11章 意識の様相
(この章は書きなおす予定です)
【概要】発生させし意識の様相や認知科学における様ざまな問題につき三人が話す。
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【小見出しの目次】
意識の様相
視覚
意識が物質的な幾何学空間性の概念を獲得できし根拠
観念は根本的に無形
脳と集積回路
自由意志:意識は付随現象
自由意志:夢
自由意志:意識は物理現象
自由意志:量子階層構造
自由意志:物質の徹底的な受動性
自由意志:準備電位
自由意志に関係している理論群
現象判断のパラドクス
哲学的ゾムビ
ふたつめの因果的排除問題
さらなる問題
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意識の様相
「じゃあ、ここで」青葉が言いつ。「発生せし意識のことを少し説明させてもらうよ。意識の様相て、まだ明確ではないのよね」
「ああ、そう」セァラが言いつ。
「それで、あたしは、意識て、微生物や細胞の段階で発生すると考えるので、細胞レヴェルの意識を例にして言うよ。順不同でいくよ。
まず、細胞の意識て、ひと言で言うと、細胞を構成する物質群の波動から、散逸構造の秩序形成力の効果によりて創発する、おおきな波動なわけなのよ。物質の緊密な化学結合なしに創発する巨視的な物理現象としての統合波動なのよ。
そして、意識の統合波動て、化学結合なしに創発するので、物質性を離れていて、観念的な機能だけを帯びている、と推測されるのよ」
「うむ」
「どういうことかと言うと、物質基本機能群のうち、観念的な機能、つまり、エナァジ状態検出機能と、次期状態演算機能の、この二つの機能だけが、含まれている可能性が高いのよ。そして、そのほかの物質的な機能である、基本相互作用機能とか、エナァジ着脱機能とか、次期状態移行機能とかて、細胞の大きな波動のなかには創発せずに、構成要素たる物質群の波動のなかに留まると、思われるのよ。
それで、意識て、こういうように、物質性を離れ、観念的なもの、言わば、精神的なもの、になりている、と推測されるわけ。
つまり、意識の統合波動て、細胞の構成要素の物質群の個この波動が全てくっつくことで出現する大きな波なのよ。しかも、物質群の波動のなかの観念的な成分だけがくっつくのよ。物質的な化学結合が生じてないからね。
そして、波動のなかの観念的な成分がくっつくて、散逸構造の秩序形成力を根拠として、波の重ねあわせのような現象が生じるため、と思われるよ。隣りあいて引っつくだけなので、観念的な成分たちが具体的に重なるわけでなく、文字どおりの重ねあわせとは言えないよ。でも、重ねあわせのようなものとは言えるのよ。
それでも、そういう意識を体現する本体は、巨視的な物理現象である統合波動になりていて、物理的なものなのよ。物質性は離れてはいるけれど、物理的なものなのよ。つまり、意識て、物質のなかに発生するからね」
「うん、言うていることは分かるよ」絵理が言いつ。「要するに、意識て、物質のなかに発生するが、観念的な機能だけを担いている、と憶測されるのね?」
「その通り」青葉が言いつ。「それで、意識たる統合波動て、感覚機能と思考機能だけを体現している、と予想されるのよ。物質的な機能は構成要素の物質群にまかせてね」
「なるほど。まあ、そうかもね」
「ちなみにさ」セァラが言いつ。「構成要素の物質群の波動と、意識たる大きな波動の関係は、どういうものなわけ?」
「ああ、それは」青葉が言いつ。「おのおの存在しながら重なりている、と考えられるよ。例えば、水の分子のばあいも、重なりていると考えられるよ。構成要素の水素原子と酸素原子の波動がしっかり存在しながら、同時に、水分子の大きな波動もしっかり存在するのよ、重なりながら」
「それも波の重ねあわせの原理によるわけ?」
「まあ、恐らく、そうだよ。と申しますか、重なるという形容は誤解しやすいかも知んないな。重なると言うと、異なる二つの実体が重なる、という風に解釈されてしまうから。なので、むしろ、構成要素の波動群が引っつくことで、全体として大きな波動が形成される、と解釈するほうが、より実相に近いかも」
「ああ、いまの解釈のほうがイメジしやすいよ。でーさ、引っついて、水分子の大きな波動が形成されるとしてさ、水素原子と酸素原子の機能や性質はどうなるの?」
「ああ、そうね。はっきりせしことは分からないけれど、しっかり残るのではなかろうか。どうしてかと言うと、結合することで元の原子の機能が消失してしまうなら、結合の根拠が失われてしまい、結合が維持できなくなりて、水分子はバラバラになり、元の原子の烏合の衆に戻りてしまうはずだから。
これて、無数の水分子が集まりて、水素結合により水生物や酒生物が形成されることからも、推測できるよ。水素結合が起きるていうことて、構成要素の原子群の機能や性質がしっかり残存してるていうことを、紛れもなく示しているのよ」
「うむ。じゃあ、水分子のおおきな機能や性質は、どこに宿るわけ?」
「うむ。そうね、水分子の機能て、原子群の波動が引っついて形成される大きな波の全体に宿るのではなかろうか」
「ほう。じゃあ、原子レヴェルの波動群の機能がしっかり残存しながら、同時に、水分子のおおきな波動の機能も出現するわけだ?」
「まあ、そういうことではなかろうか。なにしろ、水分子のおおきな波動て、原子群の波動が引っつくことで形成されるはずだから。
なので、分子の波動と、形成要素の原子群の波動て、それぞれ、同時に、じぶんの機能と性質を主張しているわけなのよ。分子の全体として見れば、一個の大きな量子だけど、その構成要素の量子群もしっかり残留してるのよ」
「じゃあ、そもそも、量子の創発が、妙なものなのだ、ということなのだ? 結合ないし融合により波がどんどん大きくなりてゆき、それに伴ない、あたらしい機能や性質が出現するけれど、構成要素群の波動の機能や性質もしっかり残存するわけだ? 量子の創発て、こういうものなのだ?」
「まあ、そうね。この宇宙における物理現象を謙虚に受けとめるとすると、そういう風に帰納されるのではないか、と思う。
ただ、大元の物質基本機能群については、重なりている、と解釈するのでいいと思う。物質基本機能群て、全体としては一個の波動として実現されている筈だけど、個この機能の成分がその波のなかで渾然一体となり重なりているに違いないよ。なので、どの機能の体積も、同じはずなのよ。波動の体積が、それぞれの機能の体積でもあるのよ」
「なるほど」
「そして、この辺でまた戻るけど、そして、意識のばあい、おおきな統合波動として形成されるけれど、化学結合なしに創発するので、意識の波動には、観念的な二つの機能だけが具わる、と推測されるのよ。物質群の波動のなかの観念的な成分だけで意識のおおきな波が形成されるのよ」
「うむ」
「ああ、でも、そうすると、意識のおおきな観念的な波動て、構成要素の物質群の波動の物質的な成分と、実際に重なりていることになるよ。なんと結局そういうことなりきのか。意識の波動て、構成要素群の観念的な成分が引っつくことで形成されるので、物質基本機能の観点からみると、構成要素群の物質的な機能成分としっかり重なりていることになるよ。なーんだ、そういうことなりきのか」
「じゃあ、重ねあわせがまた復活するの?」
「まあ、そういうことになるね。物質基本機能の観点からみると。そもそも、物質基本機能群が、たがいに重なりていつのよ。でもさ、ここまで詳しく分析してみて初めて納得できつよ、物質と精神が一心同体ということが」
「ああ、そういうこと」
「これまでて、どうもなんか不確かな感じがしていつのよ。でも、これで、晴れて、物質と精神が一心同体と、胸をはり主張できるよ。物質基本機能の観点からみると、物質群の物質的機能の成分と、意識のおおきな観念的機能の成分て、まちがいなく重なりているのよ」
「めでたし、めでたしじゃん」
「そうだよ。なので、細胞のバイオクワンタムて、やはり、そういう妙な量子なりき、ということになるよ。物質的な観点から見れば、物質群て、それぞれ独立せし別べつの量子の集合体だけど、それらに、意識のおおきなコンシャソクワンタムが重なりているのよ。ふーん、そういうことなりきのだ」
「じゃあさ」絵理が言いつ。「大袈裟なことを言うと、ゾウリムシの姿て、構成要素の物質群の集合体としての物質的な姿だけど、同時に、ゾウリムシの意識の姿、とも言えるのではないの?」
「ああ、それは面白い見方だよ」セァラが言いつ。「見える姿が意識の姿でもあるなどて。じゃあ、脳の姿が、脳全体の意識の姿、ということに、なるんじゃないの? 主観の意識はもう少し小さいはずだけど」
「ああ、そうだよ。じゃあ、木の葉の姿が、木の葉全体の意識の姿でありて、花の姿が、花全体の意識の姿なのだ。草全体の姿や、樹木全体の姿が、それらの意識の姿なのだ」
「そうだよ。ただ、波動と粒子の二重性の原理によりて、物質の波動も、意識の波動も、実際には見えるわけではないけどね。姿て、撥ねかえりてきし光が見えているだけだから」
「まあ、結局、そういう事になるけどね」
「うん」
「それで、こういう次第で」青葉が言いつ。「細胞は物質の集合体だけど、おおきな統合波動たる意識のほうは、物質性を離れ、精神的なものになりている、と思われるのよ」
「なるほど」絵理が言いつ。
「たとえば、細胞の内外でなにか物理的相互作用が発生するとして、接触やエナァジ状態の変化を受けるのて、構成要素の物質群のほうだよ。他方、細胞全体に染みわたりている意識のほうは、物質層で発生するエナァジ状態の変化を各種のクワリアとして受けるのよ。まあ、意識のばあい、受けると言うより、感知する、だけど。
つまり、細胞が、物質群の集合体でありながら、その観念的な物質基本機能の面で観念を感知しはじめるわけなのよ。細胞全体の統合波動が、クワリアを感じるようになるのよ。ひと言で言えば、物質が、ここで、感覚能力を獲得するわけ。もっと分かりやすく言えば、細胞という物質が、ここで、意識的経験をもち、精神生活を開始するのよ。観念開闢う! 意識的経験開闢う! 精神生活開闢う!」
「ええっ!」「ええっ!」絵理とセァラがぎょっとせしように言いつ。
「どう? 驚きつでしょう?」青葉が能天気に言いつ。
「物質が精神生活を始めるわけなわけ?」冷や汗を垂らしつつセァラが言いつ。
「そうだよ。機能二面エナァジ一元論ではそうなのよ。細胞の段階ではじまるのよ、精神生活て。クワリアという観念を感知しはじめるから」
「びっくり仰天だよ」
「でも、これで、落ちつくところに落ちつきつ、と言えるよ。なにしろ、この宇宙には、空間たるヒグズ粒子をふくめ、物質しか存在しないのだから。物理的なものしか存在しないのだから。この宇宙てエナァジ一元論の世界だから」
「ふーん」
「ただ、さほどの精神生活でもない気はするけどね」
「そりゃ、まあ、そうだろうけどね。でもほんとなの?」
「まあ、そうと考える他はないのよ」
「うむ。でも、どの程度の意識的経験なんだろうね?」
「それはまだ分かんないよ。まだまだ意識的経験が始まりしばかりだから。まだまだ秘密のヴェイルに包まれているのよ。でも、恐らく、想像を絶しているよ、あたしたちの感覚からすると」
「でも、マジで驚きつよ」絵理が言いつ。「物質が精神生活をおくるて言うんだから」
「うん」青葉が言いつ。「だから、細胞ていう物質て、物質性を保持しながらも、同時に、空たかくに飛翔していている、物質的精神体になりている、とくらいに考えればいいかもね。物質生活は、個この物質たちに任せ」
「ふーん」
「それで、脳を構成する、ニューロン・グライア細胞(glial cell 神経膠細胞)・シナプス(synapse)の細胞・その他の細胞があるけれど、これらも細胞なので、いまの話は、これらにも当てはまるのよ。そして、これらと、これらのコンシャソクワンタムも、一心同体なのよ。これらの細胞のレヴェルでも、細胞の全体が、無数の物質で構成される集合体としての物質の様相をそのまま保ちつつ、一個の量子つまりバイオクワンタムに昇格しているのよ」
「うむ」
「そして、生物のばあい、細胞などの単位物質のあいだに結合が生じると、物質としての外見は変化しないまま、結合している範囲で、新たに、大きなバイオクワンタムとコンシャソクワンタムが創発するのよ。
そして、脳では、複数の細胞が結合して小さな組織を形成する形で、そういうのが次つぎ結びつきて脳の全体が構成されるはずなのよ。なので、脳では、規模の異なる無数の統合波動が、同時に混在しながら、コンシャソクワンタムの複雑な階層構造を形成してるのよ。その最上位に位置するコンシャソクワンタムが、主観の意識なわけなわけ」
「なんか、すぐにはイメジが掴めないよ」絵理が言いつ。
「まあね」青葉が言いつ。「それで、もう、言うまでもないことだけど、こういう次第で、主観て、その成りたちからして、物質生活でなく、精神生活を送らざるを得ないでいるわけなわけ」
「なるほど」
「ちなみに、生物の体はあらゆる種類の細胞で構成されるけど、どの種類の細胞も、モニタァないし解釈者として、それが担いている機能と、それに発生する相互作用に対応するクワリアにしたがう内容の、想像を絶する、超ユーニークな精神生活を営みているはずなのよ。筋肉細胞も、心臓の細胞も、肺の細胞も、肝臓の細胞も、膵臓の細胞も、血管の細胞も、皮膚の細胞も、足の裏の細胞も、骨の細胞も。赤血球や白血球や血小板も。そして、微生物や単細胞生物も。各種の植物の細胞も。驚くよ。
さらに、複数の細胞で構成される生体組織や器官でも、より大きな独自の精神生活が営まれているのよ、モニタァないし解釈者として。筋肉や心臓や肺や肝臓や膵臓や血管や皮膚などを始めとする、あらゆる組織や器官だよ」
「じゃあ、次はクワリアだけど」青葉が言いつ。「クワリアの大元て、構成要素の物質群に生じる基本相互作用だよ。それて、関係する物質のエナァジ状態を変化させるけど、その変化は、当然、意識のエナァジ状態検出機能によりても検出されるのよ。なにしろ、意識は巨視的な波動なので、構成要素の物質群がうける変化は、当然、意識の統合波動にも反映されるのよ。意識の波動も物理的な影響を受けずにはいないのよ。そして、意識が巨視的な物理現象であることに起因して生じるであろう検出動作ないし検出結果の残響が、短期的な物理記録になり、短期記憶になり、クウェイルという感覚的なものになるわけなのよ」
「そのさ」セァラが言いつ。「さっき青葉て思考機能て言うたけど、思考機能て物質群の次期状態演算機能から創発するの?」
「ああ、そうね」青葉が言いつ。「思わず知らず、思考機能も言うてしまいつけれど、エナァジ状態検出機能が細胞の感覚機能になるんなら、次期状態演算機能のほうは、思考機能に昇格しそうに思われるよ」
「まあ、考えられないでもないよ。むしろ、大いに期待されるよ。でーさ、その昇格メカニズムも感覚機能と同じわけ?」
「まあ、そうね。統合波動は巨視的な物理現象なので、時間の経過とともに微妙に変動するよ。それで、次期状態演算機能のアルゴリズムも安定しなく、その処理がずるずる間延びするのに違いないよ。それで、演算過程も、引きずられ、残響になり、めでたく時間の流れに乗っかれる、と推測されるのよ。
つまり、時間の関数になりし次期状態演算機能が、思考機能のことなわけ。とにかく、思考て、短時間であろうとも、次期状態演算の過程でしょうじる何らかの観念群が少しは時間の流れのなかにて持続してないことには、とても形成されえないと思われるから」
「まあ、そうかもね」
「じゃあさ」絵理が言いつ。「次期状態演算機能も残響になるんだから、これからもクワリアが生じるのではないの? エナァジ状態検出と同じように」
「ああ、そうだよ」セァラが言いつ。「それは間違いないよ。じゃあ、エナァジ状態検出のクワリアは、感覚的なものだから、感覚クワリアとでも呼べがいいのではないの? そして、次期状態演算機能のクワリアは、思考クワリアと呼べばいいのではないの?」
「ああ、そうだよ。それはいいアイディヤだよ。すると、クワリアには、感覚クワリアと思考クワリアの二種類がありしわけだ。うん、それで確かに気持ちが落ちつくよ。どうも、感覚クワリアだけでは思考までは形成されえないような印象がありきから」
「うん、これまで気づかなかりきよ」青葉が言いつ。「なんちゅうか、予想外の展開だよ。すると、細胞の次期状態演算機能でしょうじる思考クウェイルが、思索的な観念の大元と言えるかも」
「そうだよ。思考クウェイルが、観念素なのよ。て言うか、思考クウェイルて、思索観念の観念素なのよ」
「じゃあ、感覚観念もあるわけ?」セァラが言いつ。「そして、感覚クウェイルが感覚観念の観念素なわけなわけ?」
「ああ、そういうことになるね。なんと、観念にも、感覚観念と思索観念の二種類がありしわけだ。なるほど」
「ちなみにさ」絵理が言いつ。「感覚クワリアは、エナァジ状態検出機能が感じるだろうけれど、思考クワリアは、だれが感じると思う?」
「ああ、なるほど」セァラが言いつ。「次期状態演算機能がじぶんで感じる、と言いたいところだけど、でも、多分、これはないね? この機能の本分は演算することだから。だから、思考クワリアも、エナァジ状態検出機能が感じるのではないの、恐らくね?」
「うん、それが一番ありそうだよ」
「ところでさ、ここが最前線ではないの? 今いきなり気がつきつけど」
「なんの?」
「精神の発生の」
「ああ、なるほど」
「恐らく、ここで、意識の主体性が発生するのよ。でも、分かりにくいかも知んないな。解釈にしかならないかもね」
「どう解釈するわけ?」
「そうね……、エナァジ状態の変化、または、その差分て、直接的には、エナァジ状態検出機能によりて検出されるのよ。そして、その残響も、恐らく、エナァジ状態検出により検出されるのよ。そして、その検出が、短期の物理的な記録になり、そういう物理量の発生の主張になるわけだけど、そういう主張を受けとめるものて、むしろ、第三者でなくてはいけないかもね。なので、感覚物理量を物理的に検出するのてエナァジ状態検出機能だけど、それを精神的なものとして感知するのが、第三者なのよ。
そして、この第三者として相応しいのて、やはり、統合波動かもね。自分のうちに具わるエナァジ状態検出機能によりて検出される感覚物理量を統合波動が感じるときに、その感覚物理量が感覚クワリアとして感知されるのよ、きっと。恐らく、統合波動そのものが、時間の流れに乗っかり、持続性を帯びているのよ。それで、時間の流れに乗っかりている短期的な物理量をクワリアとして感知できるのよ。なので、クワリアを感じる意識の本体て、やはり、統合波動かもね。統合波動が意識そのものなのよ」
「なるほど。すると、やはり、統合波動があたちたちの意識なりしわけだ?」
「もう、この辺は、力ずくで解釈し、力ずくでこじつけるしかないかも知んないよ。説明などて、どうにでもなるのよ」
「まあ、そうだよ。それで、構成要素の物質群の波動がしっかり存在していながら、そこに意識の観念的な機能を体現する統合波動が重なるわけだ? それで、意識て、生体の物質のなかに発生する物理的なものなのだ、ということだ?」
「うん、そうだよ」
「どうしてこれまで分からなかりきの?」セァラが言いつ。
「そりゃあ、この辺て」青葉が言いつ。「結構インチキ臭いところだから。詐欺みたいな世界だから。なんたて、物質が精神生活をおくると言うのだから。でも、潜在的にはもう分かりていし筈なのよ、意識が開闢せし時点でね。物質のなかに開闢しつからね」
「まあ、そうかもね」
「あの時は、意識を開闢させるので、もう手一杯なりきのよ。
意識が発生する場所は、統合波動だよ。でも、意識とは精神的なものである、という印象が、なぜか人間にはあるのよ。そういう先入観が強すぎるかも知んないな。
