70 挙式
結婚が決まった。
私との婚儀を、彼は認めてくれた。
本当に、嫌じゃないのだろうか?
何回聞いても、この不安がなくなることはなさそうだ。
彼を信じたい気持ちとは裏腹の想い。我ながら、度しがたい。
ゆっくり考えてくれて良いと言ったのに、彼は即断してくれた。その彼を信じなくてどうするのだ、私。
槙野本家にはすぐに使いを出した。おそらく数ヶ月後には、準備が整うだろう。
各王家への連絡も必要だし、少なくともルーデンス王国からは列席者が来る筈だ。半年後、くらいが目処になるのではないだろうか。
そう思っていたら、彼から、結婚式をすぐにしてしまおうと提案された。日本式、扶桑の結婚式は、固めの儀とお披露目を別にすることもあるのだという。
それは魅力的な提案だった。何より、日本式、というのがいい。
もとより、小鳥遊家が槙野に来るのではない。槙野家が小鳥遊のもとへ行くのだ。ならば、彼の意志は槙野家の都合に優先する。
それでいて、槙野家の立場を最大限配慮してくれているのだから、拒否する理由などなかった。
美しい月光の中で、共に酒を酌み交わしながら、遠い未来に想いを馳せる。
この穏やかな時が、いつまでも続けばいい。
心の中に、朝に聞いた言葉が何度も繰り返される。むう、私の頬は緩んでいたりしないだろうか?
最初に会えたのが、私で良かった、と、そう言ってくれたのだ。結婚するなら私が良い、と!
それに、もうひとつ嬉しいことがある。
彼は最初から、私の事を槙野凛、と呼んでくれていた。
槙野家の凛、ではなく、槙野凛、と。
私たちの習いでは、あり得ないとさえ言える。女を、家に所属するものとしてではなく、男のように、家を背負って立つものとして認めてくれるなんて。
ああ、そうだ。
私は槙野を背負って、貴方のもとへいくよ。
そんな彼から聞いた、日本式の固めの儀は、なんとも面白いものだった。
水合わせ、か。
三三九度は、おそらく私たちのしきたりの盃交わしの原型なのだと思う。けれども、水合わせの儀は、私たちのしきたりにはない。
もしかしたら。
故郷を追われた流浪の旅の途上で、故郷の水を持ち寄り合わせる、という儀式は為し得ず、廃れ、失伝してしまったのかもしれない。
今の私たちはもう、この大陸を新たな故郷として骨を埋めている。私にとっても、神山ローザが心の故郷と言っていい。
私たちは、失ったものを取り戻せたのかもしれない。
槙野家が産湯に使う、清めの泉がある。
水心流を始めたとき 、また、皆伝の儀のときも、私はそこで身を清めた。
何かあれば、私はその泉の畔で時を過ごすのが好きだった。
うん、その水を、汲もう。
それからの一週間は、瞬く間に過ぎたと思う。
アルマーン商会の主、ルーデンス王国からの見届け人として、ファールドンの騎士隊長、彼らの準備期間を用意してあげるなんて、私には思いもつかなかったけど、なるほど、彼はこの地に本当に深い絆を結んできたのだな。
その、側室候補というか、なんというか、もう既にその、側室になっているというか、その、ええい、深い深い絆を結んでいる異人の娘たちとか。
じっくりと異人の娘を見る機会など無かったが、改めて見ると、私と似たようなギョロついた目に少しだけ親近感を抱かなくもない。
まあ、彼はこの目を、綺麗だと言ってくれるのだけれど。
そう考えれば、なるほど、そうか。あの娘たちも、きっと美しいのだろうな。
特にあの一途な狼少女、リムだ。
人間の瞳が、あんなにも淡い水色になることがあるのだろうか?
