桜雨
昨夜、ぼくはあの並木道を歩きながら、月明かりの下で桜が散るのを眺めていた。桜吹雪、などと言うけれど、折からの強い風の中、ぼくの頭上を、肩先を飛んでいく花びらはまるで雨のように想えた。
以前、落葉は風を恨むか、とぼくに問うた友人にぼくは、どうだろう、としか答えられなかったけれど、もしそうだったとして、ならばこの瞬間、吹き飛んでいく花びらも風を恨むのだろうか。
そうだとしたら、これはなんと悲しい光景だろう、とぼくは想った。沢山の恨みが、小さな礫となってぼくの傍らを次々と通り過ぎていく。
自分の力が及びようもない、自然の摂理や大いなる力でもって、全体でなくてはその存在を、価値をなし得ないものが分断されていく。離ればなれになっていく。桜の花びらは桜という花を構成するパーツのひとつであって、それは桜という花となって初めて人がそうと認識する。散り際こそ美しいものの、路上に落ちたそれはいつか雨に濡れ、或いは砂埃にまみれ、汚れていく。そんな悲しい時間を自分は今見ているのだとぼくは想った。
強い風が雲を押し出し、蒼い光を放つ満月が姿を現した。薄桃色の花びらはその円を通過する一瞬だけ、灰色だった。
ぼくがそんな感傷にかられながら歩いていたのは、先の友人から頼まれごとをしたからだった。ぼくに出来ることなどたかが知れている、と伝えたのだけれど、彼はどうしてもときかなかった。それでこうしてこんな時間に、彼女のもとに向かうことになったのだった。
彼女というのは、彼の被写体だった。
彼は長い間、アマチュアではあったけれど写真――今ではもうそんな呼び方をしないのかもしれないが――を撮っていて、ぼくが想うにはプロでも通用するほどの腕前だった。
たまに個展を開いたりもしたが盛況で、彼はいつも沢山の友人に囲まれて笑顔だった。
彼と友人であることがぼくにも少し誇らしいことだった。ぼくは友達が多い方ではなく、ただ写真を撮ったりすることに興味があるだけの、面白味のない人間だった。
そんなぼくが彼に紹介したのが、彼女だった。彼女と知り合ったきっかけははずみのようなもので、当時ぼくは被写体になってくれる女性を捜していて、インターネット上で見つけた写真スタジオのオーナーである女性とEメールや電話でやり取りをしている時に、そう言えば面白い娘が一人いるから紹介してあげる、と言われ、断る理由など全くないので応じたのだった。
待ち合わせしたファミリーレストランに、彼女は十五分ほど遅刻してきた。彼女はまるで洗いたての白いブラウスのような佇まいだった。彼女の周りだけ少し光りが多く差しているような、そんな印象だったけれど、それはぼくにだけそのように見えたのかもしれない。僕が会釈をして小さく手招きすると、ゆっくりと近づいてきた彼女はごめんなさい、昨夜飲み過ぎてしまって、と悪びれる様子もなく言い、腰を下した。ぼくが自分の抱いた印象とのギャップについて、かみ殺したように笑っても動じた風もなく、彼女はやってきたウェイトレスに雑炊を頼んだ。それがまたおかしくてぼくは少し声を出して笑った。初めて彼女はごめんなさい、と肩をすくめるような仕種をしたが、顔は笑っていた。すっとするような笑顔が、そんな時でも彼女を綺麗に見せていた。
その後ぼく達がどんな話をしたのか、今ではよく憶えていない。彼女の都合が許したのか、ぼくが声をかけると彼女はぼくの被写体になってくれた。正直あまり上手な撮り手ではなかったと想うけれど、嫌がることもなく付き合ってくれた。吐く息がふわりと白くなる寒い頃も、夏の?がわさわさと鳴く頃も、樹々が色づく頃も、ぼくは彼女の姿をファインダー越しに追いかけ、写真として残していった。今想うとちょうどこの季節、春さきのこの時期にだけ、彼女を撮らなかった気がする。手元にその季節の写真が無い。
ぼくは彼女に好意というようなものは持っていなかった。けれど、ぼくの撮った写真が何かの写真誌のアマチュア写真批評に珍しく掲載された時(それは彼女も了承済みで、ぼくと彼女の二人でどれが良いかを選び、一致したものだった)、批評者にこのカメラマンは随分とこのモデルに想いを寄せているに違いない、と断定的に書かれて戸惑ったことがあった。ぼくはどうせ写真を撮るなら美しい写真を撮りたいと想ってきたし、被写体になる相手にもそれが礼儀だと想ってきた。それが実行されているのだろうとぼくは自分を納得させた。
