2.灰色の二人組
すさまじい勢いで壁に叩きつけられた。それだけで意識が飛びそうになる。
だが本能は理解していた。今気を失えば、死ぬ。
反射的に押し返して抵抗する。
距離を誤った牙が目前でガチンッ! とすさまじい音を響かせた。
「ぐう……ッ!」
拘束を抜け出そうと死に物狂いで暴れるがびくともしない。何という力の強さだ。押さえられた肩ががっちり固定されてしまっている。
再び牙がゆっくり迫ってくる。
その時祐司が考えていたのは、これからズタズタのグズグズになる自分の顔のことでも、なぜこんなことになっているんだという理不尽への怒りでも、自分が消えたことに全く気付かないであろう残酷な世界のことでもなかった。
ただ生きたいと、それだけだった。
(死んで、たまるか……!)
手が自然とポケットに伸びた。
敵の牙が今度こそ頬に触れた。
衝撃が体を駆け抜ける。
だが――生きている。
祐司は悲鳴を上げて敵の手の中から抜け出した。化け物は不意打ちを受けたかのようにふらついていた。
実際不意打ちだった。祐司の手は家の鍵を握っていた。それで下から相手の顎を突いたのだ。
頬に何かが流れていた。拭うと、牙によって切り裂かれたのだろう、血だった。
敵がこちらを向く。鬼の形相だ。美貌の名残すらない。
こちらに一歩。背を見せれば間違いなく襲ってくる。
祐司は震える手で脇に落ちていた傘を拾った。
戦えるか? 自分に訊ねる。どちらにせよ足がガクガクで逃げられそうにはない。
「いやだ……いやだ……」
頬を熱いものが流れた。多分血ではない。涙だ。
死にたくない。
ガッ! と手の中に衝撃が弾けた。いつの間にか敵が目の前にいた。
傘はどこかに飛んでいってしまって、もう役には立たない。
祐司は目をつむった。
今度こそおしまいだ……
長い一瞬だった。命の終わりとはこういうものらしい。
風が吹いていて、手にはずっしりとした重量感がある。
「え……」
目を開けるとやはりそこには牙があった。
だがそれにはもう力はないようだ。
腹部のど真ん中を銀の大剣に貫かれていれば当然だろうが。
そしてその剣の柄は、祐司の手の中にあった。
「え?」
呆気にとられた声と共に剣の輪郭は薄れて霧散した。化け物の残骸が床に崩れ落ちて、その他には何も残らなかった。
「い、一体何が……」
緊張の糸が急に切れた反動でへたり込む。
ぐるぐると視界が揺れている
分からないことばかりで混乱してしまっていたのだ。
確かなのは肩の心地よい重みだけだった。
(重み?)
ぽん、と軽く手を置かれているぐらいの感触があった。
目をやると、そこには鳥がいた。目が合って、彼(もしくは彼女)は一声鳴いた。
青い羽毛の小鳥だ。くちばしの形が特徴的な、尾羽の長いインコ。多分セキセイ。小首をかしげてこちらを見上げている。
祐司はぼうっとその小鳥を見下ろしていたが、ふと思いついて訊いてみた。
「君が助けてくれたの?」
インコは答えずに、祐司の肩口にくちばしをこすりつけ始めた。ふわふわの羽毛が気持ちよさそうだが、手を伸ばすと彼は警戒して身じろぎした。
小鳥をそのままに立ち上がる。遠くに叩き飛ばされた傘は、近づいて確かめるとへし折れていた。電車内では持っていたはずの鞄もどこかへ行ってしまっていた。
(でもとにかく……帰らなきゃ)
それだけを心に決めた。
右方と左方に伸びる通路を見比べて、右へと歩き出す。
通路は、幅は学校の廊下の倍かそれ以上、高さもそれくらいはあるようだ。ただただ白くて、わずかに発光しているようにも見える。どこのどういった場所なのかは全く見当もつかない。倉庫的な施設なのか、はたまた広めの地下連絡通路的なものなのか。
