0 プロローグ
夜の街を駆ける、人影が二つ。人影に寄り添うように、小さな光が二つ。寝静まった雑居ビルの上を跳んで、月明かりの中を進む。
「おっ、と!」
ビルの縁であやうく足を踏み外しそうになった人影の一人が、声を上げてよろめく。
青いパーカーのフードを目深にかぶった、十代の少年である。やや目つきが悪いが、それ以外にこれといった特徴はない。髪は短い黒髪、背や肉付きも平均的、ありふれた男子高校生と言った風体だ。
「ほらそこ、気をつける!」
よろめいて動きを止めた少年に、もう一方の影が檄を飛ばす。少年と同年代の少女。こちらは赤いパーカーのフードを同じようにかぶっているが、それでもわかるほど目鼻立ちの整った美少女である。瞳は深い青、フードの端からのぞく髪は、燃えるようなブロンド。彼女はビルの屋上に着地後、足だけでブレーキをかけて、ぴたりとその場に止まる。
「……この程度で音を上げないでよね。まったく」
腰に手を当てて、少女はあきれたようにため息をついた。
「あんたはもう、私たちと同じ妖精の騎士――『フェアリオン』なんだから。自覚を持ちなさい、自覚を」
「ちょっとよろけただけだろ」
少年は息を整えながら、唇を尖らせて反論する。
「こっちはブランクがあるんだよ。もう少し慣らさせてくれ」
「ふんっ」
少女は、知ったことではないと言わんばかりに顔をそむけた。彼女の頭の後ろで、手のひら大の赤い光の球がふわふわと浮かび、面白がるように点滅する。
「大丈夫だよ、レクス!」
少年の頭の後ろから、彼にとって耳慣れた声が響く。清らかな川のせせらぎのようなその声の持ち主は、すいっと空を飛んで、少年の目の前に姿を見せた。
青い光に包まれた、全長20センチにも満たない小さな少女。トルマリンブルー色の短いくせっ毛な髪、アクアマリンの輝きを放つ瞳。あどけない顔立ちには無邪気な表情が浮かんでいる。白いふわっとした貫頭衣のような服をまとい、腰にはベルト代わりの金のリング。服には前後左右にスリットが入っていて、透きとおった二対の羽が、背中のスリットからのぞいている。彼女の周りには、涼やかな風が常に吹いていた。おとぎ話の中から抜け出てきたような、妖精の少女。
「レクスならできるよ! 昔を思い出せばかんたんかんたん! だってレクスは『勇者』だもん! ねっ?」
妖精の少女はそう言うと、屈託のない笑顔をうかべた。少年はため息をつくと、彼女の言葉を訂正する。
「何度も言うけど、『元・勇者』だよ。今はもう勇者じゃない。あんまり期待しないでくれ」
「えーっ、でも、勇者は勇者だよ! 未来永劫不滅の称号なんだよ! 元なんかじゃないもん!」
妖精は不満げに、少年の顔の周りを飛び回った。少年は「わかったわかった」と適当に手を振ってなだめる。
「その辺にしときなさい、あんたたち。――来たわよ」
金髪少女が二人を制止する。彼女の言葉に呼応するように、場の空気が張り詰めた。
月明かりの届かない物陰から、闇が形を伴って這い出てくる。豚のような頭部と、水死体に酷似した身体を持つ、異形の者ども。豚頭の怪物は甲高く鼻を鳴らしながら、ぞろぞろと集まってくる。
怪物を前にしても少女は悲鳴も上げなかったが、その数を見て、頬に汗をひと筋つたわせた。
「『オラッカ』が六体……厄介、ね」
「まあ、なんとかなるだろ」
そう返して、少年は右手を前に突き出した。頭の後ろの相棒に、彼は鋭く呼びかける。
「行くぞ、トリリア」
「まかせて、レクス!」
少年の呼びかけに、妖精の少女が応える。妖精は右手の甲の上まで来ると、右手にそっと口づけをして、静かな声音でささやいた。
「運命の精霊よ、我が勇者に力を授けん。いでよ、聖剣――『グラスカラド』!」
妖精の詠唱が、虚空に、剣の柄を生み出した。その柄を握り、少年はぼやく。
「元勇者、だけどな」
「元じゃない!」
あくまで否定して、妖精の少女が頬を膨らませた。