彼女にとってもぼくがただの撮り手でしかなかったのは、彼女から何度か恋愛についての相談らしい話をされていたのでぼくにも承知のことだった。彼女は恋多き女性というわけではなかったと想うけれど、恋愛は得手ではないのか、いつも悩んでいる様子だった。人づき合いが得意な方ではないぼくが相談相手になれる訳もなく、大抵は聞き役に徹して相槌を打ち、その後に彼女が自分で何かしらの結論を出す、という感じだったように想う。
そういう時(だいたいは撮影が終わった後、二人で飲んだりしている時だ)の彼女は被写体をやってくれている時の彼女とまるで別人のように沈鬱な表情をしたりして、快活に笑ういつもと違うその顔だけをひとつのテーマとして撮ってみたいと想ったこともあった。そういう「憂い」が妙に彼女には似合うようなところがあった。
写真誌に掲載されたころには、友人は彼女の存在を知っていて、何度か一緒に逢ったりもしていた。
彼はぼくの、彼女を写した写真を評価してくれていて、写真誌に載ったことも大変喜んでくれていた。ぼくが彼女を被写体に撮る際にも何度か、撮影場所に足を運んでくれた。
自分の撮っているさまを見られるのは何か別の緊張があって、ぼくは居心地の悪さを感じつつも、彼の要望があればその都度、手伝いをしてもらったりしていた。
被写体との接し方について、ぼくと彼の間には多少スタンスの違いがあることが分かってきた。ぼくは納得がいくまで同じ構図、同じ姿勢をとってもらってシャッターをきるけれど、彼は最初の一瞬こそ最高だという考えだった。同じ姿勢を繰り返しても良くなることはなく、それならば違う構図のショットを収めていく方がよい、というのが彼の持論だった。
それはそれでどちらかが違うという訳ではなく、それぞれの方法だからぼく達はそれで言い争いをするようなことはなかった。ただ、ぼくが撮った幾枚かの彼女の写真が粘って撮った最後のショットだったことを話した時には、彼は少し、それが腑に落ちないような様子ではあった。
彼が彼女を被写体にしたい、と言い出したのは、そのやり取りがあった暫く後のことだったと想う。彼女はぼくの専属という訳ではなかったし(件(く だ ん)の写真スタジオのオーナーからは、他にも彼女を被写体にしている人物がいると聞いていた)、だからそのオーナーに伝え、彼女の都合がつくのならぼくは構わない、と彼に伝えた。
それからは、彼女はぼくと組むよりも彼と組むことの方が多くなった。ぼくが撮ろうと想うタイミングよりも、彼の方がいつも早かった。そんな風にして、ぼくが彼女と逢う機会も自然と少なくなっていった。時々電話やEメールでのやり取りはしていたから、彼との撮影でどこへ行ったかとか、どんな撮りぶりだったのかは聞いてはいたけれど、それ以上のことをぼくが訊くことも、彼女がぼくに話すことも無かった。ただ一度だけ彼女は、彼はわたしのことを誤解しているかもしれない、と洩らしたことがあった。わたしという人間を、あなたのようには見てくれていないのかも。ぼくはその時、彼女のその言葉の意味が解らず、寧ろぼくは彼女をどのように見ているのだろうかと電話を切った後に考えたりした。
彼が撮った彼女の写真を、彼の個展で観たことがある。ぼくには撮れないな。そんな風にぼくは個展の写真を眺めながら想った。それがぼくと彼の、写真における才能の違いなのかもしれないし、感性の違いなのかもしれないけれど、彼の写真の中の彼女は、ぼくが知らない顔をしていて、それは羨望や嫉妬とは違う感情をぼくにもたらした。
大変だったろうな。そんな風に、ぼくはその時想ったのだった。勿論それを彼に伝える筈もなかった。
ひとつかふたつ、季節が過ぎた。ぼくはスナップ――人物写真よりも風景写真に興味を移し、人の居ない、がらんとした風景を好んで撮るようになっていた。人という一点の被写体よりも、風景のどこに視線を向けフォーカスするか、要素の配置、バランスをどのようにするか、そういったことに悩むことの方がその時のぼくには新鮮で面白かった。何よりも予定は自分次第であることも都合がよかった。まだ自分で納得のいく写真が撮れている訳ではなかったし、何かが欠けているような気はしたけれど、それはそれで充実した時間だった。