三叉路の角に差しかかった時だった。
何か甲高い音がした。
鉄を工具で一気に切断する時のような、硬質の音だ。
顔を出してのぞき込むと向こうの方で人影が入り乱れているようだった。
五、六人程か。長い髪を振り乱しているいくつかには見覚えがある。というよりさっき祐司を襲っていた化け物だ。
牙をむき出して跳びあがるその鬼のひとつを――目にもとまらぬ鉄拳が真正面から叩き落とした。
床に落ちた化け物の顔がこちらを向く。粉砕されて原形を全くとどめていない。
さらに別の化け物がその隣に倒れ伏す。こちらの体には、首から上がなかった。
灰色の影が二つ、次々現れる化け物を舞うように屠っている。
一人は拳、一人は長剣。
流れるような動きで叩き込み、突きさししては敵を沈黙させ、床にばらまいていく。
祐司はゆっくりと通路を後ずさりした。正直言ってあの牙の化け物なんかよりよほど恐ろしかった。
(逃げなきゃ……)
そして振り向いたところに、ぱっくり開いた大口があった。
「ぎゃあああああっ!?」
転ぶように逃げ出す。肩でインコがバランスを崩した。
いつの間に接近されていたのだろう。もう少し気づくのが遅れていたらシームレスにあの世行きだった。
全速力で走るが化け物の足はそれよりさらに速い。このままではすぐに追いつかれる。
しかしその前に、行く手にはあの灰色の二人組がいた。
挟まれた。万事休すだ。
灰色影の一人がこちらを向く。その尖った拳の先もまた、こちらを向く。
祐司は絶叫した。威嚇でも悲鳴でもない。ただ、恐怖にギリギリと締め上げられた精神が放った、生命の雄叫びだった。
放たれた拳がこちらの顔を打ち砕いた、と、そう思った。
「……なんだテメエは?」
訝しげな声が聞こえた。少年の声だ。
それに答える言葉は持っていないが、それでも分かることもある。死んでいない。
拳はこちらの顔の横を通り過ぎて、祐司のうなじにかぶりつこうとしていた化け物の眉間に突き刺さっていた。
「あ……あ……」
床に膝をつく。
少年が拳を引くのに合わせて後ろでも化け物が床に落ちた。
「キリュウ、どうしたの」
もう一人の灰色の影――ジャケット姿の少女がこちらを向く。
「どうもしねえよ。変な奴がいただけだ」
「そう。ならいいけど」
少女は見もせずに背後に襲いかかってきた化け物を斬り伏せた。
「手早く済ませてね。判断は早めに」
「言われるまでもねえって。過保護か」
吐き捨てた少年はこちらにしゃがみ込んできた。
「お前、ドールチルドレンじゃねえよな? なら聞くが、お前は俺たちにとって有益か? それともクズか?」
「え……?」
「役に立つか立たねえか……クソっ、鈍いな。つまりは生きたいか死にたいかって聞いてんだよ」
それでも呆然としている祐司に諦めたのか、少年は早々に顔を引いた。
「マキ、こいつ駄目だわ。殺しとくか?」
「好きにすればいい」
何が何だか分からないのは変わっていないが。それでも祐司には奇跡的に理解できた。
今、自分は生きるか死ぬかの瀬戸際に立っているといること。
そしてもう一つ、よくは分からないが、何か決定的なチャンスが巡ってきているということを。
「た、助け……ください……」
我ながら惨めな声だった。ぶるぶると震えてか細くて。
「助けて……助けてください……お願いします……」
「……」
少年と少女が顔を見合わせた。
「……どうする?」
「わたしに訊かれても」
少女は肩をすくめて敵の喉を突き刺した。
少年もため息をついて立ち上がり、化け物たちの方に構えを取る。
「まあどうでもいいや。後で考えるか」
取り残された白い床で。
祐司はこれから自分はどうなってしまうのだろうと、それだけをぼんやりと考えていた。