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「ねえ、みんな、顔をあげて?」
俺が思い悩み、ハクと対話したのは、時間的にはほんの一瞬のことだったようだ。
俺の表情が険しくなったのに気付かれただろうか。
楓が一生懸命、取りなそうとしてくれている。
すまない、ありがとう、楓。
「ほら、祐様、竜神さまもそう仰っていたでしょう? みんな、顔をあげよう」
その言葉が、どう皮切りになったものか、俺の言葉には平伏するだけだった皆が、楓の言葉に応じて次々と顔をあげ始めた。
「ほんとにいいのか」
「怒られないか?」
どことなくビクついている雰囲気はあるが、それでもみんな、顔をあげていく。
ああ、そうか。
さっきの俺の言葉は、この人たちにとっては神託に等しかったわけだ。いや、まさに神託だったんだ。
だから、どう解釈したら良いか、とっさにその判断が出来なかったんだな。言葉を言葉通りに受け止めてよいものか、それすら分からないところから始まったんだ。
そこに、楓から指標が出た。
俺の言葉を、言葉のままに聞いてよいのだ、という指標が明らかになったのだ。
なるほど、楓には本当に感謝しなければなるまい。
この人たちも、本当はもっと準備しておくつもりだった筈だ。それを、飛んできたばかりにあまりにも早く到着し、さらには集落の門をくぐらず、いきなり里のど真ん中に直接降りてきたのだ。
心の準備も何もあったものじゃなかったろう。
そんな暴虐な神の訪れ、どう対応したら神が満足するのか、逆鱗に触れずに済むのか、みんな、必死だったんじゃなかろうか。
ここは地球ではない。
ついこないだまで、ここにはすぐそばに常に神がいた。神への畏れは、ある意味で比べ物にならないんじゃないか?
そりゃあ、ビビるよな。
ああ、悪いことしたなあ。
ようやく顔を見せてくれた皆をぐるりと見回し、俺は、頭を下げた。
「小鳥遊祐、新米の竜だ。よろしく頼む」
果たしてこれも言葉通りに受け止めてよいものか?
そんな戸惑いが見えはするが、仕方ない。
だって本当に、新米なんだから。
館の正門前に急遽こしらえられた縁台に腰掛け、俺は竜胆藩主山元竜義と、ミルミーン族長ドルコンの歓待を受けていた。
そして、武者修行でエスト山脈を踏破した顛末を語ることになったのである。
本当は館の中でやる予定だったらしいが聞かれて困る話でもなし、里の皆から見える場で、聞こうと思えば聞ける場でやらせてもらった。俺を知ってもらいたい、という思いに偽りはない。
茶店の縁台みたいな場だ。そこで本当に、お茶と団子を振る舞われながらの会談となった。
「山頂で待っていた神竜と戦って、俺は後継者として認めてもらえたらしいよ。だけど、まだまだ力は俺に定着していない。もし俺を竜と呼ぶなら、それは百年ばかり待ってはもらえないかな」
「竜神様の認められた方ならば、力の有無は問題にはなりませぬ。しかしながら、今少し詳しくお話願えますでしょうか?」
山元竜義は、楓によく似たハーフっぽい美丈夫だった。どちらかと言えば文官肌にも見える落ち着いた雰囲気がある。
ドルコンは先代から後を継いだばかりの若い族長で、楓とは従兄に当たる、のかな?