彼女から一度、不意に電話を貰ったことがあった。本業をしている午後だったけれど、仕事場のすぐそばまで来たから連絡してみた、と聞いてそれなら、とぼくは仕事場を出て彼女のいるファミリーレストランに向った。そこは彼女と初めてあった、その場所だった。
店内に入っても、すぐには彼女を見つけられなかった。彼女はぼくの被写体をしてくれていた頃よりも髪を短くていたし、それに少し、疲れている様子だった。それは宿酔いだったあの日とは違って、純粋に疲労が表に出ている、そんな風に想えてぼくは戸惑った。
どうしたの、とぼくは訊いたろうか。どういう切り出し方をしたか、よく憶えていない。
ぼくは取り繕うように近況報告をし、彼女も同じようなことを話したと想う。写真、撮ってるんですか。彼女がそう言い、ぼくは風景写真の面白さについて少し話した。今度、見せてくださいね。彼女はそう言ったけれど、本当にそう想っていたかどうかは表情からは判らなかった。
一時間ほども話しただろうか。ぼくはそろそろ仕事に戻らないといけないと言い、彼女はそれに従った。じゃ、また。彼女は以前そうしたのと同じように、軽く手を挙げ、駅の方へ去って行った。ぼくは戻ると言っておきながら、少しばかり彼女の後ろ姿を見送っていた。彼女が振り向くことはなかった。
彼から電話があったのは一週間ほど前のことだった。彼女と連絡が取れなくなった、と少し落ち着きのない様子で彼は言った。電話は番号が変わったか使われていないというメッセージになり、Eメールも宛先不明の通知で戻ってくるという。彼女は所謂ソーシャルネットワークサービスを好まず、アカウントを持っていなかった。或いは匿名のものを持っていたかもしれないけれど、彼は知らなかったし、ぼくとて同様だった。
何かあったのだろうか、と彼は心配していた。確かに、ぼくも彼女がそのようなことをするとは考えもしなかったから、よほどのことなのだろうとは想った。ふと、じゃ、また、と手を挙げた彼女の姿が想い出された。彼女は別れを告げるために、ぼくに逢いに来たのだろうか。
例の写真スタジオのオーナーに問い合わせてみても、逆に驚かれるばかりだった。最近はあまり連絡してくれなかったから、とオーナーは言った。彼が聞いていたという彼女の勤め先にも連絡をとってみたが、彼女は既に退職していた。このことが発覚する随分前のことのようだった。
手詰まりだった。彼女は消えてしまった。ぼく達が知るどの連絡先も、彼女には届かなかった。
そのこと自体は驚きだったけれど、ぼく達の日常において、例えば中学だとか高校だとか、或いは転職する前の知人だとか、ネットワーク上の誰かにおいては、次第に、あるいはある日突然連絡がつかなくなることは無いことではない。ぼく自身にしても、上京してからこちら、地元の知人や先輩後輩と密に連絡をとりあってきた訳ではないから、恐らく多くの人にとって、もう忘れ去られた誰かになっているだろう。昔はきっとそうやって、それが普通のことのように、人と人は離ればなれになっていたのだ。
大きな幹を持つ樹の枝の、その先で風に揺れる桜の花びらは、永遠にその花の一部分であるように見えて、一瞬で吹き飛び、樹木という大きなネットワークから切り離され、見知らぬ場所に運ばれていく。今ぼく達が、互いにあらゆるアドレスや番号で繋がっていると考えているこの世界も、その番号という接点を失くせば途端に離ればなれの、見知らぬ個になる。それは唯一無二として設定されているが故に、絶対的に切り離されるのだということをぼく達は忘れている。とても脆い関係性の中で、ぼく達は日々を過ごしている。
彼がどうしてそこまでして彼女のゆくえを知りたいのか、ぼくは訊こうとは想わなかった。それはつまりはそういうことだ。ぼくはどうなのかと言えば、どこかでまだそれらのこと(彼女が総ての連絡先をシャットダウンさせてしまったという事実)を信じ切れていないというか、ネットワークで言えば接続不良の状態なだけのような、そんな感触でいた。その一方で、もし彼女自身がそれを望んだのであれば、彼女の意志のままにしておくべきだとも想っていた。
ぼくは彼女を一度、送って行ったことがあった。それがぼくに彼がこの件を依頼した理由でもあった。それ以外にも理由はあったのかもしれないけれど、ぼくはそう理解していた。
