12.脆く、しかしそれでもあがく人
脇目もふらずに全速力で走っていた。
ずっと走っているが、どこまで行っても迷宮が続き誰もいない。
とっくに息は切れていて、脳が酸素不足で溶けそうだ。
足は痛いし胸も痛い。
だが止まれない。止まり方を忘れてしまった。
――なんで来てくれなかったの。
幼馴染の声が聞こえる。あれは、転校のお別れを言えなかった日の夜、電話口で聞いた言葉だ。
(まただ……)
苦い思いをかみしめる。逃げ出した卑怯な自分を空虚に見下ろす。
祐司をかばって血塗れで横たわる少女の姿が再び頭によみがえった。
(まただ……)
力が、意気地がないばかりに人を巻き込む自分がここにいる。関係ない人を犠牲にする自分がここにいる。
(まただ、まただ……!)
これまでの人生、あらゆることから逃げて、あらゆることを避けて、戦わずに生きてきた。その方が楽で、怖くなくて、それにそれ以外の方法を知らなかったから。
「僕、は……!」
走る速度が落ちていく。もともとそう速くもなかっただろうが、最終的によろめくようにして祐司は足を止めた。
膝に手をついて、荒く息をつきながら叫ぶ。
「どうできたっていうんだよ……!」
走っていた間もずっと流れていた涙をぬぐわないまま、祐司はしゃがみ込んだ。
「どうできたって、いうんだよ……」
人にはそれぞれの容量がある。できることの幅に限界がある。生まれつき肝が太い者がいるのと同じく生まれながらに怖がりもいて、怖がりにも簡単に克服できるものとできないものがある。そして克服に踏み切れる者もいれば、そもそも克服の試みをできずに終わる者もいる。
祐司は。
「僕にはどうもできないよ……悪いかよ」
「悪くはないさ」
突然聞こえた声にぎょっとして顔を上げる。
誰もいなかったはずの通路の先に、いつの間にか少年の姿があった。
「スバル……」
彼は灰色の外套を揺らしながらこちらの目の前までやってきて止まった。
「さあ、立って」
涙をぬぐうことも忘れて祐司はその手を取った。
呆けた顔のこちらを見てスバルは微笑んだ。
「さっきは悪かったね。さあ、ここを出よう」
「え……」
さっさとこちらに背を向ける彼の背中に祐司は声を漏らした。
何も訊かない方がいい、とは分かっていた。何も訊ねず彼についていけばきっと無事に外に出られる。その後がどうなるかは分からないが、とりあえず今をしのぐことはできる。
マキのことは、仕方ないだろう。
「あの」
「ん?」
それでも祐司は訊ねた。
「マキは、大丈夫でしょうか」
スバルは困ったような顔で笑った。
「彼女なら……問題ない。助けを呼んでくる間は持ちこたえてくれるさ」
「で、でも、もしかしたらということも」
「そうは言っても僕たちではどうしようもないよ」
「二人で助けに行けば……」
「確実じゃないな。全員やられてしまう可能性が高い。それよりはマキに堪えてもらって後から万全の備えをして助けに行く方が確かだ。彼女は強いよ」
思わず納得しそうになった。いや、祐司が勝手に納得したかっただけかもしれない。マキが持ちこたえるなんて誰が断言できる? あんなに傷だらけで、弱っていたのに。
黙り込んだ祐司を見て、再びスバルは歩き出した。
「さて、じゃあ行こう」
それでもついてこない祐司に、彼は足を止めた。
「まだ何か?」
祐司は涙をぬぐった。ついでに鼻もこすった。何度もこすった。
マキのことは仕方ない?
冗談じゃない。
「……お願いです。マキを助けてください」
床に膝と手をついて、ぐっと深く頭を下げる。
「お願いします」
額が床についた。
「……」
沈黙があたりを満たした。
まぶたの裏の暗闇で、祐司は短くはない時間を待ち続けた。
数十秒かもしれないし数分、あるいはもっと長かったかもしれない。
「実を言うとね」
スバルの声に祐司は顔を上げた。
彼の顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「彼女にはむごたらしく死んでもらおうと思うんだ」
「え……?」
祐司は思わず耳を疑った。
彼は続ける。
「彼女にはこのまま八つ裂きになってもらう。彼女が命がけで逃がした君は、僕が丁重に外にお連れする。そして十分役に立ってもらった後はやはりむごたらしく死んでもらうこととする」
スバルの声は友人と穏やかに談笑するときのそれで、さらに祐司の混乱を激しくした。
「ど、どうして……」
「彼女のことを恨んでるからさ。単にそれだけだ。それで十分だ」
きっぱりと言葉を切って彼は再びこちらに手を差し出した。
「さ、行こう。彼女のことなんか見捨てて。大丈夫、どうせ助からないさ」
その手を取れば楽になる。少なくとも当面は。
そんなことは鈍い頭でもよくわかった。
(……でも)
その後はどうなる? 利用されて死ぬなら結局は同じだ。それ以前に、恩人を見捨てて生きていけるほど自分は強くない。いや、人間は汚くしぶといから、そんな呪われた人生を生きていくこともできるのかもしれない。だが、そうした生き方に意味を見出すことができるのか?
――なんで来てくれなかったの。
時間も場所も状況も関係のないはずの幼馴染の言葉が祐司の胸の奥を深くえぐった。
「ほら、早く」
遠くからスバルの声がする。
目の前に差し出されている手を、祐司はぼんやりと見つめた。人間にはそれぞれの容量がある。その言葉が頭の中をぐるぐると回る。
反応がない祐司を見て、スバルはため息をついたようだった。
「ついてくる気がないのなら仕方がない。おいていくよ」
「……」
「それとも、ここで死んでおきたいのなら手伝ってあげてもいいけど?」
その手に灰色の双剣が出現する。
「うん、その方がいいかもな。助けた相手がその甲斐なくあっけなく殺される、そんなのも意趣返しとしてはなかなか面白い」
気楽な足音が背後に回り込む。
値踏みするような鼻歌が聞こえ、それから止まる。
「それじゃ残念だけど。あいつらを恨めよ」
首筋に鋭い風が触れた。
風が触れて、それだけがそのまま通り過ぎた。
その間、祐司は自分の静かな息遣いだけを聞いていた。
床についていた膝のかすかな痛み、両手にかかる重み。そして手の中にもう消えかけている振動。
だが、何よりも強いその感触。
「僕は」
視線の先のその少年に視線を据えながら、祐司は攻撃をはじいた銀の大剣をゆっくりと下ろした。
「僕は、助けに戻ります」
スバルの横を抜けて歩き出す。
「マキを助けに」
彼はもう手を出してこなかった。
ただつまらなそうな声でこれだけを告げた。
「死ぬよ。二人とも」
答えずに床を蹴る。
「ま、好きにすればいいさ」
祐司はそのまま全速力で先ほど来たときと同じ道を逆走し始めた。来た時とは違う思いで。
人間にはそれぞれの容量がある。できることの幅に違いがある。大きい者もいれば小さい者もいる。確かにその通りだ。
だが、その大きさは実際に測ってみるまでは分からない。それだけは誰にとっても同じなのだ。
「マキーっ!」
まだ遠い戦闘音に向かって、祐司は声を張り上げた。




