1章 無は存在しない
青葉は、おどけし性格の、凝り性の女子高校生。色いろなことに興味をいだいていて、物質研究家を自認している。短歌が好きで、滑稽味のある歌を詠むことが多い。同級生のセァラ(Sarah)は、日米のハーフ。合理性を重視していて、考えかたが落ち着いており、三人のなかでは一番の大人。同級生の絵理は、音楽好きで、ピアノウを弾く。生まれ変わりを信じていて、時どき思いもよらぬ着想をみせる。絵理もセァラも青葉に釣られて詠むことがある、時には、自分でも、歌を。
春休みの一日、三人で出かけしピクニクからの帰り道、青葉は道で転びてしまい、見苦しい転びかたをしつ、と絵理とセァラから責められる。楽器店で、青葉は、思いがけずに、Blue Oyster Cultという米国のロク バンドゥの『赤と黒』(The Red and the Black)というシングルCDを万引きしてしまうが、口止めのため、絵理とセァラにお好み焼きをご馳走せざるをえない破目になる。
そして、お好み焼き屋で、三人は、若さの体力にものを言わせて徹底的にしゃべりまくりていつが、今や、そのお喋りは、凝り性で物質研究家である青葉の性格に災いされて、なかなか異様なものになりていつ。
【概要】生命と意識の関係を青葉が絵理とセァラに説明する。また、無は存在しないという考えを哲学者のベルクソンが表明せしことも紹介する。
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【小見出しの目次】
意識と生命
生命の特徴(暫定版)
エントゥロピて、なんなりき?
機械と生物を分けるもの
シシファスの岩
無は存在しない
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意識と生命
「そう言えば」青葉が言いつ。「長年、不眠症に苦しみし甲斐があり、世界が存在することの答えが見つかりきのよ?」
「またまた何を言いだすのよ、青葉?」セァラが言いつ。
「世界が存在することの答えだよ」
「世界が存在することの答え? なに、それ?」
「だから世界が存在することの答えだよ」
「そげなものが、なんだと言うのよ?」
「いよいよ意識(consciousness コンシャスニス)の話が佳境に差しかかりてきつけれど、ここで意識理論体系を打ちたてるには、その前に、まず、基礎理論を構築しておかないといけないのよ」
「意識理論体系? 基礎理論? ほう」セァラは眼を丸くして言いつ。
「こういうことなのよ。ここで、もう、言うてしまいておくよ。
すなわち、意識て、得体が知れず、掴みどころのないものではあるが、間違いなく、生物の物質のなかに発生しているのよ。じぶんの実感と、人や動物や植物についての観察と、医学・神経学などの研究成果によれば。て言うか、いまの段階で言えるのは、動物の主観の意識て、その動物の脳のなかに発生しているように見える、というくらいのことだけど。でも、明白なことなのよ。譲れないことなのよ。そして、こういうことて、意識解明の手掛かりの一つになるのよ。
そのゆえ、意識を発生させるには、物質の正体は、ある程度は解明し、明らかにして、少しくらいは理解し認識しておかないといけないのよ。さもないと、意識は、決して、断じて、発生させられないよ」
「ふーん」
「さらに、生物て、呼吸が停止してしまうと、すみやかに死亡してしまうけど、これて不可逆の事象でありて決定的なことなのよ。つまり、ここに、逆に言いて、生命が出現する鍵があるのに違いない、と思われるのよ。呼吸の停止が命を奪うのだから、呼吸の継続が命を供給しつづけているはずなのだ、と推測できるのよ。
すなわち、微生物や細胞のなか酸素を消費することで果たされている何らかの生化学的なプロセスのなか、生命と、そして意識が、発現する鍵がありしわけ。一旦ここに注目してしまうなら、これて極めて明快な鍵なのよ。これも手掛かりの一つになるよ」
「ほーお、たいした豪語だ」セァラが言いつ。「でも、青葉ちゃん、いままで意識のことを話していつのに、どうしていきなり命が出てきしわけなわけ?」
「ええ?」青葉は怯みしように言いつ。
「変じゃないの。ひとをペテンにかけるようなことは言わんといてほしい」
「いやいや、て言うか、意識が生きているのは明らかなのよ。だから、意識が、命と密接な関係にあることもオブヴィアスなのよ。だから、せっかく命の鍵が見つかりきのだから、それを梃子にして、意識の解明に弾みをつける、というのが、正しいアプロウチのように思われるのよ」
「いやいや、青葉ちゃんよ、はっきり言いて、命のほうがモーア掴みどころがないよ。命て、なんとなく分かるようでいて、その実、その正体がなんなのか、さっぱり分かんないのよ。意識のほうがよほど理解しやすいし掴みどころがあるのよ。なにしろ自分が意識だから。自分のことだから、ある程度は分かるのよ」
「ほんとに分かるわけ?」
「分かるのよ」セァラは偉そうに言いつ。「たとえば自分が生きていることは分かるのよ。意識があるからね。でも、その、自分が生きているということが、得体が知れなく、掴みどころがないのよ。つまり命てほんとに掴みどころがないのよ」
「なるほど。まあ、確かに、命て掴みどころがないちゃないけどね。誰かに、命とはなんですか? と問われても、簡単には答えられないよ。言葉をなくし、貝のように口をとざし、黙然と押し黙るほかはないのよ。返す言葉がないのよ」
「そうだよ」
「それでも、呼吸と酸素消費プロセスの部分だけは、自然科学の射程内にあり、生化学とか分子生物学とか熱力学とか物理学とかの担当になるので、しっかり捕まえられるのよ。これを逃す手はないのよ」
「気持ちは分かるけどね。でもさ、命と意識がふかい関係にあるかどうかなど、そもそも分かんないよ」
「いやいや、そこなのよ。ふかい関係にあることが予め分かりているから何かをする、というのでは、話になんないのよ。フレンドゥリな関係にあるかどうかは分かんない。さりとも、親密なリレイションにあることは強く推測される。それで、それを手がかりにして、インティミトゥなリレイションシプを、剔抉し、暴きだしていけばいいのよ。そして、呼吸の停止と同時にいのちと意識は永遠に失われてしまうのだから、いのちと意識が大の仲良しなのは、実際、アパレントゥなのよ」
「ふん」
生命の特徴(暫定版)