と言いますか、意識が精神的なものなのは、その通りだけど、じつは、意識には、物質性も具わりている、ということが、なかなか見えないのよ。と言いますか、あたしたちの意識がこの世界のあらゆる事物を感じることができているという事実を素直に見るなら、意識に物質性が具わりているてことて極めて明白なのだけど。でもここは何故か気づきにくいのよ。て言うか、こげなことなど誰も考えないけどね。丸きり必要ないからね。そして、意識とは精神的なものであるという印象が、なぜか人間にはあるからね。と申しますか、基本相互作用が物質とこの宇宙の存在の本質であるということが、一般には、ほとんど知られていないから。
それで、せっかく意識が統合波動として創発するというのに、その事実を素直に見ることができないのよ。そして、根拠もなしに、その意識が、統合波動とは別物でR、統合波動に憑依している精神体なのでR、というような無意識的な印象を持ちてしまうのよ。簡単に二元論に陥りてしまうのよ」
「なるほど。物質と精神の二元論ね?」
「その通り。しかし、実は、そうではなかりしわけなのよ。発生せし物理的で観念的な統合波動そのものが、意識なりきのよ。一心同体なりきのよ。だから、二元論でなく、機能の二面性をおびしエナァジ一元論ということになるのよ」
視覚
「ところでさ」セァラが言いつ。「観念て、クワリアを元にして構成されるわけ?」
「そうだよ」青葉が言いつ。「クウェイルて観念素だから」
「じゃあ、すると、もしも細胞の表面で発生する物理事象を視覚刺激と解釈するとすると、細胞て三次元の視覚を有していることになるんじゃないの、原始的な?」
「ああ、そうだよ。視覚て、微生物や細胞の段階で始まるのよ」
「なんか妙な気がするけどね、物理事象の相互作用が視覚になるんだから」
「でも面白いよ。尤もなことだよ」
「まあね」
「じゃあ、ここで、体の内部の暗いところに位置するある一つの細胞のことをイメジしてみるものとする。でも、その細胞は、じぶんの表面や内部で発生する相互作用を視覚情報として感じている可能性があるのよ。だから、さほど暗いとは思いていないかも知んないね。て言うか、明るい・暗いていう上等な感覚はまだ持ちあわせてはいないはずだけど。て言うか、ここの段階ではまだ視覚という明確な感覚でなく、なんか妙な抽象的な感覚のはずだけど」
「かも知んないね」
「でも、そげな風にして、物理刺激の信号ひいてはエナァジ状態の変化が、微生物や細胞におき、一ビトゥの観念に変換されるのよ、きっと。これが、原始的な白黒映像の一画素分の観念になるわけなのよ。0と1のうちの1、暗と明のうちの明、黒と白のうちの白、OffとOnのうちのOn、FalseとTrueのうちのTrue、NoとYesのうちのYes、無と有のうちの有、陰と陽のうちの陽、のような観念だよ。
ただ、体にはある程度の大きさがあるので、ただの一ビトゥだけということではない筈だけど。もっとモーア発生している筈なのよ。なぜって、微生物や細胞て、素粒子に較べると無茶苦茶おおきいからね」
「じゃあさ、花や草木の細胞もそうかも知んないね。特に、葉の細胞は、光にたいしてセンシティヴだから、一枚の葉の全体の意識も、原初的な視覚を有している、と予想されるよ」
「ああ、そうだよ。それてかなり有りそうだよ」
「葉だけではないよ、きっと。葉叢の全体や、一個の植物の全体にも、視覚が具わりているに違いないよ。幾何学的にみて、超複雑な視覚だよ」
「うん」
「では、白血球ではどうか? 白血球はいかにして侵入者を識別しているか、というような問題があるよ。これについては、抗原(antigen)と抗体(antibody)というものが深く関与しているらしいけれどもね」
「うん」
「ああ、そうなりきのだ?」絵理が言いつ。「光て、そういう風にして観念に変換されていつのだ? へーえ。大したものだ」
「まあ、そうかもね」青葉が言いつ。「だから、視覚て、根本的に、抽象観念なのよ。視覚だけではないけどね。生物て、光そのものを見ているわけでなく、光が衝突せしことに起因して発生する物理事象を感知せし感覚を、二進数のうちの1のような観念として認知して、それを視覚イメジと解釈しているわけなのよ。あたかも風景をスケチするように、じぶんの意識の画用紙のうえに外部世界の姿を写しとりているわけなのよ。観念を写す画用紙と言うほうがいいかもね」
「なるほど」
「だから、観念とは、じつは、物理事象が齎していつ、物理事象が化けしものなりき、というのて、こういうように、視覚につき見ていると分かりやすいかもね。生命体におき発生する物理事象は観念素なのでR、ということも。
だから、生命体でのエントゥロピ生成の減少て、生命体にては物理事象の発生により観念が自動発生してしまうことについての原因の一つ、と考えられないこともないよ。比喩的な言いかただけど。
しかも、この、物理事象の感知に起因して発生する観念て、発生と同時に瞬時に消滅するわけでなく、生命現象が巨視的な物理現象として発生するお陰でもて、減衰しつつも、少しのあいだは持続するのよ。他方、素粒子に発生する物理事象て、発生と同時に即座に完了してしまうのよ。
つまり、生物の意識上に発生する観念て、みじかい時間ではありても、あるていどの時間のあいだ、持続するわけなのよ。だから、こういう、意識上の物理現象である観念の持続性すなわち短期記憶のゆえにこそ、外部からの物理刺激に起因して発生する観念だけでなく、もっと抽象的な複合観念も、意識の内部空間独自のものとして自発的に構成できるかも知んないよ」
「うむ」
「そして、これは眼の視覚に関することだけど、でも、原初的には、視覚というような明確なものではなかりしはずなのよ。一ビトゥの抽象の認知て、はじめの段階では、外の世界の何かをそこはかとなく伝える程度のものでしかなかりきに違いないよ。それが、次第に、意識素の興味を呼びおこし、意識素の思考を刺激して、それで、その認知が外部世界のなにかの存在に対応しているらしいということになりてゆき、それが遂にはお眼めによる視覚機能を齎すことになりぬのよ。
そうは言えども、視覚を齎すものは、必ずしも光でなくてもよかりきのよ。光が必須なりきということではないわけなわけ。単に、光の速度の素早さとか、光の精細さなどの特性の点で、そとの世界の姿を観念画用紙に写すには、光がちょうど適していつ、ということなのよ。他方、蝙蝠さんとか、魚群探知機とか、船や潜水艦のソナァなどでは、音波が視覚信号として使われているよ。たぶん、これらの用途には、音速とか音波による粗い分解能でも間にあいしわけなのよ。光や電磁波て、水中では急速に減衰してしまうしね」
「なるほど」
「ちなみに、さらに」青葉が言いつ。「脳の階層構造て、通信プロウトコール(communications protocol)に似ているよ。通信プロウトコールの上位層では各種の意味が処理されるのに対し、最下位の物理層ではまさに物理的なものが扱われるのよ。そして、脳のばあい、それは何かと言うと、下位層の物質に生じる即物的なエナァジ状態の変化ではなく、なんと、個々のニューロンの発火なわけなのよ。ニューロン発火という技巧的で人工的な相互作用によるエナァジ状態の変化なわけなわけ」
「あれ? そうなの? どうしてそげな事になるわけ?」セァラが言いつ。
「よく分かんないのよね。考えられるのは、下位の構成要素は言わば他人様なので、その内部での相互作用は、主観はもう感知できないかも知んないよ。または、細かすぎて感知できないとかね。あるいは、ニューロンや脳分などの構成要素がもうコンシャソクワンタムになりていて精神生活を送りている場合、上位層のコンシャソクワンタムて、いちばん下の物質のエナァジ状態の変化には、もう手が届かないかも知んないよ。それで、代替として、ニューロン発火が考案されつかも。ニューロンや脳て、けっこうレヴェルの高い発明品なのよ」
「どげにしてそげなものが発明されしわけ? 物質だけでそげな上等な発明ができるわけ? まあ、その前に、神経が発明されつかも知んないけどね」
「それは難しい問題だよ。神経細胞が発生しつということて、かなり不思議なことだよ。なぜって、神経システムて、じぶん以外のなんらかの存在や、遠隔制御を、前提にしていると、推測されるから。そげなことが一個の細胞だけで考えられるわけ? まあ、でも、同じ種類の細胞がいくつも結合して創発する大きな集合体には着想できるかも知んないね。
て言うか、その前に、単細胞生物が多細胞生物に進化して、さらに、動物に枝分かれもしないといけないよ。ちなみに、単細胞生物と多細胞生物のあいだに位置づけられる生物もいるらしいのよ。たくさんの単細胞生物が集まり、一個の群体を形成するらしいのよ。ちなみに、また、ニューロン数がいちばん少ない生物はもう判明しているらしいのよ」
「ふーん」
「ああ、でも、ニューロンて、かなり高級なものだから、まだ先のことだよね。その前に、まず、神経細胞の発生を解明しないといけないのよ。そこに精神性が関与していつか、否か? 物質だけで、思考という精神的でかつダイナミクな秩序を構成できるのか、否か?
つまり、あたしたちの感覚では、神経細胞の発生には、その前に、観念的な設計が必要だろうと思われる。でも、そげな働きができそうなものて、どこにも見当たらないよう見えるのよ、今のところは、まだね。それで、精神性の助けを借りない、物質だけによる精神性のエミュレイション(emulation)のことが、浮上してくるわけなのよ」
「うむ、なんか話がもつれているよ。ついていけないよ」
「うむ。まあ、今のは脱線だけれどね。じゃあ、また戻るけど、層の違いで処理対象の質が異なるていうのて、ある意味、もっともな事だよ。物質レヴェルの事象は、土台である物理層で検出されれば、それでいいのよ。そして、主観て、体全体をモニタァし意味を統合的に解釈しているので、じぶんで物理層の相互作用を感知する必要はないのよ。じぶん自身のなかに物理的な異変を感知せしところで、手も足も出せないし。眼がまわる・眼が眩む・頭が痛いというくらいのことならあるけどね」
「ああ、そう」
「分かんないけどね」
意識が物質的な幾何学空間性の概念を獲得できし根拠
「また」青葉が言いつ。「生物の視覚て、ふつう、無数の画素の並びから成りたちているけれど、意識という精神的なもののなかに二次元とか三次元とかの幾何学的な空間のイメジないし観念が形成されているて、なんとも不思議なことだよ」
「そうなわけ?」絵理が言いつ。「なんで?」
「それは何故かと言えば、形というのは実体的なものだから。かりに、意識が、完全に精神的なものであり、実体的な部分をいささかも具えていないなら、そういう意識が根拠なく実体的な幾何学空間のイメジないし観念を抱けるというのは、とても考えにくいのよ。と言いますか、不可能だよ。なぜって、純粋な精神体であるゆえに、実体的な世界が存在することを根本的に知りえないからね。物理世界のことを少しも知らないのだから。そして、なんの手がかりもなく、実体的な世界をイマジンするのて、不可能だから」
「ほう」
「物理事象による刺激が一ビトゥだけだと、それはほんとに訳のわからない抽象でしかないよ。幾何学性はどこにも出てこないのよ。でも、そういう刺激が二ビトゥか三ビトゥになりて、どことなく直線的に並んだり、三角形を形成したりすりゃ、それが、なんとなく、原初の意識に、無意識的に、空間の感覚ないし観念を抱かせるのではないか、と推測されるのよ」
「ふーん」
「さて、では、感知する物理刺激の感覚を、意識空間のなかにて観念画用紙のうえに幾何学的に並べるには、どうすりゃいいか?
どうも、こうも、仮に、意識素の意識空間が元もと微生物や細胞の三次元空間に重なりていつとすりゃ、意識素の意識空間は、つまり観念画用紙は、最初の最初から三次元の実体的な幾何学性を帯びしものなりき、と推測できるよ。どうしてかと言えば、物理事象は微生物や細胞の体のいろいろな位置にて発生するけれど、発生位置が異なりていれば、位置の違いは物理事象の認知においても何らかの違いを齎さずにはいずく、その認知内容の相違が、この場合、意識素に、実体的幾何学空間性というものをそれとなく教えはじめることになるからね。複数の抽象感覚のクウェイルはここではしばらく同じであるとして、発生位置の違いに起因する微妙な違いは間違いなくその感覚には含まれているはずで、そういう違いが、自然と、意識がイメジする幾何学空間性の土台か根拠になる可能性が高いのよ」
「へーえ」
「だから、観念体としての意識が認知する実体的な幾何学性は、意識が独自に編みだししものでなく、根本的には、微生物や細胞という実体が体現している幾何学性の反映なわけなのよ。生命体の表面や内部にて巨視的な物理事象が発生する地点の位置性が、意識が認知する形や幾何学性の根拠かヒントゥになりているかも知んないわけなわけ。
畢竟、意識が認知する幾何学性て、微生物や細胞が体現する三次元空間として、意識素の発生時点でもう具わりてしまいていつ、と判断されるよ。なにしろ、意識素て、生きている物質そのものだから。エナァジという摩訶不思議ななにかの無数の粒つぶで構成される超越的な波動が、これらの真の姿でありて、かつ、同時に、意識素そのものだから、エナァジ波動が命を帯びしのちは」
「うむ」
「逆の方向から考えるなら、もしも意識素が実体的な幾何学空間性というものを容易に理解できつとすると、それは、そもそも意識素が実体的な体積あるものなりきから、と推測することもできるよ。そもそも意識素がそういうものなりしため、機能的には精神的なものであるはずの意識素にも、実体的幾何学空間性が、理屈ぬきで、直感的に体得できつのよ。こういうことも、意識素が微生物や細胞という生体と一心同体であることを強く裏づけているよ」
「ほう」
「他方、視覚とか聴覚とかの高度の感覚が帯びている広域的な幾何学空間性は、もう少し洗練されていて、もはや体の形状やニューロン網の形状などには拘束されず、別途、専用の仮想空間として形成されているかもね。
こういう次第で、眼をゆうする生物て、物理刺激から変換されて、意識内部の仮想幾何学空間に写しとられしあとのビトゥ観念群をとおして、根本的には、推測により物を見ているはずなのよ。眼にみえる物の姿て、即値ではないわけなわけ。ながい経験の積みかさねによりて、その推測は、そとの物理世界の現実をほぼそのまま伝える信頼性の高いものになりてはいるはずだけど。
そして、ほかの感覚も、みな、おおよそは推測によりているはずなのよ。
もちろん、細胞群のお眼めが覚めてて、意識がアクティヴになりていればのことだけど。おねんねしていれば、認知できないよ」
「うむ。じゃあさ、時間の概念も同じようなものではないの?」
「ああ、時間」
「そうだよ。物理刺激を与えられないまま細胞に閉じこめられている意識が、根拠もなく時間の概念を抱けるて、とても不思議なことなのよ。と言いますか、ありえないのよ。時間て、超抽象的なものだから。眼にも見えないし。それでも、意識そのものが、巨視的な物理現象たる波動として、はじめから時間の大河に乗っかりていれば、きわめて理解しづらい時間であろうとも、なんかそういう妙なものがあることを、最初の最初から無意識的に体感できてしまうのよ。じぶんで編みだすまでもなく。とにかく、時間などて掴みどころのないものは、無から着想するなど、断じて有りえないわけなわけ。これで、物理学の四次元空間の概念て、意識の物理的な存在様相のなかに元もと具わりていつのでR、ということになるよ。めでたし、めでたしだ」
「なるほど」
観念は根本的に無形
「ここで話は少しずれるけれど」青葉が言いつ。「観念には形はない、と言えるよ。観念は形という実体的なものとは関わりないのよ。視覚というのは外界の姿形を認知するためのものなので、たまたま視覚に幾何学性は不可欠なりきのだけれど、原則、そのほかの観念に幾何学性は必要ないのよ。まあ、触覚とか体感などの観念にも幾何学性は具わりてはいるけどね。
いずれにしても、意識に構成される観念には、基本的に形はないわけなわけ。なんか妙なものなのよ、観念て。音や音楽も、元もと無形でありて、意識に認知されるときも無形のなんか妙な抽象観念としてしばらく保持されるだけだしね。その他の抽象観念もほぼ無形だしね。それらのなかに視覚的なものや物質的なものが含まれていれば、それらについての視覚的なイメジなら少しは形成されるにしても。
意識て無数の機能状態で構成される波動でありて、観念て、そういう柔らかなものの中ににょろにょろ形成されるのよ、なんか妙な超越的な仕組みによりて。不思議なことに。
つまり、観念や思考に形はないということだよ。精神的な動作とは、肉体的な動作とは異なり、意識上で遂行されるものであり、物質性や幾何学性は必要ないのよ。動物やあたしたちの眼が覚めた時点で統合的な主観の意識はもうアクティヴになりてしまうので、あとは、観念や思考に関わりある全てのニューロンがアクティヴになれば、それでもう観念や思考は構成されて意識に意識されてしまうのよ。関わりあるニューロンの、意識のなかでの幾何学的な位置はまるきり問題ではないのよ。
これが、まあ、これまで、あたしたちが、精神や観念というものにつき暗黙的に抱いていしイメジのはずだけど。無意識的には誰もが知りているのよ、精神動作は意識のなかにおいてのみ遂行されるものであり、形は具えていないということを。
だから、生物の精神活動て、基本的には、0と1の二進数を基本とする、無数の物理事象認知動作で構成されている、と推測できるのよ。巨視的なものではあるが、物理事象の発生を認知できるということ、すなわち、クワリアと感覚を感じられるようになることが、精神活動の開始点なのよ。長期記憶とか、思考判断とか、欲求とか、情動とか、苦楽とか、善悪とか、損得とか、主観などというような上等な機能は、ずっと後になりて貼りつきしものなわけ」
脳と集積回路
「ちなみに、また」青葉が言いつ。「動物の主観の意識について言えば、脳と主観は一心同体であり、脳が主観そのものなのよ。主観は脳という生体物質そのものであり、脳の姿が主観の姿ということなわけ。ただ、脳のなかには、主観の形成に関与してない部分も少なくない筈なので、ほんとは、脳の全体が主観の姿というわけでもないけどね。
意識て不可視の波動でありて、見るというのも変な話だけど、でも、どうしても姿と言うのであれば、波動関数が崩壊して状態群が収束せしあとの脳の姿が、おおよそは、主観の姿なのよ。
脳の機能て、体全体を制御するための観念処理であり、配下の波動群がそれをきちんと処理できてさえいれば、それでいいので、姿形のことは実質どうでもいいのだけれど、それでも、意識といえども物質のなかに創発する他はないので、それで、主観の意識は結果的に脳の姿になりぬ、ということなのよ。
意識ないし脳と集積回路の類似点は、このあたりにあると思われるのよ。脳というハードゥウェアァの内部では観念処理が遂行されるのに対して、コムピュータァやDSP(Digital Signal Processor)やFPGA(Field-Programmable Gate Array 集積回路の一種)の内部では情報処理が遂行される。情報は、ひろい意味では観念の一種でありて、情報も、観念も、原理的に物質である必要はないけれど、それでも、この物質世界にありては物質として処理される他はないので、それで、それぞれの処理装置として、脳と集積回路というものが実装されつのよ。
くどいけど、神経細胞や神経や脳て、なかなかレヴェルのたかい発明品なのよ。こげな、まさに情報や観念をあつかう物質が、物質により形成されつなど、えらい驚くべきことなのよ。