両家は密接に繋がりあっているようだ。
剽悍な身ごなし、こちらは武官肌だな。すごく引き締まった細身の体ではあるが、一瞬、リムを思い出させるようなしなやかさがあった。
「俺は確かに神竜の後を継いだけれども、先代を継いだというよりむしろ、新しく生まれ変わったんだ。だからまだ、俺は竜として生まれたばかりなんだよ」
「……そういうことでいらっしゃいますか」
「神竜の神珠は確かに受け継いだ。でも、神竜が俺の中に来たんじゃない。神竜も、俺のなかで新しく生まれ直したんだ、それが」
皆の目の前で、角が、翼が、俺の身の内に沈みこんでゆく。
現れるのは、小さな幼女。その姿は竜鱗の鎧に包まれている。
「我が名はハク。風竜の残滓にして生まれ変わり、じゃの。先代の記憶はほとんど残ってはおらぬが、主ら、確かにミルミーンよの。その血の匂いには覚えがあるぞ。楓にも言うたが、よくぞ生き延びてくれた」
「おお……」
「あなた様こそまさに……!」
「楓からの便りには、竜神様にきっと驚かされる、とありましたが、こういうことでしたか。全く、報告に含みを持たせてどうするか」
「申し訳ございません」
なんだ、楓、意外とお茶目だったんだな。
ここが公の場でなければ、てへぺろ、とか言いそうな勢いだぞ。
まあ、もし続きの手紙で釈明しようとするつもりだったとしても、俺がぶっちぎって来てしまったわけだが。
周り中の、特にミルミーン族からの熱い視線がハクに集中する。
……ハク、ありがとう。
かつて風の神竜は、迫る巨大な魔獣災害からミルミーン一族を救った。
早期に警告することで、女、子どもや若者をみな、逃がすことが出来たのだという。
逃げることの出来ないほどに老いたり、病に臥せったりした者たちを守る戦い、同時に、若者たちが逃げ切るまでの時間稼ぎの戦いを、若い戦力を失ったミルミーンは命懸けで完遂し、そうして、都市ミルミーンは滅びていったのだという。
逃げ延びた若者たちは、個人的な友情を通じて竜胆に身を寄せ、神竜への恩返しを夢に見ながら代を重ねてきた。
その悲願が今、叶えられようとしている。
奉竜兵団五十名。
ミルミーン一族選りすぐりの精鋭たち。
元々エストの山岳民族で、強力なハイランダーたち。それが竜胆と結ぶことでさらに洗練された兵団だ。
戦力的には、今後縹局の中核をなす部隊と言っていい。
その忠誠心もまた。
廃棄都市の城門まで迎えに出る道すがら、ハクはどことなく嬉しそうだった。
「ハク、ありがとうな」
「ふむ、気にするでない。彼らの信仰の向かう先は先代の風竜であるよってな。まあ、我に受け止める責任があろうよ。過去の見知らぬ業まで、お主が背負い込まんでもよい。それにな、一番大事なことは別にある」
「……なんだ?」
「うむ。お主が継いだのは風であって竜ではない、ということよ。竜の力はおまけじゃ。かつての我の有り様が強く響いただけにすぎぬ。竜の力にとらわれるでないぞ。とらわれぬからこその風、じゃ」
そうか。
その瞬間、なにか憑き物が落ちたような、目が覚めたような感覚があった。
「そうか、ああ、そうか」
気にしていないつもりでも、いつのまにか俺は、重圧に縛られていたのかも知れないな。その中で、自分らしくあろうと足掻いて、より自縄自縛に陥っていたということか。
とらわれぬからこその風、か。
ハク、本当に、ありがとう。
俺たちの前に、ミルミーン奉竜兵団が整然と並ぶ。
その先頭はドルコンだ。
「お前が来たのか。さすがに族長自らとは思わなかったな」
「族長ではありませぬ。隠居していた親父に返してきました。今は一介の兵士です。存分に使い潰してください」
「分かった。親父さんには謝っておこうか。楽隠居させられずに済まなかったなあ」
「いえ、それには及びません。俺に族長を押し付けて自分が兵団長になろうとしておりましたので、それだけの元気があるなら、と丁重にお返ししてきた次第です」
「丁重に、拳でか?」
「はい、あ、いえ、その、はい、拳で」
「ははっ、そうか。それならいい。頼もしいな。これからよろしく頼む」
「一命に替えましても!」
「うむ、その意気やよし。じゃがの、せっかく我が繋いだ命じゃ。ゆめ軽うに捨てるでないぞ。我らが縹局、守らねばならぬはただ一条。みな、惜しまれて死ねい」
「はいっ!」
うん、いい返事だ。
さあ、これで戦力は揃った。
いよいよ縹局が本格的に動き始めるぞ。
どこまで行けるか楽しみだ。
みんな、よろしく頼むな。
これで第二部完、となります。
良ければ、第三部もお楽しみに。