「ちなみに言うと」青葉が言いつ。「意識の観点から見て、生命がどういうものであるかは、もう、ある程度のことは考えてあるのよ、暫定的に」
「ほう」セァラが言いつ。
「要するに、生命の特徴をすこし挙げてみしわけ」
「へーえ」
「七組ほど考えつのよ。べつに秘密にするほどのことでもないので言いちゃうよ。
まず、ひと組め。ひと組めの生命の特徴とは、生物についての客観的な観察を謙虚にまとめるならば、次のようなことなのよ。まず、①として、物質とエナァジの自発的な新陳代謝の持続なのよ。次に、②として、こういう新陳代謝が自動的に稼働しつづける仕組みが物質により形成されている、ということなのよ。この二つだよ」
「ああ、そうなんだ? 物質とエナァジの自発的な新陳代謝の持続と、そういう仕組みの形成。まあ、そうかも知んないね」
「そうだよ。日び、物質とエナァジを取りいれて、その新陳代謝を持続させ続けなければいけないて、生物の定めなのよ。決定的な定めなのよ。この定めを免除されている生物などて、いないのよ。特に動物のばあいはね。
動物て、とても悲しいことだけど、生きてゆくには、かならず、物質とエナァジを外部から取りいれないといけないのよ。これは、つまり、他者の物質とエナァジを強奪する、ということなのよ。その可哀想な他者が、植物であれ、動物であれ、その命を奪わないといけないわけなわけ。さもないと、生きてゆけないのよ。すみやかに苦しみが襲いかかりてくるのよ。そして、最後には、物質とエナァジの欠乏により死亡してしまうわけ。もう体を動かせなくなるからね。植物なのなら、無機物と太陽光線をつかい、自前で新陳代謝ができるけれどもね」
「ああ、そうなんだ? 日び、物質とエナァジを取りいれるて、定めなのだ? 当りまえだから、だれも考えないけどね。意外な盲点かもね」
「そうだよ。致命的な定めなのよ。とてもさもしく悲しい定めなのよ。たいへん遺憾なことに。それで、その定めに従うかぎり、呼吸と酸素消費プロセスを継続させて、生き続けていることができるわけ」
「なるほど」
「それで、ついでなので、すこし道草して、新陳代謝に関わることを少しだけご紹介しておくよ」
「うむ」絵理が言いつ。
「まず、生物の細胞のなかには、物質とエナァジの新陳代謝の仕組みが幾つも実装されているそうなのよ。例えば、クエン酸回路(citric acid cycle, CAC; tricarboxylic acid cycle, TCAサイクル, トゥリカーボクシリク酸回路; Krebs cycle, クレブス回路)とか」
「へーえ。どげなもの?」
「うん、細胞内でエナァジを発生させるためのものだそうで、細胞内に共生しているマイトコンドゥリア(Mitochondria)と深い関係にあるそうなのよ。ただ、えっらい複雑な仕組みで、あたしにはとても理解できないよ」
「なるほど」
「それで、クエン酸回路の生化学的な仕組みの詳細のことは脇に置いといて、その全体をまた別の観点から評価してみると、そこには新しい観念がいくつも組みこまれていることが納得されるのよ。クエン酸回路ひとつを取りても、それは、新規の特許をいくつも使いて製造されているようなものなのよ。これは進化に関わることだけど」
「おっと、いきなりそげな話になるわけ?」
「ああ、いや、ちょっと口が滑りしだけだよ。他方、細胞が生きていて、クエン酸回路を始めとする各種の新陳代謝の回路があるていど定常的に回転していることて、これも秩序の形成と言えるのよ。動的な秩序なのよ。きわめて高度な動的な秩序なのよ」
「おや、今度は秩序?」
「うん、まあ、秩序て、じつは、すげえ重要なことなのよ。これからのことを考えると。それで。ちなみに、あたしが言うているのて、物理的な秩序のことだけど」
「ふーん」
「そして、もしも細胞が死亡していて定常運転が停止してしまいていれば、どげに高度な観念により製造されし精妙で複雑な仕組みであろうとも、それは無数の物質のただの集合でしかないわけなのよ。
つまり、細胞内の動きの一つとして、クエン酸回路が安定的に回転するていうのて、それがそのまま秩序の生産になるのよ。動的で高度な物理的秩序なのよ。無数の物質を組みあわせ、物質の変換をふくむ、自然には決して発生しえない高度な動きが、定常的に維持されているのだから」
「うむ」
「秩序の形成て、巨視的に高級なものを製造する動きだけでなく、動作しうる高度な仕組みが実際に動作することも、それに当たるのよ。新陳代謝のサイクルのように、回転しうる高度な仕組みが現実に回転しつづけることて、高度な秩序の形成になる、と思われるのよ。しかも、新陳代謝の仕組みて、自然には形成されえないものなのよ。なぜかは知んないけれど、細胞内では、自然には形成されない仕組みが実際に形成されて、かつ、それの定常的な運転が維持されてもいるわけなわけ」
「ふむ? なんか難しいことを言うてたみたいだけど、要点はどういうことなわけ?」
「ええ? 要点? ああ、なんだろうなあ? 要点はなにか? て言うか、今はまだ難しいことは聞かんといて欲しい。これからのことを考えて、少しだけ導入させていただきしだけなのよ。だから道草はこれで終わりにするよ」
「それは結構」
「そして、ふた組め」青葉が言いつ。「ふた組めの生命の特徴とは、①として、精神性なのよ。つぎに、②として、精神性にもとづくと推測される物理的な能動性なのよ。そして、③として、気まぐれさなわけなわけ」
「へーえ、精神性と、物理的な能動性と、気まぐれさ」セァラが言いつ。「気まぐれさなどてものが、生命の特徴なわけ?」
「うん、そうだよ。間違いないのよ。生物の精神状態て、生物の手の届かないところで、徹底的に、とことん変化しているのだから。一個の生物が、時間の流れのなかにて、完全におなじ精神状態でいつづけることや、以前とおなじ精神状態になることなど、絶対に有りえないのよ。ごく大雑把には同じような精神状態になるてことなら幾らでもあるけれど、厳密に同一の精神状態には決してなれないのよ。生物には、そげなこと、逆立ちしてもできないよ。そもそも、物質の体の状態が以前と同じ状態になることが決してないのだから。この物質世界の完全な偶然性と徹底的な不確実性に翻弄されて。たとえ微生物であろうとも。
つまり、精神て、じつは、変化を受けることを、物質により無理強いされ続けているわけなのよ。それは、だから、実際には気まぐれさではないけれど、巨視的には、もう、精神の気まぐれさと見るほかはないわけなわけ。物質の動きの偶然性と不確実性が精神をのべつ変化させ続けていることなんか、誰も気づかないからね」