脳のなかでは無数のニューロンにより複雑怪奇で大規模なニューロン網が構築されている。集積回路のなかでは記憶素子や論理ゲイトゥによりて大規模な論理回路が構築されている。そして、脳のなかではニューロン間での電圧・電流・神経伝達物質のやりとりが観念処理を担いているのに対し、集積回路のなかでは電線をとおしての素子間での電圧・電子の流れが情報処理を担いている。それぞれの内部で処理を担うものがきちんと遣りとりされてさえいれば、それで全体の処理は円滑に遂行されるので、それで装置の姿形はすこしも問題にはならないわけなのよ。
その結果、どちらも内部的に眼にみえない状態で観念処理が遂行されているという点で、コムピュータァや集積回路や通信ネトゥワークにも意識が発生しうるかも知んないという期待が、無意識的に生まれつかも知んない。とにかく、処理の基本構造はけっこう似ているからね。
細胞や脳では、さらに、検出機能の創発がおきて、認知能力が発生しているのに対し、生物ではない電子機器では認知能力は決して創発しえないという点で、両者の違いは決定的なのだけれど。
マシーンやただの物質は、意識的な経験は決して持てない。物質にも、当然、波動の内部空間はあるけれど、そこに認知主体となる意識は創発しないのよ。物質のなかには即座に完了する無味乾燥な検出機能があるばかりなのよ。
さまざまな機械やコムピュータァ プロウグラムの動作て、人間のアクティヴな意識のなかに構成される観念により事前にプロウグラムされるものであり、機械て、プロウグラムされし処理をただ機械的に実行するだけのものなのよ。マシーンに、観念は決して発生しないわけ。
たとえば、色は機械には決して理解できないし、0や1や実数や複素数などの数の概念も理解できないし、文字や言葉の意味も理解できないし、林檎や蜜柑や物品や物質も理解できないのよ。クワリアを感じられることが、理解の基本なのだから。
物質やマシーンて、意識や認知能力は発生していず、認知主体になりてはおらず、心なく、意識的な経験を持つことはありえない。また、地球上に、どないに高度で高性能のコムピュータァや集積回路やFPGAや通信ネトゥワークが稼動しているにせよ、そこに理解と知能は発生していない。物質やマシーンにあるのは、機械的で無味乾燥な物質基本機能と性質だけなわけ」
「ほんとにそうなの?」絵理が言いつ。
「残念ながら、そうなのかも知んないのよ。なんとなく、夢が破れつというような事になるので、とても残念なのだけど」
「うん、ほんとに残念だよ」
「うん。物理事象の発生を、物理的に検出するだけでなく、精神的にも知るという精神的な事象が生じるためには、物質基本機能と性質が時間の流れのなかにおき可変的な持続性つまり残響を獲得することが欠かせないのよ。
物理事象の発生を、知る、または認知する、というのは、物理事象の発生に起因して生じる自分のエナァジ状態の変化の検出結果が間延びして、納豆のように糸を引いて、それが統合波動のなかで短期記憶とクウェイルの発生になる、ということなのよ。なにかに気づくまたは理解するというのは、なにかについての短期記憶とクウェイルが統合波動のなかにリアルタイムに発生する、ということの、ことなわけ。
この宇宙という物質世界では、波動の検出機能による検出結果が残響性を獲得していない、ただの物質に、観念は芽ばえないのよ。観念は、巨視的な統合波動たる意識にしか感じられないのよ。思考力や知能は、生物の統合波動を構成する物質群にしか生じないわけ。
だから、短期記憶が発生することや、クワリアを感じられること、要するに感覚が、意識の本質と言えるよ。なにしろ、感覚を感知できないことには、自分の体や外部世界の存在にまるきり気づけないのだから。じぶんの体に生じる物理事象ひいてはエナァジ状態の変化を物理的に検出せしことを、クワリアを通して精神的に認知することが、意識の本質なのよ。だから、人間て、いろいろな事を知りたがるわけ。というわけでもないかも知んないけどね」
自由意志:意識は付随現象
「じゃあさ」絵理が言いつ。「このへんで大事な問題に移りたいと思う」
「大事な問題?」青葉が言いつ。
「もちろん、自由意志のことだよ、青葉。自由意志て、どこから出てくるわけなわけ?」
「うん」
「まあ、青葉は、自由意志はない、という立場をとりているかも知んないけどね」
「そこがつらいのよ。自由意志があると考えたいのだから。痛し痒しなのよ」
「《痛し痒しも瘡にこそよれ》」セァラが言いつ。「青葉は、町の物質研究家として、絶対に、物質の立場に立たなければいけないのよ。それは定めなのよ」
「あたしは、とつおいつなのよ」
「おお?」
「あっちを取れば、こっちが立たず、こっちを取れば、あっちが立たず。あたしは、板挟みの、キャチ トゥウェンティトゥー(Catch-22)なのよ」
「まあ、好きにすればいいけどね」
「うん、好きにするよ」
「じゃあ、青葉、意識には自由意志がないてことらしいけど、早速その理由を説明してもらおうじゃないの」
「まあ、どうしても納得したいなら、説明しないでもないけどね」
「いやいや、不備と欠点をいっぱい見つけてあげるのよ」
「有りがたいこって。でも、物質研究家としては、どちらでもいいのよ、あたし、実は。どっちであろうと、受けいれるだけなのよ。現実にも変わりは一切ないし。現に、あたしたち、自由意志がないのに、じぶんの意志で行動していると思いているよ。それで構わないのよ」
「それで、理由は?」
「つまり、いままで色いろ言うたけど、それらをつぶさに精査すると、意識に自由意志がないてことの根拠がいっぱい挙がるのよ。そう結論づける他はなくなるのよ。是非もなく。
て言うか、実は、おおよそ現状で判明していることから判断すると、自由意志というものはないと、今のところは考えられる、ということになる蓋然性がとても高い、というくらいでしかないけどね。実はまだ断定はできないのよ。物理学的に見てさえ、まだ可能性はあるかも知んないのよ」
「ほう」
「あと、この世の徹底的な偶然性と不確実性のことは、まだ言うてはいない気がするけれど、これらについては必要におうじて明らかにさせてもらうことにするよ。これらの他に、蓋然性ていうものもあるけれど、蓋然性て、なんらかの事象の起こりやすさ・可能性の度合い・発生確率などのことなので、ちょっと難しいのよ。分布とか統計とかが関わりてくるから。それで、もしも構わなければ、偶然というものについての試験的な分類も披露させてもらうよ」
「まあ、慌てなくていいよ。ひとつずつ説明すればいいよ」
「うん。じゃあ、一つめの根拠」青葉が言いつ。「一つめの根拠て、主観の意識が脳の状態に付随する従属的な現象であることなのよ」
「ふむ?」絵理が言いつ。
「医学や脳神経学などでの臨床経験や研究成果から、主観の状態が、脳の状態に付随していること、脳の状態を忠実に反映していることは、もう、明らかなのよ。脳の詳細な機能地図さえ作成されているよ」
「ああ、そうなわけ?」
「うん、そうだよ。具体的なことを言えば、貧血や、頭の怪我や事故、脳の病気、痴呆症、薬物などが、あるよ。意識に対するこれらの影響て、もう見間違えようのないものなのよ。病気と言えば、脳梗塞・脳溢血・脳血栓・脳腫瘍などがあるよ。薬物なら、神経伝達物質・麻薬・覚醒剤・向精神薬・マリワナ・茸・アルコホル・ニコティーンなどがあるよ。精神に作用する薬物て、恐ろしいのよ。悪意でもて使えば、人間を簡単にヘロヘロにしてしまえるのよ、廃人にしてしまえるのよ。殺すことだて簡単にできるのよ」
「それで?」
「つまり、誰もが、みな、じぶんの意識が、物質としての脳の状態を反映するものだということ、つまり、じぶんの意識そのものには恐らく自由意志は具わりてはいないだろうことを、暗黙的には知りている、ということだよ。主観の意識が脳の動きに随伴する受動的な物理現象にすぎないことて、ほぼ明らかなのよ。逆ではないのよ。すると、そういうものに自由意志が具わりているなど、有りえないことになるよ。受動的な物理現象にすぎないからね。脳の写像物、または影だから」
「そうかな? 能動性を持ちえないことは証明されているわけ?」
「ええ? 能動性?」
「自由意志て能動性のことだよ」
「まあ、そうかもね。でも、今は、その能動性すなわち自由意志の是非につき話しているのよ。能動性が不可能であることを論証しているのよ」
「そうなんだ?」
「そうだよ。脳神経学などの研究により、自由意志と自由な能動性が不可能であることが、実証されつ、とまでは、言えないかも知んないけどね」
「そうだよ」
「でも、ほぼ間違いないのよ。自由意志て分が悪いのよ。とても悪いのよ」
「じゃあ、主観いがいの意識はどうなわけ? 微生物にも自由意志は具わりてはいないわけ?」
「微生物や細胞については、ここでは決められないよ」
「じゃあ、いまの話は不完全ということになるよ。とても信用できないよ」
「うん、まあ、あたしとしても、微生物や細胞のレヴェルにこそ、自由意志の可能性があるのではないかと、期待はしてるんだけど。でも、とても解明できないのよ、今のところは、まだね。精神性のエミュレイションに深く関わることだから。でも、微生物や細胞が、物質性と精神性が出会う最前線なのは、間違いないのよ。ここには大いに期待が持てるのよ」
「うむ」
自由意志:夢
「ところでさ」青葉が言いつ。「自由意志にかんしては、夢のこともあるよ」
「夢? ほう」セァラが言いつ。
「夢て、ほぼ、既存の観念が組みあわされて合成されし新規の精神的秩序だけれど、あたしたちの主観の意識て、その形成にはほとんど関与してはいないのよ。夢て、脳のなかの、夢の形成に関わりているニューロン群の物質的な動きによりて、ほぼ自動的に形成されるのよ。そして、主観て、そのニューロン群の発火を、クワリアを経由して、受動的にモニタァし、それらの発火が暗黙的かつ潜在的に主張している観念的な意味を、精神的に解釈し、鑑賞しているだけなのよ」
「ああ、そうだけね?」
「多分、そうだよ」
「でもさ、夢の内容や進行に、自分の意志ですこし介入できることもあるじゃん。これなどは、主観の意識の能動性つまり自由意志と考えてもいいのではないの?」
「うん、まあ、そうとも言えるけどね。でも、その意志も、公平な観点から謙虚に評価してみると、主観の発生に関わりている部分でのニューロン発火によりて自動的かつ物質的に醸しだされるのであろう、と推測されるのよ。夢うつつの状態であろうともね」
「へーえ、そうなんだ?」
「たぶん、恐らくね。たぶん、夢見の最中に、どこかのニューロン群に、なんでか知んないけれど、恐らく何らかの偶然の要素が働くかも知んないけれど、すこし夢をこっちの方向に動かしてみようかな、という意向が芽生えるかも知んないよ。それは、まあ、自由意志のようなものとも言えるけど、その実相は、ニューロン群の物質のなかに、そういう巨視的な意向をもたらす物理的な動きが偶然かつ自動的に生じる、というふうに解釈されるのよ。だから、やはり、自由意志によると言うより、根本的には、物質の微視的で偶然的な動きによりて夢が干渉を受ける、と思われるよ」
「じゃあ、夢のことからも、自由意志の見込みは薄くなるわけだ?」
「そうかもね。夢という極めて観念性の高いものでさえ、主観ぬきに、物質の動きだけにより、形成されているように、見える、ということなのよ。たいへん遺憾なことに」
「いや、はや」
「そして、このように」青葉が言いつ。「夢がおかれている状況をつぶさに検討せし結果、そのお負けとして、副次的に、次のような驚くべき事実も明らかになるよ。すなわち、新規の精神的秩序、すなわち、新規の観念、つまり、新規の思考、ひいては、観念の新規性、たとえば、新しい着想や発明の新規性て、なんと、物質の動きだけにより齎されうるのでR、ということで、R」
「ええ? どういうこと?」絵理が言いつ。
「つまり、精神的な自由意志というものはないにせよ、それでも、なんらかの自由意志のようなものが仮にあるとすりゃ、それは、ニューロン網という生きている物質のなかに潜みているだろう、ということなのよ。ひいては、そもそも、微生物や単細胞生物などの原初の生物の、生きている物質のなかに潜みているだろう、ということだよ」
「ええ? なんでそげな事がはっきりと言えるわけ?」
「て言うか、夢のことを思えば、ほとんど明白と思うけどね、あたしなど」
「そうかな?」
「そうだよ」
「なんで?」
「そうね……、夢て、あたしたちの主観の意識が自分で創りだしているわけではないからね。そして、夢て、観念的なものなのよ。そして、観念て、感覚的なものを除外して、思考によりて齎されると、自由意志主義者には一般に考えられているよ。すると、夢見も、精神的な動作でありて、ひろい意味では思考の一種と見なされないでもないのよ。
ここで、普通、あたしたちて、毎日、だいたい同じようなことを考えているのでありて、特許のような新規性てそれほど帯びてはいないのよ。あたしたち、ニューロン網に形成されている思考パタァンにより、だいたい同じことをほぼ自動的に考えているのよ。ただ、同じようなことだけを考えているとは言うても、そういう考えが脳に形成されるていうのて、それがリアルタイムに形成されるという点では、その直前の、その考えがまだ形成されてない脳の状態と比較して、より高い精神的秩序を脳に齎している、とは言えるけどね」
「ふむ? なにを言いたいわけなわけ?」
「いや、あたしも、いきなりなので、簡潔には言えないよ」
「うむ」
「しかも、夢て、新規性に乏しい普通の思考にくらべて、はるかに新規性が強いのよ。夢の状況とか展開とかを評価すると、ほとんど完全に新規の観念の塊と言うても、決して過言ではないのよ。これくらい、夢の新規性はたかく、夢見の秩序形成力て強力なのだと言わざるを得ないのよ」
「それで?」
「それで、ここから逆算すると、これほど高い新規性と物語性と強大な精神的秩序を帯びている夢でさえ、ニューロン網という物質により偶然かつ自動的に齎されるのであるからして、新規性と秩序のよわい普通の思考であれば、物質により、もっと容易に形成されるに違いないだろうことが、強く推測されるのよ」
「なにを言いたいの?」
「そうね、まだ整理ができてはいないので、あたしにもよくは分かんないけれど、新規の観念や物語て、なんと、驚くべきことに、物質の動きだけにより形成されうる、ということかもね。精神的な、伝統的な意味での自由意志のオズは低いにしても、巨視的には自由意志と感じられるものが物質の動きのなかには間違いなく存在しているように、推測されるのよ。それを、疑似自由意志とか物質的自由意志とよべば、区別しやすいかもね」
「そげなものが本当に存在していると信じているわけ?」
「信じているわけではないのよね。これは、真摯な物理主義者による、客観的な考察をとおしての、確度のたかい推測なのよ」
「なるほど」
「すこし話はずれるかも知んないけれど」セァラが言いつ。「新規性ていうと、既存のものを組みあわせるだけで簡単に得られるのではないの? 夢がそうだよ」
「なにを言いたいわけ、セァラ?」絵理が言いつ。
「いや、だから、新規性て、根本的には、ニューロン網という物質の動きにより偶然かつ自動的に齎されるということだけど、観点を変えると、複数の既存の観念が組みあわせられるということが、新規性の発現の大きな特徴になりていることも、判明するのよ」
「ああ、それはその通りかもね」
「うん。そして、このことて、べつに夢だけには限らないのよ。あたしたちが目覚めている時でさえ、既存のものを組みあわせるだけで新しいものを生みだすことができる、という話だよ」
「ああ、そういうことなんだ?」
「まあね。だから、新しいことを思いつく人て、こういうことを結構やりているかも知んないね。発明や特許はどうかは分かんないけれど」
「なるほど」
「そして、ここから話をさらに発展させるとすると、組みあわせ程度で得られる新規性でなく、完全に新しいものの着想や発生ということも、視野に入りてくるのよ」
「ああ、そういうこと」青葉が言いつ。
「そうだよ。完全に新しい物や観念を形成するということだよ。完全に新しい物質も含まれるかも知んないね。実用新案や発明や特許も含まれるかも。だから、完全に新しいものは如何にして得られるか、という問いが、ありうるのよ。そもそも、完全に新しいものが本当に生みだされているか、という問いもあるよ。そもそも、新しいとは、どういうことなのか、という根源的かつ哲学的な問いもあるよ」
「ああ、なるほど。その通りだよ。それにしても、新しいて、どういうことを言うのかな?」
「簡単には答えられないかもね」
「そうね。でも、新しいて、なんとなく、普通には、相対的な意味で使われるかも知んないね。この地域では確かに新しい考えだけれど、でも、べつの場所やよその国ではもうその組みあわせが考えられて実用に供されてしまいているとかね」
「そうね。それで、単なる組みあわせでは得られない完全に新しい事物のことも視野に入りてくるのよ。どうすれば完全に新規のものを生みだせるか?」
「うん、それは分かるけどさ、でも、今はまだ答えは出せないよ、きっと。まだ準備が足りてない気がするよ。それに、完全に新規のものて、着想だけでなく、生物の進化にも深い関わりのある気がするよ、あたし」
「ええ? 進化?」
「うん。人間の着想は巨視的なものだけど、生物の進化は根源的なものだから、進化における新規性こそが、新しさの原点なのではないか、という気がするな」
「ほう」
「究明するには、まだまだ準備が足りないけれどもね」
「ああ、そう」
自由意志:意識は物理現象
「じゃあ、つぎは」青葉が言いつ。「懸案の物理現象のことにつき言うよ」
「物理現象て懸案なわけ?」セァラが言いつ。
「すべての意識は物理現象なのよ」
「それは知らなかりき」
「意識て、散逸構造の効果として出現する物理的な秩序なのよ。巨視的で軟質の統合機能波動というダイナミクな秩序でありて、巨視的な物理現象なのよ」
「そげなことが根拠になるわけ?」
「そうだよ。て言うか、そういう難しいことは言わず、意識が物理現象であることだけで、もう十分なのよ」
「へーえ」
「物理現象て、なんらかの相互作用の結果として発生する、徹底的に受動的なものなのよ。そして、意識が自由意志を持つていうのて、意識が、物理現象たる自分の波動を、なにか摩訶不思議な方法により変化させられるということを、意味しているのよ。
たとえば、風が自由意志を持つて、風が、じぶんの意志力か念力か魔法で、物理現象たる自分のダイナミクなエナァジ状態を変えられることを、意味するのよ。そして、その結果として、じぶん以外の他のものに影響を及ぼすことができるようになるのよ」
「ほう」
「だけれど、そもそも、物理現象がじぶんの都合で自分のエナァジ状態を変化させるなど、有りえないのよ。なぜって、物理現象て、物理法則ないし物質機能または物理性質にしたがい、なんらかの原因により受動的に発生し、完全に自然かつ自動的に変化するだけのものだから。
すなわち、物理現象が能動性を獲得するなど逆立ちしてもできないことであり、自由意志など有りえないのでR。まる」
「へーえ。それでもう自由意志がないてことになるわけ?」
「そうだよ」
「いやいや、どこかに穴があるのに違いないよ。これは慎重に精査してみないといけないよ」
自由意志:量子階層構造
「ほかにもあるの?」絵理が言いつ。
「うん、あるよ」青葉が言いつ。
「どげな?」
「うん、通信の問題があるのよ」
「ええ? 通信の問題?」
「うん、そうだよ。物質とその機能波動て、存在としては完全に一つなのよ。他方、創発により出現する上位の機能波動と、その構成要素たる下位の機能波動群て、根底の量子は一つでありつつ、異なる量子レイヤァに存在する別べつのものとして、同じ空間で重なりていると思われるのよ。なにしろ、上位の存在て、元もとは存在しなかりきのに、創発により、下位の存在群から出現するのだから。水の分子と、構成要素の水素原子や酸素原子のように」
「うむ」