このエルメタール団の中でも、飛び抜けて高い身体能力を持つ彼女を見ていると、しなやかな動きに惚れ惚れとしてしまいそうになるほどだ。
今は、二本の剣を力任せに振り回しているだけだが、彼女に小太刀二刀流を教えてあげたら、凄いことになるような気がする。
シャナはよく気がつく働き者だし、彼の人を見る目は確かなのだろう。
いや、そう言ってしまうと、自画自賛しているみたいだな。
まあ、その、なんだ。
あの娘たちとも、仲良くやっていかなければなるまい。いや、きっと、大丈夫だろう。
あれから一週間。
固めの儀は堅苦しくないように、派手な着物はなしだ。
ほとんど白に近いような水色の小袖に、薄紅の袿。
今日くらいは女髷を結うべきだったろうか。ひとつに結い上げ、背中に流した髪を眺めながら、少しだけ悩む。
いや、いい。
これが、私だ。
今日、私は、小鳥遊凛になる。
結婚式がこんなにも楽しいものだなんて思わなかった。
媒酌人というか、主たる挨拶は、最年長ということでアルマーン氏が務めた。
三三九度の御酌は、我が武士団を代表し、宗右衛門が務める。
具体的な手順は、あまりはっきりしなかったから、今日、この時のために新しく作り出したものだが、肝たる儀、そのものは彼の記憶にある三三九度に従った。
私たちの盃交わしではお互い向き合って行うのだが、三三九度では違う。雛壇に並んだ私たちは、正面を向いたままで、お互いは視界の端にしか入らない。
彼は今、どんな顔をしているだろうか?
逆に考えれば、今の私の顔を見られないのは幸いとも言える。
列席してくれた皆には思いきり晒してはいるわけだが。
私に盃を渡し、宗右衛門が酒を注いでくれる。
その手が震えているのが分かった。剛胆でならした我が武将が、なんという体たらくか。
その顔を見上げてみれば、宗右衛門は既に泣いていた。
『姫様の晴れ姿をこの目で拝むことが出来ようとは、某は果報者に御座る』
婚儀の前には快活に笑っていた宗右衛門が、驚くべき変わりようである。私に晴れ姿など来ない、と言ったにも等しい言葉に、なんと失礼な言い草か、と笑い合ったのが、ついさっきだというのに。
いかんな、貰い泣きしてしまいそうになる。貰い泣きだぞ、貰い泣き。
慶びの席だというのに、涙なんか出る筈がないじゃないか。
私が四度、彼が五度、お互いに盃を干し、九度の固めの儀が終わる。
ふと、何かが腑に落ちた気がした。
ああ、今、私は小鳥遊凛になったのだ。
隣に座る彼は、私の、夫となったのだ。
いや、終わりではないな。これが始まりなんだから。
アルマーン氏が音頭をとり、列席の皆と、乾杯だ。
ここからは、ルーデンス式、彼の意向もあり、無礼講の祝宴が始まる。
私たちは雛壇から動けないわけだが。
酒の肴は、エスト山脈上層の魔獣の肉だそうだ。昨日、不意にいなくなったと思えば、ほんの半日ほどで彼が狩ってきたという。
山に登るどころではない。翔んでいったのだ。
料理長は達観していた。いちいち驚いていたら身が持たない、と。
その通りだな。よく分かる。
次から次へと、祝いの言葉をのべては盃を干していく列席者たち。いや、仲間たち。
華美な甲冑に外套をまとったファールドンの騎士隊長もまた、その一人だった。
一芸披露する者も多い中で、彼は、剛壮な剣舞を舞ってくれた。
彼は、私がここに着いた初日に、土下座する勢いで挨拶に来た夏水剣士だ。
四水剣門下としては、水心流の私に挨拶に来るのも当然なのだろうと思うが。
ふむ、舞いは見事だな。
と言うか、この男もなかなかの剣才を持っているようだ。
あまりの熱意に少しだけ型を見てやったのだが、その時の助言をきっちり、ものにしている。
うん、こいつは伸びるだろうな。
名前は確か、ディルスランだったか。よし、覚えておこう。
宴もたけなわとなっていく。
この間、私たちはずっと雛壇で正面を向いたままだった。
彼の知る婚儀では、新郎新婦は基本的に口を開かないそうだ。彼の言う時代劇、扶桑の文化を継承、再現し、学ぶための講義ではそう描かれていたとのこと。
正直、何も出来ないのだが、その分、彼の事ばかり考えてしまっているような気がする。
皆の祝いの言葉、喜んでくれている顔を、彼はどんな眼差しで見詰めているのだろうか。
彼もまた、私の事を考えてくれているのだろうか。
そんな宴も、じきに終わる。
終わってしまう。
だんだん、回りの声が聞こえなくなってきた。
アルマーン氏が何か言っているようだ。
竜胆藩主の娘、山元家の楓の先導で、席を立たされる。そのまま退出。
視界の端で、彼もまた、席を立たされていた。
気が付けば陽も落ちており、薄暗い部屋の中、蝋燭の仄かな明かりが揺らめいている。
楓も別に手慣れてはいないと思うが、私の身支度を整えてくれた。
白の長襦袢。
そうだな。そういうことだ。
そういうことなのだな。
こ、怖くなんかないぞ。
こんな急に、こんな時を迎えるなんて思ってもいなかったが、心の準備は、大丈夫だ。大丈夫なんだ。
薫の婚礼の時、女官が色々と作法を教え込んでいたが、私には無縁のこととして欠片も聞いていなかったのが悔やまれる。
床入りでの手練手管など、私が知る由もない。
彼は……知っているのだよな?