「ふーん」
「そして、三組め。三組めの生命の特徴とは、生命を即物的に物理学的に評価せしものとして、物理現象であることなのよ。意識が時間の関数であり物理現象であることは、哲学者のショーペンハウアー先生(Arthur Schopenhauer アルトゥール ショーペンハウアー)がもうだいぶ前に発見しているけれど、意識とふかい関係にある生命も、すると、同様に、物理現象なわけなわけ。
そして、物理現象であることを少し分かりやすく言いなおすとすると、期限つきの持続性・可変性・減衰性というようなものになるよ。ここから、残響性や残像性ということも、特徴と言えるよ」
「なるほど。四組めは?」
「うん、四組めの特徴て、徹底的な可変性のことなのよ。物理現象なので変化するのは当然だけど、でも群を抜いているのよ。物質に無理強いされて片時も休むことのない自分の意識の変化が、無意識的に、自分が生きているという思いになりている、と強く推測されるのよ。
まず、変化しているかどうかは問わなく、じぶんの意識が持続している、じぶんの認知力が持続しているという、無意識的な持続の印象が、自分が生きているという思いになりているとは思われるけど、この印象てあまりはっきりせしものではないのよね。また、じぶんの命が減衰しているなどて、だれも考えはしないのよ。でも、これらに較べ、じぶんの意識の変化て歴然としているゆえに、可変性がぬきんでるわけなわけ。
命が減衰するものというのて、間違いないことなのよ。このゆえにこそ、生物て、呼吸と酸素消費プロセスを果てしなく繰りかえしていかなくてはいけないわけなのよ。
そして、自分が生きているという実感は、その通りなのよ。じぶんの意識て時々刻々変化しているゆえに。その変化の原因が、なんであろうと構わないし、問わないのよ。生きていることを先験的に定義することはできないのよ。自然にそういう気持ちが生じるということが、重要なわけ。
こういう次第で、可変性を特に四組めに挙げしわけ」
「ああ、そう。で、五組めは?」
「うん、五組めて、果てしなさや無期限性のことなのよ。これは説明するまでもないけどね。生物て、いろんなことを果てしなく続けているよ、期限を定めずに。呼吸をしたり、飯を喰うたりね」
「まあ、そうかもね。六組めは?」
「うん、六組めて、物質とエナァジの新陳代謝による、じぶんの体という動的な秩序の、自発的な形成・運用・修復・解体などのことなのよ。これらて、生化学的で熱力学的な観点からみし特徴であり、エントゥロピ生成の減少と増加や、情報量の増加と減少とも、言えるのよ」
「なるほど。解体て、どういうこと?」
「うん、まあ、生物て、なんでか知んないけれど、わざわざ手間暇かけて、そういうことも遣りているらしいのよ。細胞の更新とか、マイトコンドゥリア(Mitochondria)などによる、物質とエナァジの新陳代謝とかで。また、さまざまな原因により細胞の損傷とかを受けて。
どうも、こういうことを断続的に繰りかえしていると、エントゥロピ生成の減少も、断続的に継続させられるらしいのよ。当然、エナァジを使うわけだから、エントゥロピは増加はするけれど、部分的にはエントゥロピの生成が減少するわけなのよ。まあ、要するに、エナァジは消費はするものの、巨視的にみてエントゥロピ生成速度が減少する化学反応レヴェルの相互作用も、じぶんの活動のなかに無期限に含めつづけていたい、ということらしいのよ」
「へーえ、そうなんだ?」
「うん、そうらしいのよ」
「七組めは?」
「うん、最後の七組めて、生命て、恐らく、物質の化学反応により齎されているだろう、ということなのよ」
「ええ? 化学反応?」
「まあ、すこし分かりにくいかも知んないけどね」
「うん、分かりにくいよ。どういうことなわけ?」
「うん、つまり、植物の種があっじゃん」
「うん、あっじ」
「生命の七組めの特徴て、植物の種とじいと睨めこしていると、そこはかとなく憶測されてくるのよ」
「どういうこと?」
「そうね、種て、平素は休眠状態にあるとは言えるのよ。でも、今この瞬間には生命活動をしていないので、事実上、死にているのよ。仮死状態くらいかな? でも、水洗いして、水を含ませてやると、いきなり息を吹きかえし、命の灯がともり、生命活動を再開するのよ」
「ああ、そうね」
「うん。すると、生命活動の再開は、具体的には、水分の供給がトゥリガァになりてはいるが、その心が意味する核心の事象て、水分が供給されることにより何らかの化学反応が自動的に引き起こされる、ということなのよ。これがキーなのよ。この、化学反応が起こるという状況に、アクティヴな命が現実に発生するに足る何らかの秘密が宿されている、と推測されるのよ。生命が発生するという、なかなか上等な現象が発生するのに較べ、その現場での状況て、けっこう単純なのよ。
ただ、種に生命活動を開始させ、発生せし命を持続させ、種を成長させつづける仕組みて、超高級なもののはずだけど。
そして、このばあいの水分の供給て、目的とする化学反応を引き起こすための単なるトゥリガァでしかないはずなのよ。
重要なのは、生命を発生させるに足る何らかの化学反応が引き起こされるということなのよ。なんらかの化学反応が起こるということに、間違いなく、生命発生の秘密が隠されているはずなのよ。その意味は、今はまだ分かんないけれどもね」
「ああ、そういうこと。まあ、そうかも知んないね」
「以上の七組」
「うん」
「それで、ふた組めの、物理的な能動性て、分かりにくいかも知んないので言いなおすとすると、物質の自発的な動き、というようなもののことを、ここでは指しているのよ。当面、生命を、自動的なものとは考えないわけなわけ。あくまで自発的なものと解釈するのよ。取りあえずは精神性にもとづくと想定しているのでね。
また、気まぐれさて、移り気とか、むら気とか、お天気とも、言うよ。当てにならないとも、予測が不可能とも、言えるよ。
ただ、この通りかどうかは分かんないけどね。素直な精神の持ち主にはそう見えるであろう、というだけのことなのよ。お門違いかも知んないし、他にもあるかも知んないよ。それでも、それらを手がかりにして、試行錯誤を繰りかえし、意識発生の仕組みを探索してゆくのでR、ということなのよ」
エントゥロピて、なんなりき?