「物理現象がじぶんの意向で自分のエナァジ状態を変化させるなど有りえないことは、さきほどの話で判明しつけれど、それは少し脇に置いといて、ここで、水の分子が自分の意向で自分のエナァジ状態を変えることができつ、と仮定してみるとする。すると、今度は、その変化を、いかにして水素原子や酸素原子のレイヤァに伝達するかが課題になるのよ。じぶんの変化を伝達し、下位の構成要素群のエナァジ状態を変更できることが、巨視的な自由意志の要件の一つなのだから。
すると、このへんで、量子階層構造の造りのことが気になりてくるけれど、上位層の変化を下位層に伝達できる通信経路て、いっさい組みこまれていないと思われるのよ。より心ないことを言うようだけれど、一般に、量子階層構造における各レイヤァのあいだのコミューニケイションを可能とする全二重通信(Full Duplex)て、実装されてはいないのよ、この宇宙という物理世界では。上から下への、あるいは、下から上への、単方向通信(Simplex)すらもが、敷かれていないのよ。
すると、こういう詮方ない事情からしても、仮にどこかの層に自由意志が発生できつとしても、その意志の意図を他のレイヤァに伝える方法がないので、事実上、その自由意志は実効性は帯びれない、そして、発生しつとは認められないことが、憶測される、ということになるわけなわけ」
「へーえ、そうなんだ? そげな愚かなことなど誰も考えないよ」
「でも、量子階層構造のことでは、ほかにもあるのよ」
「ほう」
「エナァジ状態の変化が一つのレイヤァだけで単独に発生するなど有りえない、ということだよ。エナァジ状態の変化て、基本相互作用に起因して発生するけれど、発生するときは、重なりている全てのレイヤァにおき同時に発生するのよ。
また、エナァジ状態の変化て、かならず、ゲイジ粒子の無尽蔵の放送と交換による相互作用の発生という外部的な原因により発生するのでありて、量子階層構造のがわで自発的にエナァジ状態を変化させ、そのことで逆向きに基本相互作用を発生させるなどていうことは、本末転倒になるのよ。
要するに、物質の根底にての物理的な通信て、基本相互作用のがわから、量子階層構造の各レイヤァへの、ブロードゥキャストゥ形式の単方向通信だけが開かれているのよ」
「ああ、そうなりきかね」
自由意志:物質の徹底的な受動性
「つぎの根拠はなに?」セァラが言いつ。
「うん、つぎは、物質の、外部世界との関係における徹底的な受動性が、自由意志が存在しないことの根拠になるのよ」
「あれ? 受動性のことて、さっき言うたのではなかりきの?」
「うん、まあ、さきほども申しあげつかも知んないけれど、あれて、意識が、物理現象であり、その帰結として受動的なものであることを、軸にせし、状況説明のようなものなのよ。ブリーフィンのようなものなりきのよ」
「ほう」
「うん。そして、もう少し詳しくご説明させていただきますとしますと、こういうことになるのよ。
すなわち、物質て、じぶんの内部空間からのお節介な無尽蔵のゲイジ粒子の放送と交換に起因する基本相互作用に巻きこまれることで、初めて、他律的に動きを齎されるのでありて、単独では徹底的に受動的なものなのよ。
物質の内部空間での物理事象については、ここではまだ問わなく、物質が、対外的には徹底的に受動的なものだというのは、物理の本質なのよ」
「うむ」
「すると、こういう物質を元にして創発する意識という物質に、自分から能動的にうごける機能が新たに具わるて、とても考えにくいことなのよ。とにかく、物質なのなら、ニュートン先生の運動の法則により、じぶんの波動のエナァジ状態が変化するにせよ、はたまた、宇宙空間での位置が変化するにせよ、そういうことは、外部からの物理的な力を受けないかぎり、決して起こらないからね。いわんや、ゲイジ粒子の自動放送を除外して、接触してない他の物質に物理的な影響を能動的に及ぼすことなど、ありえないのよ。
そして、ゲイジ粒子の交換による相互作用て、完全に物理学の枠内にあるのよ。そこに自由意志などて都合のいいものが介入できる可能性は、絶無なわけなのよ」
「でもさ、自分のことだから、動けてもいい気がするけどね」
「まあね。それで、ここで、自由意志が問題になりているのよ」
「まあ、そうかもね」
「まあね。そして、生物の物質が精神体に昇格しているとは言うても、本体は巨視的な統合波動なので、ほかの物質とエナァジなどの交換をしないかぎり、他律的な変化を受けることが決してなくて、かつ、他人様に影響を及ぼすこともできず、ただ減衰してゆくばかりなのよ。そして、減衰しきりてしまえば、エントゥロピの極大に達し、散逸構造と創発が消滅し、命が終了して、構成要素の物質群のただの烏合の衆に戻りてしまうのよ。
だから、もう、この、物質の対外的な徹底的な受動性のことだけで、意識に自由意志がないことが確定してしまうくらいなのよ。なぜって、他人様に影響を及ぼせないからね。これが、現状での、本命の理由なわけなわけ」
「ああ、そうなんだ。でも、いまだに信じらんないけどね、自分に自由意志がないなんて」
「つらいところだよ」
「でもさ」絵理が言いつ。「念力や超能力の可能性はまだ残りているのよね? 量子の内部空間て、一種、超越的な世界だから」
「ああ、そうだよ」セァラが言いつ。「量子のトゥランセンデントゥな内部空間だけで通用するような、あたらしい物理法則でも発見されればいいのよ」
「勿論、そうだよ」青葉が言いつ。「そういうのが実証されればいいのよ。そうすりゃ、大歓迎するのよ。なにしろ、ここが、念力の実現可能性の最前線だから」
「そうだよ」
「でも、あたらしい物理法則を導入するほどのことでなく、それ以前に、たんに、自由意志の決定的な根拠になりうる他の何か物理的なものを、あたしたちが今はまだ見落としているだけ、という可能性もないわけではないのよね」
「見込みはほとんどないけどね」
「うん。今はまだ難しいかもね。ただ、そういう可能性も、実を言うと、まるきりないというわけでもないのよ」
「へーえ、それは結構だけど、どんな?」
「うん、これまでは実は量子の対外的な状況に注目して検討してきつのだけれど、量子て、じつは、物質プロセスであり、内部的には自律的に動きつづけているのよ。そして、このことは、意識というコンシャソクワンタムにおいても同じなわけなのよ」
「ああ、そういうのもありきのだ?」
「うん、ありきのよ。そして、この、自律的に動いているという部分に、まだ可能性が残されているような気はするのよ。ただ、まだ、量子の内部的な動きにもとづき自由意志の是非を検討するのは時期尚早かも知んなくて、その前に色いろと明らかにしておかないといけないことがありそうなのよ」
「ああ、そうなんだ?」
「だからこれは次の機会のお楽しみということになるよ」
「了解」
自由意志:準備電位
「じゃあ、もう」絵理が言いつ。「自由意志なしの根拠はこれくらいになるんじゃないの? これだけあればもう十分だよ。勘弁してほしい」
「いいんや、勘弁できまへん」青葉が言いつ。「自由意志が存在しないことには、できるかぎり止どめを刺すのよ、いまの段階では」
「なんで、また?」
「それは、もう、後あとケチをつけられそうな部分は徹底的に洗いだし、自分で潰してしまいておく、ということなのよ。それが自然科学の遣りかたなのよ。つらいのよ、あたしは、だから」
「じゃあ、御託はいいから、さっさと話してしまえばいいじゃん」セァラが言いつ。
「うん、言うよ。すなわち、駄目押しの根拠として、米国のベンジャミン リベトゥ先生(Benjamin Libet)が確認せし準備電位(readiness potential)のことがあるよ。動作開始の二三百ミリ秒前に、もう、その動作についての準備電位が立ちあがり始める、という話。まえにも話しつけれどもね」
「ああ、あの話」
「うん、あの話。『見たぞ。あたしの許しも得ずに勝手にあたしの体を動かそうとしつな? とうとう尻尾を掴んだぞ。許さんぞ』ていう話。自分ではまだ体を動かす動作をしていないのに、体が勝手に動きだしてしまうのよ、あたしの場合。なんでか知んないけれど、動作が先走りしてしまうわけ。もう、しょっちゅうなのよ。気持ちがもうついていけないくらいなのよ。眼がくらみてしまうのよ。と言いますか、その実態は、あたしの自覚がえらいとろいていう話なのだけど」
「ふふん」
「準備電位のことをどう考えるかは、人それぞれだけど。まあ、好きに解釈していいんだけど」
「でも、準備電位の現象をごく冷静に評価してみると、あたしたちの動作についてのあらゆる前処理とその実施命令は、実際には、物質である脳のニューロン網で遂行されている、と推測されるのではないの?」
「うん、その通りだよ。だから、準備電位のことて、意識がモニタァないし解釈者でしかないことの強い証拠になるのよ。いやいや、意識が体の動きに関与しているか否かは、ここでは判断できないけれど、少なくとも、モニタァや解釈者の機能は果たしているのよ。そして、意識に自由意志が具わりていないことを裏づける証拠にもなるよ。十分ではないかも知んないけどね」
「脳の意識については、そうかも知んないね。でもさ、原初の意識である微生物や細胞の意識もあっじゃん。準備電位のことて、細胞の意識にたいしては簡単には適用できない気がするけどね」
「ああ、それはそうだよ」
「だから、細胞レヴェルの自由意志はまだ完全には否定されてはいないことになるよ。あたしは思うけど、微生物や細胞の原初の意識と、脳や器官の複合意識て、扱いを別にするほうがいいのよ、恐らく」
「ああ、そうだよ。それも一理あるよ」
自由意志に関係している理論群
「で、ほかの解釈はできないの?」絵理が言いつ。
「絵理はどう解釈するわけ?」セァラが言いつ。
「うーん、ほかの解釈など、すぐには思い浮かばないよ」
「うん。じゃあ、青葉、参考までに訊くけれど、自由意志て、通説ではどういう風に考えられているわけ?」
「うん」青葉が言いつ。「まず、心身相互作用説(Psycho-physical interactionism)というものがあるよ。心的なものと物的なものが別べつのものであり、そして、相互に作用ができる、という考えかただよ。そして、たがいに作用ができるので、意識に無理強いされて、脳という物質が、場合によりては物理法則に違反する動きをすることができる、とする考えかたらしいのよ。これて、心と物質の二元論なので、これだけでもう受けいれられないけれど、相互作用の部分はまだ完全には否定ができないみたいなのよ。精神と物質の相互作用て、えらい難しい問題なのよ。なにしろ物理法則に違反する可能性があるからね」
「ふーん」
「つぎに、同じような考えとして、心身並行説(Psycho-physical parallelism)というのもあるよ。これも、心的なものと物的なものが別べつのものであるとする二元論だけど、両者の動きは並行して推移しており、かつ、心的なものは物的なものに作用を及ぼさない、とする考えらしいのよ」
「それて、さっきの付随現象のことなわけ?」セァラが言いつ。
「うん、かなり似ているよ。だけど、心身並行説では、心的なものて、物的なものに完全に付随しているわけでなく、心的なもの独自に生じる動きもある、と想定されているようなのよ。ただ、そげな動きがほんとにあるのかどうかは分かんないよ。ここの所に説得力はあまりないようなのよ」
「うん」
「そして、もう一つ、同様な考えとして、さっきの付随現象のことを言うている随伴現象説(Epiphenomenalism)というのがあるよ」青葉が言いつ。「詳しいことは、もう話してしまいつけれどもね。意識やクワリアは、物質の状態に付随する現象にすぎなく、物質にたいして何の影響力も持たない、というような見方だよ。別言すれば、物質が、意識やクワリアから、なんらかの物理的な影響を受けることは決してない、ということだよ。
これも二元論だけど、物理性を重視している点では、けっこうまともな考えかただよ。ただ、さっきの心身相互作用説や心身並行説だて、ある意味、物理性は重視はしているのよ。
そして、意識が脳の動きに随伴していることて、医学や脳神経学の研究でもう十分裏づけられているのよ。意識に自由意志がないことも、これまでの話でほぼ確定しているし」
「確定している? いやいや、まだ確定しつとは言えないよ」絵理が言いつ。「で、それで?」
「うん、それで、さっき、準備電位をことを言うたけど、これて随伴現象説に関わりあるのよ。
まず、人間におけるあらゆる観念処理は、脳のニューロン網という物質のなかで果たされている。しかし、その詳細は、主観には隠されている。つまり、ニューロン網を構成する脳分たちは主観の創発の構成メムバァではあるのよ。でも、脳分たちの更にその下に位置していて、現場におき観念処理を現実に遂行している、さらに小さな脳分たちやニューロンたちは、主観の創発には参加してはいないのよ。これは、視覚や聴覚などでの前処理と同じだよ。
視覚や聴覚では、眼や耳で実際に受けとる物理刺激にたいして、途轍もない量の前処理が施されているが、主観は、その内容を知ることは決してなくて、ただ処理結果を受領するだけなのよ。
つまり、ほとんどの動作についての観念処理の詳細についてのモニタァ権限は、脳における量子階層構造の最上位に位置する主観には与えられてはいないのよ。生物の動作は、その詳細をいちいち主観に通知することなしに、脳という物質が自主的かつ勝手に果たしてしまうのよ」
「ふむ? なんか分かりにくかりきけど、準備電位はどこに出てきつの?」
「ああ、そう言えば、そうね。そうね、準備電位て、観念処理の最前線の現場である下位の小さな脳分たちやニューロンたちが現実に活動しはじめるときに立ちあがり始めるはずなのよ。そして、その二三百ミリ秒後、観念処理が終了し、その結果をうけて、具体的な身体動作が現実に実施されるころ、ようやく、主観がそれに気づくのよ」
「ああ、そういうこと?」
「うん、そう。すると、こういうことなら、あたしの自覚がいつも蛍光灯や昼行灯になりているにせよ、別に不思議はないのよね。そもそも、体を動かそうとするのて、あたしではないのだから。そして、体を動かすことをこれから検討するという通知があたしに伝達されることもないのだから。あたしのせいではないのよ」
「うむ」
「ただ、問題があり、なら意識など不要ではないか、という問いが有りうるのよ。でも、意識など、そもそも錯覚の塊であり、じぶんがお負けであり余計者である可能性のあることには丸きり気づかず元気に生きているのよ。じゃあ、よしんば超高級なモニタァないし解釈者でしかないにせよ、そのまま元気に生かしてやりゃあいいじゃん、ていうことに、なるのよ」
「なるほど」
「そのうえ、生物という巨視的な物質については能動性の問題があるので、意識を、たんなる受動的な影と見なして単純に無視してしまうこともできないのよ。意識での思考の結果として、自由意志により体が動かされている可能性があるからね。と言いますか、ほぼ全ての人間が、じぶんの自由意志でものを考え、かつ、体を動かしている、と思いているはずだから」
「うむ」
「つぎに、汎心論(Panpsychism)ていうのがあるよ」青葉が言いつ。「精神を論じるまえに、すべての物質のなかにもう心的なものが具わりている、とする考えかただよ。例えば、アニミズムて、すべての物のなかに精霊や霊魂が宿りているとする物の見方だけど、これも汎心論の一つらしいのよ。ただ、こういう極端な世界観て、信仰のようなものなので、除外する他はないけどね。そして、汎心論て、一般に、物質のなかに心的なものが具わりている、とは言うけれど、心そのものが具わりている、とまでは言わないようなのよ。と言いますか、物質のなかにもう心が具わりている、と見る汎心論も、実はあるかも知んないな。あたしには分かんないよ。そして、こういう世界観て、一見、たわ言のように見えるけど、ある意味、いい所を衝いているのよ」
「どうして?」セァラが言いつ。
「うん、つまり、物質のなかにもう心的なものが具わりているとするなら、それが意識ないし精神に昇格できる可能性が出てくるからなのよ。とにかく、精神という不思議なものが、物質の進化の途中でいきなり発生するていうのて、とても考えにくいことだから。むしろ、生物に意識という摩訶不思議なものが発生しているとすりゃ、原初の物質の段階で、もう、そこには、生物に意識ないし精神を齎しうるものが含まれていなければいけないと、思われるのよ」
「なるほど。そう言えば、物質基本機能のなかには観念的な機能が二つありきけど、あれらが心的なものに当たるわけ?」
「その通りだよ。エナァジ状態検出機能と次期状態演算機能て、観念的な機能でありて、別言すれば、心的な機能と言えるのよ。なので、物質のなかにもう心的なものが具わりているとする考えかたて、あたしの立場でもあるのよ。なので、この点については、あたしは汎心論に同意できるのよ。
なので、こういう点で、汎心論て、物理主義(physicalism)の欠点を補うものでもあるのよ」
「物理主義の欠点? なんの話?」
「うん、物理主義についてはまだ何も話してないけれど、物理主義には深刻な欠点があるそうなのよ。でも、物理主義に汎心論を足しあわせると、その欠点は解消するらしいのよ。なぜって、物質のなかに心的なものが含まれているんなら、物質のなかに意識が発生できる可能性が、すくなくとも根拠づけられることになるからね。実証できないにしても。そして、意識や精神を物理学の言葉で説明できることになる可能性が出てくるわけなのよ。物理学のスコウプや縄張りが拡張されることになるのよ。
なので、物理主義に限定的な汎心論を足ししものが、あたしの立場かも知んないな。物質基本機能て、暗黙のうちに汎心論を含みていつのよ」
「ふーん」
現象判断のパラドクス
「そして、いまの、物理主義の欠点のことを言うよ」青葉が言いつ。「こういうことなのよ。一種の思考実験だよ。そして、前提があるけれど、それを先ず言うよ。二つあるよ。
一つめは、物理主義には精神が包含されてない、ということだよ。つまり、物理主義にとり、意識や精神が物理的なものでない、ということだよ。そして、物理主義が実質的には暗黙的な二元論である、ということだよ。
そして、二つめが、物理世界において、現象の原因と結果は、物理的なものだけで閉じている、ということだよ。
すると、これらの前提から推論の糸を慎重に先に伸ばすとすると、つぎの結論が得られるよ。すなわち、意識から、脳のニューロン網という物質に、意識の意識的経験についての情報が伝達される、ということは、ありえない。なぜなら、物理主義に意識は暗黙的かつ実質的に含まれてはいないから。物理主義て、意識を無視していて、意識て、物理主義の埒外にあるからね。そのゆえ、ニューロン網は、意識やクワリアのことを知りえず、それらについての考えを抱くこともできない、ことに、なる。さらには、それらの意識的経験に言及する身体的な動作を果たすこともできない、ということになる」
「うむ」絵理が言いつ。「意識的経験に言及する身体的な動作を果たすことができない。ほう。すぐにはイメジが掴めないよ。でーさ、意識の意識的経験て、なんのこと?」
「ああ、意識的経験ね。うん、すこし説明しづらいかもね。理論的には、意識のうちに生じる全ての観念的な動きが意識により知覚されること、を意味するのよ。意識に生じるそういう動きを、ここでは経験と呼びているのよ。たとえば、感覚クワリアが知覚されるとか、思考クワリアが知覚されるとか、のことだよ。思考の過程が知覚されることとか、思考の結果が知覚されることとかね。要するに、意識により経験される全ての精神的な動きのことなのよ。そういう知覚をここでは経験と呼びているのよ」
「ふーん。で、それらの経験についての情報がニューロン網に伝達されることが有りえない、と?」
「うん、そうだよ。意識て、物理主義には含まれてはいないから。と言いますか、そもそも、物理主義には意識が具わりていず、物理主義では意識やクワリアが経験されてはいないから」
「なるほど」
