69 不思議な少年の話
不思議な華桑人がいる。
その知らせがローザ山に届いたのは、いつだったろうか。
エスト山脈近く、ルーデンス王国の重要拠点、ルドン近郊、竜胆藩の管区内に不思議な少年が現れた、との報せが入ったのだ。
どのような素性であれ、華桑人ならば我らの結束のうちに呼び込むのが習いだ。
いずれの里から出てきたものにせよ、竜胆藩が対処するだろう。それが当たり前の筈だった。
しかし、今回ばかりは勝手が違った。
地元で後見人となっている商人からの話によると、異なる大陸からの来訪者かもしれない、との話だったのだ。
我らの故郷を始め、ルーデンス大陸以外の大陸は、先史時代に全て滅んでいる筈だ。与太話にしても、たちが悪い。本来なら一笑に付されておしまいの話だ。
実際、槙野本家の気を引こうと、大袈裟な話や、嘘みたいな嘘の話を吹聴し、接近を謀ってくる輩も多かったのだから。
だが、今回ばかりはそう切り捨てるには見過ごしがたい、あまりにも不思議な話が多く含まれていた。
だからこそ竜胆藩も、判断は手に余る、として本家まで報告してきたのだろう。
まず、名前だ。
タカナシ家。ルーデンス人の商人からは華桑文字の表記を聞き出すことはできないが、ルーデンス大陸に辿り着いた我らの同胞にその名は無い。
国の名はニホンだという。もちろん、我らの知る国、藩にその名は無い。
そして、ルーデンスを知らず、四水剣を知らず、何より槙野の名を知らぬ、そんな華桑人がいるだろうか?
このあまりにもな、あり得なさが、逆に我らの警戒心をこれ以上無いくらいに刺激した。
出鱈目と断じるのは容易い。
だが、万が一、その話に嘘がなかったら?
我らの知らぬ、華桑の生き残りがいたとしたら?
城は紛糾し、連日、答えの出ない会議に明け暮れることになった。
そして、情報は次々と届くようになる。
現在拠点としているのはファールドンという都市。そこのアルマーン商会が後見となり、竜胆と通じて様々に検証をしてくれていたことも分かった。
明らかに刀を用い、瞬速の剣技は他に比べるものもなく、強固な甲冑を身にまとう。
それだけの武芸を修めながら、四水剣に何ら反応を示さなかったというのは、あまりにもおかしい。
本当に大陸が異なるのか、それでなくとも、少なくとも我らと隔絶した未知なる里が、この大陸の何処かにある、としか考えられない。
高度な教育を受けた、人品卑しからぬ振る舞い。
謎めいた出現といい、いずこよりか追放された貴人ではないか、という意見が大勢を占めるのに、さしたる時間は必要なかった。
もしも、もしも滅びた筈の華桑大陸に生き残りがいたとしたら?
その血を引く貴人がこの大陸に迷い込んだのだとしたら?
華桑よりの来訪者ならば、我らは何をおいても、最大限の尊崇をもって、お迎えせねばならない。
そして、決定的な報せがやって来た。
ルドン近郊に覇を唱える大規模盗賊団グリード、その戦闘部隊三百人と、十体を越える大型魔獣の襲撃を、彼は単身、殲滅してのけたのだという。
もはや猶予はならなかった。
出自がいずれにせよ、そんなにも強大な武芸者を見過ごす王はいない。
我らの知らぬ華桑人を、我らの知らぬままに他国に奪われるわけにはいかない。
我らの軛を脱したがっている王国に、切り札を与えるわけにはいかない。
我らのもとに招く、それ以外の選択肢は、もはや残されていなかった。
では、如何なる待遇で臨むべきか?