「ところでさ」絵理が言いつ。「エントゥロピて、なんなりき?」
「うん、なんなりきと言うと」青葉が言いつ。「エントゥロピて、ごく大雑把な言いかたをすると、エナァジ、つまり、熱や物質の、乱雑さを表わすもの、らしいのよ」
「ああ、乱雑さ」
「うん、乱雑さ。そして、エントゥロピて、より正確には、乱雑さの量を表わすらしいのよ。乱雑さの強さではなくて」
「へーえ」
「たとえば、Aの箱にリンゴが3個はいりていて、Bの箱にリンゴが5個はいりているとする。すると、合計では8個になるよ。
ここで、リンゴがかりに乱雑さを表わしていると見なすと、Aの箱の乱雑さの量は3で、Bの箱は5なのよ。そして、AとBを合わせし全体の乱雑さの量て、足し算して8になるのよ。
つまり、こういう風に、エントゥロピつまり乱雑さの量て、リンゴの個数のように加算ができる、と定義されているのよ」
「ほう。加算ができるんだ、エントゥロピて?」
「その通り。そして、こういう風に、加算ができる物理量(physical quantity フィジカル クワンティティ)て、一般に、示量性(extensive property)の物理量て言われるのよ」
「なるほど。他には何かある?」
「そうね、加算のできる示量性の物理量として、他には、体積とか、質量などが、あるよ。長さや時間なんかも、そうかも知んないな。これらだと端的に分かるよね?」
「ああ、そうね」
「そして、他方、示量性の物理量とは別に、示強性(intensive property)の物理量というのもあるのよ」
「へーえ。どういうものなわけ?」
「うん、つまり、強さを表わす物理量なのだけど、例えば、温度とか、圧力とか」
「ああ、そういうことなのだ? ものには、単純に量を表わすものと、強さを表わすものがあるわけだ? へーえ、大したものだ」
「まあ、そうかもね。ちなみに、示量性の物理量て、スケイラァ(scalar)量だけど、示強性の物理量は、だから、ヴェクタァ(vector)量のようなもの、と言えないこともないよ。ただ、温度や圧力てあからさまなヴェクタァ量ではないけどね。それでも、エントゥロピて、こういう観点から見ると、スケイラァ量なわけなのよ。
ちなみに、また、温度とか圧力とかの示強性の物理量て、足し算はできないのよね。たとえば、一〇℃の水と二〇℃の水を混ぜても、一般には、三〇℃の水にはなんないのよ。むしろ、中間のどこかの温度になるのよ。つまり、示強性の物理量て、一緒にすると、均等にならされる感じになるのよ」
「なるほど」
「さらに、エントゥロピて、長さや時間や質量や温度などのような具体的な物理量でなく、計算により求められる値らしいのよ」
「ふーん」
「ただ、エントゥロピの概念て実際にはかなり分かりにくいものらしく、熱力学と統計力学と情報理論では、それぞれ意味が微妙に異なりているらしいのよ」
「うん」
「さて、ここにある物品があるとして、それの温度を1℃あげるのに必要な熱量のことて熱容量て言われるのよ。すると、その物品の温度が1℃あがると、その物品がかかえる熱つまりエナァジて、この熱容量の分だけ増えることになるよ。
そして、エントゥロピて、この熱容量と単位が同じなわけなのよ。どうしてかは分かんないけどね。そして、物品の温度が上昇せしばあい、物品のエントゥロピもそういう状態の変化に応じて増えるのよ。
つまり、物品の温度が上昇すると、その物品についての乱雑さが増えるのらしいのだけど、それは何故かと言うと、その物品を構成する無数の物質の運動エナァジが増加して、それらの物質の状態の不確定さが増えるためらしいのよ。
つまり、乱雑さて言葉て、不確定さ・不確実性・不規則性などの言葉と言い換えることができ、さらに、逆に、組織性の減少・秩序の減少・情報の喪失などとも言えるらしいのよ」
「なるほど。そう言えば、乱雑さが増えると、秩序ある情報て減るかもね」
「かも知んないね。そして、この宇宙のほとんどの物理過程では、乱雑さが増えて、秩序や情報が減りてゆくらしいので、それで、一般に、エントゥロピは増大する、て言われるらしいのよ。これて、熱力学第二法則(second law of thermodynamics)だそうなのよ」
「ふーん」
「逆に、生物にては、エナァジは確かに消費はするものの、他方、その力によりて部分的に秩序が生産されて情報が増えてもいるらしいので、それで、その分、生物でのエントゥロピ生成は低減する、とも言われるのよ。エントゥロて、増えるばかりの量で、減ることはないけれど、生物にては、増える速度が低下するわけなのよ」
「なるほど」
機械と生物を分けるもの
「じゃあさ」セァラが言いつ。「ふた組めの、精神性と、物理的な能動性と、気まぐれさが、生命の特徴になるのには、どういう理由があるわけなわけ?」
「うん、どうしてかと言うと、生命て、機械と生物を分けるものだから」
「ええ? 生命て、機械と生物を分けるもの? なんか嫌な予感がするけどね、そういう言いかたて。直截ではないよ」
「そうかな?」
「それにさ、それて当りまえじゃん」
「当りまえ? まあ、当りまえちゃ当りまえかも知んないけどね。でも、意外な盲点なのよ。《灯台もと暗し》なのよ。《目糞が鼻糞を笑う》ようなものなのよ」
「ああ、そういうのてさ、英語では、《the mote in another's eye》て言うのよ」
「なんて意味?」
「人の眼のなかの塵、ていう意味」
「ああ、なるほど。なるほど。でも、こういう、ついつい人が見逃してしまいがちなところに、重要な鍵て潜みているものなのよ」
「へーえ」
「そして、また、機械と生物を分けるものて、素直な精神にとりては、精神性と、物理的な能動性と、気まぐれさなわけなのよ。ほら、繋がりきじゃないの。すなわち、生命とは、精神性と、物理的な能動性と、気まぐれさ、のことなのでR」
「ふん」
「ごく素直に見て、生物て、物質世界の予言不可能性に翻弄されつつ、それでも、自分で、能動的に、かつ建設的に、動いているよう見えるのよ。しかも、その能動性と建設性て、精神性に基づいているよう見えるのよ。必要がないので、人は絶対こういうことは考えないけれど、でも無意識的には知りているのよ」
「うむ」
「すると、ふた組めの生命の特徴て、ひと言で言うこともできるのよ。すなわち、生命の特徴とは、むら気な能動性を具えている精神性のことなのでR」
「でもさ、素直な印象は印象として、そもそも、精神性など、生物にほんとうに具わりているわけなわけ? そういう判断が難しいことを気軽に言うていいの?」
「いいのよ。そして、じつは、生物に精神性が具わりているか否かて、さほどの問題ではないのよね、今のところは、まだね。また、精神性に基づいているよう見える移り気な能動性が、本当にその通りのものなのか、はた、また、そのように見えているだけなのか、も、いまは問わなくてもいいのよ。こういうことはまた別の問題になるのよ」