「それで、それの当然の帰結として、脳のニューロン網に、意識やクワリアのことが知られるという事象は生じず、それらにつき考えるという事象も生じないのよ。と言いますか、物理主義には意識が具わりていないので、物理主義におき感知や思考などの精神的な動きが生じるということが、そもそもないのよ」
「ああ、そう」
「ただ、感知や思考などの動作て、ニューロン網の内部で果たされるものであり、眼にみえず、実際に果たされているか否かが判断できないのよね。それで、推論をここでやめてしまうなら、この思考実験には何の意味も生じないのよ」
「へーえ」
「それで、意識やクワリアが内的に意識のなかで経験されていると判断できる身体的な動作が何かないか、と探すのよ。すると、驚くべきことに、ちゃんとあるのよ。そういう意識的経験につき言及する身体的動作をチェクすればいいのよ。話すとか、書くとかね」
「ああ、意識的経験に言及する動作て、意識のうえでの感覚的な動きや思考の動きではなく、これらの観念的な動きが意識に知覚されしことに基づき、これらの動きに言及する身体的動作のことなのだ?」
「うん、そげなところだよ。ご丁寧に説明いただきまして、たいへん有りがたいよ」
「じゃあさ、今のあたしたちのお喋りも、意識の意識的経験に言及する身体的動作に当たるのではないの? これまで、あたしたち、ここで長なが愚にもつかないお喋りをしてきつけれど、こういうお喋りなどが、実は、だれかが内的に精神的な経験を有していることを暗示する動作なのではないの?」
「ああ、そうだよ。その通りだよ。実際、いま、あたしたち、意識につき鳩首密談してるので、あたしたちには、間違いなく、意識が具わり、かつ、意識やクワリアが密かに経験されている、と判断できるのよ。断言できるのよ。
つまり、単なるお喋りでさえ、その当人たちが内的にきわめて高い精神性を内包していることを示唆する高級な行為なのよ。あたしたちのように。または、学者や、評論家や、宗教家や、好事家や、一般の人たちが、心や、精神や、意識につき、研究したり、論文かいたり、著述をしたり、瞑想したり、妄想したりをする、とかね。と申しますか、あたしの予想では、生物のあらゆる動作や行為が、意識の精神性に基づきているはずなのよ。
まず、運動神経を経由する巨視的な動作があるけれど、これらも、すべて、脳での思考つまり情報処理にもとづき発生している筈なのよ。なので、じつは、実際のところ、こういう動作だて、意識の意識的経験に言及する身体的な動作なわけなわけ。
そのうえ、さらに、生体組織や臓器などにおける、交感神経による自律的な動きもあるけれど、これらさえ、それらに固有の意識により制御されている筈なのよ」
「なるほど。そうなりきのか」
「そうだよ。とにかく、意識的経験に言及する動作て、意識やクワリアや思考や情報処理が現実に経験されてないことには、決して起こせないのよ。
そして、ここには、知るや認知するという、具体的な動作を伴わない、精神的な動作て、具体的には、どういうものを指しているか、どこまでのことを意味しているか、という奥の深い問いもあるよ。エナァジ状態の検出結果の残響という短期記録の発生と、クウェイルの発生が、キーなのだけど」
「ふむ? 分かんない」
「でもさ」セァラが言いつ。「自分では経験していなくても、あらかじめそういう情報をたっぷり仕入れ、覚えている、ということも、可能だよね?」
「まあ、そういう可能性も考えられるよ」青葉が言いつ。「でも、そもそも意識なく意識的経験が存在しない世界では、誰にとりても、そういう情報は形成しえないのよ。つまり、そういう情報て、端から存在しえないのよ。それに、仮に、想像力豊かな人が、無から空想で編みだすにしても、意識やクワリアなどていう非物質的で摩訶不思議なものなど、空想では決して編みだせないよ。不可能だよ。幾何学的な三次元空間の概念を無から編みだすことがほぼ不可能であるのと同様に。時間の概念ならね、内省により、ひょっとすれば持てるかも知んないけれど、でも、それでも、難しい、と思う」
「まあ、そういう事になるかもね」
「そうだよ。そして、そういう身体的動作が発生せし時点で、その生物は、間違いなく、意識やクワリアを知覚している、つまり、意識的経験を有している、すなわち、精神生活をちゃんと営みている、と判断されるのよ。あたしたちのように。意識ないロウボトゥやアンドゥロイドゥでない限り」
「で、それで」セァラが言いつ。「物理主義では、意識的経験についての情報がニューロン網にもたらされることが有りえない、ということなわけ?」
「うん、そうだよ」青葉が言いつ。「そして、さらに、もしも、物理主義に意識が存在しなく、それを根本理由として、ニューロン網という物質に意識的経験の情報が伝達されないのであれば、ニューロン網は、その情報にもとづき、意識的経験に言及する動作を起こすことを体に依頼することが、根本的に不可能になるのよ。意識につき話してほしいとか、クワリアにつきメモを書いてほしいとか」
「なるほど」
「そして、思考実験の展開は、ここらへんで止まるのよ」
「へーえ。じゃあ、結果はなんなわけ?」
「うん。暗黙的な二元論である物理主義のように、意識を無視して、生物に意識が具わりていないという態度をとりていると、意識的経験に言及する動作が生物には決して起こらないことに、なるのよ。
それなのに、ひるがえり、この宇宙という物理世界の現実を謙虚に見はるかすなら、ニューロン網て、意識的経験をちゃんと知りていると判断される身体的言動を起こすことを求める依頼を、体にしっかり送りているのよ。そして、そういう言動がからだの各所で現実に実現されるのよ。
つまりね、さきの前提にもとづき、この思考実験の推論を手がたく進めると、パラドクスが生じるわけなわけ。現実とは相反する結果が得られるわけなのよ」
「へーえ、パラドクス。かっこいいじゃん」
「そうだよ。かっこいいのよ。ゆえに、現実に鑑みて、前提条件、つまり、物理主義の暗黙的な立場ないし主張には、誤りあることに、なるのよ」
「ああ、そういう結論なりきのだ? 物理主義には誤りがあるんだ?」
「まあ、そげな感じかな。もう少し穏やかに言えば、現在の物理主義はまだ現実にきちんと準拠していない、ということになるよ」
「ほんとにそうなわけ?」
「いや、まあ、断定まではできないのよね、いまの段階ではね。残念だけど。これは前提にもとづく思考実験でしかないからね。
キィの前提て、意識が物理的なものでない、ということだけど、でも、そもそも、物理的ていうことて、先験的に定義することできないのよ」
「そうだけ?」
「まあ、そのはずなのよ。まず、なにかが物理的なものである、なにかが精神的なものである、という判断て、ふつう、感覚的で経験的なものでしかないのよ。厳密なものでは決してないのよ。そして、一元論や二元論という見方さえ、なんらかの厳密な根拠に基づかないかぎり、感覚的なものでしかないのよ。率直に言えば、大して当てにはできないものなわけ。
そして、そこに何かが存在するよう見えるとして、それが物理学で説明できて、初めて、それが物理的なもの、ということに、なるのよ。
なので、意識が物理的なものでないという前提て、べつに厳密なことを主張しているわけではないわけなのよ。単に、この思考実験を行なうための、仮の前提でしかないのよ」
「ああ、そう」
「ただ、論理の展開に誤りはないのよ。なので、この思考実験そのものは、正しいのよ。有効なわけ」
「ふーん」
「くどいようだけど、まとめて、もう少し分かりやすく言や、次のようにも言えるよ。
すなわち、意識が物理的なものでなく、物理的領域の因果的閉包性ゆえ、意識の意識的経験についての情報が生物の体という物質に伝達されてない状況では、生物の体に、その経験に言及する動作が生じることは、ありえない。もしも生じるんなら、パラドクスである。
または、生物の体に、意識の意識的な経験に言及する動作が生じるためには、その前に、その経験についての情報が生物の体という物質に伝達されていることが、不可欠である。
そして、この命題て、意識が物理的でないという条件のもとでは、論理的に真なのよ。
以上です」
「うむ。真なわけ?」
「うん、あたしは真と思う。条件つきではあるけどね」
「ああ、条件つきで」
「でもさ」絵理が言いつ。「妙なことを考えてっじゃん、青葉」
「あたしじゃないよ。チャーマァズ先生が考えつのよ」青葉が言いつ。
「ああ、そうなんだ? ふーん。でもさ、こげなことを考えて、なんになるわけ?」
「だから、現時点での物理主義が誤りている可能性のあることが明らかになりぬのよ」
「じゃあ、先生て、わざわざ物理主義を批判するため、こげな妙な思考実験を考案しつわけ?」
「さあ、どうかな? 確かに、このへんのことに関わる分野て、さまざまな考えや立場や主義が入り乱れていて、論争と陰謀が渦まいている、とも言えるのよ。恐ろしい世界なのよ。なので、そういうことも必ずしもないとは言えないかも知んないよ。
それでも、関係する様ざまなことにつき真摯に思いを巡らしているうちに、偶然、この理論の原型がふと心に浮きあがりてきつ、という可能性もあるよ。と言いますか、意識の意識的な経験に言及する身体的動作て、意識を物質にリンクすることのできる鍵の現象なのよ。意識と物質の接点なのよ。類稀なる現象なのよ。こういうことが閃きつかも知んないな。そして、それを見逃すことなくキャチしつかも知んないよ、先生は。言わば、セレンディピティ(serendipity)だよ」
「ふーん」
「ちなみに、この思考実験で浮きぼりにされている問題て、因果的排除問題(Causal exclusion problem)とか、現象判断のパラドクス(Paradox of phenomenal judgement)とかて、呼ばれているよ」
「なるほど」
「さらに、この問題は、物理主義だけの問題でなく、さっきの心身並行説や随伴現象説の問題でもあるのよ。この二つはあからさまな二元論だけど」
「ああ、そう」
「ちなみに、また、物理的なものだけで現象の因果が閉じているとする考えて、物理的領域の因果的閉包性(Physical causal closure)て、呼ばれているよ。この考えて、また、どげな物理現象も物理現象のほかには一切の原因をもたない、と表現することもできるよ」
「それて正しいの?」絵理が言いつ。
「そうね」青葉が言いつ。「正しいかどうかは証明できないけれど、間違いないのよ。と申しますか、これが物理主義の基盤の一つなのよ。公理とか公準とかのようなものだよ。要するに、物理主義て、こういうことを原理とする考えかたなのよ。ま、要するに、原理なのよ。
そして、あたしも物理主義者なので、物理的領域の因果的閉包性て、あたしの立場でもあるのよ。なにしろ、この宇宙て、機能二面エナァジ一元論の世界だから」
「なるほど」
「ところでさ」セァラが言いつ。「いまの思考実験て、背理法の形をとりているよね? 結論としてパラドクスが導出されて、前提である物理主義に誤りがある、ということに、なりぬから」
「ああ、背理法。ああ、そうかも知んないな」青葉が言いつ。
「そして、青葉によれば、物理主義て暗黙的な二元論だけど、要するに、いまの思考実験て、物理主義だけじゃなく、二元論全般を批判している、ということなのではないの? いまも青葉は言うたやないの、心身並行説や随伴現象説の問題でもあると」
「ああ、そういうことなんだ? たまたま物理主義があからさまな批判対象に選ばれてはいるが、本来は、二元論全般が批判されているわけだ?」
「そうだよ。すると、この因果的排除問題では、二元論に誤りあることが証明されつ、ということになるよ。証明、おわり。まる」
「なるほど。いやいや、証明とまでは言えないよ。物理的という形容詞て、経験的な感覚を表わすだけであり、曖昧なものだから。そういう前提に基づけば、誤りあるよう見える、というだけのことなのよ。
じゃあ、念のため、現象判断のパラドクスの背理法により得られる仮の帰結もまとめておくよ。① 意識は物理的なものである。② この宇宙は一元論の世界である。③ 二元論は誤りである。④ 意識を物理的なものと認めてない点で、物理主義は、暗黙的に二元論であり、誤りている。
以上です」
「ちなみにさ」セァラが言いつ。「今さらだけど、物理主義て、どういうものなわけ?」
「ああ、そうね」青葉が言いつ。「物理主義て、当然、一元論であり、じぶんが二元論とは決して言うてはいないのよ。物理主義の元て、それが何であると具体的なことまでは明言されてはいないけど、それでも、物理的な何かなのよ。言わば、物理性ないし物質性が、物理主義の元なのよ。と言いますか、ほんとはエナァジが元なのだけど。
つまり、要するに、物理主義て、この宇宙に発生する物理現象は、すべて、物理的に説明できる、とする立場なわけなわけ。つまり、物理的因果の閉包性だよ。座右の銘は、《すべては物理的である》(Everything is physical)ということだよ。なので、物理主義によれば、意識や精神も、物理主義に包含されていて、物理学で説明できるはずなのよ」
「でもまだ説明されてはいないのでしょう?」
「まあ、そうね。ふつう、物理学者て、意識や精神などていう胡散臭いものは、研究対象にはしないから。だれも研究してなどいないのよ。あたしたちが一番乗りなのよ、意識と精神を物理的に説明しつのて」
「あの通りならね?」
「あの通りだよ。意識や精神がこの物理世界に出現できる仕組みて、ほかには見当たらないよ」
「断言はできないよ」
「断言まではしないのよ。でも、かなりいい線ゆきているのよ。あれでまだ不満があるとすりゃ、また別のを提案しないといけないよ。改訂でもいいけどね」
「まあ、その話はもういいよ。」
「ところでさ」絵理が言いつ。「すこし後戻りをするようだけど、さっきの思考実験やその主旨て、条件つきなりきけど、条件を外すこともできるのではないの?」
「ええ? そうだけ?」青葉が驚きしように言いつ。
「うん、なんか言いづらいけれど、なんか直感的にそげな気がしつのよ」
「へーえ。主たる条件て、意識が物理的なものでない、ということだよ。これを外すわけ?」
「そうだよ。だから、ものは試しだから、外してごらんよ、よく考えて」
「ほう……。まず、元もとの主旨て、次のようなものだよ。
ええと、意識が物理的なものでなく、物理的領域の因果的閉包性ゆえ、意識の意識的経験についての情報が生物の体という物質に伝達されてない状況では、生物の体に、その経験に言及する動作が生じることは、ありえない。もしも生じるんなら、パラドクスである。
または、生物の体に、意識の意識的な経験に言及する動作が生じるためには、その前に、その経験についての情報が生物の体という物質に伝達されていることが、不可欠である」
「なるほど。じゃあ、やはり外せるじゃん。大事なことて、意識と体という物質のあいだで意識的経験の情報が伝達されるか否か、ということだよ。伝達されさえするんなら、意識が、物理的であろうが、なかろうが、どちらでもいいのよ」
「ああ、そういうことになるのかな? ああ、そうかもね。要するに、意識的経験の情報が伝達されないんなら、意識的経験に言及する身体的動作は起こりえないのだ? 意識的経験に言及する動作が生じるためには、その前に、情報が伝達されていることが不可欠なのだ? ああ、そういうことか。つまり、この主旨にかんしては、前提を外すことができ、かつ、外しても、主旨は変化しないのだ。へーえ、なんか凄いじゃん。えらいことに気がつきつじゃん、絵理」
「そげな気がしつだけだよ」
「じゃあ、その主旨て」セァラが言いつ。「論理的に真なわけ、意識の存在様相とは関わりなしに?」
「ああ、そうだよ。真の命題なのよ」青葉が言いつ。
「なのでさ、条件を外せるからさ」絵理が言いつ。「一般化することもできるよ」
「へーえ、一般化。どういう風に?」青葉が言いつ。
「そうね、こういう風になるかも知んないな。えへん。
実体Aの動きについての情報が実体Bに伝達されてない状況では、実体Bに、実体Aの動きに言及する動きが生じることは、ありえない。もしも生じるんなら、パラドクスである。実体Bに、実体Aの動きに言及する動きが生じるためには、その前に、実体Aの動きについての情報が実体Bに伝達されていることが、不可欠である。
こげな感じだよ。これはもう一般化してしまいつので、実体AとBの存在様相はまるきり問われないのよ。なので直ちに論理的に真ということになるよ。ここまで来れば、もう、ものが何であるかは全く問わなく、なんにでも適用できるのよ」
「ああ、なるほど。一般化するという手もありきのだ。なんか素晴らしいじゃん。じゃん、じゃん、じゃん」
「いまの一般命題が」セァラが言いつ。「現象判断のパラドクスの理論の本質なわけだ?」
「まあ、そうね、目的が違うので、現象判断のパラドクスの理論では、ここまでのことは明言されてはいないけど、でも、暗黙的には含意されていしわけだ。なので、実質的には本質、と考えていいかも知んないね」青葉が言いつ。
「じゃあ、どうして前提がつけられしわけ?」セァラが言いつ。
「そりゃ、成りゆきというものだよ。て言うか、そもそも、こういう命題て、ただで人の心に浮かぶようなものでは決してないよ。そげな生易しいものでは決してないのよ。これまでの人類の歴史のなかで、こげなことを考えし人など一人もいなかりし筈だよ。それが、クワリアや物理主義や意識や二元論のことを考えているうちに、チャーマァズ先生の心に、俄然、閃きつのよ」
「ほう。よく知りているじゃん」
「まあ、憶測にすぎないよ。そして、その要点は、意識の意識的経験に言及する身体動作て、意識と物質をたがいに関係づけることができる、ということだよ。なんでか知んないけれど、地球上には、幸いなことに、観察可能な事実として、限定的なものながら、意識と物質のリンクないし接点が存在していしわけなわけ。つまり、意識的経験に言及する身体的動作が、そのリンクなのよ。意識の存在を実証する稀有な動作なのよ。
そして、この命題を手にいれるには、前提をおく形で、まず現象判断のパラドクスが着想される必要がありきのよ。つまり、その前提て、ものの存在様相を問わない真理を導出するための呼び水として働きしわけなのよ。
そして、最初に表現されし主旨にはもう大事な真理が包含されてしまいていつので、後はもう前提を外せば良かりきのよ。なので、現象判断のパラドクスの理論が表明されつのて、たいへんな僥倖なりきのよ、人類にとりてはね」
「大袈裟な」
「うむ」
「ただ、人がぜったい考えないというのは、その通りと思う。ぜったい考えないよ。だから、幸運ちゃ幸運だよね。まあ、前提が外せるて、絵理が気がつきつのも、ある意味、驚きだけど」
「うん、驚いちゃうよ」
「で、それで、なにか好いことがあるのかな、前提が外せて?」
「そうね、なにか分かるかな? そうね、意識的経験に言及する身体的動作にかぎりては、意識は必ずその動作に関与する、ということに、なるかもね。おっと、そうなんだ? 意識が生物の物質の動きに関与してるんだ? ええ? そうなんだ? それが論理的な観点で証明されつのだ?」
「まだ証明されてはいないのではないの? そういう気がしつだけでしょう?」
「まあ、そうだけど。でも証明できるかも知んないな。どうも、この命題て、けっこう重要な命題だよ。なんたて、人類にとりたいへん幸運なことに、意識と物質のあいだの具体的なリンクを実証するものである、意識的経験に言及する身体的動作に、着目されているからね。ああ、そうなりきのだ? 稀有なことなりきのだ? ふーん、驚いちゃうね」
「折角なので」絵理が言いつ。「証明してしまえばいいのではないの?」
「でもさ、さっきの主旨て」青葉が言いつ。「もう論理的に完結しているよ。もう先に進めないよ」
「そりゃ、まあ、その通りだよ。でもさ、あれに事実を組みあわせる、という手もあるよ。そうすりゃ、事実に基づき先に進めるかも知んないよ。どうかな?」