ただ強力な武芸者であるのならば、将として招くだけで良いかもしれない。
だが、もし、華桑大陸に連なる血筋を持たれているのならば、本家がお迎えするのが筋だろう。
まして、大陸の貴人ならば、何をかいわんや、である。
彼が、ルーデンス大陸とは別の大陸から来た決定的な証拠があるとの報告もあった。
彼の甲冑は、男性型の、重鉄姫とよく似ていながら非なる技術で作られており、明らかにルーデンスの技術ではなかったこと。それでいて華桑の言葉を操り、醤油を懐かしんだということ。
そして、その甲冑は、彼のことを「お館様」と呼んだという。
重鉄姫と、我ら華桑の縁は深い。先史時代、ルーデンス大陸をも襲った「滅びの獣」を相手に、我ら華桑の剣士と重鉄姫乗りたちは、共に肩を並べて戦ったのだ。その我らをして、男性型の重鉄姫など聞いたことがない。
大陸の外からやって来た、重鉄姫乗りに匹敵する貴人。
最大級の態勢で迎えなければならないかも知れない。
そこで白羽の矢が立ってしまったのが私だった。
父上から直々《じきじき》に与えられた任務。
身分としては、槙野本家の長女、であり、相手の身分が如何なるものであろうとも、失礼には当たらないだろう。
水心流を修めるものとして、相手の武技の見極め、また万が一、悪逆の気配があれば、即、断てる力もある。
口さがないものは、私に血を受けてこい、と言って来るが、果たして相手が望んでくれるだろうか?
私が誇れるものは、血筋と水心流だけだというのに。
妹の薫が嫁いでさえいなければ、薫に全てを任せ、私は護衛と見極めとに専心できたものを。
まあ、良い。
本家、正室の筋は私と薫しかいないが、異母姉妹、従姉妹や分家筋まで合わせれば、薫には及ばずとも彼の心を射止められる美姫もいるだろう。側室を迎えて貰うのに抵抗はない。仕方がないんだ。抵抗はない。
いざとなれば我が身を差し出す覚悟を固め、私たちはローザ山を発った。
初めて顔を合わせたとき、なんと涼やかな若武者だろう、と思った。
立ち居振舞いに鷹揚の気配があり、揺らぎの全く無い正中線に、武の風格が漂っていた。
そして何より、彼は橘宗助の陰腹を一目で見抜いたのだ。
もはや疑いはない。
彼は、華桑の貴人だ。
私たちが備えた万が一の事態が、ここにあった。
半端な迎えを寄越さなくて良かった。父上の英断、と誇っていい。
そして明らかになる不思議な出現。
あまりにも美しい刀に、本物の重鉄姫。いや、男性型に姫はないか。
天より舞い降りたがごとき出自は、放逐の気配を感じさせる。
想定の中で最も重大な仮定が現実のものになろうとしていた。
彼は、何らかの事情で国を追われた皇族の一人なのではないか?
おそらく高度な教育を受けており、賢く、気高い。橘宗右衛門に見せた権威への反発、また、世慣れぬ振る舞いは、闘争に敗れ廃嫡された皇子と考えれば、筋が通る。
与えられた強力な装備は、部下をつけることが叶わなかった彼に与えられた最大の護衛なのではないか?
試す無礼を許してほしい。
ジークムントといわれる部下の言葉に意識がそれた隙間を狙って、問うてみた。
扶桑の名を知っているか、と。
ああ、その想いが報われただなんて!
我ら華桑の、千年にも及ぶ流浪と継承の歴史は、今、報われたのだ!
華桑どころか我が父祖に直結する、神州扶桑の、おそらくは皇家の血筋だ。
その彼が、我らの魂を、称えてくださる。
もはや、涙をこらえることなど出来なかった。
この方の血を、受けることができたなら。
大それた望みだと思う。それでも、普通の娘のような、そんな想いを、私は抑えることが出来なかった。
ああ、どうして私はこんなにも、醜く生まれついてしまったのだろう。
槙野の鬼っ子と陰で呼ばれ続け、とうに諦めていた筈の想い。
せめて、せめて人並みの容姿であったなら。
こんな骸骨を思わせるような、化け物のごとき姿で彼の前に立たねばならないなんて。
私が彼に捧げられるものは、もう、水心流以外に、何もなかった。
凄まじいまでの武の冴えを見せる彼に、水心流が、どれ程の価値を持つだろうか?