「なんで?」
「なんでて、精神性て、意識を発生させることで漸く出現するものだから。なので、意識の発生とは直接の関わりがないわけなのよ。
しかも、意識て、精神性とは異なり、すこぶる物理的なものなのよ。なので、調べることが丸きりできない、というものでは決してないのよ。しかも、さらに、意識の物理的な側面が明らかになれば、それは、精神についての深遠な問題を解き進めるための手助けにならないとも限らないし。
だから、意識を発生させることが最重要課題のばあい、その後のものにすぎない精神のことなど少しも気にする必要はないわけなのよ。精神についての上等な質問のことは、意識を発生させしあとで考えればいいわけなわけ」
「ほう」
「それでも、なにかの役に立つこともあるかも知んないゆえに、当面、その真偽は問わなく、普通にはそのように判断される印象を基にして、話を進めるわけなのよ。すなわち、生命のふた組めの特徴とは、予言不可能な物理的能動性を具えている精神性のことなのだ、という想定で、話を進めるわけなのよ」
「へーえ」
「というわけで、精神すなわち意識が命と大の仲良しなのだという直ぐには得心しづらい推測も、精神性が命の本質なのだということを素直に認めるかぎり、十分、納得できることになるのよ。そして、呼吸と細胞での酸素消費プロセスが命の鍵であることはもう判明しているゆえに、その辺りを探ればいいということなわけ」
「うむ」
「ただ、生化学だけでは、この鍵の意味はなかなか掴めないけどね。なぜって生化学てえっらい細かい学問分野だから。あまりに細かすぎ、生化学だけに注目していつのでは、生命の発生という超レアァな物理現象が具現しているところの重要な意味は、なかなか見えてはこないのよ。
だから、この鍵の意味を白日のもとに引きだすためには、物理学や熱力学の立場に立ちて、モーア大雑把に太っ腹に大局的に眺める必要があるのよ」
「ふーん」
「また、生物が出現しつということは、そこには、それまでの物質だけの世界には決して見られなかりき新規の物理法則が適用されつ、とも、憶測されないでもないわけなのよ。生物て、クリヤァな眼で見しばあい、なんとなく新規の物理現象のようであり、新しい物理法則を体現しているように思われるのよ。
なぜって、生物て、見掛けじょうでは自分の自由意志で動くことができているよう見えるけど、そういう自発的な能動性て、これまでの物理法則だけでは完全には説明できないのではないか、と憶測されるから」
「うむ」
「そして、あたしは、前にも言いしとおり、物質研究家として、意識には自由意志というようなものは具わりてはいないのではないか、というような考えに、傾いてきているのよ」
「それは聞きつけどね」絵理が言いつ。「でも、はっきり言いて、あんたて恐ろしいことを考えてんのね、青葉?」
「どうかな? まあ、つらいちゃつらいけれどもね。あたしは板挟みなのよ」
「いやいや、恐ろしいよ。だって自由意志がないのだから」
「そうかな? 自由意志があると考えようが、ないと考えようが、なんら変わりはない気がするけどね。実際、あたしたち、自由意志がないのに、あると考えることができているよ」
「いやいや、それて詭弁だよ。で、それで?」
「うん、それで、詳しく言うと、こういうことなのよ。仮に、どこかに自由意志のように見えるものがあるとして、それは、意識を体現している物質のほうに発生しているのではないか、そして、意識には単に物質の動きが映されているだけなのではないか、というようなこと。そして、もっと恐ろしいことに、物質にさえ自由意志は発生していないのではないか、それは単にそういう風に解釈したいだけなのではないか、というような言語道断な疑いすら、あるわけなのよ」
「ほう」
「ということで、意識に関しては、こういう形而上学的に見てきわめて奥のふかい問いが有りうる、ということなのよ。それで、あたしとしては、まず、自由意志というものはないかも知んない、という仮の考えを立ててみしわけ、真摯な物質研究家としてね」
「うむ」
「て言うか、さきほども言いつけど、意識の発生そのものに関しては、自由意志や自発的な能動性て、まるきり問題にはなんないけどね。
そして、戻るけど、これまでの物理法則では説明しきれないよう見える部分に、あたらしい物理法則が適用されて、なにか新しいものが発現しているのではないか、と推測されるよ」
「そのさ、これまでの物理法則では説明しきれない部分て、具体的にはどういうものなわけ?」
「そうね……、物質のなかに精神性が発現しているよう見えることとかね。それに、物質のなかに、さらに、精神性にもとづく気まぐれな能動性が具わりているよう見えることとかね」
「ふーん」
シシファスの岩
「なんか、だいぶん道草してしまいしようなので、また戻るよ」青葉が言いつ。「さて、卵子と精子というものがあるけれど、これらて、実は、一個の、独立せし、生きている単細胞生物なのよ。遊離細胞なのよ。だから、新生児の命て、新規に出現するものでは決してなくて、卵子と精子のアクティヴな命がひとつに融合してできる結果のものなのよ」
「うむ」セァラが言いつ。
「すると、地球上のすべての生物て、植物・動物の別を問わなく、太古のむかしに最初の生命が発生せしときから、それらの命は連綿と継続していることに、なるよ。アクティヴな命をずるずる引きずりているわけなわけ。
すべての生物の祖先を遡ると、それはただ一つの個体に行きつくのでありて――と言いますか、生物の起源ははっきりしなく、また、祖先がただ一つの個体なりしかどうかも分かんないけれど――、その大先祖様の出現以来、生きている全ての命は途切れることなく陸続と持続してきているのよ。およそ数十億年。驚くじゃん。信じらんないよ。そのかん、活動度が極端に低下して休眠状態になりてしまいしことはありきにしても、命が完全に途切れてしまいしことは一度もなかりしはずなのよ。なぜって、死にてしまえば、子孫は決して残せないからね。なんと、驚き。あたしたちの命て、数十億年のあいだ延えんと持続してきているのよ、無数の個体を乗りつぎ、また、枝分かれをしながらね。また、DNA(Deoxyribonucleic Acid ディオクシライボウニュークリーイク アシドゥ、ディオクシライボウ核酸)が変化して、どんどん進化して、進化の枝分かれも沢山してきてはいるけどね」
「なるほど」
「すると、ここで、さっき挙げし生命の特徴としての果てしなさや無期限性のことが思われるよ」
「そうかな?」