む、なんだ、この悔しさは。
くっ、負けてたまるか。
目を閉じて、端座して待つこと暫し。
今、私たちは向かい合って座っていた。
なんだか随分、久しぶりに顔を見た気がするぞ。
こんなにも暗いというのに、何故か彼はすごく眩しそうに私を見ている。
なんだろう?
まあ、いいか。
言葉を交わすのもようやく、だ。
「末長く、よろしく頼む」
私が先に口を開くと、彼は思わず、といった感じで吹き出していた。
何事だ?
「済まない。いや、凛は男らしいな」
笑いながら、彼は言う。
悪かったな、がさつで。
「いいや、悪くないさ、悪くない」
笑いながら言っても、説得力はないぞ?
「凛、小鳥遊凛、だな」
「ああ、そうだ。もう、私は小鳥遊だよ。貴方の妻だ」
むう、照れる。
「凛が名乗ってくれるなら、小鳥遊の名も、好きになれそうだよ」
そうか。家の事を好きではないと言っていたよな。
「古い名は置いていこう。私は貴方と、新しい小鳥遊を作るよ。それでいいか?」
「ああ」
彼がそう答えた時には、私はもう抱きすくめられていた。
「凛、お前、最高だ」
力強い抱擁。息が詰まりそうだ。私も、そっと、彼の背に手を回す。
なあ、知っているか?
組手で触れ合う事が無かったとは言わない。
だけど、そうじゃない。私の素肌にちゃんと触れるのは、貴方が初めてなんだよ?
「なあ、凛」
「なんだ?」
「もう一度、言うよ。いや、何度だって言う」
「うん」
「凛、お前がいい」
「うん」
ああ、もう疑わないよ。
初めての口づけは、共に交わした、固めの酒の味がした。
肌を合わせて初めて分かった。
なんだ、この力の塊は。
彼の中に、凄まじく大きな、渦を巻くほどに荒れ狂う力がある。
私に襲いかかる大風のようなそれは、まるで大河にも似て、ひとつやり過ごしても次があり、ひとつ耐えても、あとからあとから押し寄せてくる。
抗うことなど出来ない。
その力の奔流の前には、私は流れに翻弄される木の葉のようなものだ。
為すすべなどあろう筈がない。
勝つとか負けるとか、そんな次元の話ではなかった。
彼に呑み込まれる。喰われてしまう。
呼吸なんて……でき……ない……。
息も絶え絶えな私が、どうにもならなくなって、まともに呼吸もできず、何もかもが真っ白になっていくその瞬間、力尽きるしかないと思ったその瞬間、それでも私に出来ることは、水心流の呼吸しか無かった。
呼吸法が、自然の呼吸に成り代わる。水が、私の中に染み渡っていく。
水の心とは何か?
その深奥に辿り着いた訳ではない。
それでも、流れのままに流れゆくのが水だ。
彼から溢れ、流れ出す奔流。
それを逆らわずに受け止め、受け流し、身の内を返して送り返す。
そこに、流れが出来た。
流れ来て、帰ってゆく、力の円環が出来た。
そして、私は呼吸を取り戻した。
私と彼との間に流れる、強固な力を、はっきりと感じることが出来る。
彼の中に、力強い暖かい核が見える。
彼の誘いに、私が応じる。
私の動きに、彼が合わせる。
それは武術の型にも似て。
いつしか、私たちの動きは重なりあっていた。
どちらが動いて、どちらが合わせたのか、どちらが応じて、どちらが求めたのか。
境界が曖昧になっていき、呼吸が重なっていく。
ああ、私たちは、ひとつだ。
気が付けば、蝋燭は燃え尽き、それにも関わらず周囲は白んでいる。
夜が、明けていた。
疲れも何も感じない。ただ求め合う。
「凛、愛してる」
ああ、私もだよ。