃないかなー。ここはきっぱり行動をやめて、温存するのも手だと思うよ。相手の出方がわからないもの」
「んー、でもなあ、トリリア。どの道、街に被害が出ないように魔物を退治していかなきゃならないだろ。だとするならやっぱり、今のところ夏原の案が有効じゃないか?」
「うにぃ~、そーかもだけどー。にゃー、やっぱ情報が少ないよねー。こっちのとれる手も少ないしー。わたしとしては大人しくするか、おもいっきり派手にやるか、どっちかがいいんだけどー」
なんとなく納得いかないという様子で、トリリアはクッキーの欠片を抱えたままころころ机を転がる。それを指で止めて、その場にちょこんと座らせながら、レクスは「派手に、か」とつぶやいた。
「拠点がわかれば、攻め入るって選択肢もあるんだが」
「あは。いつものやつだね」
「いつものやつだな」
昔懐かしそうに笑うトリリアに、レクスはうなずく。敵の本拠地に乗り込み、片っ端から撫で斬りにして壊滅させるのはそれこそ勇者時代に飽きるほどやったことだった。だが、と首を振って続ける。
「それは、勇者ならできること、だろう。でも、今の僕は元勇者だ」
「……むー」
「聖剣だって七秒しか持たない。仮に拠点がわかった所で、乗り込んだって勝ち目はないよ。ここは待機だろ」
「……それは、そうかもしれないけど。わたしも今はもう、精霊の声がちゃんと聞こえなくなっちゃったし。でも……」
続く言葉を、トリリアはバタークッキーと一緒に飲み込んだ。なんとなく、その場の全員が黙りこむ。
「ふわぁ~。よく寝ましたぁ~」
春風のようにうららかな声が、事務所内に響いた。衝立の向こうから、あくびをしつつふよふよと漂ってきたのは、桃色の髪の妖精である。トリリアが見上げて、「あ、こないだの子だ」とつぶやいた。オラッカに襲われかけていた妖精だ、とレクスも思い出す。
「もう回復したようだね」
東堂が呼びかけると、妖精はにっこりと微笑み返した。
「はい~、助けていただいて、ありがとうございましたぁ。わたくし、カウナタス平原の花妖精、名をシルシファともうしますぅ」
くるりと転礼しながら、妖精――シルシファが自己紹介する。腰のあたりまでの長さのウェーブがかった桃色の髪。草原色の妖精服に、同じ色のストールのようなものを羽織っている。
「売られる途中で、命からがら逃げ出した所でしたのでぇ、飛んで逃げる気力すらなくってぇ。あのまま食べられてしまうかと思いましたぁ」
「災難だったな、シファ。まあこっちに来い。くっきーでも食べろ」
アムニアが鷹揚に手招きする。知り合いらしい。シルシファはふわりとアムニアに近寄っていきながら、のんびりとした声を上げる。
「わぁ~、アムちゃん、ひさしぶりぃ。泉の妖精さんも、こんにちはぁ」
「こんにちはっ。わたしはトリリアだよっ」
トリリアの自己紹介に、シルシファが、ぱぁっと目を輝かせる。彼女はトリリアの元まで飛んでいくと、
「ひょっとして聖域の、『始泉のトリリア』ですかぁ? わぁあ、会いたかったですぅ。探したんですよぉ。うちの野睡蓮さんが元気なくってぇ、どうすればいいか聖域の泉の妖精さんたちに相談しに行ったら、なんだか変な穴に落っこちちゃってぇ。そしたら、あの変な仮面の人がいてぇ……」
興奮気味になってもなお間延びした口調で、シルシファが涙ながらに訴える。トリリアが「そっかー、巻き込まれちゃったんだねぇ」と、なぐさめるように彼女の頭を撫でてやっていた。
「カウナタス平原って、灼流山の麓のとこ? あそこの花畑の『名付き』さん、初めて会ったよー」
トリリアはシルシファと面識こそないものの、地名には心当たりがあるらしかった。レクスのほうを向いて言ってくる。
「ねえ、レクスも覚えてるでしょ? 聖域を出て、ちょうど灼流山をはさんで反対側の、一面の花畑。あの広くてきれーな花畑を司ってる妖精さんだよっ」
「うふふぅ、光栄ですぅ。わたくしひとりじゃ花畑の管理なんて、とてもですけどぉ。花妖精のみんなと、『シルシファ』のお名前に助けられてますぅ」
ほわほわと笑うシルシファを見ながら、レクスは記憶をさかのぼった。うめく。
「ああ……色とりどりの綺麗な花の中に、皮膚の下に種子を植えつけてくるタイプのが一定間隔で混じってる、あの花畑か……」