あれ?
そう思って、改めて見てみれば、彼の動きは明らかにおかしかった。
これは、異常だ。
体の出来は、おそらく完璧だ。
武術の修練の大半は、その武芸を振るうための、思想を体現するための、体作りに費やされる。
しかし同時に、身体運用法も教えられる筈だ。というより、運用法を知らずして体が作れる筈がない。
そう考えれば、そこには悪意が感じられる。
権力から遠ざけると同時に、再起を防ぐために、武芸から遠ざけたのではないか?
それを誤魔化すためか、何のためかは分からないが、体だけを作らせておいて、使い方を教えなかったのではないか?
廃嫡された皇子。
私たちには、もう、それ以外に筋の通る説明が考えられなかった。
そんな彼に結婚を申し込むには、かなりの勇気を要した。
構わないんだ、私を正妻に迎えてくれるなら、あとは側室に全て任せてしまって構わない。
それが現実だ。抵抗はない。
それなのに、私に魅力があると言ってくれる。何故そんな言葉をくれるんだ。
信じたくなってしまうじゃないか。
だって、彼の言葉には、嘘の気配がない。
思い返せば、最初から今まで彼には、おそらく家の事だろうけど、多少の隠し事があったとしても嘘はなかった。嘘が感じられなかった。
ダメだ、頭を冷やさないと。
勘違いしてしまいそうになる。
私に誇れるものは、血筋と水心流だけ。
あれ?
血筋は、彼には意味がないか?
ああ、ならば本当に、私には剣しかない。
彼が水心流を修めたら、どれ程の高みに昇られるだろうか?
月明かりの中、彼が私を見上げている。
追いかけてきてくれたのだろうか?
それなりの高さの櫓まで、彼は助走もなく、簡単に跳び上がってくる。
それなのに、その動きに技がない。
嫌われても構わない。
だけど、彼に水心流を、私を認めてもらいたい。
だから、無礼を承知で問うてみた。
剣士としてみれば、私は彼に勝てる。そのための水心流だ。
たとえ、私の容姿が目の毒だと言われても、構いはしない。
私の身を捧げるのではない。
私は、水心流を捧げるのだから。
彼の中の竜の血が、私を認めてくれるという。
彼が、私を認めてくれるという。
こんなに嬉しいことはない。
打ち込む剣に、自然と力が入る。
手加減しなくていい喜びに、少しだけ浸ってしまったことは、内緒にしておこう。
本気で来い、との言葉に甘えて、本気でやってみた。
「凄まじいな、凛は」
ただ、名を呼ばれるだけのことが、こんなにも胸を騒がせるだなんて、知らなかった。
凄まじいのは、彼の方だ。
彼に武芸を与えなかった誰かの悪意。それは、きっと恐怖だ。
たった一度見ただけで、春水剣を再現してみせた武才。
空恐ろしいほどの武才。
なるほど、彼に武芸を見せるのは危険だと考えるのも分かる。
ああ、彼ならば、水心の果てを、見せてくれるかも知れない。
私の捧げられるものが剣ならば、私はその全てを捧げよう。
そう思っていた筈だった。
それ以上は、望んではならない筈だった。
それなのに、彼にとって、私は、絶世の美女だという。
……本当だろうか。
嘘をつかない彼の言葉ですら、信じられない。
本当に、薫を美人と思わないのか?
彼が、私の価値観を、ことごとく斬り捨てていく。
私の胸のどこに正義があるのかは分からないが、私を美しいと、美しいと言ってくれる。
……本当だろうか?
私が目の毒だと、言ったのではなかったのか?
私が……眼福だって?
もう、どうしたらいいかなんて分からない。
いや、いい。
彼を信じよう。彼を信じたい。
他の皆から鬼娘と呼ばれようとも、もう構いはしない。
彼にとって、私が美しいと思って貰えるなら、それでいい。
硬い甲冑で頭を打たれたけれども、ちっとも痛くなかった。