1.迫る牙
(嫌だ、死にたくない……)
手にありったけの力を込めながら祐司はうめいた。
(死にたくない、死にたくないよ……!)
目の前には大きく開いた口がある。その中にズラリとならんだ薄い牙。剃刀のように鋭く、祐司の顔ぐらいならきっとひとかじりでズタズタにしてしまうだろう。
裂かれえぐられた後の自分の顔を想像してぞっとした。そんな痛み、とてもじゃないが堪えられるわけがない。
逃げようともがくのだが、肩をものすごい力で押さえつけられて身動きもロクに取れなかった。
突き飛ばそうとする祐司の抵抗もむなしく、その牙はゆっくりと祐司の顔に近づいてくる。
ああもう駄目だ。
絶望の中で、祐司はなぜこんな状況に陥ったのだろうと思い返していた。
◆◇◆
その日に何か特別なことがあったかというと、別にそんなことはなかった。
いつもと何も変わらない、憂鬱で退屈で、どうしようもなく灰色の月曜日だ。
学校帰りの電車の中はどこかよそよそしくて居場所がない。
「でさー、やっぱそれおかしいでしょってあたし言ってやったワケ」
傘を手にドア脇に収まっていると、そんな耳につく声が聞こえてくる。他校の女子生徒たちが、四人がけを陣取って賑やかな雑談を楽しんでいるようだった。
自分とは遠い世界だなあと思う。
なんだかとても生き生きしていて、周りのことなんか気にもしないといった様子で。なんであんなに自信たっぷりでいられるのだろう。
と。その中の一人と目が合った。
「ねえ、ちょっとキモいの見つけちゃった!」
「あーアレ? あたし気づいてた」
急に声がひそめられて代わりに忍び笑いが聞こえてくる。
途端に喉の奥に何かが詰まったようになり、祐司の背筋を嫌な汗が流れた。
(本当に、理解できそうにない……)
祐司は昔から気が小さい。
思春期の頃から自意識が強化されて、その傾向がますます強くなった。
女子生徒たちが祐司のことを言っているのかは分からなかったが、それでも思い込んでしまった心臓は、そう簡単には治まってくれそうになかった。
この性格で損をしたことはいくつもある。
強く意見を言うことができないし、友達がいないどころかいじめられたこともあるし、転校していく幼馴染にさよならを言えなかった。
その時も周りの目を気にして会いに行くことができなかったのだ。
電車が目的の駅に着いた。祐司は逃げるように外に出た。
「……!?」
その時、祐司の体が急にバランスを失った。慌てすぎて足を引っかけたのか。
ホームの地面に叩きつけられる寸前、祐司は――
◆◇◆
祐司は、白い空間にいた。
いや、瞬きしてよく見回すと、空間というより通路のようだ。その床に倒れていた。
(ここは……?)
少なくとも駅のホームでない。
白く、清潔そうだが無機質で、まるで病院の廊下のようだ。
だが、つまりはどこなのだろう。電車から出てすぐのところにある白い通路なんて。
起き上がって振り向くと、そこにも白い壁があるだけだった。電車の影すらない。祐司の傘が落ちているだけ。
まるでいきなり見知らぬ場所に瞬間移動してしまったかのようだった。
壁に触れたまま途方に暮れる。何がどうなっているんだろう。これでは家に帰れない……
そして。視線を移した先に、その人影はあった。
「……?」
白いワンピース姿の少女は、こちらを冷ややかな目で見つめていた。
長い艶やかな黒髪、すっと通った鼻筋。まるで冷水を浴びせられたかと思うくらい目の覚めるような美しさだ。
だが、何か……何か油断ならない危うさがある。祐司は知らず一歩後ずさっていた。
「……誰?」
ざわり、と少女の髪の毛がうごめいた。少女の目が赤く輝く。その口元が吊り上がる。
と思った次の瞬間にはその口が耳まで裂けて、幾重もの鋭い牙が姿を現した。
「キシャアアアアァァッ!」
「うわああああああっ!?」
髪を振り乱し飛びかかってくるその化け物を前に、祐司は喉も張り裂けんばかりの悲鳴を上げた。