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「そろそろ見えてくるかと思います」
遥か上空からエスト山脈を臨み、その麓の斜面に見えるのは、確かに大規模な集落のようだった。
木で作られた防壁が、二重に集落を囲っている。
ルドンとファールドンとの中間くらいで山脈に寄ったところ、そこが竜胆の里だった。
今朝方、身なりを正した山元楓の懇願を受け、俺たちは空路、竜胆を目指すことになった。
最初は徒歩での移動の予定だったようだが、まあ、抱えて飛ぶのが一番早い。戻る予定もだいぶ早まるとあって、居残り組も快く納得してくれた。
いや、実際に飛ぶ段になって、涼しい顔で見送る振りをしていた凛が、やたらそわそわしていたものだから、快く、ではなかったのかもしれないが。
「そう言えば、高いところが好きだったか」
「な、何を言う。そりゃあ嫌いではないが、嫌いではないぞ」
うん、だいぶテンパっているなあ。
「取り敢えず、お前も飛ぶか?」
「なんだって? いや、別にいい。羨ましくなんてない。お役目なんだ、早く行けばいいだろう」
「ふむ、そこで意地を張る意味が分からん。楓、少し待っててくれ」
「はい、もちろんです。その、出発が明日に延びても、元々の予定より早いですから、どうぞ、ごゆっくりなさってくださいませ」
いや、どれだけ待たせると思ってるんだ。
観念したのか大人しくなった凛を捕まえ、一気に上昇する。
「うわあ……」
凛の目が輝いていた。
俺に抱きついている腕に、力がこもる。
廃棄都市を足下に、遠くルドンを眺望できる高度まで一気に上がれば、さすがの凛も少し震えが来たようだった。
「……凄いな……」
「そうだろう」
ここが、ハクの世界だ。
そのまま、凛は黙りこむ。
あれ?
どうかしたか?
「……私は我が儘だな」
思わず落としそうになった俺を、分かって貰えるだろうか?
何を言い出すんだ、こいつは。
「お前のどこを引っくり返せば、我が儘なんて言葉が出てくるんだ?」
「だって、私は自分を抑えていたつもりだったんだ。貴方のお役目を邪魔なんてしたくなかった」
ふうむ、なんと言ってやろうか?
邪魔じゃない、と、ただ言っただけでは通じそうにないな、これは。
「お前が我が儘なら、俺は意地悪だな」
「何を言い出すんだ? 貴方のどこが意地悪なんだ」
「ん~、空中で逃げ場のない凛に好き放題してやろうと思っているからかな」
「な……!」
真っ赤になる凛。可愛らしすぎるな。そのまま勢い任せに唇を奪おうとして、かわされた。
む、何故逃げる。
凛を固定している腕を片手にし、フリーになった手で触れようとしたら、捕られて捻られて極められた。痛い、マジで痛い。
「あいててて! 分かった、もうしない、もうしない!」
「全く、なんてことをするんだ」
「いや、それはこっちの台詞だぞ。なぜ避けるんだ」
「む……」
凛は狼狽えたように黙りこむ。
そのまま俯きながら、観念したかのように呟いた。
「だって、今のは意地悪なんだろう? 意地悪なら、嫌だ」
くそう、可愛いなあ。今のは反則だぞ。
「本気で出発、明日に延ばそうかなあ」
「それは駄目だぞ。もう決めたことだろう?」
「うん、分かってる」
それでも、行き場のないモヤモヤがたまるんだよ。
「だから」
お?
顔をあげた凛は、そのまま俺にキスしてきた。
もちろん、武術の達人である凛の攻撃を、俺が避けることなんて出来ない。
「今はこれで我慢しておけ」
そう言って、もう一度、口付けしてくる。
なあ、凛よ。
それはきっと逆効果だと思うぞ。
抱き締める腕に力がこもる。こもってしまう。
その瞬間、頭の中に、澄んだ鈴の音が響き渡った。
音に引かれて遥か地上を見下ろせば、こちらを真っ直ぐ見上げているリムとバッチリ目が合う。
お互い人間離れした超感覚とでも言うべき、凄い視力だからな。
まあ、リムにしか見えないだろうけど、リムにはしっかり見られていたわけだ。
聞こえてくる、微かな声。
「あなたは、時と場所をわきまえるべき」
……ごめんなさい。
少しだけゆっくり、凛に存分に空を味わわせてから、俺たちは地上に戻った。
そして。
「私も行く」
物凄くキラキラした瞳で、期待に満ち溢れたリムが待っていた。
な、凛。お前なんて、全然我が儘じゃなかったろ?
