事件編 容疑者一号
現場は二階建てのアパートだった。大通りから細道に入り五分ほど歩いたところで、街灯も少ない。最寄駅まで徒歩三十分という立地と三十七年という築年数のせいかそのアパートは六部屋のうち四部屋は空き部屋だった。
清水が現場に着いたとき、アパートの前の道路には二十人近い野次馬が集まっていた。ジャージやサンダル、スウェットなど服装は様々だが深夜二時に相応しい格好であった。もう朝晩は冷えるというのにこの時間にそんな薄着でご苦労なことだ、と思いながら歩を進める。
「すいません、通ります」
言葉と裏腹に堂々と野次馬の真ん中を通り抜け、事件現場である一〇三号室に向かった。道路から最も離れた位置の角部屋である。手前の一〇一号室には今では唯一となってしまった住人が住んでいる。ただ、部屋の明かりが確認できるだけで本人の姿は見えなかった。おそらくつい先ほどまで事情聴取を受け、やっと解放されたのだろう。真ん中の一〇二号室の前には階段があった。そのせいで通路はひとり分の幅しかない。二階は全て空き部屋なので長いこと放置され、ひどく錆びていた。そのせいで傷も目立つ。野次馬を抜けたことでやっとこれだけの確認ができた。
一〇三号室の前まで来ると、突然玄関が開く。
「清水か、遅いぞ」
低く貫禄のある声はその影からだった。捜査一課の先輩である仁田淳一がちょうど外に出てきた。
「おはようございます。野次馬が多いと思ったので身だしなみを整えていました」
「まったく……」
こんな時間だからこそ言えた冗談だったのだが、仁田も満更でもないような顔をしていた。二メートル近い身長の恰幅のいい大男。それに加えて強面なので、捜査四課の方が向いているのではないかと常々思う。しかし、よく食べよく笑うその性格から部下の信頼は厚い。
「今回も期待してるぞ」
清水の肩をポンっと叩くとそのまま野次馬の方に歩いて行った。がんばります、とその背中には届かないであろう声の小ささで言い、一〇三号室に入る
人ひとり分しかない玄関。その先には台所があった。被害者は家事をするタイプではないようで、出し忘れたと思われるごみ袋が二つ、ビールや酎ハイの缶が並べられていた。流しのところにはワックスや香水、鏡などが置かれていた。トイレと風呂場の扉は閉まっていて中は見えないが、ここと同じような感じであろう。奥にもう一部屋あり、そこに死体があったようだ。鑑識が作業を終え、片付けを始めていた。
「清水さん、おはようございます」
奥の部屋から如何にも好青年という爽やかな声が聞こえた。
「あ、岡部、おはよう」
中肉中背、爽やかな短髪の岡部翔が清水のもとにやってくる。左手には手帳、右手には四色ボールペンを持っているのが彼の特徴だ。
仕事熱心な彼は既に事件の全貌を抽象的ながら把握しているようだった。
「どんな事件だったの?」
「はい、この事件はですね――」
指を挟んでいた手帳を五、六枚めくりナレーションでもするように読み上げていく。
「えー、被害者は増田敏弘、二十九歳のフリーターです」
岡部の話を聞きながら、奥の部屋へと進んだ。
黒いカーテンに黒いベッド、黒いカーペット、黒い洋服ダンス。黒い一色の部屋だった。台所の乱雑さが嘘のように統一感のある黒い部屋。黒以外にあるのはハンガーに掛けられたシャツとクッションの豹柄。コタツの脚とその上のティッシュの白くらいだった。
「コタツのコードで首を絞められて亡くなっていました」
奥の壁には大きな窓があり、その手前にベッド、豹柄のクッションを挟んでコタツが置かれていた。カーペットは毛が長いせいで埃をしっかりと絡みつけている。二か所だけ毛の短い点があったが、寝たばこでもして焦がしたのだろう。そこだけ埃もなくきれいに見えた。右側にも窓があったがこちらは一回り小さい。被害者はこの小さい窓とコタツの間に倒れていたそうだ。