「ああ、それもそうだけど、じゃあ、なにか事実があるわけ?」
「あるのよ。生物には、意識の意識的経験に言及する身体的動作が、実際、生じているのよ。これは動かしがたい事実だよ。《灯台もと暗し》だよ。《目糞が鼻糞を笑う》ようなものだよ。これを、観察されし実験事実として採用するわけなわけ」
「ああ、なるほど。じゃあ、折角だから、絵理が証明しなさいよ。あたしも微力ながらお手伝いするよ」
「そうね。じゃあ、ものは試しだから、ひとつ、証明してみっか。
まず、いまの実験事実にさきほど得られし真の主旨を適用してみるよ。帰納することになるよ。すると、つぎの命題が得られるよ。
すなわち、生物の体に、意識の意識的な経験に言及する動作が生じるときは、その前に、意識から、生物の体という物質に、その経験についての情報が、かならず伝達される。
これは、意識や物質の存在様相を問わなく、かならず真だよ」
「ああ、そうだよ。そういう事になるよ」
「ちなみにさ、一般化すると、次のようになるよ。
実体Bに、実体Aの動きに言及する動きが生じるときは、その前に、実体Aから、実体Bに、実体Aの動きについての情報が、かならず伝達される。
これは、もう、実体群の存在様相とは丸きり関わりなしに、つねに真だよ」
「なるほど。素晴らしい。この宇宙には、そういう観念的な真理が潜在していつのだ?」
「そうかもね。そして、ここからは、さらに以下のことも帰納されるよ。得られし命題に潜在していしことだよ。
意識から、生物の体という物質に、意識の意識的経験についての情報が伝達されることが、可能である。
さらに、意識から、生物の体という物質に、情報が伝達されることが、可能である。
さらに、また、意識から、生物の体という物質に、意識の意識的経験についての情報が伝達されると、その後、生物の体に、その経験に言及する動作の生じることが、可能になる。
これらて、可能であるとしか言うてはいないのよ。必ずそうなる、とは、決して言うてはいないわけ。そして、可能なのは、さきに得られし命題が既に真だからだよ」
「うん」
「そして、これまで得られし命題からは、さらに次の命題も得られるよ。
すなわち、意識からの情報の伝達が、生物の体の物質の動きに関与することが、可能である」
「うむ」セァラが言いつ。「うむ。そのさ、情報の伝達が、動きへの関与になるわけ?」
「そうね」絵理が言いつ。「これはちょいと説明しづらいな。そうね、身体的動作には情報の伝達が不可欠なのよ。そして、情報の伝達により、身体的動作が可能になるのよ。つまり、情報の伝達て、動作という具体的な事象の発生にふかく関わりているのよ。単に、伝わりて、その後、無視されてしまう、という程度でなくて。それ以上の関係があるのよ。それで、関与もする、と判断できるわけ」
「まあ、そうね。確かに、そのへんて、解釈が難しいね。それでも、情報の伝達が、身体的動作という具体的な事象の発生に不可欠なのでありゃ、このことを以て、関与する、と見なしても、いいかも知んないな」
「その通り。そして、いまの命題をより広い視野でみると、次のことも言えるよ。
すなわち、意識は、生物の物質の動きに関与することが、可能である」
「うむ」
「そして、つぎの命題も得られるのよ。
すなわち、意識の意識的な経験に言及する動作が、生物の体に生じるばあい、その経験についての情報が、生物の体の動作の発生に、かならず関与する」
「ああ、情報が身体的動作の発生にかならず関与する、ことになるんだ? でもさ、そこまではっきり言えるかな?」
「あたしは言えると思うのよ」
「根拠はあるの?」
「それは、つまり、なぜなら、情報の伝達と関与がなければ、動作は決して起こらないからね。動作が起きるということは、情報が関与するということを、かならず意味するのよ」
「うむ。まあ、そうかも知んないな」
「そして、情報が関与するていうことて、情報が身体的動作にたいして影響を有する、ということも、意味しているのよ。そして、このことて、広い意味では、身体的動作が意識的経験に言及するものの場合、意識はその動作の発生にかならず関与する、ということも、意味するのよ。
すなわち、意識の意識的な経験に言及する動作が、生物の体に生じるばあい、その経験についての情報が、生物の体の動作の発生に、かならず関与する、影響を有する。
これが先ほど青葉が直感的に予想せしことだよ」
「ああ、じゃあ、結局、証明できしわけだ?」
「かも知んないね。めでたし、めでたしなのよ」
「なんとも、はや。意識がかならず生物の動きに関与しているなどて。大したものだ。いやはや、いやはや」
「ちなみに、いまの結論を一般化すると、次のように言えるよ。
すなわち、実体Aの動きに言及する動きが、実体Bに生じるばあい、かならず、実体Aの動きについての情報が、実体Bの動きの発生に関与する、影響を有する。
「ああ、おおよそ、絵理の言いしとおりかも知んないね」青葉が言いつ。「少なくとも身体的動作が意識的経験に言及するものの場合、意識的経験についての情報は、意識から物質にしっかり伝達されるのよ。そして、そういう風に、意識は体の動きに必ず関与してるのよ。そして、そのことが、なんとも信じがたいことに、現象判断のパラドクスの理論から引きだされしわけだよ。かなり強引なりきけど」
「そして、また戻るけど」青葉が言いつ。「動作が意識的経験に言及するものでない普通の動作のばあいでも、意識は必ずその動作に関与していることが、つよく推測されるのよ。運動神経経由のあらゆる動きと、交感神経経由のあらゆる動きだよ。つまり、意識は、体の物質のすべての動きに関与するのよ。ほぼ確実なことだよ。取りあえず、除外する理由は見当たらないからね。つまり、意識て、ただのモニタァや解釈者や影では決してなかりしわけなわけ」
「なるほど」セァラが言いつ。
「ただ、関与するとは言うても、能動的で直接的な関与かどうかは、ここでは判断できないよ。むしろ、情報て、静的なものだよ。スケイラァ量なのよ。なので、伝達も静的なものに留まると、強く推測されるよ。これも確実なことだよ。
そして、情報が伝達されしあとのことて、物質に一任されるのよ。情報を参照しながら、物質みずからが動くのよ。これはごく尤もなことだよ。
それでも、伝達される情報が、物質の動きについての方針ないしガイドゥのようなものでありゃ、それを間接的な能動性と見なすことは、できないでもないよ」
哲学的ゾムビ
「じゃあさ」絵理が言いつ。「生物と哲学的ゾムビ(philosophical zombie, p-zombie)の関係は、どういうものになる?」
「哲学的ゾムビ?」びっくりしてセァラが言いつ。「いきなり何を言うのよ、絵理?」
「生物と哲学的ゾムビの関係だよ」
「なんなのさ、哲学的ゾムビて?」
「あたしは別に詳しくはないのよ。でも、哲学的ゾムビて、体は物理的に物質的に人間とまったく同じなのだけど、意識を欠いているのよ。それなのに、人間と変わらず生きてゆけるのよ。人と変わらず、精神生活を送りていることを偽装しながら、生きてゆけるのよ」
「なんであんたがそないな事を知りているのよ?」
「あたしはなんでも知りているのよ。特に、あたしは、ゾムビて好きなのよ。ゾムビ映画もゾムビ小説も大好きなのよ。すると、哲学的ゾムビのことも、自然あたしの耳には入りてくることに、なるのよ」
「うむ」
「で、青葉」セァラが言いつ。「哲学的ゾムビて、そういうものなわけ?」
「まあ、大体そげな感じだよ」青葉が言いつ。「でも、少しだけ補足させてもらうとすると、こういうことなのよ。
哲学的ゾムビて、これもチャーマァズ先生が考案せし思考実験の概念なのよ。意識が欠如してるので、意識的経験を持てないのよ。なのに、なんでか知んないけれど、意識やクワリアや感情や思考などの意識的経験のことをちゃんと知りているよううわべでは振るまいながら、人間と変わらず生きていけるのよ」
「ほう。意識がないのに、意識的経験のことを知りている」
「多分そないな感じだよ。そして、普通の動作とともに、意識的経験に言及する動作も完璧にこなすのよ。そういう想定なのよ」
「うむ」
「ちなみに、映画に出てくるゾムビて、哲学的ゾムビと区別するため、行動的ゾムビ(Behavioral zombie)、て言われるよ」
「なるほど」
「この行動的ゾムビて、端から、生きていず、意識のない何か、と想定されているよ。生きてないので、体の物理的な状態は、生きている人間とは完全に異なるよ。ま、要するに、物質の集合体なのよ。それでも、なにか不思議な力により動くことができるようなのよ。なので、死霊とも呼ばれるよ。畢竟するに、物理的にみれば、完全に不合理な存在なわけ。行動的ゾムビて、端的にパラドクスなのよ」
「ああ、そう」
「じゃあさ」絵理が言いつ。「人間により作られるアンドゥロイドゥやロウボトゥなどは、どっち?」
「ああ、そういうのもあるね?」青葉が言いつ。「そうね、生きていず、かつ、体が人造的なものなので、哲学的ゾムビではない、とは言えるよ。だから、かりに分類するとすれば、行動的ゾムビにするしかないかもね」
「じゃあ、クロウンは?」セァラが言いつ。
「ああ、クロウン」青葉が言いつ。「そうね、こっちは生きているので、ゾムビではないよ。立派な生物だよ。そして、クロウンでありゃ、意識は間違いなく発生するよ」
「ああ、そういうことになるか」
「まあ、そうかもね。そして、哲学的ゾムビのほうは、いまの行動的ゾムビと区別するため、さらに、現象的ゾムビ(Phenomenal zombie)、とも呼ばれるよ」
「ふーん」
「ただ、現象て言葉て分かりにくいけどね。あたしにしてみれば、こういう文脈で現象て言葉が使われるて、ほんと分かりにくいよ。意識はないけれど、うわべの現象面では生物と等しく振るまえる、くらいの意味かもね。それに、現象判断のパラドクスの現象も分かりにくいよ。」
「ああ、現象判断のパラドクスもあるね。でも、現象がなにを指すのか分かんないよ。そして、意味を意識上に展開するのも、難しいよ。えらい時間がかかるよ、その意味が腑に落ちるのが」
「そうだよ。すると、どうも、現象て言葉て、意識の意識的経験の具体的な動きのことを指しているかも知んないね。つまり、意識の精神生活の不可視の経験が現象とされているのよ。分かりにくいよ。因果的排除問題という呼称のほうが、分かりやすいよ」
「たださ」絵理が言いつ。「現象判断のパラドクスて、かっこいいよ。ただこれだけで、ひとの関心を惹きつけてしまうよ」
「ああ、それはあるね」セァラが言いつ。「確かにかっこいい」
「この意味では、哲学的ゾムビもかっこいいよ。そもそも、ゾムビて面白いけれど、哲学的ゾムビと言えば、もっと面白くなるよ。いやでも人の興味を惹きつけずにはいないのよ」
「うん」
「だから、要するに」青葉が言いつ。「哲学的ゾムビて、因果的排除問題、いわゆる現象判断のパラドクスを、身をもて体現している存在なのよ、よその宇宙で、恐らくね。だから、ふつうの感覚では、矛盾してるのよ。パラドクスだよ、行動的ゾムビと同様に。だけど、なんでか知んないけれど、物理主義や唯物論というものを前提にすると、哲学的ゾムビの存在も想定されてしまうのらしいのよ」
「うむ。なんか、よく分かんないよ、いまの話」絵理が言いつ。「なぜに哲学的ゾムビが想定されるわけ?」
「おっと。いやいや、あたしも、きちんと理解しているわけではないのよ」
「駄目じゃんよ、そういうずぼらなことでは」
「でもさ、あのへんの話て妙に理解しづらいのよ。なにしろ、意識や精神のことを論じているんでね。とにかく、意識や精神て、客観的に扱うのがえらい難しいのよ。まじめに扱おうとしても、妙にインチキ臭くなりてしまうのよ」
「それは分かるけどさ、でも、もう少し分かりやすく話しなさいよ」
「うん、つまり、物理主義て、現状、意識を無視しているのよ。それなのに、人間には意識が発生している。ここだよね、物理主義に欠陥があるのて」
「ふむ? で、哲学的ゾムビが想定されることは?」
「ああ、哲学的ゾムビ……。だから、現在の物理主義の考えに従うと、物理的にはこの宇宙とまるきり同じだけど、意識の存在しない宇宙が想定されうるらしいのよ」
「根拠は?」
「そうねえ、なんでだろうなあ、そうねえ……、まず、この宇宙のことを考えるなら、生物には意識が具わりてOる。しかし物理主義は意識を無視してOる。すると、物理主義にとり、よしんば生物に意識が具わりてはいるにせよ、その意識は、体の物質とは丸きり物理的な関わりを持ちてはいないことに、なる。無視しているんでね。体にどげな動きが生じようとも、それに意識はいっさい関与してはいないのよ。つまり、物理主義にとり、意識は、物理法則の埒外にあり、問題とするには足りんものなわけ」
「うむ」
「すると、こういうことの帰結として、物理主義にとり、生物は、意識なしでも十全に活動することができることに、なる。要するに、物理主義の眼から見りゃ、生物が生きてゆくのに、意識て丸きり必要ないわけなのよ。それで、意識なしでも十全に生きている哲学的ゾムビが想定できてしまうわけ、よその宇宙でのこととして。この宇宙については、当面、問題とはしなくとも、哲学的ゾムビが活躍する宇宙もじゅうぶん存在しうる、と、じゅうぶん考えられるのよ。いわゆるゾムビ ワールドゥだよ。
多分、こないなところだよ」
「うむ。うむ。つまり、物理主義にとり、意識て、物理的なものでなく、生物の動きに関与していず、生物は、実際のところ、意識の関与なしで生きている。それで、かりに意識の具わらない哲学的ゾムビが他所の宇宙に発生しつにせよ、それらもしっかり生きていける、ということだ?」
「まあ、そないな所ではなかろうか」
「そして、この宇宙のあたしたちには意識が具わりてはいるけれど、その意識もあたしたちの動きにはいっさい関与していない、ということなわけだ?」
「まあ、暗黙的には、そういうことに、なるかもね。要するに、意識て、現在の物理主義にとり、どうでもいいものなのよ。精ぜいモニタァや影ていどのものでしかないわけなわけ」
「ふーん。まあ、そげな風に詳しく見れば、哲学的ゾムビも、満更、想定できないとも思われないよ。なるほど」
「じゃあさ、どうしてわざわざ哲学的ゾムビが想定されしわけ?」セァラが言いつ。
「それは、恐らく」青葉が言いつ。「現象判断のパラドクスを体現する具体例として、だよね。抽象的な理論も、具体例があれば分かりやすいから」
「ああ、具体例。じゃあ、現象判断のパラドクスて、『お前はパラドクスなのだ』と言うて、哲学的ゾムビを非難しているわけだ?」
「まあ、そげな感じかも。要するに、哲学的ゾムビて、好意的に想定されているわけではないのよね。むしろ、非難の対象として編みだされつのよ。そして、なぜに非難されるかと言えば、その存在をとおして、物理主義を具体的に批判するためなのよ」
「なるほど。でもゾムビて面白いよ。映画にも小説にもなるよ。でもさ、そもそも、物理主義にとり、意識など有りても無くてもいいのだから、いくら批判されようが、なんの痛痒もないのではないの?」
「まあ、そうかもね」
「でもさ」絵理が言いつ。「そもそもさ、哲学的ゾムビが想定される根拠が明らかになりぬとしても、それだけでは、まだ、物理主義への批判にはならないのではないの?」
「ああ、そうか」青葉が言いつ。「まだ批判まではされてはいないわけだ?」
「そうだよ。なにが批判の根拠になるのかな?」
「そうね……、よしんば他所の宇宙でなら哲学的ゾムビが想定されるにしても、あたしたちの宇宙には意識が発生してるという厳然たる事実がある。この事実が物理学でまだ説明されてはいないじゃないか、という事ではなかろうか」
「ああ、なるほど。その程度のことなのか」
「恐らくね。その程度のことなのよ。ちなみにさ、哲学的ゾムビを使いての、物理主義を批判するためのこの理論て、ゾムビ論法(Zombie argument)とか、想像可能性論法(Conceivability argument)とかて、呼ばれているよ」
「ああ、そう」
「でもさ」セァラが言いつ。「その程度の批判をするため、わざわざ現象判断のパラドクスの理論と哲学的ゾムビが考えられしわけ?」
「さあ、それは分かんないよ」青葉が言いつ。「でも、意識については結構いろいろなことが考えられているのよ。それに、どこに大事なことが潜みているかも分かんないし。そして、現象判断のパラドクスの理論からは、ふたつの実体にあいだに意識的経験の情報の伝達が欠かせないということが判明しつし、意識的経験に言及する動作にかぎりては、意識がその動作の発生にふかく関与していることも分かりつのよ」
「なるほど。そうなりき。しかしさ、意識など、物理主義にとりては存在しないも同然で、事実上、意識がなくても物事は遅滞なく遺漏なく進行してゆくのよ。なので、その程度の批判なら、痛くも痒くもないよね? て言うか、意識がなくても体がきちんと動くかどうかて、まだ分かんないけどね」
「ああ、そうだよね。それて実は問題なのよ。ただ、それが問題かどうかて、容易には分かんないけどね。なので物理学も丸きり気にしてはいないのよ。誰にも分かんないから。だれも意識していず、だれも指摘しないから」
「まあ、そうかもね」
「そして、意識についての批判も、だれも気にしてなどいないよね、物理学の先生たちも」
「うん」
「でもさ」絵理が言いつ。「物理学も、すべては物理的であると断言するんなら、みずから進みて意識や精神を説明すべきではないのかな。それくらいの気概は必要だよ」
「まあ、絵理の言うことも分かるけどさ」青葉が言いつ。「でも、物理学者ないし自然科学者でありゃ、精神などてインチキ臭いもの、だれも相手にしたがらないよ。例えばさ、そげなものを真面目に研究していることが知られてしまえば、同僚の皆さんから白い眼で見られるよ。うしろ指さされちゃうよ。組織から放逐されてしまうよ」
「なるほど」
「それで、意識を無視していることに若干うしろめたさがありて、それで物理主義も強い態度には出られないのよ。控えめであることを無理強いされているのよ。だれも研究してなどいないから」
「まあ、そうかもね」
「それでも、一歩うしろにさがり、客観的に評価するなら、いまは、まだ、意識や精神を物理学で説明できる段階には達していない、というだけのことなのよ。そして、いずれは説明できるであろう、と言うほかはないのよ。とにかく全ては物理的だから。この宇宙て機能二面エナァジ一元論の世界なのよ。もっとも、あたしたちがもう早ばや説明してしまいつけれどもね」
「あの通りならね」
「あの通りだよ。間違いないのよ。
そして、物理学や自然科学の先生たちにとりてさえ、意識や精神がどういうものかて、まだ分かんないはずなのよ。そもそも研究してないからね。つまり、自然科学の先生たちさえ、胸に手を当て、じいと内省してみれば、こと、意識にかんしては、無意識的に二元論的な見方をしているはずなのよ。間違いないよ。
だから、なんちゅうか、意識の物理的な側面て、物理学と認知科学のあいだのちょっとせし空白地帯なりきかも知んないね」
「ああ、そういうこと。どちらからも手を出しにくい部分なりしわけだ? 物理学にしてみれば、精神などて胡散臭いものには断じて関わりたくないし、他方、認知科学にしてみれば、物理学が関わるかも知んない部分には何となく手が出しにくい、ということなりしわけだ?」
「まあ、そうかもね。ほかに、神経学や脳科学もありて、生体と精神の両方を扱うという点で、これらが、自然科学のうちで意識と精神にいちばん近いかも知んないよ。でも、生憎なことに、意識や精神の発生の仕組みそのものが研究されているわけではないのよね。それは、もう、暗黙的で基盤的なブラク ボクスとして手を触れずにおいて、暗に遠ざけておき、モーア巨視的で応用的で実用的な面で研究がされているらしいのよ。