「まあ、多少の無理はあるかもね。まあ、でも、固いことは言わないで。すると、そうすると、永久運動機関(perpetual motion machine)のことも連想されるのよ」
「永久運動機関? なに、それ?」
「うん、永久運動機関て、エナァジを消費することなしに、いつまでも仕事をしつづけていられる装置のことを指しているそうなのよ」
「ほう」
「たとえば、永久運動や果てしなさということでありゃ、まず、メービアスの帯(Möbius strip, Möbius band)とか、クラインの壺(Klein bottle)とか、エシャー(Maurits Cornelis Escher)の絵とかが、なんとなく連想されるのよ。でも、これらて物理的な動きが全然なくて静的なものなのよ。だから参考ていどのものなのよ」
「へーえ」
「つぎに、惑星のまわりを果てしなく周回している月や衛星なども連想されるけど、これらだて、水平方向の慣性にもとづく見掛けじょうの遠心力と惑星の引力とが釣りあいているなかで、衛星が惑星のまわりを第一宇宙速度で延えんと自由落下しているだけのものなのよ。つまり仕事をしているわけではないのよね。だからこれらも永久運動機関ではないわけなのよ」
「うむ」
「そして、また、シシファス(Σίσυφος, Sisyphus)の岩のことも連想されるのよ。これが今の話にはいちばん合いているかもね。
神がみを二度もだませし罰として、シシファスは大きな岩を山の頂きまで運びあげねばならないことになりきのよ。だけど、あともう少しのところで岩は下に転げおちてゆきてしまうのよ。それでシシファスはこの徒労を永遠に繰りかえさなければいけないことになるわけなのよ」
「話の要点としては、どういうことなわけ?」
「うん、まず、実は、岩を運びあげる仕事をするとは言うても、シシファスはきっちりエナァジを消費しながらそうするわけなのよ。恐らく麓で飯をたっぷり喰うたうえで。途中でお弁当を食べるのでも、いいけれど。だから、このことだけでもうこの話の全体は永久運動機関とは関係なくなるわけなのよ。このことは率直に認めないといけないよ」
「ああ、そう」
「それで、生命の果てしない労苦に関わることなので、かなり説明しづらいけれど、この話の全体が、生物の呼吸と酸素消費プロセスのエンドゥリス ループに、ちょうどうまく対応しているよう、見当がつけられるのよ」
「分かんない」
「うん、まず、シシファスが麓で飯をたらふく食べるてことて、シシファスにとりての物質とエナァジの補給に当たるのよ。さもしい定めなのよ。
つぎに、シシファスがえんやこらと大岩を山頂ちかくまで運びあげることて、岩にポテンシャル エナァジを充電することを、意味しているのよ。これは、細胞のことで言えば、ADPすなわちアデノシーン二リン酸(Adenosine Diphosphate, ADP)を、ATPすなわちアデノシーン三リン酸(Adenosine Triphosphate, ATP)に変換し、細胞へ活動エナァジをチャージすることを、暗黙のうちに示しているのよ」
「うむ」
「そして、その後、岩が山からガラガラごろごろ転げおちることが、岩にチャージされしポテンシャル エナァジの放電になるのよ。この場合、ポテンシャル エナァジが、有効活用されることがなく、ただ、ただ、無駄な運動エナァジになり、最終的には品位のわるい熱エナァジになるわけなのよ。細胞内のATP合成酵素やATP合成サブシステムが、わざわざ、苦労して、ADPをATPに変換し、細胞にエナァジを充電しつというのに、すべてが無駄に浪費されてしまうわけ。
だから、シシファスて、ATP合成酵素やATP合成サブシステムのようなものなのよ。そして岩がATPなのよ」
「ふーん」
「ちなみに、ATP合成酵素て超精密なナノマシーン(nanomachine)なのだそうなのよ。
こういう次第で、シシファスの岩の寓話て、なんでか知んないけれど、呼吸と酸素消費プロセスという生物の果てしない基本動作のことを思わせるのよ」
「それで?」
「つまり、システム全体が物理的にしっかり構築されて順調に動作している限りにおいて、細胞にチャージされしエナァジは、有効活用されてもいいし、無駄にディスチャージされても構わないのよ。細胞や生物て、自分のなかにしこたま溜めこみしエナァジを、どないな活動に使いても構わないし、どげに無駄づかいしても構わないのよ。ここには、生存の根本的な目的のなさが端的に現われているよ。システム全体がいつまでも回転しつづけていられさえすれば、それでいい、ということなのよ。
また、全体的に見ると、このエンドゥリス ループにては、なんでか知んないけれど、山や細胞にエナァジが流されつづけている、と評価できるのよ。有効であろうとも、無駄であろうとも。ちなみ言うと、このことて、けっこう重要なことなのよ。あとあとえらい強烈な効果を発揮するのよ」
「へーえ。で、それで?」
「うん、それで……。つまり、まあ、この話の趣旨としては、一旦、こういう体制が物理的な仕組みとして構築されて、スウィチが入れられてしまえば、そのあと、そのシステム全体は巨視的なマシーンとして自動的に稼働しつづけるであろう、というような事なのよ。物質とエナァジが外部から供給されつづける限りにおいて。機械やロウボトゥみたく。酸素とエナァジを消費して、シシファスが大岩を山頂に運びあげ続けるかぎりはね。
つまり、巨視的な能動性て、それを可能とする巨視的な根拠さえあれば、べつに不思議でもなんでもないわけなのよ。そして、生物でも同じことなのよ」
「ああ、そう」
「また、生命をエンジンに例えれば、生命て、単に、大昔に始動せしエンジンが、巨視的な根拠によりて、長ながと、今にいたるも動きつづけているようなもの、とも言えるのよ。
ただし、生命のエンジンて、巨視的な物理現象の定めとして強い減衰性を帯びており、波の重ねあわせの原理によりて、その生命性を果てしなく繋いでいかなくてはいけないものなのよ。
それが証拠に、生物て、始動済のエンジンを停止させないようするために、毎日、めしを喰い、ガソリンを補給しつづけているのだから。毎日めしを喰うのてマダトーリな決まりごとなのよ。
そのエンジンがどういうものなのか、詳しいことは今はまだ分かんないけどね。
ま、要するに、物質が自動的に動作しつづけるとしても、物理的に問題なくそうすることのできる自動運転システムなのでありゃ、なんら不思議はない、ということなのよ。生命といえども、それほど神秘的なものではない、ということなわけ」
「うむ」
「不思議なのは、大先祖様たる原初の微生物に、どげにしてそないな仕組みが実装されつのか、そして、どのようにして始動されつのか、ということだよ。
これら以外、生物の動きは、原則的に、なんら不思議ではないわけなのよ。機械的な自動運転システムと同様、物理的にしっかり説明できるはずなのよ。