「足をこちら側に向け、仰向けに倒れていました。ジーパンにパーカーという少し薄着でした」
「それで、犯人は誰?」
清水の質問に岡部は左手の手帳をまた何回か捲り、一言。
「分かりません」
それはそうだろう。なぜ手帳をめくる一手間を入れたのか問い詰めたくなったが、一瞥するだけにして、また部屋を見回す。
「それで第一発見者は?一〇一号室のひと?」
「いえ、被害者の友人の大西友春です。バイトを終えて二十三時ごろ来たときに発見したそうです。」
ベッドの上には枕と足元で折り畳まれた布団が一枚。その横には寝間着に使っていただろうジャージが丸められていた。
「容疑者一号ね」
コタツの上には真ん中に黒い灰皿とこの部屋の鍵、端にティッシュとコンタクトの液があった。被害者は目が悪かったようだ。
「大西によると毎週のようにこの時間にこの家に遊びに来ていたようです。これは確認が取れています。今日は部屋の電気がついていなかったので、寝ていると思って中に入ったそうです」
「それで発見したと」
岡部は頷き、更に情報を追加していく。
「カギはかかっていませんでした。ほかに普段と異なることがなかったかも聞きましたが、特に気が付いたことはないとのことです」
「まあ、あとで何か思い出すかもね」
遊びに来たら友人が死んでいたのだから今は状況を整理しきれていないのだろう、と清水は思った。後日話を聞くまでには何か思い出していると助かる。
「それで、容疑者二号は?」
岡部の目は一度清水に向けられたが、すぐに気付き手帳に戻した。
「一〇一号室の住人、樋口信彦は今年の四月からこの近くの大学に通っている学生で、夕方から大西の悲鳴を聞くまでずっとオンラインゲームをしていたらしく、怪しい物音などは聞こえなかったそうです」
「そんな大音量でゲームしてたの?」
こたつの次は洋服ダンスに手をかけた。
「ヘッドフォンをしてやっていたため周りの音が入ってこなかったようです」
「なるほどね」
四段の洋服ダンスを上から開けていく。黒いTシャツ、黒いジーパン、黒いニット。黒いカーディガン、また黒いTシャツ、黒いパーカー。下の二段には色とりどりの服が入っていた。さすがに服まで黒には揃えなかったようだ。
「あと、二十一時三十四分の不在伝票がポストに入っていました。それから、二十二時四分に被害者から大西へ携帯から連絡が入っていました」
「内容は?」
「酒がないので来るときに買ってくるように、と無料メールアプリで入っていました」
「スマホに犯人の指紋が残ってたりしないの?」
「無かったようです」
岡部が手帳を閉じ、清水を真直ぐと見る。
「毎回毎回よくまとめられていて、とても助かるわ」
それを聞くとにこりと笑い、仁田の元へ行くと言い残し彼は出て行った。毎回を重ねたことに多少の嫌味を含ませていたのだが、彼の爽やかさの前では褒め言葉になってしまうらしい。
その後もいろいろと物色したがこれといったものは見つからなかった。
後藤は目を開け、大きく息を吸った。
目の前にいる清水と目があった。彼女のほうは落ち着き払い、事務所の窓を開けた。
「どう?なにか分かった?」
風を浴びて髪が靡く。
「いや、どう考えても情報が足りないだろ」
「そりゃそうよね。ちなみに容疑者は三人よ」
被害者の友人と同じアパートの住人。まだ三人目が出てきていなかった。
「せめて容疑者全員の映像は見せてくれ」
後藤はため息交じりに吐き捨てた。更に続ける。
「でもまあ、不自然な点はいくつかあった」
期待通りだ、とでも言いたげに清水は口角が上がる。それには触れず、後藤は続きを見せるように催促した。
解決までにはまだ遠い。