「命のさいくるですよぉ。そうやって旅の方のご遺体等から養分を頂いて、綺麗なお花が咲くんですぅ。むだがないって美しいですよねぇ」
「できれば、生きてる間に養分にしようとするのはやめてほしかったかな……」
皮膚の下に入り込んだ種子を、ナイフで抉り取った時のことを思い出し、レクスは遠い眼になった。
「別にいいじゃんねー、ちょっと肌の上に花が咲くくらい。痛くもないし、いつでもきれーなお花が楽しめて、いいことづくめなのにー」
「はい~。むしろ花が寄生している間は、体調を整える効能がありましてぇ。一部の人間さんにも好評なんですけどぉ」
クッキーを食べながら不思議そうにしている妖精たちに価値観の違いを感じつつ、レクスは心なしか苦味の増したコーヒーをすすった。
「はー、つっかれた」
自分の部屋に戻るや否や、レクスはベッドに倒れ込む。トリリアが小さな手で頭を撫でてくる。
「今日はいろいろあったねー。がんばったねー、レクス。えらいえらい」
「……あの石仮面野郎、しとめられなかった。ごめんトリリア」
「ううん、気にしないで。それよりもう、一人で無茶したらだめだよ?」
「わかってる。ちょっと頭に血がのぼっただけだ。もうしない」
「よしよし」
嬉しそうに笑うトリリアをぼんやりながめながら、レクスはぽつりとつぶやいた。
「トリリア」
「なーに?」
「あれ、やらせて」
「あれ?」
トリリアは首をかしげ、それから「あ、あー……あれかぁー……」と、困ったような表情を浮かべる。
「えー……。あれ、本当にくすぐったいんだよー……?」
「ちょとだけだから。久しぶりに」
「う、うー……」
トリリアは迷うような声を出しながらも、机の上に着地した。レクスは身を起こし、ベッドの上にあぐらをかいて座る。
「……じゃあ、はい。どうぞ」
少し恥ずかしそうにしながら、ぺたんと机に座ったトリリアが、レクスに背中を見せる。
レクスはそっと、彼女の透明な羽を触った。指が触れた瞬間、トリリアが「ぅにっ」と小さく鳴いて背筋を伸ばす。
「くすぐったいか?」
「ん、んー……」
なるべく優しく触るよう気をつけながら、レクスは羽の感触を堪能する。妖精の透明な羽は柔らかく、弾力があって、異様に触り心地が良い。鳥や虫の羽とは根本的に違うものだった。そもそも妖精は魔法で飛翔しているので、飛行に使うものですらない。本来は魔力を感知・収束するための器官だが、人の目には羽のように見えるというだけだ。
レクスは過酷な旅をしている間、ときおりこうやってトリリアの羽を揉んで、心を落ち着かせていた。どうやら揉まれる方は相当にくすぐったいらしく、トリリアはいつも逃げ回っていたが。
「あ゛~~癒される……なんだろうな、このぷにぷに感。帰って来てから、シリコン素材とか蒟蒻とか低反発枕とか色々比べてみたんだけど、何とも違うんだよなーこれ」
「にゃっ、うにゃ、にゃぃー……」
数分ほど揉み回して、レクスはようやく満足した。ふぅ、と額の汗をぬぐう。
「よし、リフレッシュ完了」
「にゃぁぁぁ……」
トリリアはというと、机の上でくたっとしていた。
「お、おーい、トリリア? ごめんな? 大丈夫?」
「……れくすの、へんたいぃ……ちょっとだけって、いったのにぃぃ……」
うつぶせになったままのトリリアにぽつりとつぶやかれると、反論のしようもなく、レクスは平謝りした。
「本当にごめん。久々だったから、つい。トリリアの羽、本当に触り心地が良くてさ。ごめん、この通り!」
「……ぱふぇ。たべたい」
「パフェだな。約束したしな、わかった。明日デスリボ連れてくから」
「いま。たべたい。いまじゃないとやだ」
「……コンビニのでかまいませんでしょうか、お嬢様」
「こんびに、ってなに?」
伏せたまま、ちらりとこちらを見上げて、トリリアが聞く。
「えーと、食料品とか雑貨が売ってる店で、二十四時間いつでも開いてる……あれだよ、精霊大陸の魔法薬店とほぼ同じ」
「じゃあお菓子も売ってるの!?」
「売ってる売ってる」
「わたしもいっしょにいく!」
途端に目を輝かせて、トリリアが起き上がった。
「……で? 何でパーカーなの?」
