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廃棄都市改め、縹局本拠「ヒノモト」。
交易商人も入り始め、活気の増した通りを歩いていた時だった。
不意に頭の中に澄んだ鈴の音が響き渡る。
音に引かれて顔を向ければ、見覚えのあるエルメタール団の男がこちらに目掛けて駆け寄ってきていた。
何故だ?
鈴音が反応したということは、そこに敵意がある。
何があった?
顔をよく見れば、男は涙目になっていた。
本当に、何が起こっているんだ。
何があった、ロズウェル!
「ちっくしょ~おっっ!」
半泣きの絶叫と共に思いきり体を捻った彼は、俺に向かって何かを投げつけてきた。
黙って食らってしまうような半端な強化を鈴音がする筈もない。
投げつけられたものが、俺の感覚ではゆっくりと迫ってくる、その細部に至るまではっきりと見てとれた。
……花束?
えっと、これは、受け取ってしまっていいものだろうか?
ロズウェルの、悲壮感に満ち満ちた泣き顔。
応えることに多少の恐怖感はあるが、ただ、ロズウェルの必死さは、はっきりと伝わってくる。
……とりあえず、受け止めるだけは受け止めてみようか。避けるのはあまりにも可哀想だ。
花束を受け止め、ロズウェルに正面から向き合ってみる。
さて、何を言い出すつもりだ?
彼は、溢れる涙を拭おうともせず、俺を睨み付けてきた。うん、これは、睨んでいるんだよな?
そして。
「姐さんを、姐さんを、幸せにしてやってくださいっ!」
血を吐くような叫びとは、まさにこの事か。
唖然としてしまった俺を置いてきぼりに、ロズウェルは身を翻すと一目散に駆け去っていった。
うん、本気で泣いていた。
何が起こっているんだ。
……姐さんって誰だよ。
似たようなことが、何回も続いた。
館にたどり着くまでに、俺の手には追加で幾つかの花束、女物のブローチやリボンといった装身具、更には手紙までが載せられていた。
手紙は怖くてまだ開いてもいない。
館にたどり着いてみれば、いつもと同じように、穏やかな笑顔でシャナが迎えてくれた。
ああ、ここはいつも通りだ。
心なしかホッとしたぞ。
「お帰りなさいませ」
「うん、ただいま。何かなかったか?」
「何か、とは、どのようなことでございましょう?」
「いや、何もないならいいんだ。何もないなら」
よほど切羽詰まって聞こえたのだろうか?
シャナがキョトンとしている。
どうやらうちにまでは押し掛けてきていないようだな。
「ところで、ユウ様」
「ん?」
「ルクア様が来られております」
え?
「先程から応接室でお待ちいただいております」
「そ、そうか、分かった。ありがとう」
そう言えば、姐さんって、ルクアのことだったか?
あれ?
本当に、何が起きているんだ?
荷物はすべてシャナに預け、俺は応接室の前に立っていた。
さて、中にはルクアがいる筈だが。
中から聞こえてくるのは、微かな溜め息。
ふむ、これは、俺が逡巡している場合では無さそうだ。
エルメタール団の異変の根も、ここにあるのか。
ルクアに何かが起きたんだな。ならば、俺に迷いはない。
軽くノックしてから、扉を開ける。
「待たせたか」
「あらあ、ユウ様、おかえりなさい」
ふんわりと、優しく笑うルクア。先程の溜め息のことなど匂わせもしない笑顔だ。
「忙しいとこ、ごめんねえ」
「気にするな。さして忙しくもない。それより何かあったのか。こんな風に会いに来るなんて、初めてじゃないか?」
「そうかな。そうかも。あたい、いつも来てもらってばっかりだったもんねえ」
さて、切り込むべきか、遠回しに待つべきか、それが問題だな。
ルクアの雰囲気はどうだ?
そう言えば、綺麗なお姉さんの気配が少し戻ってきたような気がする。というか、俺を前におたついていない。必要以上に照れたりはしていないようだ。
ふむ。待つか。
俺から話を振る必要はあるまい。そもそも、自分から来たわけだからな。
待つこと暫し。
この応接室のコーディネートはアルマーン商会に任せた。
豪華さと落ち着きの絶妙なバランスは、さすがの一言に尽きる。
成金趣味に見えないのはありがたい限りだ。
それでも、エルメタール団の触れてきた世界とは、全く違う。
リムもそうだったが、ルクアも微妙に座りが悪そうだった。
「今日はユウ様にお願いがあって来ました」
「改まってなんだ?」
「う~んとね、そのね」
「うん」
「あたいを、お母さんにして欲しいんだ」
その願いに予感があったわけではない。
意表を突かれたとも言えるし、ある意味想定外だった。
それでも何故か、その言葉はごく真っ直ぐに、ストンと心に響いてきた気がする。
何故だろうか。
「それはつまり?」
「ユウ様の、子どもが欲しいんだ」
なんだろう、すごく穏やかな表情で、ルクアはそう言った。
妙な照れは最初から感じていなかったが、それに重ねて、欲望とか、そもそもの感情とかをほとんど感じさせない、言うなれば透明な表情。
「何故かな、求婚されているような気はしないんだが」
「うん、その、結婚してもらいたい訳じゃないんだ。あたいがお嫁さんなんて、とんでもないし」
ルクアは、何を言っているのだろうか?