彼女を送って行ったのはいつの事だったか、寒い時期で陽が落ちるのが想いのほか早く、二人とも少し飲んでいたものだから、彼女は大丈夫だと言ったのだけれど、何かあるといけないから、と同行したのだった。
並木道を抜け、その先の少しばかりの階段(古いコンクリートの階段だった)を下りると、住宅やアパートメントが点在している場所があった。市街地から少し離れた住宅街で街灯も少なく、その時も月明かりが蒼かった。
ここ、ですから。彼女はあるアパートメントの前で立ち止まり、そう言った。何かこれ以上歩を進めてはいけないと言われているようで、ぼくはそこで別れることにした。
じゃ、また。とぼくが言うと、彼女は少し笑ったようだった。
月明かりの下、舞い散る桜の中をぼくはあの階段を下り、彼女のアパートメントに向って歩いた。近づいたところで、異変に気づいた。夜のこの時間だというのに、アパートメントのどの部屋にも灯りが無い。エントランスの蛍光灯が弱い光を見せているだけだった。
ぼくは歩を進め、集合ポストを確認した。どの部屋のポストにも広告や郵便物が入らないようビニールテープが貼られていた。このアパートメントには人が住んでいない。ぼくはエントランスを出て、少し周りを見て回った。建築計画予定のプレートが貼られていた。もうすぐ取り壊しになるようだ。
まるでぷつん、と音を立てたかのように彼女の痕跡を辿る最後の線もここで途切れてしまった。ぼくは想った。いつから、このアパートメントは無人だったのだろう。ぼくが彼女を送っていったあの時、既に無人だったのではないか。
ぼくは彼にその場から電話をした。彼女はもう、ここにはいないみたいだよ。
帰り道の脚は重かった。駅までの道のりが倍の距離のように感じられた。桜並木を歩きながらぼくは、行きと違うことを考えていた。桜の花びらは外部からの力で桜の花から離ればなれになるのではなく、自ら進んで外の世界に飛んでいくのではないか。そうする事で桜は青々と葉を茂らせ、また新しい春に花を咲かせる。枯葉も同じく、樹から離れて地に落ち、やがて土に返り、養分となって樹がまた茂っていく。だから、落葉は風を恨まないのではないか。
少し風が吹き、ひらひらと一枚の桜の花びらがぼくの眼の前を通り過ぎた。咄嗟に手を伸ばしたけれど、花びらを掌に受け取ることはできなかった。
ぼくは帰宅してから、何かを洗い流したくてすぐに熱いシャワーを浴びて、少しばかりウイスキーを飲み、ひと心地ついたところで今までに撮った写真のアルバムを見始めた。
たくさんの彼女の写真が並んでいた。想っていた以上の量だった。夏のまばゆい光の下、秋の暮れゆく木立の中、薄い蒼を見せる冬の空を背景に、彼女の姿があった。巧く撮れたなと想う写真もあれば、もっと頑張れたなと想うものもあった。彼女はぼくの写真について何か特別に感想をくれることは無かった。だから彼女がぼくの写真をどう想っていたのかは今も分からない。ただあの、写真誌に掲載された写真を選ぶ時だけは、自分の姿をたくさん見るのは落ち着かない、と言いながら真剣に選んでくれた。その中で、ぼくと彼女の最後の一枚は決まったのだった。
彼とはどんな風にやっていたのだろう。今更にそんなことを考えた。
こんなネットワーク社会の中にいても、人は全くその痕跡を消していなくなってしまうことが出来るのだなと想う。或いは彼女のような女性だからどこかで、例えば写真誌の隅の方に小さく、その姿を見つけることができるかもしれない。でもそれは、もと有った桜の樹から飛ばされ吹きだまった花びらの中から、一枚を特定するような、気の遠くなるような偶然だ。ぼくと彼女ははずみのように出逢い、今また、離ればなれとなったのだった。
この文章の中でぼくはひとつ、嘘をついた。
桜の季節にもぼくは彼女を撮っている。だがそれはまさに偶然に撮った一枚だった。
桜を観に行きませんか。一度彼女に誘われて、陽気のよい午後、大きな公園に桜を観に出かけた。大きな、かなりの古木とも想える桜の樹の下で、ぼくたちは昼間からビールを飲んで桜を眺めた。たくさんの人々が楽しげに、声をあげ、笑い、同じように桜の樹の下にいた。
珍しく彼女は早々に頬を染め、芝生にごろんと横になった。そして、眠ってしまった。きれいな寝顔だった。ぼくは想わず、持って来ていたカメラで彼女の寝顔を撮った。彼女の少し茶色がかった髪に、薄桃色の桜の花びらがあった。それは彼女に見せていない写真だった。(終)