例えば、脳の機能マプが作成されつとか、錯覚が研究されているとか、脳波などをマシーンで読みとり、それから意識の状態をくわしく解析するとかね。例えば、脳波などにより、なんらかのマシーンを制御するとかね。キーボードゥの入力とか、なんらかの機器の制御とか。逆の方向の研究もされている可能性があるけれど、これは怖いかも。映画のマトゥリクス(The Matrix)のように、外部から脳にシグナルを入力する形になるからね。電線を繋ぐにしても、電波を使うにしても。脳が壊れちゃうよ」
「なるほど。でも、確かに、意識の物理的な側面て、研究の盲点なりきかも知んないね」
「そうかもね」
「でーさ」セァラが言いつ。「生物と哲学的ゾムビの関係は、どうなるの?」
「ええ? 生物と哲学的ゾムビの関係?」青葉が言いつ。「別にどうもなりはしないのよ。べつに関係などないのよ」
「でもさ、哲学的ゾムビて示唆的でもあるよね?」
「なにが示唆的なわけ?」
「それは何かと言えば、哲学的ゾムビて、意識がないのに人間とひとしく動けるじゃん。そこには、哲学的ゾムビ、つまり、生物の体という物質が、どうして能動的に動けるか、という深遠なる問いが潜在しているよ」
「ああ、さきほども少し触れしことだよね?」
「そうだよ。生物が能動的に動けるていうことて、根本的には、大いなるクウェスチョン マークなのよ。だれも不思議に思わないけどね。あまりに当たりまえすぎるから」
「まあ、そうね。じぶんが自発的に動けることが不思議であるなど、まず絶対だれも思わないよ」
「でも、よくよく考えると、すごい不思議なことなのよ」
「うん、そうだよ。哲学的ゾムビて、暗黙的に生物と想定されてはいるけれど、意識がないので、実際のところ、ただの物質なのよ。そして、ただの物質であれば、自発的に動くことは決してないのよ。いわんや、建設的な動作を果たせるはずがないのよ。もしも哲学的ゾムビに能動的かつ建設的な動作が果たせるんなら、それにはしっかりせし物理的な根拠が必要なのよ」
「なるほど」
「ちなみに、生物に生じる動きて、すべて、建設的な動きと思われるよ。そして、建設的な動きというのて、物理的な秩序を形成する動きでありて、物理的な秩序て、自然な状態では、しかとせし物理的な根拠のないかぎり、決して形成されえないのよ。なので、生物に物理的秩序を形成する生産的な動きが起きているていうのて、物理的秩序を形成できるに足る何らかの根拠が、生物の体という物質の集合体のなかに生じていることを、言わず語らずのうちに意味しているのよ。なので、これは、明らかに、物理学で説明されるべきことなのよ」
「うむ。そして、ゾムビ ワールドゥでは、哲学的ゾムビが意識なしにちゃんと生きてゆけるというじゃん。えらい変なのよ。普通の感覚では、この宇宙とよその宇宙の物理学が同じなら、よその宇宙でも意識はかならず発生するはずなのよ。そして、恐らく、その結果、哲学的ゾムビが動けるのよ、くわしいメカニズムはさっぱり分かんないけどね。そして、これはもう哲学的ゾムビじゃないけれど」
「うん、物理学が同じなら、意識も発生すると考えるのは、ごく自然なことだよ。そして、その結果、哲学的ゾムビが動けるのよ」
「哲学的ゾムビでは、その辺のことが無視されているのよ。哲学的ゾムビの想定て、どことなく無理があるのよ」
「まあ、そうだよ。たださ、哲学的ゾムビて、よその宇宙でならしっかり存在できる、というように、好意的に想定されているわけでは決してないのよ。たんに、物理主義を批判するためだけのものなのよ、パラドクスが生じるので物理主義はまだ完全ではない、と言うて。なので、哲学的ゾムビの想定では、物理学を厳密に遵守することなど端から気にされてはいないのよ。そして、それでいいのよ。目的は、物理主義を批判することだから」
「まあ、それは理解するよ。でも、一歩さがり、哲学的ゾムビの想定を冷静に評価してみると、その想定目的とは別のところに、生物の物質が自発的に動けることについての問いが暗黙裡に含まれていしわけなのよ。これて極めて重要な問いとあたしは思う」
「うん、そうだよ。そして、少なくとも、意識的経験に言及する動作があるよ。この動作て、意識の精神生活を反映するものだから、哲学的ゾムビにそういう動作が果たせるとすると、ぜったい哲学的ゾムビにも意識が具わりていないといけないわけなのよ」
「そのとおり。意識がなくても体がきちんと動くかどうか、ていう問題だよ。生物が能動的に動けることについての根本的な疑問だよ。しかし、哲学的ゾムビに意識は具わりてはいない。ゆえに、哲学的ゾムビて、じぶんが能動的に動けることにかんし、言わず語らずのうち、その存在でもて、みずから異議を唱えていることに、なるよ」
「まあ、そういう風に深読みすることもできないでもないよ。まあ、だから、議論のなかに、せっかく物理学を持ちこみつので、哲学的ゾムビの存在がパラドクスであると言うて物理主義を批判するだけには留めないのが、いいのよ。そこに留まりてしまいては、片手落ちなのよ。なぜなら、意識ない哲学的ゾムビという生物的な物質が自発的に動くという大いなる不思議があるからね」
「そうだよ。せっかく哲学的ゾムビを想定しつのだから、それが暗黙裡に体現している問題も、この際、果敢に究明するのが、望ましいのよ」
「もちろんだよ」
「すると、問題は、おそらく、意識的経験に言及する動作だけには留まらないね。まず、生物では、あらゆる動きが物理的に実現されないといけないのよ。すると、表面的には意識的経験に言及する動作とは思えない、あらゆる運動神経系の動作と、交感神経系の動作と、そして、細胞内での全ての物質の動きに、意識的経験、つまり、感覚と思考という情報処理の結果が、関与していると、つよく推測されるのよ」
「そうだよ。細胞内での様ざまな物質の動きから始まり、生物のあらゆる動きが、意識が精神生活を送りていることの結果により齎されている可能性があるのよ。これて、言わば、意識的経験の結果である巨視的な観念ないし思考により、物質の微視的な動きを左右する、というようなことだよ。でも、そのメカニズム、さっぱり分かんないよ。えらい手強そうだよ」
「だれも研究してなどいないのは勿論のことだよ」
「でーさ」絵理が言いつ。「生物と哲学的ゾムビの関係はどうなるの?」
「別にどうもなりはしないよ」青葉が言いつ。
「哲学的ゾムビには意識だけが欠けているから、簡単に表現できるのではないの?」
「へーえ。どげな風に?」
「すなわち、生物 = 哲学的ゾムビ & 意識、なのでR」
「ああ、それだけのことだ?」
「そうだよ。べつに難しいことは言うてはいないのよ」
「なるほど。ちなみに、&で足すのはどうして?」
「そりゃ、多少の意味はこめてあるのよ。生物から意識は除去できない、というくらいの意味だよ。生物や生体には必ず意識が発生するからね。生物から意識を除去するていうのて、生物の死を意味するのよ。すなわち、哲学的ゾムビて、いくら能動的に動けるにしても、生きていないのでR、死にているのでR。または、意識ない哲学的ゾムビて実際には存在しえない、とかね」
「ああ、なるほど。意識がないと、哲学的ゾムビて丸きり動けなくなる筈だから。哲学的ゾムビですらなくなるからね」
「そのとおり」
ふたつめの因果的排除問題
「じゃあ、ここで」青葉が言いつ。「すこし気分を変えるため、この宇宙では、因果的排除問題ないし現象判断のパラドクスが生じないことに関し、意識のハイアラーキに基づき説明してみるよ」
「へーえ」セァラが言いつ。
「まず、あたしたちの解釈では、主観の意識は脳の全体と一心同体なのよ。そして、ニューロン網はその一つ下のレイヤァに位置するのよ。て言うか、主観の意識て、実際には、脳の全体ではない筈だけど。主観に参加してない部分もたくさんある筈だから。これは、ニューロン網で遂行される各種の前処理が主観に通知されないことからも、容易に推測できることだよ。
そして、個々のニューロンたち、または脳分たち、もしくはニューロン網という、それぞれのレイヤァに位置する意識たち、つまり、観念的な統合波動たちは、じぶん自身の超絶の精神生活は営みてはいるが、主観の意識の精神生活までは知らないわけなのよ。そもそも知りえないのよ、レイヤァや量子が異なるからね。だからパラドクスは生じないのよ」
「ええ? 知りえない? それは変じゃないの。ちゃんと知りているじゃん。それにさ、もしも知りえないなら、パラドクスはむしろ生じるのではないの?」
「いやいや、知らないのよ。ほかのレイヤァや量子の精神生活て、知りえないのよ」
「でも、あたしたち、今日は楽しかりき、今日はつらかりきて、主観の意識的経験のこともちゃんと日記に書くじゃないの。あたしたちが自分の意識的経験に基づくあらゆる言動をとれるのは、主観の意識に対応するニューロン網が知りているからじゃないの」
「うん、まあ、意識と物質て一心同体であり、主観のニューロン網を一個のブラク ボクスと見れば、そのニューロン網は確かに知りているのよ」
「ほら、ご覧なさいよ。ちゃんと知りているじゃないの」
「いやいや、でも、モーア詳しく究明してゆくと、物質としてのニューロン網は意識の意識的経験をまるきり知りてはいない、ということが、判明するのよ」
「ほう……。じゃあ、どうして日記が書けるのよ?」
「うん、では、なぜ体が主観の意識的経験についての言動を取れるのか、と言うと、その言動に関与する全ての細胞を構成する無数の物質たちが、なんでか知んないけれど、超不思議なことに、全体として見ると、そういう方向でいごくからなのよ。ゲイジ粒子の放送と交換に端を発して、単にそういう方向で物質たちが自動的に動いてしまうのよ。こういうことなのよ」
「信じらんないよ、そげな都合のいい話」
「でもこれが実相なのよ。自由意志が有りえないうえ、レイヤァ間でのコミューニケイションの手段も存在しないから。物質て、ゲイジ粒子と基本相互作用により自動的に動かしてもらう他はないのよ。物質て、徹底的に受動的なものなのよ。
体の物質たちは、意識の精神生活のことなど丸きり知らないはずなのよ。それなのに、彼らは、一致協力し、全体として、意識の意識的経験についての言動を取ることができているよう、見える。
因果的排除問題つまり現象判断のパラドクスて、根本的には、こういう見掛けじょうの事実は矛盾である、というような事を言うているのよ。ああ、いや、実際には、ここまでのことは言うではいないのよ。因果的排除問題の指摘を仮に認めて、物質の動きを更に細かく究明してゆくと、だんだんと見えてくるだけなわけ」
「いやいや、分からない。まだ何か大事なことがあるのではないの? まだ何か説明されてはいないのではないの?」
「まあ、そうね……、モーア明確にするほうがいいかも知んないな……。
まず、主観の意識の意識的経験を持ちているのて、まさに主観の意識の統合波動なのよ。そして、統合波動て、物理的なものではあるけれど、物質性は離れている、と推測されるのよ。なぜって、物質基本機能のうちの観念的な機能だけから創発するからね。
そして、その下に位置する脳分たちや個々のニューロンたちの意識も物質性は離れているのよ。そして、みずからの独自の精神生活は送りているが、互いに、ほかの意識たちの精神生活を知ることは、決してないのよ」
「なにを言いたいか、よく分かんないよ」
「うん、この辺はすこし説明しづらいかもね。とにかく、ある意識は、同僚であろうとも、あるいは、上位の意識であろうと、下位の意識であろうと、ほかの意識たちの精神生活を知ることは決してない、ということなのよ。
そして、ここで、主観の意識の形成に参画する物質的な基盤のレヴェルの細胞群のことを考えてみるよ。
まず、おのおのの細胞では、おのおのの意識が、それぞれ独自の精神生活を送りている。でも、ひとつの細胞を形成する全ての物質たちて、その細胞の精神生活を承知しているわけでは決してないのよ」
「ええ? そうなわけ?」
「まあ、そのはずなのよ。つまり、物質は物質だから。素粒子であろうと、原子であろうと、アイオンであろうと、ラディカルであろうと、分子であろうと、高分子であろうと、ポリメロクワンタムであろうと、物質て、厳密な意味で量子なのよ。そして、物質的な量子には、精神的な認知能力て、具わりていないのよ。当たりまえのことだけど。
つまり、細胞のすべての構成物質て、マジで物質的な部品なのよ。一個のコムピュータァを形成している部品のようなものだよ。または、一個の集積回路を形成しているシリコン原子や添加されている他の種類の原子か分子のようなものだよ。そのゆえ、細胞の構成要素の個々の物質たちて、細胞の精神生活など丸きり知らないわけなわけ。たんなる物質だから」
「ええ? いきなり何を言うわけ? なんか話が妙な方向に進みている気がするけどね」
「まあ、そうかもね」
「じゃあ、主観の意識をふくめ、主観の意識に関係する全ての意識て、おのおのの精神生活は営みてはいるが、ほかの意識の精神生活のことは少しも知らないわけだ? そして、さらに、そのうえ、主観の意識のニューロン網の形成に参画している全ての細胞の構成要素たる全ての物質も、どの意識のものであろうと、そして、自分が属する細胞のものも、その精神生活のことなど丸きり知らないわけだ?」
「まあ、そういう感じかも。とにかく、ただの物質だから。つまり、ただの物質だから」
「ふーん。でもさ、なんか変じゃん。さっきの話では、この宇宙では全ては物理的なので、物質ないし物理的なものが――今のばあい、主観の意識を創発させる物質としてのニューロン網になるけれど――みずから精神生活を送りているので、それで、因果的排除問題ないし現象判断のパラドクスは生じない、ということになりぬのではないの? どうなわけ?」
「うん、確かに、さきほどは、そういう形でパラドクスが消滅しつのよ。それはそれでめでたしめでたしなのよ。なにしろ、意識と物質は一心同体であり、主観のニューロン網を一個のブラク ボクスと見れば、意識の意識的経験をもつ主体て、まさにそれだから」
「うむ」
「でも、ここで詳しく究明してみると、問題は実はそこにはなかりき、ということが明らかになりぬ、ということなのよ。
つまり、要するに、主観の意識の統合波動は確かに精神生活を送りているのよ。ここで、統合波動て、物質基本機能群のうちの観念的な機能だけで形成される大きな物理現象だよ。だけど、主観を創発させる基盤のレヴェルの膨大な数の物質たちは、主観の精神生活など丸きり知らないわけなのよ。つまり、主観のニューロン網を形成する細胞群の構成要素たる無数の物質たちは、完全に無知なのよ。
にも拘わらず、それらの物質たちて、あたかも主観の意識の意識的経験をとてもよく承知しているかのように、巨視的にみれば主観の意識的経験に言及していると解釈される大きな動作を果たすことを求める途轍もない量の指令を、皆で一致協力しながら、からだの各所に送出するのよ。ただ、純粋な思考動作であれば、物質的な動きはニューロン網の細胞群のなかに閉じてはいるけどね。そして、脳から体に指令は出されないけどね。このように、解釈されるのよ。じつは生物の動作の実相て、こういうことなりきのよ」
「ふーん」
「精神生活を営みているのて、主観の統合波動という物理的なものなのよ。なので、一応、現象判断のパラドクスは生じないのよ。物理的なものがちゃんと精神生活を知りていることに、なるからね。でも、他方、ニューロン網の基盤のレヴェルの物質たちは、実際のところ、主観の意識的経験など丸きり知らないわけなのよ。なので、一応、見掛けじょう、パラドクスは生じないにしても、主観と基盤の物質群とのあいだて、どうも、切れてしまいているよう、見えるのよ、今のところはね。要するに、主観から、無数の物質たちに、主観の意識的経験に起因する何らかの情報や観念や動作指令を送ろうとしても、その手段が存在しないよう、思われるのよ」
「ええ? とても本当とは思えないよ」
「いやいや、その筈なのよ。別言すれば、こういうことになるよ。
物理主義は、一元論であり、そのうちに精神を包含しなくてはいけない。そして、精神て、とてもレヴェルの高い物理的な存在なのよ。高次の物理現象なのよ。そのため、カゲロウのように儚いわけなわけ。ところが、どっこい、かりに物理主義が精神を包含できるとしても――実際、あたしたち、精神を物理主義に捻じこみつのよ、まだ机上の空論でしかないにせよ――、今度は、物理主義の内部において、精神から、物質に、精神生活に起因する動作指示を送ろうとしても、その方法が今のところは存在しないよう、見えてきつのよ。これて、第二の因果的排除問題、とでも、呼ぶべきことだよ」
「おっと。そげなアホな」
「うん、思いもよらなかりきよ、ふたつめの因果的排除問題が出現するなど。ふたつめの現象判断のパラドクスでもあるけれど」
「じゃあ、どうして意識の意識的経験に言及する動作が現実に果たされるのよ?」
「さあねえ、それも問題なのだということが、今頃になり漸く判明しつのよ。判明せしばかりだよ」
「うむ」
「心身相互作用説には物理法則に違反する可能性のあることが分かりていつよ。その可能性て、いまの話と関係あるかも知んないな。要するに、心に思うことで物質を動かすて、どことなくインチキ臭いのよ。怪しげなのよ。胡散臭いのよ。そして、これが念力ということになるかも知んないな。念力というインチキを精査してゆくと、おのおのの細胞や単細胞生物や微生物のなか、思考の結果によりて、関係する全ての物質を意のままに動かす、ということが、そのインチキの正体なのだ、ということが判明するかも知んないな。と言いますか、いま、まさに、そういうことが判明しつ、という気がするけどね。
ただ、この問題は、判明しつばかりなので、すぐに解決することは難しいと思う。と言いますか、そうとう手強い気がするよ」
「ああ、そう」
さらなる問題
「ちなみにさ」絵理が言いつ。「青葉の予想はどういうものなわけ?」
「予想?」青葉が言いつ。「いやいや、予想など、まだしてないよ」
「でも、なんからの見通しくらいなら、あるんじゃないの?」
「見通し? そうね、これは直感的な憶測でしかないけれど、たとえば、物質により、化学反応レヴェルの相互作用をもたらす動きのパタァンが形成されさえすれば、そういうことも結構できるようになるのではないか、とは思う」
「ほう、動きのパタァン」
「うん、動きのパタァン。物質の動きをプロウグラムすること、とも言えるよ。要するに、プロウグラミンて、動作パタァンを形成することだから。あるニューロンから他のニューロンたちにシナプスの糸をいっぱい繋げてね。思考パタァンも同じだよ。集積回路のFPGA(field-programmable gate array)で論理回路をプロウグラムするようなもの、とも言えるのよ。感じはけっこう似ているよ」
「ヘーえ」
「細胞内に構築されている各種の新陳代謝の高度な仕組みを思えば、物質て決して馬鹿ではないことが分かるよ。細胞内での物質の動きて、厳密に辻褄が合いているのよ。
ここで、メカニズムというものは、高い観念にもとづき実装される他はないよう、まずは思われる。だけど、細胞などて超高級なものは、人間には、絶対、設計できないし、作れもしないのよ。だから、細胞の動作メカニズムて、他者によりプロウグラムされつのでなく、ジーノウムを中心として、物質たちが自分らだけで地道に機械的に自動的に組みあげてきし可能性が高い、と思われるよ。なんらかの物理的な原動力を根拠として、物質たちが、自分らだけで、ちまちま地道に進化してきし可能性が高いのよ。自然選択にもとづく地道な進化だよ。その根本的な原動力て、散逸構造の物理的秩序形成力と思われるけど」
「うむ」
「ちなみにさ」青葉が言いつ。「すこし脱線するけれど、準静的過程での結晶化があっじゃん」
「いきなり何を言うのよ?」セァラが言いつ。