正直、俺には理解できない。
子種だけ寄越せ、と、そういう話か?
だとしたら、あまりにも、らしくないんじゃないか?
なにか、ある筈だ。
「あたい、本当は子どもなんて産めない筈だったんだ。昔の店で、そういう風に変えられちゃったから」
む。
なんだろう、察しがついた気がする。
「なのに、急にね、その、月のしるしが来たんだ。吃驚した。どうしてだか分かんないけど、子どもが、産めるかも知れないの」
あれから二ヶ月くらいか?
瀕死のルクアを治癒してから、二ヶ月近く過ぎている。
あの時、壊された生理機能をも治癒してのけたのだとしたら、回復した女性の機能が正常に働いていれば、しるしも来るだろう。
そういうことか。
「子どもが、産めるかも知れないの」
「そうか、それは、嬉しいよな。すごいな」
「子どもが、産めるかも知れないって思ったらね、もう、他の誰にも抱かれたくなくなっちゃって、ユウ様には迷惑かもしれないけど、もしあたいに本当に子どもが産めるなら、あたいは、ユウ様の子どもが欲しい」
望んでも得られる筈のない、叶わぬ夢。それが今、ルクアの前に姿を見せていた。
その相手として俺を選んでくれたっていうのは、きっと凄く光栄なことなんだと思う。
そこまで求めてもらえるなんて、本当に、俺はなんて果報者なんだろうか。
俺のしもべが治癒したんだ。機能は完璧に回復している筈。だけれども、ルクアにしてみれば、今逃せば二度と手に入らない、奇跡の瞬間に思えているのだろうな。
本当に大事にしている。他の何も目に入らなくなるくらいに。
ロズウェルたちの涙の理由が分かった。
ああ、そりゃ、泣くわ。
けれども同時に、みな、本気でルクアの幸せを願っていた。
「なあ、嫁には来ないのか」
「あはは、無理だよう。だってユウ様、こんなお部屋に普通に住んでて、あたいからは遠すぎるよ。前から凄いとは思っていたけど、きっとあたいでは追い付けないくらい、遠く、高くに飛んでいくでしょう。あたいは邪魔したくないんだ」
なんだこの包容力は。
自分がないのか?
自分を度外視して、ただ俺のことだけ考えてくれているというのか。
だけどな、ルクア。それは勘違いだぞ。
「なあ、ルクア。俺を誉めてるつもりで、実は舐めてるだろう」
「な、そんなことないよ、なんでそんな意地悪言うの」
うう、その反応は心に刺さるぞ。
本当に、俺が虐めてるみたいじゃないか。
「ルクア一人増えたくらいで、俺が飛べなくなると思っているのか? 邪魔出来るものなら、邪魔してみろ」
「え、あれ、そうかな? あたい、邪魔じゃない? え、でも重たいよ?」
「俺の手の届かないところで、母子家庭で苦労されてるかもしれないと思う方が、俺にとっては余程重荷なんだがな」
「あ、そうかな。えと、でも、その、リムちゃんやシャナちゃんにも悪いというか……」
ふうむ。
これは、ここまでにしておいた方が良さそうだ。
今この瞬間に、全ての答えを出す必要もあるまい。追い込みたいわけでなし、焦る話でもなし。
ここで決めるべきはただ一つだけ。
「まあ、先のことは先に悩めばいいさ。今言える答えは一つだけだ。ルクアが俺を求めてくれるのが嬉しい。俺も、お前が欲しくなった」
「う、うん。あの、その、よろしくお願いいたします」
真っ赤になって俯いてしまったルクアからは、再び、綺麗なお姉さんの面影が消えていた。
まあ、可愛いからいいんだけど。
取り敢えず、決めるべきを決めてしまった俺には、やるべきことが一つ出来た。
凛たちに土下座してでも頼まねばならない。
俺は、ルクアの想いに応えたいんだ。
……一番我が儘なのは、やっぱり俺だよなあ。