放課後、いつもの事務所。机の上に置かれた赤と青の薄手のパーカーを見て、杏華が不思議そうにつぶやく。
「……よくぞ聞いてくれた。これは、剱野くんのアイデアでね」
東堂が仕事机に両肘をついて、顔を隠すように手を組み、無意味に勿体つけて言う。レクスは東堂のポーズは無視しながら、杏華にうなずいた。
「僕もまあ、乗っかかったからには真面目にフェアリオンやろうと思って。いろいろ考えたんだ」
「それはいいことだけど……」
「こういう制服みたいなの、あった方がいいかと思ってさ。フード付きなのには、二つ意味があるんだ」
と、レクスは青いパーカーを羽織り、フードを目深にかぶってみせる。
「一つ目。こうやって被れば、ちょっとは顔を隠せる。こういうのが役に立つ場面もあるだろ」
「……まあ、そうね。あの格好、同級生とかに見られたら恥ずかしいし。二つ目は?」
レクスはフードを下ろした。トリリアが、すぽっとフードに入ってくる。
「二つ目。妖精休憩所」
「遊びじゃないのよ、わかってんの!?」
ばんばんと机をたたきながら、杏華。レクスは「えー」と口を尖らせた。
「わりと真面目に考えたんだけどな、これでも」
「レクス。わたしも最初はいいかと思ったけど、これだめだよ」
「え、なんで?」
思わぬ方向からのダメ出しに聞き返すと、首後ろのトリリアが、真剣な口調で告げてくる。
「これはねレクス、寝ちゃう。こんなすぽっと入って、ほどよくあったかくて、これはもう、かんぺきに寝ちゃう」
「あー。盲点だったな」
「遊びじゃないっつってんでしょ!」
ばんばん、と杏華。
「はいはい~、みなさぁん、『こーひー』が入りましたよぉ」
シルシファが間延びした口調で言いながら、お茶の時間を告げた。アムニアと一緒に、コーヒーカップの置かれた丸トレイをふわふわと運んでくる。
「はぁい、みなさんご自分のを取ってくださぁい。今日のこーひーはわたしたち妖精が淹れたんですよぉ」
「ほほう。それは楽しみだね」
無意味に意味深な口調で、東堂がソファに座り直し、カップを手に取る。レクスと杏華も自分のカップを取った。
「では、頂くとしよう――――ぶぶふぁっご」
「ちょっと、汚っ!?」
口に含むなりコーヒーを派手に噴き出した東堂に、杏華が悲鳴を上げる。東堂はゲホゲホとせき込みながら口をぬぐった。
「い、いや、何これ!? 甘っ! あっまい!! シルシファくん!? 何これ砂糖が固形だよ!?」
「はいぃ。支部長さんのには特別に、あの四角くてかわいいお砂糖――角砂糖というんですかぁ? 角砂糖を七、八個ほど入れてみましたぁ」
「私はブラック派だから入れなくていいんだよ砂糖は! しかもそんなにたくさん!」
抗弁する東堂に、シルシファは「ほわぁ?」とわかっていなさそうな返事をする。
「もー、何やってんのよ、あんたらは――――えっぶ!?」
東堂とシルシファのやり取りを横目に、杏華は自分のカップに口を付け――そして、同じく盛大にむせ返す。
「え゛ほっ、ぇほっ!? ぁえ、な、何ごれ!? え゛っほげほっ!」
涙を浮かべてせき込む杏華に、アムニアがしれっと告げる。
「ん? ああ、杏華のにはわたしが『たばすこ』をしこたまブチ込んどいたが、何か問題あったか?」
「問題しかないわよっ!? い、嫌がらせよね、コーヒーにタバスコとか、嫌がらせ以外の何ものでもないわよね!?」
「何をいう。こんなに赤くて辛いもの、何に入れたって美味しくなるに決まっているだろう」
いつの間にか取り出したタバスコの瓶をうっとりと撫でながら、アムニア。
(……まあ、迂闊に妖精に給仕なんかさせると、こうなるわな……)
内心でぼやきながら、レクスは自分の持つコーヒーカップをじっと見ていた。今の話の流れだと、彼のコーヒーを淹れるのはトリリアと言うことになる。が、トリリアは背中のフード内で寝息を立てている。心配はなさそうだ。
ぐいっとコーヒーを飲み、そして、……静かにカップに戻す。
「塩……」
「にゃはははははは!」
トリリアがいつの間にかフードを抜け出し、空中で、けらけらと腹を抱えて笑っている。
「にゃっははー! ひっかかったねレクス!」
「お前、い、いつ入れた、これ……」