ああ、いや、そうでもない可能性もあるよ。なぜって、生物て、超高級で動的な秩序だから。こういうものが自律的に自然に稼動しているなどて、そう簡単には説明できないはずなのよ」
「そして、脱線は脱線として」青葉が言いつ。「また戻るけど、生物の命て、ふつうは親から受け継ぐものなので、第一世代になる原初の生物が完全に新規に発生するということは、この地球上では、なかなか見られないことなのよ。じつは、第一世代になる完全に新規の生物もひそかに発生しているかも知んないけれど、それは容易には判別できないし。
畢竟、げんざい生きているあたしたちて、微生物や細胞における酸素消費プロセスが担いている熱力学的で物理学的な意味のなかに、生命と意識の秘密を明らかにする鍵を見いだす他はないわけなのよ。ここなのよ。ほかの場所ではないのよ。生物と意識の出現にとり、こここそが、極めて重要な場所なのであり、断じて見逃しにしてはいけない所なのよ。眼を丸くして、そして、しっかり焦点を合わせ、ここにあたしたちは注目する必要があるわけなのよ」
「ふえーえ」絵理が言いつ。
「ちなみにさ」セァラが言いつ。「参考までに訊くけれど、青葉て、意識て、細胞の段階で発生する、と考えているわけなわけ?」
「うん、そうだよ。生命の鍵のある場所が微生物や細胞なのだから、意識がその段階で発生しているのは、もう明らかなのよ」
「ああ、そう」
無は存在しない
「さて、閑話休題」青葉が言いつ。「聞きたくないの?」
「なにを?」セァラが言いつ。
「世界が存在することの究極の理由だよ」
「へーえ」
「知りたくないの? 究極の理由なのよ?」
「へーえ」絵理も言いつ。
なんかセァラも絵理も丸きり興味がないよう見える。しかし、この問題は、存在の本質にかかわる極めて重要な問題であり、しかも、意識理論体系を確立するためにも欠かすことのできない大前提なのでありき。
「じゃあ、これもヒントゥを言うてしまうけど、世界が存在することの答えて、物質を経由して、この無味乾燥で冷淡で無慈悲で苛烈で無関心な物質世界に、精神つまり意識つまり生命を発生させるための、決定的な手がかりになるのよ。
そして、哲学者のベルクソン先生(Henri-Louis Bergson アンリ ルイ ベルクソン)が、かつて、無は存在しない、というような意味の考えを表明せしそうなのよ。これで、もう、答えは出てしまいていつのに等しかりきのよ」
「ええ?」セァラが面喰らいしように言いつ。「今度もまた何を言いだすのよ?」
「つまり、ベルクソン先生の考えが、意識の発生にまで繋がりているわけなのよ。意識にいたる道のりはなかなか遠いのよ。《千里の行も足下より始まる》なのよ」
「ほう……」
「そして、無は」青葉が言いつ。「無であるゆえに存在しないのよ。もしも何かが無であれば、その何かは存在しないのよ。なぜって、無の意味は、存在しない、ということだから」
「無の意味は、存在しない、ということ?」セァラが言いつ。「なに言うてんのよ、あんた?」
「つまり、もっと詳しく言うと、無という言葉は、存在しないものを意味するわけなのよ。そして、それは、同時に、なにも存在しないという状態をも意味するのよ。そして、もう少し分かりやすく言えば、無は、その意味からして、体現できないわけなのよ。無をじぶんで体現するものは存在しないのよ」
「無はじぶんで体現できない?」
「そうなのよ。無の意味は存在しないということだけど、自分が無であり存在しないことを、自分で具体的に体現することは、できないことなのよ。なぜって、自分で体現しようにも、その自分が無であり存在しないのだから。つまり、自分が無であり存在しないことを、自分で具体的に体現するものは、存在しないわけ。無をみずから担えるものは存在しないのよ。畢竟、存在する主体としては、無は存在しない、ということになるわけなのよ」
みずからに体現しようと思いても、自分が無であり体現できぬ
「ええ?」
「逆むきの言いかたをすると、もしも、なにかが、無ではないなら、つまり、有なのでありゃ、その何かは存在しているわけなのよ。なにかは、無でない限り、つまり、有である限り、かならず存在してるのよ。つまり、なにかが存在するんなら、その何かは決して無ではないわけなわけ。なにかは、なにかとしては存在するにせよ、無としてだけは断じて存在できないわけなのよ」
「うむ」
「こうも考えられる。まず、ここで、かりに、無が存在できると仮定してみるのよ。でも、こう仮定すると、この仮定はこの場でただちに存在しないという無の定義に背くことになるよ。すると、たちまち、最初の仮定が虚偽なりき、ということになり、無は存在できないことに、なるのよ。ちなみに、これは、背理法による証明の、いちばん単純なタイプのものなのよ」
「むむ」
「つまり無は存在できないわけなわけ。存在しないということを示唆する無という言葉、存在しないという概念をひと言で表現できる無という便利な言葉があるだけなのよ。そして、無そのものは存在しないのよ。無はパラドクスなのよ。無が存在しはじめし途端、その存在しはじめし無はパラドクスになるわけなわけ。なぜって、無は体現できないものなのだから」
「なんなら、試しに、無を具体的にイメジしてみたら、どう?」青葉が言いつ。「できるでしょう?」
「無をイメジする? 無などどこにあるのよ?」セァラが言いつ。
「そもそも無はどこにもないけれど、でも、例えば、宇宙の膨張を逆転させてみる、というような方法が、あるよ。まず宇宙の膨張をビグ ホールトゥさせて、それから逆転させて、最後に宇宙にビグ クランチ(Big Crunch)を起こさせて、そうやり、ビグ バン(Big Bang)以前の状態にまで巻きもどしてしまえばいいわけなのよ。そうすれば、宇宙は消滅し無にもどると言えるから、その時の宇宙をイメジしてみれば、いいわけなわけ」
「ほう」
「どう? できつ?」
「さあね……。だんだん小さくなりて、それから点になり、それからパチンと言いて消えてしまうよ。そして後には暗黒のキャンヴァスだけが残る」
「で、無になりし宇宙はイメジできつ?」
「……なんかイメジできない気がするな。消えてしまいつのでね」
「絵理はできつ?」
「……なんかあたしもイメジできない感じだよ。宇宙はどこに行きしわけ?」
「さあね。あたしも、何度も試してみしことがあるけれど、一度も成功せしことがないのよね。無にせし途端、消滅し、存在しなくなりてしまうのだから。勘弁してほしい。
でも、無が存在しないことは、こういう思考実験により、無になりしものを具体的にイメジしてみようとしながら、しかし、決してイメジすることができない、ということからも、意外に簡単に確認できるのよ。