「まあ、思いつきつので。たとえば、雪の結晶とか、ダイヤモンドゥの結晶とか、その他の色いろな化学物質の結晶とか。こういう結晶化て、要するに、物理的秩序の形成に当たるけど、このことから類推するに、ひょいとすると、準静的過程でも、エントゥロピ生成速度が減少し、散逸構造のようなものが形成される可能性があるよ。ただ、静的なものだけど。すると、そこでも、そのへんに存在する無数の量子群の観念的物質基本機能から、おおきな統合波動が創発する可能性も考えられるのよ。満更ありえないとも思われないよ」
「じゃあさ、それて、つまり、ただの物質の結晶化の過程でも意識が発生する、ということなわけ?」
「その通り」
「そげな馬鹿な。そんなの有りえないよ」
「いやいや、結晶という静的なものであろうとも、秩序が形成されるという事実から帰納してゆくと、そこでは、先ず、エントゥロピ生成速度が減少しているだろうことが、推測されるのよ。そして、初歩的な散逸構造のようなものが形成されているに違いないことが、判明するのよ。そうすりゃ、意識も創発せずにはいない、と強く推測されるわけ」
「いやいや、結晶という秩序て、散逸構造の秩序形成力により形成されるのでしょう? じゃあ、秩序形成力はもう消費されてしまいつのよ。なので、そのうえ、さらに、意識という秩序も形成されるて、どう考えても無理だよ」
「まあ、そういう考えにも一理あるよ、確かにね。でもさ、ここで、一歩うしろにさがり、その場の全体を大きな心でもて眺めてみるのよ。すると、おそらくほぼ全ての量子が接触してはいるにせよ、たがいに離れし位置にある無数の量子群が一致協力して大きな一個の物理的秩序を形成するなど、不可能ということが分かるのよ。なぜって、量子て、ただの物質だから。完全に受動的なものである物質には、そげな高級な能動性など、逆立ちしても発揮できないよ。なので、複数の量子により一個の大きな物理的秩序が形成されるとすれば、その前に、そのための観念的な演算が、ぜったい必要なのよ。この原子か分子をここに配置し、あの原子か分子をあそこに配置する、というような演算だよ」
「ほう。それで、その演算を果たすものが求められ、それが意識たる統合波動ということなわけ?」
「その通り。とにかく、空間的な広がりある物理的秩序が形成されるためには、全体の物質的状況を見渡しながら計画を立てられる何らかの存在が必然的に求められるのよ。それで、準静的過程においても統合波動つまり意識が創発しているに違いない、と強く推測されるわけ。これはほとんどマンダトーリな定めだよ」
「まあ、言うていることは分かるけどね。しかし、突拍子もない考えだよ、それて」
「まあ、だから、ここで創発すると推測される意識て、生物の上等な意識ではなく、物質的な、ごく初歩的な意識、と考えれば、いいのよ。結晶化の最前線においてだけ、ごく瞬間的に発生する、まだ物質段階の、非生物的な、はかない、トゥランシェントゥな意識だよ。そして、結晶化の前線の移動につれて急速に移動してゆくのよ、温暖前線とか、桜前線みたく。言わば、原意識だよ」
「ふーん。大したものだ。じゃあさ、その意識も巨視的な物理現象だから、エナァジ状態の変化とかが残響し、それもクウェイルになるのではないの?」
「おっとっと。そこまでは考えなかりき。ああ、驚いちゃうよ。でも、そのはずだよ。まだ物質の段階ではあるが、クワリアも間違いなく発生するよ。すると、感覚クワリアとともに、思考クワリアも発生することになるよ。おっと、これは大変だ。夢にも思わなかりき」
「なるほど。そういうことも予想される、という話だ。でも、ひょいとすると、その通りかも知んないね。驚いちゃうね、物質の結晶化の過程では、無生物の物質的な原意識が創発するなど。ごく瞬間的なイフェミラルなものではあるにせよ。しかも、その原意識もクワリアを感じるのよ」
「じゃあ」絵理が言いつ。「その原意識にしょうじるクウェイルて、原クウェイルということになるのではないの? 原感覚クウェイルと原思考クウェイルだよ」
「ああ、そうだよ。恐れ入りちゃうね。もしも事実なら」
「もちろん事実だよ」青葉が言いつ。「ちなみに、そうすると、エントゥロピ生成の減少が、散逸構造の物理的秩序形成力の本質ということに、なるね。エナァジの発生や消費はオプションなのよ。肝は、その場から、エナァジが外部に逃げだし、その場のエントゥロピ生成速度が減少することなのよ。その漏出するエナァジの出自は問われないのよ。ただエナァジが外部世界に漏れていることが、重要なのよ。なので、散逸構造が形成されるときて、その場と外部世界とのあいだに自然な温度勾配が生じていることになるな」
「そして、また戻るとして」青葉が言いつ。「しかも、思考動作をふくめ、じぶんの体の動きを謙虚に評価してみると、細胞や組織や器官の動きに、脳の主観はまるきり関与してはいないのよ。主観は、おのおのの脳細胞でどのような動きが生じているかすら、知らないよ。もちろん、これは、おもに自律神経系でのことだけど。脳て、自律神経なのかも知んないな。
たとえば、椅子にすわり、眼をつぶり、一切なにもしないで、自分の心をじっと眺めてみるのよ。すると、自分で明確な意図を持ちしわけでは決してないのに、あら、不思議、あらゆる雑念が遣りてきては去りてゆくのよ。あたかも雲の流れのように。ほんとだよ。行雲流水だよ。とにかく、思考て、ふつう、勝手に遣りてきては去りてゆくのよ」
「へーえ、そうなんだ?」絵理が言いつ。
「そうだよ。そげなものなのよ。また、例えば、六〇秒のあいだだけ、時計の秒針の動きに心を集中させてみようと、かなり無意味なことを考えてみるとする。でも、数秒もしないうち、心はほかの雑念のほうに勝手に流れてゆきて、秒針に集中するという眼と心の動きがあやふやになりてきていることに、気づかざるを得ないのよ。愚かなことに、あたしは自分で試してみしことがあるのよ。気がつき、また眼と心を秒針に集中させようとしても、えらい苦労をするよ」
「ほう」
「とにかく、心や思考や雑念てそういうものなのよ。しかも、そのかん、体に何らかの必要が生じれば、その部位は、僅かなりとも、勝手に動いてしまうしね。これは、意識が運動神経をとおし自覚的に制御できる部位についても、そうだよ。つまり、意識がじぶんで動かせる部位だて、ふつう、勝手に動いているのよ。あたしたちが気づかないだけで。そして、自律神経で自己制御されている部位であれば、当然、意識の関与なくして、自律的に制御されているし。
つまり、主観の意識て、からだの動きにほとんど関与していず、かつ、動きに関係する無数の細胞内での相互作用の最前線にて物質に具体的にどのような動きが生じているかなど、一切、知らないのよ。
つまり、思考動作をふくめ、体が動くには、関係する全ての細胞におき、必要なすべての基本相互作用が発生しないといけないけれど、もしも主観がそれらを制御しているとすれば、それらて途方もない量の制御になるのよ。でも、そげなこと、主観は決して果たしてないし、できもしないのよ。すべて、個この細胞内での物質的な動きの最前線におき、物質みずからにより自己制御されている、と推測されるわけ、今のところは、まだね。その物質群の動きの方針て、どのように決定されているか、それはまだ分かんないけれどもね」
「うむ」
「ちなみに、この物質群の動きの方針・方向性の決定と、それに加えて、それらの動きの現実的な遂行て、きわめて重要なことと思われるよ。恐らく、ここが肝なのよ、生物の能動的で生産的な動きについてのね。とにかく、生物て、生きているあいだじゅう、能動的かつ動的に高度な秩序を生産しつづけているからね。物理法則に違反しているよう見える生物の動きの、その原動力と根拠とメカニズムが、最重要課題なわけなわけ。原動力は、まあ、散逸構造のかもしだす物理的秩序形成力のはずだけど。
でも、そこには、意識の必要性と存在理由もふかく関与している可能性が、きわめて高いと予想されるよ。物質の動きの方針の決定と、その動きの実施のところだよ。
だから、物質て、これくらい優秀だから、身体的な動作や、ニューロン網での観念処理と思われる動作も、自分らだけで組みあげつとしても、それほど有りえないこととも思われないよ。むしろ、細胞内での動作メカニズムの精妙さから類推するに、大いに有りうると考えられるよ」
「うむ」
「そして、ここには」青葉が言いつ。「いよいよ超むずかしい問題が浮上してくるよ。あたしたち主観の眼から見ると観念と解釈されるものを、ニューロン網を構成する下位層の物質たちが、精神性の助けを借りることなく、完全に物質だけで形成したり統合したり処理したりをすることが可能なのかどうか、という問題だよ」
「ええ? 物質が物質だけで観念を形成するわけ?」セァラが言いつ。
「そうだよ。問いとしては有りうるのよ。なにしろ、モニタァないし解釈者の機能を有しているあたしたちの眼から見ると、ニューロン網では超高級な観念処理がのべつ幕なしに遂行されているからね。と申しますか、意識から、物質群に、情報が伝達されて、それが物質群の動きに関与していることは、もう判明しつけどね」
「ああ、そういうこと」
「うん。でも見込みは薄いのよ。物質群が自分らで観念を処理している、というのではなく、上位の意識から、動作方針や指示が降りてくるかも知んないね。そして、それに従うかたちで、物質の最前線では、その詳細は分からないが、なぜか、整合性のきちんと取れている超複雑な動きのメカニズムが自然に地道に形成されて、化学反応レヴェルの基本相互作用がごく自然に発生するだけ、なのかも知んないよ。一個のバイオクワンタムにては、すべての構成要素によりて、それら全てが協調して動作するかたちで、全体的かつダイナミクな秩序が形成されるかも知んないよ。全体として見れば、このように評価される動きが、一個のバイオクワンタムにては、化学反応レヴェルで自然発生しているだけかも知んないよ。
だから、生物の根底の物質世界て、きわめて無味乾燥な物理世界かも知んないよ。意識を除外して、細胞内部の物質の最前線て、厳密な物理的リアリティに支配される世界かも知んないよ。なぜって、物質て、えらい優秀だから」
「ふーん。なんか、夢のような話だよ」
「まあね。なんか、あたしも、自分で話してて、なんか、ふわふわ夢を見ているような気がするよ。
それでもね、ゲイジ粒子をふくめ、この宇宙には物質しか存在しないことを思えば、観念的なことでさえ、その根底では、絶対、物理的なものにより実現されていないといけないはずなのよ。だから、満更、夢のような話でもないわけなわけ。
ただ、パタァンが形成されるだけではまだ足りないかも知んないね。そもそも、パタァンが形成されることでさえ、かなり不思議なことだから。なので、パタァンの形成をふくめ、物質の能動的で建設的な動きを強く支持してくれる何かべつの新しい物理的なメカニズムをまだ発見してないだけかも知んないよ、あたしたち」
「見込みはあるの?」
「さあ、どうだろうなあ? 今はまだ五里霧中と思われるよ。でも、暗中模索も、根気よく続けていれば、そのうち見つかるかも知んないな。いやいや、是が非でも新しい根拠を見つけないといけないのよ、あたしたち」
「うむ」
「じゃあさ、意識に自由意志はないとして」絵理が言いつ。「見掛けじょうで自由意志と解釈できるようなものは、物質レヴェルにもないわけなわけ?」
「物質レヴェルの自由意志?」青葉が言いつ。「うん、まあ、物質にプロウグラムされている動きのパタァンが、自由意志のようなもの、とは言えるかも。動作パタァンとか、思考パタァンとかね。ただ、自由かどうかは、まだ分かんないよ」
「ああ、そう」
「多分それが生物の本質なのよ。物質て完全に受動的なものなので、このユーニヴァースにふつうに発生する基本相互作用て、物理法則に完全に従うものだけなのよ。それでも、物質の優秀さ、または何らかの原動力ないしメカニズムに基づき、自動的に機械的に形成される動作パタァンが、普通には決して発生しない相互作用を齎すことができるかも知んないよ。それが生物の事象なのよ」
「普通には発生しない相互作用? ほう。なんか怪しげなものが登場しつやないの。じゃあさ、物質で形成される動作パタァンて、見掛けじょうでは物理法則に違反する相互作用をこの物質世界に引きおこせるものなわけ? そして、それができるのは、生物に書きこまれる動作パタァンだけなわけ? それが、自由意志のことであり、主体性のことなわけ? それがあたしたちの本体なわけ?」
「言うていることは分かるけどさ」セァラが言いつ。「相互作用に違反するて、どうも受けいれがたい気がするよ」
「その通りだよ」絵理が言いつ。「でも、今は、まだ、暗中模索中なのよ、あたしたち。そして、いろいろな選択肢に心を開いておくのも、それほど悪いこととも思えないよ。視野を広げてくれるからね。もっとも、基本相互作用への違反て、言語道断だけれどね」
「まあね。じゃあ、偶然はどうだろうね? パタァンに合わない偶然て、結構いっぱい発生しているはずだよ」
「ああ、そうね。パタァンに合わない偶然に襲われしばあい、どうすりゃいいのかな?」
「そうね」青葉が言いつ。「例えば、脳のない生物のばあい、動きが適当に生じてしまうのではないの? 場合ごとのきめ細かなプロウグラミンなど、とてもされてはいない筈だから。兎に角、物質として反応しないではいられないとすれば」
「じゃあ、それて」絵理が言いつ。「実際にはいい加減な反応てことになるけれど、でも、そういうのでも、端から見れば自由意志のように見えないこともないね?」
「まあ、そうだよ」
「それに、脳がありても同じだよ。どうすりゃいいか分からない状況て、幾らでも発生しているはずだから」
「うん」
「じゃあ、物質には」セァラが言いつ。「取りあえず、応急措置として、なんらかの反応は起きるけど、その後、入力にたいしての何らかの意味で整合性のとれし処理パタァンを形成する建設的な動きが生じるのではないの、自動的に、その生物の物質のなんらかの都合にしたがいて?」
「まあ、そうかもね」青葉が言いつ。「じゃあ、ジーノウムの指令かなんかによりて、物質で化学反応レヴェルの動作パタァンを形成したがる部分に、物質の自由意志がある、と解釈することも、できないでもないかもね。
ちなみに、脳だけでなく、体のほかの器官や組織にも可塑性が具わりている、と言えるかも知んないよ。元もと、脳て、器官の一つだから。脳て、体全体を制御するための観念処理をはたす超ユーニークな器官である、というだけのことなのよ」
「じゃあ、そうすると」絵理が言いつ。「結局、意識のがわの自由意志の夢て、ほとんど絶望的、ということになるんじゃないの?」
「そうかもね」青葉が言いつ。
「そして、あたしたちの主観てやはりモニタァないし解釈者または影ということに落ちつくんだ? 体やニューロン網に個体ごとの独自の動作パタァンが書きこまれるにしても。ああ、いやいや、意識が意識的経験に言及する動作に関与していることは判明しつけどね。そのうえで、自由意志があるかどうかが問題なのよ」
「まあね」
「すると、ここで」青葉が言いつ。「米国の心理学者のスキナァ先生(Burrhus Frederic Skinner)のことが思いだされるよ。先生て、行動主義(behaviorism)の先生なのよ」
「うむ」セァラが言いつ。「行動主義て、どういうものなわけ?」
「うん、あたしもよくは知んないけれど、行動主義て、物質とは別個に存在する独立的な精神の存在を認めておらず、自由意志が錯覚であるとする立場らしいのよ。そして、精神などていう科学的にはうまく扱えないものに頼らなくとも、動物の行動は研究できる、と考えられているようなのよ。行動を観察するだけで精神は研究できる、とされるのよ。言わば、二元論を認めておらず、物理的一元論である物理主義や唯物論の系統にぞくする考えかたなわけ」
「ふーん」
「そして、動物の行動が過去の行動の結果に依存する、とする考えらしいのよ」
「ほう」
「これて脳の可塑性に深く関係していると、あたしは睨みているけどね。ただ、詳しいメカニズムは分かんないよ、あたしなどには」
「うむ」
「そして、もちろん、スキナァ先生も、自由意志が錯覚であり幻想である、という考えの持ち主なりきそうなのよ。どげにして先生がそげな考えを抱くに至りつかは分かんないけどね。でも卓見と言うほかはないよ」
「先生も」絵理が言いつ。「動作が先走る人なりきではないの、青葉と同じに?」
「なるほど」セァラが言いつ。「気持ちがついていけなく、しょっちゅう頭がクラクラしていつとかね、青葉と同様」
「まあ、そうかもね」青葉が言いつ。「でも、自由意志が錯覚というのが、先生の実感なりきかも知んないよ。実際、人間て錯覚の塊なのよ。または、先生て、物事をとことん冷静に客観的に見ることができる人なりきかも知んないよ」
「かも知んないね」
「そして、ここで」青葉が言いつ。「よくよく謙虚に冷静に客観的に見てみると、考えというのて、ふつう、考えのほうから浮かんでくるよ」
「そうだけ?」絵理が言いつ。
「そうだよ。これは、もう、一歩うしろにさがり、ほんとに冷静に評価するのよ。すると、今あたしがこうして喋りていることでさえ、その遂行はニューロン網のほうで実施されていることが、見えてくるのよ。あたし自身は決してそういう操作はしていないのよ。よしんば、あたしがいきなり自分から自発的に何らかの不測の動作をしようと思うとしても、その前に、そういう思いそのものがニューロン網のなかに自動的に浮かぶのよ。なんらかの切っかけを初期入力としてね」
「ふーん、そげなものなのか。まあ、たしかに操作は何もしてはいないかも。思考は勝手に浮かびてくるのか。なにか変則的なことをしようとしても、そういう意向そのものが、勝手にニューロン網のなかに浮かぶのだ?」
「多分そうだよ。考えというのて、とにかく勝手に浮かびてくるのよ。なぜ浮かびてくるかと言えば、ニューロン網に形成される無数の思考パタァンに、初期入力として何らかの物理刺激が入るからだよ。生きているかぎり、物理刺激は入らざるを得ないのよ。そして、無数の思考パタァンと初期入力の組みあわせが、とにかく何らかの思考を生じさせてしまうのよ。これはもう偶然と捉える他はないよ。ほぼパタァンに沿う方向の思考が形成されるにしても。
なので、ニューロン網に形成される思考パタァンが、おのおのの個体の個性ということになるかも知んないな。とにかく、初期入力がどげに偶然に左右されるにしても、ほぼパタァンに沿う方向の思考が形成されるので。よほど強い不測の事態が生じないかぎり」
「なるほど。でも、あたしたち、普通、自分で考えていると思いているよね?」
「その通りだよ。そしてそれで構わないのよ。あたしなど、まさに自分で考えていると思いているよ、実相がどげにガッカリするようなものであろうとも」
「ものがものだけに、誤解しやすいというだけのことなのよ。思考てまさに自分の意識のなかに浮かびてくるからね。すると、誰だて、これは自分で考えている、と思いてしまうのよ」
「その通り。それでいいのよ。どう思いていようと、事実上、まるきり違いはないのよ」
「ちなみにさ」青葉が言いつ。「じぶんの自発思考や自由意志や主体性が錯覚かも知んない可能性のあることて、気づこうと思えば誰でも気づけるのよ。ヒントゥはちゃんとありきのよ」
「そうなんだ?」セァラが言いつ。
「そうなのよ。望まない動作をじいと見ていればいいのよ。自分ではそうしたくはないけれど、でも、嫌でもせざるを得ない動作というのがありて、それがいつ始まるか、を、冷静に観察していれば、いいわけなのよ」
「ああ、そうなんだ?」
「うん。たとえば、起床の動作とか、疲れてて今はまだ動きたくないのに体が勝手に動きはじめる瞬間とかね。こういう、心が二つに分裂しているときに、マダトーリな動作が開始される瞬間を、すばやく捕まえればいいのよ」
「なるほど」
「そして、『見たぞ』ということになるわけなわけ。あたしの観察では、あたして覆面青葉にけっこう振りまわされているよ、のべつ幕なしに。もうしょっちゅうなのよ。眼が眩みてならないのよ。勘弁してほしいのよ」
「いいんや、勘弁できまへん」