「んー? それはもちろん、レクスが支部長さんに気を取られてるスキに、一瞬だけフードから抜け出して――」
トリリアが手をぱっと振ると、魔力が白い食塩に変わり、空を舞う。
「こうやってぱぱっとね! にゃっはは――!」
がしっ。
「――にゃっ!?」
得意げに笑っていたトリリアの身体を、レクスはすかさず掴んだ。にっこりと笑う。
「なるほど、見事なイタズラだ、さすがは妖精。……じゃあ、次はこっちの番だな?」
「にゃ、にゃあー?」
ひきつった愛想笑いを浮かべて、トリリアが鳴く。その時――
レクスの顔面に、茶色い粉が炸裂した。
「ぶっ!? 何だこれ――へっぶし! ぅあ、へっぶ、へっっぶし!」
粉を吸い込んだ瞬間、レクスはくしゃみが止まらなくなった。涙でにじむ視界の向こう、赤い妖精が右手をこちらに向けているのが見える。
「トリリアをいじめてもらっちゃ困るな、大将」
アムニアだった。いつもの半眼で、無表情に笑い声を上げながら、彼女は勝ち誇る。
「はっはっは、これぞ妖精七大魔法の一つ、『妖精のくしゃみ粉』。この粉を受けた者は、七代先までくしゃみが止まらなくなる恐ろしい魔法よ。いかな勇者の大将といえど耐えられまい」
「な、何がくしゃみ粉だ、へっぶし! た、ただのコショウじゃねーか、へっぶし! へっぶし!」
「へちっ! ちょ、ちょっとあむにあ、へちっ! わたしにも粉、かかって、へちっへちっ!」
レクスと同時に粉をくらったトリリアも、連続でくしゃみをしている。同じく近くにいたシルシファは、「あらあらぁ」と涼しい顔だ。彼女の周りに空気の流れができていて、コショウ粉が彼女の周りだけを避けている。杏華と東堂はソファから立ち上がって避難していたが――
「どこへ行こうというのかね」
アムニアが、きらりとルビーの瞳を輝かせる。彼女が手をタクトのように振ると、コショウの粉が羽虫の群れのように空を舞い、杏華へと向かっていく。
「ちょ、ちょっとぉ、嘘でしょ!? やめなさ――」
「ははは、我が魔法の餌食となるがいい――」
だが、コショウ粉塵が杏華に到達する、その直前。ふわりと飛んできたシャボン玉が、コショウ粉塵に触れた。瞬間、コショウのすべてが一瞬でシャボンに吸収される。
「なん、だと……」
アムニアが驚愕に震えながら(表情はあまり変わらないが)、東堂の方を見た。
東堂はいつのまにやら仕事机に戻り、先ほどと同じように、組んだ手で顔を隠している。
「……イタズラは終わりかね?」
静かに問い返され、アムニアは闘志を沸き立たせたようだった。
「いいや、これからだ! くらえっ『妖精くしゃみ粉』!」
「いけーアムニアー!」
レクスに捕まえられたままのトリリアが、楽しそうに煽る。アムニアの生み出したコショウの海が、東堂に向かって流れて行く――
東堂が、ぱちりと指を鳴らした。彼の周囲にシャボン玉がいくつも生み出され、コショウがそれに触れた瞬間、さきほどのように吸収される。このシャボン玉が、東堂の魔法であるらしい。
「ば、馬鹿なっ、わたしの魔法が!」
「ふっ。妖精の魔法といえど、この程度の構成なら、私には通じないよ」
ニヒルな笑みを浮かべながら、東堂。アムニアが追い詰められた様子でうめく。
「むう、まずい。今のでくしゃみ粉のストックが切れた。後で向かいのラーメン屋からこっそりもらってこないと」
「もらってくるな!! 返してきなさい!!」
レクスは叫ぶが、アムニアは聞いた様子はない。
「では、こちらの番だね」
東堂が右手をかざすと、コショウを吸収し茶色になったシャボンが、彼の手元に集まる。東堂がシャボンの表面に指を触れ、そしてつぶやく。
「解き明かされた魔法は、術者の元へ逃げ帰る。その性質を利用すれば、こういうこともできるのさ……」
シャボン玉がひとりでに動き出した。ふよふよと漂いながら、アムニアの元に向かっていく。
「『呪い返し』――己の魔法を、その身をもって味わうがいい」
「はっはっは、なんだこの遅いのは! こんなもの当たらん、当たらんぞ!」
アムニアが、ひょいひょいとシャボン玉を避ける。が、何度回避しようとも、すべてのシャボン玉がしつこく彼女を追っていく。アムニアが盾にした杏華に当たっても、魔法で作られたシャボン玉は割れない。どこまでも追尾してくる無数のシャボン玉に、アムニアは次第に避け切れなくなり――