そんな朝の出来事を思い出している間に、俺たちは竜胆に到着していた。
里の上を、大きく旋回する。
中央の大きな館が中枢かな。
「楓、降りるぞ」
「はい」
おうおう、下は大騒ぎのようだ。
藩主の館前は大広場になっていたが、人々がそこに急いで集結しようとしている。
まあ、そこでいいか。いきなり館の中に降りるのも、不躾な話だろうしな。
降り立った瞬間だった。
全員が平伏した。
おい、なんだそれは。いくらなんでもやりすぎじゃないか?
「おい、楓」
「はっ、はい!」
動揺しているのは楓も同じか?
「お前、なんて伝えたんだよ」
「えっと、あの、普通に竜神さまがいらっしゃると……」
何が普通か。
「そりゃこうなるわ」
参ったね。祭り上げられるのも止むなしかと思っていたら、最初からストップ高だったでござる。
楓はあれだな。
凛やリムの尻に敷かれている毎日を見ていて、きっと慣れたんだ。ある意味、毒されたとも言える。
見回せば、そこかしこに拝んでるやつらがいるぞ。
「あー、みんな、顔をあげてはくれないか?」
返事はない。むしろより深く平伏している感じだ。声すら有り難いとか、勘弁してくれ。
「頼むよ。皆の顔が見たいんだ」
こう言ったらどうだ?
ジークムントなら俺の言葉最優先だから、一も二もなく顔をあげてくれるんだが。
けれども、やはり、顔はあげてもらえなかった。
なんだろう、この瞬間、なにか醒めた。
信仰心ってなんだ?
信じる神の言葉に背いて自分のやり方を貫くのが信仰なのか?
神に認められたい訳じゃないのか?
俺の言葉を聞くよりも自分を貫く方が大事なら、それは自己満足と何が違うんだ。
心が冷えていく気がする。
いや、待てよ。本当にそうか?
こいつらにとって、竜神とはどれ程のものなんだ?
それを知らずに、俺が何を言える?
持ち上げられて浮かれていたのかもしれない。そういう意味では俺の方も慢心していたのだろう。こいつらを責める資格なんて俺にはない。
そうだよな。
いやらしいのは俺の方か。
有り難がる皆をなだめて、そんなに持ち上げなくていいんだよ、なんて、上から目線で接していくつもりだったのか?
普通にしてくれ、なんていう無理難題を押し付けて、皆に無理をさせて、俺の方こそが自己満足なんじゃないか。
『うむ、お主はそう思うのじゃな』
心の中に、ハクの言葉が響く。
その通りだよ。だって、そうだろう?
『さての。正解などは知らぬが、それでも皆の前に降りたはお主よ。さて、これからどうするかの』
突き放されている?
いや、違うな。
本当の問題は、これからだ。そう言ってるんだろう。
後悔しようがしまいが、時が止まるわけでなし。
この人たちとの付き合いは、もう始まってしまったんだから。
さて、これからどうする?
どうしたい?
シャナの言葉を思い出す。
大事なのは、俺が前に進めているかどうか、だ。
よし。
この人たちの信仰に疑いはない。
だから、俺の思う信仰の形を押し付けるのはやめよう。
そして、俺も、この人たちの思う神の姿に引きずられないようにしよう。
俺は、俺だ。
そして、確かに、俺の中にハクがいる。
お互いの求め合うところは、確かに今はまだ、重なってはいないのだろう。
だが、初対面だぞ。当たり前じゃないか。
これからだ。
俺が皆を知り、皆が俺を知り、その時にもう一度、考えよう。
そうとも、答えはまだ、ないんだ。