他にも、今はまだ収穫されていず、今はまだ無である未来の人参さんを、いまの時点でイメジしてみるとかね。あるいは、絵理が、ちかい将来、偶然の歌を作るとして、今はまだ作曲されていず存在していないその偶然の歌を、いま歌いてみよう、とするとかね」
「へーえ」
「ただ、さっきの、この宇宙についての無は、この宇宙に限定せし無なので、じつは、部分的な無、と言うべきなのだけど。でも、この宇宙を包みこむモーア広い範囲で、一切なにも存在しない、という意味の、完全なる無、すなわち、巨視的なるものも、微視的なるものも、一切なにも存在しない、という意味の、完全なる無、すなわち、存在システムそのものが存在しないという意味の完全なる無、というものに拡張しても、結果は同じになるよ。そもそも、無は体現できなく、無は存在しないのよ。だから、部分的な無であろうとも、完全なる無であろうとも、どちらも体現できなく、存在することはできないわけなわけ。
もっとも、人参さんや偶然の歌の場合のように、ある時空のポジションに、部分的に、なにかが欠如している、存在していないという、まわりの様子から判断する方式の、環境的な観点で判定する、状況的な無なのでありゃ、常に発生してOる、とは言えるけどね。
さりとも、完全なる無についてだけは、判定するさいの視点をおく場所とする周囲の環境すらもが存在しないので、そこに完全なる無が出現していると判定することさえ不可能なのよ。
たとえば、存在システムからどんどん存在を抹消してゆき、最後に残りしものを抹殺せし途端、そこには完全なる無の状態が発生せり、と意味的には言えるのよ。だけど、完全なる無を具体的に体現するものは論理的にも巨視的にも存在できないわけなのよ。ゆえに、完全なる無は実際にはそこに存在していず、かつ、まわりの環境も存在しないのよ。それで、意味的に、そこには不条理な状態が生じるのでありて、完全なる無であることは根本的に認定できなくなりてしまうのよ。つまり、無というものは、感知しえないものなわけ。無て、独りでいる時間をどう過ごしているかを知ることが決してできないものなのよ。素粒子の波動のように。すると、ここは完全なる無の場所である、と看板を立て、立入禁止にすることさえ叶わないので、早速そこには何らかの取りかえ子が意気揚々と乗りこみてくることに、なるわけなのよ。なにかを無にせし途端、そこには、必ずや、なにか別のものが押し寄せてくるのよ。完全なる無はすぐさま無効になりてしまうわけ。
こういう事のため、さきほどの宇宙の話で言えば、後にのこりし暗黒キャンヴァスをどう解釈するか、という問題が、たちまち浮上してくるよ。この宇宙は部分的な存在なのだ、ということでありゃ、暗黒キャンヴァスに相当する何かが残るので、それほど問題ないよ。だけど、この宇宙が存在システムそのものなのでありゃ、大問題になるわけなのよ。なぜって、その時には暗黒キャンヴァスも一緒にこそげ落としてしまわなくてはいけないのに、しかし、完全なる無は発生させえないゆえに、どうしてもこそげ落とすことができないのだから」
「なんのことやら……」セァラが言いつ。
「と言いますか、この宇宙て、それがどげに途轍もないものであろうとも、時間とは限らず、なんらかのものの経過の途中で、ビグ バンにより発生せしものなのよ。なんらかの仕組みによりて発生せし、一個の製品ないし被造物でしかないわけなのよ。
だから、そげな程度のものを巻きもどし、また消滅させつからと言うて、そのあと直ちに無が行きわたると考えるのて、むしろ、期待のしすぎなのかも知んないよ。傲慢とさえ言えるのかも知んないよ。一個の製品でしかない、こげな程度の宇宙を消滅させしところで、そこには、単に、元もとの有つまり存在システムが、依然として存在しているだけなのでR、ということになりているかも、知んないよ。
その元もとの有がどげなものであるかは、分かんないけどね。でも、恐らく、三次元空間のような体積はないのよ。三次元空間とか、物質とか、物理性ていうものて、むしろ、製品ないし被造物ないし派生物であることの、特徴ないし証拠なのかも知んないよ。そして、大元の有つまり存在システムのほうは、巨視的なもの・体積あるもの・質量あるものでは決してないのに違いないよ。つまり、物理量ではないのよ。
あたしたちがつい物質とか体積とか目方とか三次元空間とかというものを思い浮かべてしまうのは、あたしたちが、そういう世界に住んでいる、物理性の面での被造物でしかないからなわけなのよ。
大元の存在システムて、巨視的なものでは決してなくて、体積や質量はないわけなのよ。物理量は具えていないのよ。物理性て、派生物・被造物から始まるわけなのよ。ある一つの宇宙て、ある一つの物理学に基づき製造されるのよ。それ以前に物理性は存在しないわけ。論理性はどうかは分かんないけどね」
「おっとっと。ついてゆけないよ、あたし」
「でも、まあ、こういう風に、有と無、すなわち存在というものて、とても不思議なものであり、一筋縄ではいかないものであり、完全なる無が存在するというのもパラドクス、ということなのよ。完全なる無も存在しないのよ。無が存在するとかしないとか、ひとは絶対考えないけれど、でも、無については、こういう、あっと驚くような命題が潜在していしわけなわけ。無意識的に、無も存在できるような気がするかも知んないけれど、それは錯覚でしかなくて、ただ、存在しないということを示唆する無、という便利な言葉があるだけなのよ」
「錯覚て、どういうこと?」セァラが言いつ。
「ベルクソン先生が言うていつのよ。先生が言うには、ひとの気持ちが無から有へと動くのは、習慣的な心の動きにすぎないのでR、ということらしいのよ。人間とは、なにかが存在していないという状態にたいし、必要性や有用性の観点からその何かを生みだそうとするものらしいのよ。つまり、なにか自分にとりて必要なものが今は無の状態にあるゆえに、なんとかそれを有にしようと頑張るのが、人間というものなのよ。こういうことから、人間は、有というものが無から齎されるという印象をついつい抱いてしまうけど、しかし、人のいだく、こういう無の思いのなかには、実は、求めている有についてのイメジが既に含まれてしまいているわけなわけ。
つまり、まず先験的に存在するのは有の仕様すなわち有の概念なのであり、無の概念は、まだ存在しないという内容で、有の仕様を否定せしものでしかない、ということなのよ。ベルクソン先生はこういう考えを表明しつのよ。無は、完全に有に依存しており、徹頭徹尾、有に従属しているわけなのよ。有なら、それだけで自立できるけど、無は自立できないのよ。すなわち、無は、エイ プライオーライ(a priori)に存在することなど決してできないものなのよ」