6章 そのバラは赤くない
【概要】ベルクソンによる無の説明を青葉が絵理とセァラに紹介する。
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「ところで、ベルクソン先生は」青葉は続けつ。「無が存在しないことを導きだすさい、否定命題は、肯定命題の判断を流用し、それを否定するだけのものであり、それ独自のあらたな判断は何ひとつ追加はしない、と言うたのよ。つまり、否定命題て、肯定命題の存在に完全に依存する命題であり、二次的なものでしかなく、単独では存在できないのよ。つまり、否定命題で表現されるものは実際には存在しないわけ。
一例として、秩序という言葉があるよ。この言葉は、なかなか主観的な言葉でありて、人により多様な状態を意味できるのよ。そして、無秩序という言葉もあるよ。だけれど、先生は、存在するのは秩序の概念だけであり、無秩序の概念は、実際には存在しないこと、習慣に導かれる錯覚にすぎないことを、看破しつのよ。
無秩序というものをつぶさに分析してみると分かるけど、それは、存在していし秩序が失われつ、または、想定する秩序がまだ現われていない、というものであることが、ただちに分かるのよ。つまり、無秩序というのは、秩序の概念に完全に依存しているのでありて、秩序が否定されし状態をひと言で表現するためのただの便利な言葉でしかないわけなのよ。無秩序は実際には存在しないわけ。
また、このバラは赤いという判断にたいし、そのバラは赤くないという否定の判断が有りうるけれど、これも同じなのよ。赤くないという色は、存在しないのよ。そのバラは桃色だ、というような、即値による判断なのなら、その即値は存在するけどね。つまり、肯定命題をたんに流用せしだけの否定命題で表現されるものは、一般に集合を構成するのでありて、値の決定されし一個の即値としては実際には存在しないわけ。
つまり、なんらかの言葉があるからと言いて、その言葉で示唆される物事をみずから体現するものが必ず存在する、とは必ずしも言えないわけなのよ。例えば、四角い三角形というものは存在しないのよ。すなわち、言葉とは、必ずしも信用できないものなのよ。
また、物事て、言葉で表現すると、意味が逃げだすよ」
「うむ」絵理が言いつ。「それはどういう意味ね?」
「うん、まあ、さほどの意味はなく、そういう意味なのよ」
「言葉で表現すると意味が逃げるわけ?」
「まあ、時どきある気がするな、そういうことも。自分で考えていることが、うまく表現できてない、ていう気がするわけなのよ。つまり、物事を言葉で正確に表現するて、意外に難しい、ていうことだよ」
「ああ、そう」
「うん、そう。そして、ベルクソン先生は、こういうことも通して無が存在しないことを論証しつのよ。そして、じつは、こういう遣りかたが、論理性が根源の有としての先験的な存在なのかも知んない、という問題に応用できる可能性が、あるのよ。非論理性というものを想定してみるわけなわけ。すると、無秩序や赤くないという色が存在しないのと同様、もしかすると、非論理性も存在しなく、ただ論理性だけがエイ プライオーライに存在している、ということになる可能性が、高いのよ。たとえ非論理というような明確な値があるよう見えるとしても、その実相は、論理性の否定とか、論理の誤りとか、真赤な嘘とかを集めし、不確定な集合でしかない可能性があるわけなのよ。そして、所詮、非論理性は、論理性の掌のうえで踊りを踊りているのにすぎない、ということになる蓋然性が、とても高いのよ。
そして、完全なる無は存在しなく、なにかが有であらざるを得ない。しかし、非論理性は存在しない恐れがとても強く、結局、論理性が根源の有であることになる可能性が、きわめて高いのよ」