「む、まずいなこれは――こっちに避けて――これはこうして――あれ――ちょ、待っ――あ、詰んだ―――――――ぺぅ」
最終的にすべてのシャボン玉に自ら突っ込む形となり、アムニアは合体したシャボン大玉に呑み込まれた。シャボン大玉の中はコショウで満ちているようで、音は聞こえないがアムニアが連続でくしゃみをしているのが見えた。
「わー、くしゃみの刑だ。こわー」
人ごとのように感想を述べるトリリア。シルシファも「こわいですねぇ」と傍観の姿勢だ。
「こわーじゃないわよ! 何のつもりなのよ、もう」
目を吊り上げる杏華に、トリリアはきょとんと返す。
「何のつもりって、イタズラだよ?」
「い、いや、イタズラはわかるけど……」
困惑する杏華。東堂は苦笑いをしながら、部屋の衝立の向こうへ歩いていった。コーヒーを淹れ直しに行ったようだ。
「う、うう。ぺふっ、ぺふっ」
シャボン玉が割れ、くしゃみをしながらアムニアがぽとりと落ちてくる。彼女はふらりと起き上がり、空に浮きながらつぶやいた。
「ひどい目にあった……しかし引かぬ、媚びぬ、かえりみぬ……それが妖精イタズラ道……」
「うんうん、返りうちにあうのもまたイタズラの華だよねー」
何かよくわからない部分で納得しながら、トリリアがうなずく。
レクスは嘆息しながら、杏華に向けて言った。
「……こいつら、名付きだから、これでも妖精の中では大人しい方なんだ」
「今のでっ!?」
「イタズラはわたしたち妖精の本能なんですよぉ。名付きになると、精霊の眷属としてのお仕事もあるので、そうそう遊んではいられないんですけどぉ」
顔に手を当て、首を傾けながら、シルシファがふわりと笑う。
「わたしはもともと、無名の花妖精でしてぇ。その頃はみんなと一緒にお花を育てたり、今みたいに旅のかたにイタズラしたりして、難しいことはなぁんにも考えず、毎日楽しく遊んで暮らしてましたぁ」
ほわほわと浮かびながら、精霊大陸での暮らしを懐かしむように、シルシファは目を閉じる。
「名を継ぐことで『シルシファ』としての力を得て、人間さんみたいに、いろいろなことを考えたりもできるようになったんですけどぉ。時々、無名の妖精時代に戻りたくなったりもしますぅ。無名の妖精は群れで記憶を共有するので、固有の人格とかは希薄になっちゃうんですけどぉ、何も余計なことを考えなくていいので、楽なんですよねぇ」
「うむ」
シルシファの言葉に、くしゃみ粉がようやく抜けたらしいアムニアが同意する。
「名は、祝福であると同時に呪いでもある。名付けられれば、名付けられた存在へと縛られる。だから大体の妖精は、名付きになっても、一年たったら名を捨てたがる。度を過ぎた記憶も人格も、悠久の時を遊び暮らすのが仕事である我ら妖精にとっては、余計な荷物でしかない……例外も、ないわけではないがな」
そう言って、アムニアがちらり、とレクスに捕まったままのトリリアに視線を送る。レクスが見やると、トリリアは「んっ?」と、いつものように無垢な瞳をこちらに向けてきていた。
(そういえば。トリリアは、どうしてずっとトリリアのままだったんだ? あれから七年たつのに、誰とも代替わりせずに)
「どしたの? レクス」
ふと疑念を抱いたレクスの視線を不思議そうに受け止めて、トリリアが首をかしげる。
「……あのさ、」
どうして、お前は、トリリアのままでいてくれたんだ?
そう聞こうとして――レクスは思いとどまった。その質問をするのなら、畢竟、問い返されることになる。ならば、お前はなぜ、勇者と呼ばれることを拒むのか?――トリリア自身がそう聞き返さなくとも、同じことだ。この二つの質問は裏表なのだから。
「なんでも、ないよ。トリリア」
質問を飲み込んだレクスと、そんなレクスにきょとんと瞬きをするトリリア。二人のそんな様子を、ルビーの瞳が、じっと見つめていた。
(なぜ、元勇者だと言い張るのかなんて、決まってる。怖いんだ。昔みたいにやろうとして、できないと突きつけられることが。昔とは違うって、君に失望されるのが)
それなら、自分で否定したほうがましだった。